田辺 マリ(32) 4月28日 ③
戸井田さんの2年前の人事については、ある意味、大抜擢の配置だったらしい。
首都圏地区の東京1課という、都内全域と隣接する埼玉、千葉の一部を含めた市場のリーダーとなった。大型書店も多い、版元営業の激戦区だ。
それまで戸井田さんは、首都圏の神奈川、埼玉、千葉の地域担当を歴任し、途中からはリーダー職に就いた。そして、課長に昇進したのが今から4年前になる。
それからは、神奈川地区の統括課長として、チーム全体の目標を2年連続達成してきたのだ。その華々しい実績を携えて、エース中のエースが集う激戦区、東京都内と都下全域の地区長となったのだ。
と、言葉にすれば単純で「目標達成して出世した」、ということなのだが、このことが実は凄いことなのだ。その凄さを理解するためには、出版業界の厳しい状況と啓心堂出版のハードな目標設定について知っておかなければならない。
出版業界自体は既にこの頃には前年マイナスを繰り返す「出版不況」に陥っており、どの書店も売上は減少するのが当たり前、という風潮だった。
私が働いていた頃でさえ、担当書店の店長の中には「ウチは前比で1%位しか売上が落ちていない」というのを自慢話として披露している人も少なくはなかった。
そのくらい、売上を去年より伸ばすことが書店業界では困難なことだった。
出版社にしてみても、書店で本が売れなければ売上が伸びるはずもない。会社によっては100万部のミリオンセラー、ベストセラーの連発で一時的に売り上げが伸びることもあるが、毎年成長するのはそうそう容易いことではない。ましてや、ヒット作が出にくい児童書や資格試験本を中心にしている啓心堂出版のようなタイプの会社は、書店の売上減=会社の売上減になるのが当たり前とされていたのだ。
しかし、会社が提示する目標はというと、常に全社売上を前年比4~5%以上上回るように設定されている。このジレンマは営業部員を非常に悩ませる。
毎年同じ書店で、ほぼ変わらない出版物を売り込んで去年以上の売上を出す、ただしその書店は売上が年々落ちている。
…そんな条件下で、去年より大きく売りを伸ばすのは一体どうすれば? というのが、啓心堂出版に入社した営業社員がぶつかる最初にして最大のカベなのだ。
戸井田さんは、この矛盾だらけのカベを、努力と営業手腕を以て乗り越え、異例のスピードで出世街道を駆け上がった、そして今回、都内の有名書店がひしめく版元激戦区の攻略を会社から任され「東京特区」という新たに編成された地区の統括課長となった、ということなのだ。
「そうやって大抜擢されたなら、誰しもやる気になるだろうなあ。僕の会社でもそういうケースはあるけど、選ばれる人達はやはり凄いよ。頭の回転も早いし、自信に満ち溢れている。何より、リーダーシップがしっかり備わっているから、みんなしっかりついていくんだよね」
すっかり冷めたステーキを切り分けながら、ダンナが話す。
「でも、あの会社の場合は、ちょっと抜擢のスピードが早かったかな。私の新人の時の上司も20代で課長になった人だし。かと思えば、その人の元上司は別の課で係長だったりして、なんだか経験と役職が一致していないなあ、って思っていたの」
「ああ、当時も言っていたよね。最初は誰が上役なのか分からなくて苦労した、って」
「そうそう、ホント大変だったよー。『~さん』付けで呼ぶカルチャーだったからなんとか凌げたけど、同期のコなんか地雷踏んじゃったりしてさ…。まるでベンチャー企業みたいだなって今でも思う」
元々、啓心堂出版は、売上の半分近くが児童書で占められている関係上、紀伊國屋書店やジュンク堂のような大型書店や、サラリーマンの客層が主体の都内の駅ビル書店などではなかなか大きな売上が出し辛かったようだ。
そこで、私が在籍していた頃には既に、特に首都圏や関西の大都市を重点的に攻略するために、将来有望な若手社員を優先的に配置していた。
では、経験のあるベテラン、中堅社員は? と私も初めは疑問に思っていたが、特に40代以降の社員が非常に少なく、ここ数年で新卒採用を活発化させて人材の若返りと強化を同時に行っているんだとか言われていた。
実際は、古参の社員の方々は編集部や総務部などの、別部署には既にそれなりにいた。
なので、毎年の新卒採用を利用して営業部の人数を増やし、シェアを拡大するというのが会社の戦略だった、と誰もが認識していた。
そうやって毎年新人を採用し、全員が営業部に配属、となれば必然的に部署は若手が大勢ということになる。彼らは、私も含めて「出版社に就職したい」「本作りに関わりたい」というモチベーションで仕事に臨む。そして、いずれは編集部へ行き、自分が作りたかった本を世に送り出すのだ。
そんな、本人からすれば崇高な想いが心の支えとなり、多少の仕事のキツさやサービス残業などは厭わないのである。営業で結果を出せれば、いつかは希望の編集部に配属されるという、入社前の口約束を信じている限りは。
そんな風にして、若手のやる気に頼り切った戦略に嫌気がさしたのも、私があの会社から去ってしまった理由の一つではある。私の場合、表面上は寿退社、ということになっているし、結局そのすぐ後にダンナが海外転勤になったから、どのみちその時はついていくしか選択肢はなかったのだけれど。
戸井田さんのチームも、営業部のよくある若手チームとして例に漏れず、新たに働くこととなった6人の部下の内、新人が2名、入社2年目と3年目が1人と3分の2が新人・若手社員だった。
残る2人はリーダー職で、1人目は以前から戸井田さんの部下だった笹木タケオ君、私が辞める直前に入社した人だ。ハキハキとした明るい男の子だったな、という印象がある。
もう1人は元々東京都下の多摩地区を歴任していた30代後半のベテラン社員の人だったが、取材ではほとんど話題に上がることはなかった。どうやら中途入社だったみたいで、私は面識がない人のようだった。
このベテランの人は現地採用で、ほとんど会社には来なかったからか、チーム運営については戸井田さんと実質ナンバー2の笹木君が若手の面倒を見ながら回していく、という流れになっていたらしい。
「最初のうちは順調だったみたい。戸井田さんはもちろん、他のみんなもモチベーションは高かったって。やっぱり営業にとって東京都内の激選区担当は、とても名誉なことだったんだね」
カラになったグラスを持て余すように眺めながら、私はダンナの同意を求めるかのように語りかける。
「でも、その分周囲からの期待とか、プレッシャーも凄かった」
「そう、毎月の売上報告で、目標ほどの実績がなかなか出せなかった。戸井田さんはそれまで個人成績では毎年目標達成、負け知らずと言われていたから。多分初めての苦戦だったのかもしれない」
一か月単位で区切られる売上目標、常に前年の実績を上回ることが義務付けられている。しかも、戸井田さんのチームは人員増加により人件費分も目標に上積みされていた。それは前人未到とも言える高い金額だったそうで、他の地域担当者と下手をすれば2倍~3倍の差があったという。
新人も同じ条件だ。啓心堂出版の営業部は、平均年齢が特に若く、営業部員40人に対して新人、入社2年目が常に5人から10人を占めている。よって、新人も立派な即戦力なのだ。1ヶ月間のOJT同行と社内研修の後は、ベテラン同様に毎月の売上目標を背負う。
「私がいた頃もそうだったけど、まだあの頃は同業他社が行っていない書店を開拓したりして、なんとか稼ぐことは出来たんだよね。でも、出版業界も既に雑誌の売上は落ち続けてきていたし、東京は元々シェアが取れていなかった分、書店さんとの実績や関係性も難しかったと思うよ」
「ただでさえ攻略が難しい市場、高いノルマ、それに加えて、経験不足な若手中心でしかも2人も新入社員、となると僕から見てもそうそう上手く成果が出せるとは言い切れない、と想像できるなあ。僕だったらもう参ってしまうよ」
ダンナがステーキを食べきり、テーブルの上のお皿やグラスをまとめておく。店員さんが来た時にすっと下げられるようにしておくのが癖なのだそうだ。こういうところは本当に几帳面な性格だなあ、とズボラな私は感心してしまう。
「そう、その通りでね。戸井田さんも流石にこの年はキツかったみたいなの」と私が続ける。
戸井田さんの当時の状況は、やはり厳しいものだったのだろう。自身もプレイヤーとして全国有数の大型書店やチェーン本部の窓口を務めつつ、部下達も大半は経験不足な若手なために、マネージャーとしての管理業務や部下育成も欠かせない重要な業務として取り組んでいた。頼れるのはナンバー2の笹木君という彼だけだったのだろうか。
しかし、健闘も空しく、夏の頃にはチーム成績は進捗率ワースト3位以内となり、営業会議ではやはり相当叩かれていたらしい。
そのせいかどうかは定かではないが、大方の見解としてはやはり上からのプレッシャーが主な原因で、次第に部下に対するあたりが激しくなっていったそうだ。
毎朝、始業前の8時までに全員出社して戸井田さんが日報をチェック、日々の注文量の過不足を徹底的に管理した。まるで注文ノルマのようだ、と言われており、未達成だった場合は厳しい追及が新人だろうが容赦なく襲い掛かってきたという。
「この時期のエピソードは本当に色々な話が出てきたよ。『注文が目標に届くまで何件でも書店を回れ、閉店後でも行け!』とか、『社内業務で外回りの時間が取れないなら、土日のうちに準備くらいしておくのが当然だ!』とか、確かに興奮した戸井田さんなら言い出しそうな話もあったけど、ちょっと笑い話では済まない雰囲気だったな」
「それで、チームの中でも特に目をつけられた、と言うとちょっと嫌な感じだけど、つまり例の休職してしまった新人君は、この時期に消耗しきってしまったんだろうね」
そうして、状況が好転することもなく半年が過ぎた頃、事件は起きてしまった。
戸井田さんの部下の新人A君が、会社に来なくなったのだ。
最初は、風邪による病欠。
それが3日続き、4日目には会社に連絡が来なかった。戸井田さんが彼の携帯に直接電話しても、メールしても反応はなく、東京特区チームに不穏な空気が流れた。そして、週明けに戸井田さんが彼の家まで訪問した時、初めて事態の深刻さが露見したのだ。
後からその新人A君の同期達が話していた内容によると、A君は1週間でなんと体重が5キロも落ちてしまったらしい。ほとんど何も食べられず、一人暮らしのため異変に気付く者もおらず、同期の誰にもサインを送ることなく一人で抱え込み、苦しみぬいた結果、と誰しもが疑うことなく確信していたそうだ。
戸井田さんの責めが苛烈になればなるほど、メンバーは誰も反論することなく押し黙ってその場を凌ごうとしていたが、A君は持論を曲げず、意見主張を続けていたという。
その分、戸井田さんの追及はより激しくなり、結局は徹底的に論破される、というのをしばらく繰り返す内に、A君はみるみる自信を失ってしまったのだそうだ。会社を休んでしまう直前の時期には、ひたすら毎朝のように「すみません」「申し訳ありません」「次からは絶対にしません」といった謝罪と、まるで自らを戒めようとでもするかのような誓約染みた言葉を、繰り返し唱えていた、という。
A君は、そのまま休職扱いとなった。戸井田さん自身の報告で、彼が明らかに身体と精神に限界が来ていることが会社に伝わり、すぐ病院に行くことが勧められた。
結果は、「抑鬱の症状が見られる」と医師の診断書付き、そのまま長期療養に移ることとなった。
元々はプライドの高かったとされるA君だった為に、 自分が許せない、何とか仕事で挽回しなければこの先生きていけない、などと悲壮感に満ちた言動と、虚ろな目線、手足の震え、極め付けは同期や大学の友人からも一切の連絡を断ち切ってしまったことだ。
携帯のメモリーは全て消去され、家族の連絡先だけが着信履歴に残っていだけだったという。
A君はその後、山梨県の実家に戻り静養していたが、両親の強い反対意識もあり、彼はそのまま復職することはなかった。最終的には、翌年の3月末でそのまま退職、という扱いとなってしまった。
それからの戸井田さんは、まだ期中のため必死に業績挽回を図った。が、既にチームの結束には乏しく、誰も脱落はしなかったものの、戸井田さんに合わせてなるべく波風を立てず、次の人事まで辛抱する、というのが皆の共通認識だったそうだ。
「そうして、次の春、4月1日の人事発表で東京特区は解体、再編成されから外れ、新たに北関東地区の統括課長となった。でも、この待遇は決して降格人事ではなかったみたいなの。むしろ、同じ課長職でも職能ランクは上がったくらいでね。会社としては戸井田さんが一方的に悪い、という評価にはならなかったみたいなの」
「それは、いいことなんだろうけどある意味ではバツの悪い状況かもしれないなあ。だって、戸井田さんのこの一年間、社内での評判はかなり厳しかったんじゃないかな?」
ダンナの言う通り、戸井田さんの悪評は特に下期に集中していた。無数のエピソードの中には、今は外部の人間である私からすれば「何もそこまで…」と思ってしまうくらい、何というか、重箱の隅を突くような誰でもうっかりやってしまいがちなミスや言い間違いを大幅に脚色したかのような話が多い気がするのだ。
周り社員からは完全に悪者扱いされてしまっていたが、会社としては戸井田さんのこれまでの実績を認めていたらしく、再チャレンジの意味でわざわざ新しいポジションを用意した。
しかし、この特別扱いをよく思わない人も少なからずいたのだろう。戸井田さんの周囲からは、同期を含め上司、部下共に近寄らなくなってしまったのだ。
唯一、戸井田さんの味方だった東田本部長は、その後も何かと世話を焼こうとしていた。
しかし、お互いに熱血型のスタイルから、仕事の進め方や判断などで揉めることも少なくはなかったようで、決して良好な関係ではなかったみたいだ。
つまり、戸井田さんは今年の4月まで、およそ1年半もの間、社内で浮いたままの『独りぼっち』の存在でいた、ということになる。
その期間、先輩が何を思いながら仕事をしていたのか、その心情を知る術は、今はもう、ない。
ぼっち先輩が壊れてしまった 木山 常 @yamagu_ti
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ぼっち先輩が壊れてしまったの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます