戸井田 ゲンゾウ(34) 4月3日

 会社へ向かう、電車の中。


 受け入れられない現実、俺はヤツにハメられたのかもしれない。疑念が一つ、また一つ積み重なり、一つの大きな確信に姿を変える。


 俺は、ハメられた、の姑息な策略に。


 許せない、そこまで無抵抗の人間から何もかも奪い去ろうとするのか。



 意識は遠くに揺らぐ中、牛込神楽坂を出て大久保通りから、会社への道のりを自動的に歩いていく。

 善意と悪意が交差している。憎しみで全身が硬直し、微かに喉の奥が震えている。呼吸も乱れている気がする。

 俺は、これからも正気で仕事を続けられるのだろうか。気が遠くなる。



 今にも呑み込まれそうな衝動に必死で抵抗しながら、8時36分のタイムカードを打刻した。


 あと9時間24分、自分で自分を鎮めていかなければならない。それは気の遠くなる感覚だ。


 席に着き、カバンを置く。PCを立ち上げる。窓際に向かい、キャビネットから配布物を取り出す。北関東地区のスタッフ達の日報が幾つか、後は本部通達関連の回覧が特販部からあるだけだ。

 日報は皆一様に手抜きそのもので、「在庫チェック、欠本補充、フェア陳列整理、異常なし」の羅列ばかり。俺が、日報を勤務時間外に書かざるを得ない彼等に対する救済措置として、「特に問題なかったら簡単な箇条書きでいいですよ」と許可したのもあるが、実際本当に「異常なし」だったのか。近藤さんの悪評と書店からのクレームの数々を考えれば、少なくとも彼は問題ありだったわけだな。見抜けなかった俺がバカだったわけだ。


 少し離れた、首都圏地区のシマでは、前島や川谷の回りに部下や若手が集まり、各々に業務報告や雑談に興じている。朝の貴重なコミュニケーションタイム、といったところか。所々から笑い声が聞こえる。

 中には、かつての部下だった連中もいる。今もなっては目も合わせようとしない奴らだ。結局、俺はいい上司ではなかったのだろう。チームが変わった途端にフェイドアウトしていくなんて、逆の立場だとしても考え付かないが。


 俺も、若い頃は東田さんや、もう辞めてしまった佐伯さんや岡林さんに散々しごかれたものだった。そういう厳しさの中でこそ、社会人としてのイロハが身に付いたんだが、今の若い連中はどうもそうではないようだな。ゆとり世代ってヤツか。


 始業のチャイムが鳴り、朝礼が始まる。皆席を立ちフロア中央に円陣を組むように集まる。俺の側には、誰もいない。

 東田さんから、新人事についての説明がある。首都圏統括の3人からそれぞれ挨拶の言葉、新たにリーダー、課長になった者たちから一言ずつ、後は特販部や宣伝部からの連絡事項が云々、と続く。

 夏の児童文庫フェア、セット組み註文書出来ましたので、必要なチームは申請書をエクセルで提出して下さい、とか、GWに向けて朝日小学生新聞で広告出す予定です、反響が大きいので予定店には必ず事前案内して下さい、とか聞こえてくる。若手は必死にメモをとる。


 朝礼が終わると、皆それぞれのチームのミーティングで会議室のある別フロアへ向かう。気付けばフロアを見渡しても俺一人しかいない。


 ふふっ、とつい何故か口許が緩む。もはや喜劇のような事態だ。笑いたくもなる。

 午前中はこのまま、どのチームも戻ってはこないだろう。最大40名もいる営業部フロアは、まるで時間が止まったかのように白く静まり返っている。まさに、今の俺のかいしゃでの立ち位置そのものだ。孤立無縁、砂漠の中で一人きり、デスクの前でパソコンだけをひたすら睨む一匹オオカミ。ふふっ、とさらに歪な笑みが口元からこぼれている。


 俺は、自分の仕事に取り掛かる。今月いっぱいはまだ北関東地区長として、月次のセールスはクリアしなければならない。現地のスタッフ達に営業資料や月次販売台帳、拡材手配などやることは山積みなのだ。それらを人数分を用意し、宅急便の荷造りをしなければならないし、販売促進用に売上POSデータを地域別、担当店別に分析したシートを作成、商品ベストランキング表もジャンル別、総合と両方作る。

 手を止める暇などない。俺にはまだ果たすべき責任がある。はそれだけ考える。

 明日までは、引き継ぎの打ち合わせがないはずだ。それまでは、決めつけなどせず冷静を装うのだ。


 、島谷新統括と対峙するまでは。

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