第3話
その日の夜更け、コダは前触れなく目をさました。いつものように少年が魘されていたというわけではなかった。いつにもまして蒸し暑く、寝苦しい夜ではあったが、そのとき少年は深い寝息を立てて、穏やかに眠っていた。
夕方に降りだした雨が夜半になってようやく上がり、いまは満ちた月が、白々とした光を窓辺に差しかけていた。
コダは寝台から抜け出して、廊下に滑り出た。やけに喉がかわいていた。土間へゆけば、前の日に汲んだ水がまだ残っているだろう。窓の外から夜を割いて、かすかに
居間から父母の声がするのを聞いて、コダは足をとめた。
「――らしくないじゃないですか。どうしてまた、あんなおかしな子供を家に置く気になったんです」
「文句があるのか」
「そうじゃありませんが……」
めったに夫に逆らったことのないエレテが、めずらしく夫の真意を問いただしているらしかった。少年を遠巻きに見ていた母親の、いかにも気味の悪そうなようすを思い出して、コダは眉根を寄せた。まさか、いまさら追い出せとでも言う気だろうか。
「女中もみな気味悪がっています。それに、近ごろどんな噂が立っているか、ご存知ですか」
「好きに言わせておけ。まったく、ここらの連中の迷信深いことといったら、昔っからひとつも変わらんな」
ウートラは吐き捨てるようにそう言った。まだ彼がいまの立場になる前、先代のウートラが存命だった頃に、この男は里を出ていた時期があった。領主の治める南方の港町で、学舎に通っていたのだ。
城下町とはいえ、はるかな王都には及ぶべくもない、鄙びた地方の小さな都市には違いなかったが、それでも港を
拳で卓を叩く音がして、コダは首をすくめた。ウートラはもうひとつ舌打ちをして、鼻息を鳴らした。「だがそれで連中の気が済むんなら、あのガキ一人を食わせてやるくらい、安上がりなもんだ。そうだろう?」
「どういうことです?」
飲み込めないようすで妻が訊ね返すのに、ウートラは長い嘆息を吐いた。
「お前もその空っぽの頭で、たまにはものを考えてみたらどうだ。このあいだの大水のとき、連中、何と言った。覚えているか、え?」
短い沈黙をはさんで、おずおずとエレテが答えた。「
「そういうことだ」
ぶつりと断ち切るように、ウートラは吐き捨てた。「ハッドラのやつ――昔はウートラが率先して自分の子を差し出したものだと、そう抜かしたんだぞ。お前もその場にいただろう、それとももう忘れちまったのか。え?」
コダは息を呑んで、慌てて自分の口を手でふさいだ。幸いにも、居間の中にまでは聞こえなかったようだった。ウートラは鼻息荒くまくしたて続けた。
「冗談じゃない、うちにはあれ一人しかおらんのを承知で、あんなことをいいやがる――おれが気にくわんから、水神の
コダは息を詰めて、父親の言葉を胸中に繰り返した。
ハッドラというのは、彼の叔父、ウートラの実弟の名前だった。愛想のいい男だが、兄によく似た抜け目のない眼をしていて、昔から内心で兄を疎ましく思っているのを、隠そうとして隠しきれないようなところがあった。
コダは少年を拾ってきたときのことを思い出した。めずらしく上機嫌だったウートラの姿――吝嗇な彼にしては珍しいほど気前よく、無駄飯ぐらいが増えることを許した。
「じゃあ、コダの代わりに――」
「それで連中の気が済むんなら、安いもんだろう。いっそ早いところ水が出てくれれば、ますます安上がりで済むんだがな」
「そんな。だけどもし万が一、あの子供がほんとうに――」
エレテは言いさして、怯えるように言葉を飲み込んだ。ウートラがじろりと妻を睨むのが、壁を挟んだ反対側にいても、コダには目に見えるようだった。
「お前も連中となにも変わらんな。くだらん迷信なんぞに振りまわされて、馬鹿らしいとは思わんのか。悪霊なんぞおらん。水神もだ」
「だけど、それなら、あの瞳は……」
「ああいう色の目をした連中は、北方には珍しくもない。高地のなんとかいう国が、戦に負けたというからな。おおかたここまで逃げてきたんだろうさ……」
足音を立てず物置のかげにひそみ、コダは息を殺して、不毛な会話に
目当ての銅貨はすぐに指先に触れた。これほど蒸し暑い夜だというのに、貨幣の表面は驚くほどひんやりと冷たく、コダはとっさに指を引っ込めそうになった。音を立てないよう、銅貨を一枚ずつそっと握りこむと、汗ばんだ指の間で冷たい感触が滑った。
手探りであるだけをかき集めても、たいした金額にはならなかった。ウートラは自分の財産のほとんどを家の外に隠しており、場所を家族にさえ教えようとはしない。家の中にあるのは、何か要りようになったときのためにエレテが預かっている、わずかな小銭ばかりだ。普段はそれで不自由もない。里にいるかぎりは、金の遣いどころなどほとんどないのだから。
かき集めた小銭を握りしめて、コダは思い出したように土間に下り、甕の中でぬるくなった水を口に含んだ。
――やっぱり、水神さまの遣いじゃ、なかったんだな。
ふっとそう考えて、コダは口の端で笑った。まだ胸のどこかで、もしかしたらと思っていた自分に気がついて、それを
言葉がわからなかったのも、遠い国から逃げてきたからだったのだろう。攻め滅ぼされたという高地の国を、思い浮かべてみようとして、コダは失敗した。この狭い辺境の里を一度も離れたことのない彼にとって、見知らぬ遠い土地のようすというのは、ぼんやりと想像することさえ難しかった。
コダは忍び足で自室に向かった。廊下の窓から吹き込む夜風が、湿り気を孕んで重い。コダはちらりと窓から空を見上げた。いまは雲が切れて月が出ているが、空の端にはまだ重い雲が垂れこめている。しばらくは雨の多い日が続くだろう。そう遠くないうちに、水が出てもおかしくはなかった。
――そうすりゃ次のウートラは自分の息子だからな。
ウートラが口にした言葉を、コダは胸の内で繰り返して、声を出さずに笑った。彼自身は、父親の後を継いで次の
幼いころ、コダは漁師になりたかった。河のほとりで遊ぶのが他の何より楽しく、魚を釣るのが好きだった。子供の釣り遊びとはまるで違う、大人たちの漁に憧れた。里の漁師たちはみな怠け者で、いつも木陰で昼寝してばかりいるが、いったん漁に出るとなれば早朝から何時間でも網を引き、木舟の底が抜けそうなほどの魚を持って帰る。その豪快な漁のようす、重い網を引く漁師たちの、筋肉の盛り上がった背中に、コダは飽きず見入った。
ある日コダは腕のいい漁師のひとりをつかまえて、自分も漁につれてゆけとせがんだ。男は困ったように眉を下げて、ウートラの坊っちゃんに、とてもそんなこたあさせられねえですと笑った。
後日、あきらめられずにコダはその男の家へ向かった。しつこく弟子入りをせがむつもりだった。家の前に着いたとき、中年女の太い声がした。「あんなガキにへいこらして、みっともないと思わないのかい」
コダは立ち止まった。「俺だって好きで頭下げてるわけじゃねえ」怒鳴り返すのが聞こえた。「だけど、ほかにどうしようがあるってんだ……」
続く口論に背を向けて、コダはその場から逃げ出した。この漁師をはじめとした里の人々の多くが、課せられた税を納めきれずに滞らせているということは、もっと後になって知った。その日から、コダが漁師になりたいと思うことはもうなかった。漁のようすを遠巻きに見つめるのもやめた……
コダは足音を殺したまま自分の部屋に戻ると、窓辺で眠る少年の肩をゆすった。
目覚めは早かった。びくりと体をこわばらせて、少年は息をのんだ。静かに、と身ぶりで示して、コダは手の中のわずかな小銭を少年の手に握らせた。困惑したようすで手の中の小銭を見下ろす少年の表情は、たしかに普通の子供とどこも変わりなかった。
「逃げろ」
コダは囁いたが、少年はやはり困ったように、彼を見つめ返すだけだった。このとき初めてコダは、言葉の通じないことに苛立ちを覚えた。
窓の外と少年の胸元を交互にゆびさして、コダはもう一度言った。「逃げるんだ。親父は、お前を殺すつもりでここに置いてる」
少年はやはり困ったような顔のまま、手の中の小銭を見た。コダはもどかしく何度も窓の外を指した。
いっそ窓から蹴り出しでもすれば、わけはわからずとも勝手に逃げ出すだろうか。コダはそう考えて、すぐに首を振った。大きな物音を立てれば、父親が起き出してくるかもしれない。気付かれれば逃がすのが難しくなる。ウートラはみすみす損を見逃す男ではない――
そのときだった。少年がふいに、唇を動かした。
「オマエ、モ」
ぎこちなく、ひきつれたような声だった。
「お前、言葉……」
少年は薄い唇を再び閉じて、じっとコダを見上げた。月あかりのせいで、その顔は、まるで血の気の失せたように白く見えた。
コダは困惑した。言葉が通じていたのなら、何故いままで話せない振りをしていた?
その問いに、コダは自分で答えた。信用できなかったからだ――言葉のわからない振りをしていたほうが、安全だと思ったからだ。ほかに何の理由がある?
そこまで考えて、コダは首を振った。「いや、なんでもいい。さっさと逃げるんだ。わかるか。逃、げ、ろ――」
だが少年は、はっきりと首を振った。
「逃ゲ――ル、オマエ、モ」
コダはぽかんとして、口を開いたまま、少年の顔を見つめ返した。
逃げる? ――自分が?
少年は、コダから視線を外さなかった。呆気にとられたまま、コダはその緑の瞳を、まじまじと覗き込んだ。
こいつはどこまで事情が呑み込めているのだろうかと、コダは考えた。いったい何故、コダまで一緒に逃げなくてはならないなどと思ったのか。それとも単に、一人では心もとないからついてきてくれという意味なのか……だが少年の表情は、助けを
逃げる? 何から?
ふっと、コダは胸に何かが落ちこんでくるのを感じた。
次のウートラになりたいなどと、思ったことは一度もなかった。それにも関わらず、自分が里の外に出る道もあるということを、どういうわけか、コダはこの瞬間まで、一度も考えたことがなかった。ほかならぬ彼の父親が、後に戻ったとはいえ一旦は外に出て、その当時の話をだれかれとなく
――うちにはあれ一人しかおらんのを……
父親の忌々しげな声が、コダの耳に蘇った。もしかわりになる兄弟がいたならば、ウートラはためらわず彼を水神さまに差し出しただろう。それで連中の気が済むなら、安いものだと言って。
家を抜け出すのは簡単だった。
あらためて持ち出した荷物は何もなかった。それぞれ身一つに、子供の小遣いのような小銭を握りしめて、彼らは夜に滑り出した。
里に点在する家々のあいだをすり抜けるうちは息をひそめ、足音を殺して慎重に歩いた。
夜気は熱く蒸れていた。森から梟の声が間遠に響く。通りかかった畑では、麦の穂が頭を垂れている。いまのところ、次の収穫に不安はないように見える。水さえ出なければの話だが……
風は行く手、南から吹いている。このあたりではいつもそうだ。河をどこまでも南へ下りつづけると、はるかな先の世界の
このまま風にさからってしばらく南へゆけば、いくつかの里を通り過ぎたのちに、大きな港町がある。世界の涯ではないが、ウートラがかつて若かりし時を過ごした町だ。港からは何隻もの大きな船が河をさかのぼり、あるいは支流を西に下って、遠くの街と往き来するという。
そこならば人が多いから、きっと身を隠しやすいだろうというのが、コダの考えだった。何なら船に乗って、さらに遠くまで逃げてもいい。これっぽっちの金では船には乗せてもらえないかもしれないが、着いてしまえば何か方法があるだろう……
少年は、言葉が充分にわかっているわけではなさそうだったが、コダが河の流れてゆくさきを指で示すと、理解したようにうなずいた。
アッロス河の水面が、月光をはじいてさざ波立っている。寝物語に水神の話を語り聞かせた祖母の声が、コダの耳の奥にはまだ残っていて、いまでも忘れたころに、しばしばふっと蘇る。くだらん迷信だと吐き捨てるウートラの声が、それに重なる。足どりがいつしかだんだんと速まってゆく。
人家からすっかり遠ざかったところで、どちらからともなく、二人は走り出した。
満月のおかげで、足元に不安はなかった。蒸し暑い夜気は、それでも走れば風になって、少しは涼しく頬を冷やした。息がはずむ。並んで走りながら、二人は目配せを交した。
足元を鼠か何か、小さな動物が慌てて逃げてゆくのが視界の端をよぎった。それが急に可笑しくなって、コダは笑った。口の端だけで小さく笑ったつもりが、気がつけば声に出ていた。
つられたようすで、少年も笑いだした。悪夢に魘されて発したときの、低くねじれた悲鳴と、同じ人間の声だとはとても思えないような、明るく澄んだ笑い声だった。
しばらく走るうちに、少年のほうがいくらか遅れ始めた。長く伏せって体力が落ちていたためだっただろうが、自分のほうが足が早いという小さな勝利感に、コダは嬉しくなった。気分が高揚していた。このまま走りつづけて、どこにでも行けるような気がした。
だが実際には、笑いながら走ったために、すぐに息が切れた。そうすると今度はそれが可笑しくて、コダはよけいに笑った。肩越しに振り返ると、少年と視線があった。月明かりをきらきらとはじいて輝く緑の瞳は、もう直視しても少しも恐ろしくはなかった。
月が明るすぎて、ふり仰ぐ目に眩しかった。走っていた四本の足がゆっくりと速度を落とし、やがて歩く速さになって、少年がコダに追いついた。ずいぶん肉づきの戻った頬が、すっかり紅潮していた。
コダは足を止めた。
少年は息を整えながら、不思議そうに首をかしげて、立ち止まったコダと行く手とを交互に見た。その瞳に、いまは何の
コダはいっときの間、そのまま立ちつくした。上った息を整える間、黙り込んで、眩しすぎる月を、じっと振り仰いでいた。
それからゆっくりと顔を下ろし、行く手、河の下ってゆく先を、手のひらで示した。
「行けよ」
少年はきょとんとして、首をかしげた。単純に言葉がわからなかったのか、それとも言われていることの中身が理解しがたかったのか、どちらだろうと、コダは考えた。
「ここからは、一人で行け」
言って、コダは少年の肩を乱暴に押した。少年は眼を見開いて、押された肩と、コダの手とを交互に見た。
コダはもう一度少年の肩を押すと、自分は
迷い迷い、少年が追いかけてくる気配があった。コダは立ち止まって振り返り、少年を睨みつけて、足元から石を拾った。少年が足を止めた。
その足元に、コダは石を投げつけた。まだ動かない少年を見て、コダはもう一つ石を拾った。さっきよりも大きな、尖った石だった。それを手に握って目を合わせても、少年はまだ動かなかった。コダの顔を、途方に暮れたような顔で、ただ見返していた。
コダが腕を振り被ると、ようやく少年は、ひとりで走り出した。そして何歩も行かないうちに、また振り返った。コダは歯を食いしばって、少年をにらみつけた。
このまま自分が一緒に逃げれば、ウートラは追手をかけるだろう。
叔父をののしるウートラの悪態を耳に思いだしながら、コダは考えた。あの父親は、きっとそうするだろう。出来の悪いひとり息子を心配するためにではない。いずれ自分の血を引いてもいない人間に、自分の財を与えねばならないということには、とうてい我慢がならないからだ。それが彼自身の死後の話にすぎなくとも。
だからウートラは、ひとり息子の行方を追うだろう。だが、少年がひとりで逃げるなら? そして自分が戻り、まるで違う方角に向かって、少年が逃げたと証言するなら?
振り返り、振り返りしながら走ってゆく少年の背中をめがけて、コダは石を投げた。石は当たるはずもなく、ずっと手前で地面に落ちたが、それでもその音は、少年の耳に届いたに違いなかった。それからは振り返ることなく、影は遠ざかっていった。
その姿がすっかり遠ざかって見えなくなるまで待って、コダはもと来た道を歩きだした。
河岸の月 朝陽遥 @harukaasahi
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