第七話 初心と革新者のジレンマ

 電車を乗り継いで数時間、降車駅に着く頃にはとっくに日が沈んでいた。切れかかった蛍光灯がちかちかと点滅する地下道を通って改札の反対側に出ると、あたりはほとんど真っ暗で、月明かりがやけに眩しく思えた。

 駅に背を向けしばらく歩く。何年もしないうちに潰れると思っていた煙草屋からは薄明かりが漏れていて、ドラッグストアは早くも一日の営業を終えようとしていた。一方向にひとつしか灯火がついていない点滅式の信号機も健在だ。僕がこの町を出てから新しくできたのであろう、見覚えのないコンビニが妙に浮いた存在に見えた。


 今日の最終目的地にたどり着いた僕は、ガレージに車があるのを確認してほっと息をついた。ここまで来て、もし外出されていたら大変なことになっていた。本来の自分らしくない無計画さに苦笑しながら、インターホンに手を伸ばす。


「もしもーし、なにかうちに用かい?」


 その声はスピーカーからではなく、背後から聞こえてきた。大いに聞き覚えがある、トゲがありよく通った女性の声。振り返ってしばらくすると、暗闇の中から買い物帰りらしき母親の姿が現れた。


「母さん、久しぶり」

「え、びっくりした。アンタ急にどうしたのさ、連絡もなしに」

「いやちょっとね、相談っていうか、話したいことがあって」

「ふうん……父さんに話があるなら出直してきな、海外出張で一か月は帰って来ないから」


 ぼんやりと用件を告げると、母さんからはおそろしくドライな対応が返ってきた。僕が金の無心でもしに来たと思ったのだろうか。まあ無理もない、落ちこぼれて神様候補に選ばれた僕に対する期待値なんて、所詮この程度のものだろう。


「大した用事じゃないよ。あ、荷物持とうか?」

「どうしたのさ気持ち悪い、そこまで老いぼれちゃいないよ」


 差し出した手に母さんは目もくれず、僕の横を抜けて家へと入っていく。仕事をもらえなかった右手をすごすごと引っ込め、僕は黙って母さんの後に続いた。あまり歓迎というムードではないようにも思えたが、だからといって追い返されるわけでもないらしい。普通の親子の関係には似つかわしくないこの微妙な距離感が、逆に僕にとってのリアルを感じさせた。


 母さんはキッチンに袋を置くとすぐデスクに向かい、アーロンチェアに深々と腰を下ろすとパソコンを起動した。世の中にはいろんな形態の仕事があるようで、この人もまた、僕が思うガチガチの「歯車」とは一風変わった生活を昔から送っていた。自宅をオフィスのように使って好き勝手しているようだが、詳しいことはなにも聞いたことがない。でもそれでいて、そんじょそこらのサラリーマンよりはるかに稼いでいることは確かなようだ。


「あのさ、取り込み中に悪いんだけど、話していいかな」

「ああ、いつでもどうぞ」


 そう答えた母さんの顔は画面を向いたままだった。本当に聞く気があるのだろうか……そんな相談相手の態度に辟易へきえきとしながら、僕は行きの電車で考えてきた架空の設定を話し始めた。


「今までなんも言ってなかったけどさ、僕、漫画家のアシスタントをしてるんだ」

「へえ、アンタが」

「ほら、僕が昔から創作やりたかったこと、母さん知ってるだろ」

「ああ、そうだったっけね」

「それで、新しいシナリオを僕が考えることになってさ。昔みたいに、母さんにアドバイスをもらおうと思って来たんだ」

「へえ、そう」


 興味なさそうな母さんの相槌に、はあ、と思わず溜息が漏れる。久しぶりに帰ってきた息子の話よりパソコンの画面が大事なのか、と悪態をつこうとしたところで、母さんが僕の話を聞くときは昔からこうだったのを思い出した。ほとんど聞き流しているようで、僕が確認を求めると、理路整然とした言葉がよどみなく口から出てくるのだ。女性は二つのことを同時にできる人が多いという俗説も、あながち間違いではないのかもしれない。


「そこまで込み入った話じゃない。時は現代、主人公はちょっと訳ありの青年。題材は、一言でいえば神様かな。彼がある日、神様になる権利をもらうところから始まるんだ」

「神様、ね」

「ちょっと長くなるかもしれないけど、とりあえず最後まで聞いてほしい」


 そこまで言うと、生返事を繰り返すだけだった母さんが初めてこちらに目を向けた。


「アンタはアタシになにを求めてるんだい。手直しなんてしてやれる暇はないよ」

「物語のラストだけ、ちょっとアイデアくれないかな。ほかはあらすじ程度にまとめて話すから、聞いてもらうだけでいい」

「ああ、それくらいならね。じゃあどうぞ」


 続きを促した母さんはまたパソコンの画面に向き直った。僕はそれに構わず、いくらか端折ったり脚色を加えたりしながら、神様を名乗る少女について、神様の交渉について、そして神様はどういう存在なのかも説明した。選ばれた人間だけが神様になれること。神様になったら、人間界との繋がりはなくなってしまうこと。そして、神様になる権利を与えられるのは未来への期待値が限りなく低い人間だけであり、それは自分も例外ではないこと――結末は、ひとまず「神様になる」に設定した。


「大筋はこんなところかな」

「で、アドバイスがほしいのは具体的にどういうとこなんだい?」

「主人公が神様になる理由付け、かな。これといった理由が思いつかなくてさ」



 ひととおり話し終えてから、僕は頭の中で、自分の本当の立場を再確認する。ネゴシエイターの少女と出会い神様になる権利を与えられたのは、架空の物語の主人公なんかじゃない、現実の僕自身だ。天界のルールも、少女の過去も、全部ちゃんと思い出せる。記憶の改ざんは起こっていない。つまり、神様の交渉はまだ継続中ということだ。

 少女の警告は、他の人に大きく影響を与えるような行動を取ると、交渉は即座に打ち切られるというものだった。そして天界のルールは、天界から人間界に影響を与えることを禁止している。二つを照らし合わせると、どういう形であれ、神様の存在を他人に話すなんて許されないと思うのが普通だろう。


 だが今日、少女とのやり取りの中で気付いたのだ。僕はだれかに「神様が存在すること」を証明することができない。それは捉えようによっては、僕が神様の話をすることによって人間界の未来が捻じ曲がるようなことは起こらないとも言えるのだ。僕がどれだけ熱心に語ったところで、本気で信じる人なんてまずいないだろう。だれも信じないのなら、それは存在していないのと同じ。少女の創り出した石ころと同じ理屈だ。

 逆に、僕が神様の交渉について、一方的に他人から影響を受けるぶんにも問題ないはずだ。「神様になる」か「神様に関する記憶がすべて消えて元の生活に戻る」、どちらを選んでも「天界の存在を知っている僕」が人間界に残ることはない。だから、人間界の未来には影響しない。


 天界の力を使うことができるのも、天界のルールに触れることができるのも、結局は天界の存在だけなのだ。神様候補から外れないようにするには、人間界の未来を変えてしまわないように気をつけてさえいればいい。

 だから僕が本当に注意しなければならないのは、話す内容よりもむしろ、その前後の行動なのだ。事前に連絡を入れることなどもってのほか。いつも通りの生活に僕がどうにか潜り込むことができれば、母さんの性格上、神様の話をすること自体はノイズとして無視できるのだ。



「まずその前に、主人公がなんでそこまで悩むのか、アタシには理解できないね。そこらへん、ちょっと補足してくれないかい?」

 そう言いながら母さんは立ち上がり、キッチンへと入っていく。僕は声のボリュームをすこし上げて反論した。


「理解できない、っていう方が僕にはわからないな。神様になるのも、人間のままでいるのも、それぞれメリットもデメリットもあるわけさ。悩んで当然じゃないか」

「そりゃアンタの感想だろ。天涯孤独の主人公くんにそれは当てはまらないんじゃないか、ってアタシは言ってるんだよ」

「それは、えーと……」


 主人公の天涯孤独は、物語化するにあたって後付けした設定だ。そんなところを拾ってくるとは思わなかった。失敗した、これでは自分へのアドバイスとして話を聞けるかどうか、あやしくなってくる。


革新者イノベーターのジレンマ、アンタ言葉くらいは知ってるだろ?」

 コーヒーを手に戻ってきた母さんは、ようやく体をまっすぐこちらに向けた。


「えっ、まあ一応。新しいものを開発して成功した企業が、大きくなるにつれ保守的になって新しいものを生み出せなくなり、やがて潰れてしまう……ってやつだよね。でも、それってなにか関係が」

「まあ、間違ってはないね。じゃ、これがジレンマと呼ばれる所以ゆえんは?」


 僕の言葉をさえぎるように、母さんは続けて尋ねてくる。おとなしく最後まで聞くしかなさそうだ。


「んー、経営者が企業の存続のためにやったことが、結果的に裏目に出るからかな。最初の利益を継続させようとばかり考えて、他のアイデアが見えなくなってしまうから」

「裏目、ね。結果だけ見ればそうだけど、本質とはちょっとズレてるよ。その認識じゃ、なぜそれがほとんどの経営者に起こるのか、ってところに繋がってこない」

「そうかなあ」

「一度成功したからって、みんながみんな保身に走るわけじゃない。むしろそう望まない人の方が多いだろうさ。でも、そうせざるを得なくなるんだよ」

「な、なるほど」


 母さんがなにを言いたいか図りかねて、僕は適当な相槌を打つ。


「何事も変化にはリスクが伴うんだ。実現するかわからないだとか、どこに役立つかわからないだとか、革新的なアイデアの黎明期ってのは大概そんなもんさ。実際、モノになるのはほんの一握りだ。自分だけならまだしも、そんな泥船に従業員と家族全員、乗せられるわけがないだろ」

「そうだね」

「仮に間違いなく成功すると確信していても、万が一にも失敗は許されない状況なら、経営者はそっちへかじを取ることができない。世の中に絶対はないからね。頭ではわかっていても、これを打ち破るのは難しい」

「ああ、だからジレンマってわけか」

「そういうこと。じゃあここで、さっきの主人公くんにとってのリスクとはなんだい?」


 いきなり話が戻ってくると僕の方があたふたしてしまう。とても作業の片手間に僕の話を聞いていたとは思えない、この人の頭の中はいったいどんな構造になっているんだ。


「リスク、と言ったら人間じゃなくなることだよ。それどころか人間の世界にいられなくなる」

「主人公には親兄弟も配偶者もいない、友達と呼べる人だっていないんだろ。おまけに将来のビジョンもない。人間をやめる理由にしては十分なんじゃないかい」

「あと、天界がどんな世界なのかわからないってこともリスクだ」

「これだけ不利な条件が揃ってるんだ、未知の世界が怖いなんてリスクのうちに入らないだろう」

「それは、そうかもしれないけど……」

「はい、解決だね」


 なかばあきれた様子でパソコンの方に体を戻そうとする母さんに、僕は食ってかかる。


「それだけじゃない! あとは神様の、少女の境遇も関係してくる。これが重要なんだ」

「ふうん、簡単に説明して」

「端的に言えば、その少女が人間だった頃は軟禁されてて、神様になる以外に自由を手に入れる手段がなかったんだ。多少のハンデはあっても、ただ落ちぶれただけの主人公とは違う。神様になることで救われたやつもいるんだ。そういう世界だって知ったら、見方が変わってくるだろ? 自分の境遇に甘えてなにもしなかっただけの人間が、そんな世界で過ごしていくことなんてできないだろ?」


 気付けば僕は立ち上がっていた。あ、と声にならない声を漏らして椅子に座り直す。


「関係ないね。だからさ、アンタの意見なんてどうでもいいんだよ。もし主人公にもそういう信念があるって設定なら、人間のままでいればいいだけの話だ」

「それじゃ落ちこぼれのまま生き続けるしかないんだ、いったいなんの得がある。そんなことで神様になる可能性を捨てるのは不自然じゃないか」

「そんなことないだろう。変化をためらう理由が主人公の損得に関係ないことなんだから、メリットだのデメリットだの、そんなことを考える方がよっぽどおかしいね。アンタが思考実験を楽しみたいだけなんじゃないかい」

「僕はそんなつもりじゃ……」

「少女とやらは自由を望んだ。仮に神様にならなくても自由の身になれたとしたら、彼女はどっちを選んでもよかったわけだ。神様になる以外に道がなかったから神様になったんだろ、違うかい?」


 その問いかけに、僕は否定も肯定もできなかった。神様になってよかった、満面の笑みでそう言った少女。でも考えてみれば、神様になること自体は、彼女の望みの副産物にすぎないのだ。かどうか、僕にはわからない。


「それと同じように考えればいいのさ。主人公が神様にならなければ成し得ないことを望むなら、それがそのまま神様になる理由だよ。はい、アタシの話はこれで終わり、この先を考えるのはアンタの仕事だ」

 母さんはコーヒーにすこし口をつけ、くるっと椅子を回転させるとまたパソコンの画面をにらみ始めた。



 主人公ぼくがなにを望むのか?

 あれだけ毎日交渉のことを考え続けたのに、その問いに答えるのは簡単ではなかった。全能の力なんてもはや求めちゃいない。人間のまま生きる未来に成功の可能性がないことも、その事実まで記憶から消されてしまうなら、結局どうでもいいことかもしれない。

 そもそも僕には、確固たる望みなんてない。あの少女と違って、神様になる必然性がない――そうか、必然性だ。すっかり初心を忘れていた。少女に出会う前から、社会の歯車となることを嫌った僕がずっと探し求めていたものを。


 自分が生まれた意味。自分でなければならない役割。

 もっとシンプルに、これを満たすことだけを考えるんだ。神様になるべきか、人間のまま生きるべきか。材料はもう、十分すぎるくらい揃っている。


 人と違うことをしたいのなら、人より優秀であるべきだ。そう母さんは常々言っていたが、僕はその言葉が嫌いだった。凡人はおとなしく歯車として生きていくべきだと諭されているような気がしたからだ。

 その言葉の真意を知ったときには、もう手遅れだった。天才だろうが凡人だろうが、元がどうだったかなんて関係ない。革新者になりたければ、人より優秀である努力をすべきだったのだ。確固たる意志がなければ、人と違うことはできない。


 少女は言っていた。神様の本質は人間の意志なのだと。それが尽きたとき、神様は天界から解放されるのだと。天界だって同じだ、神様になるだけではなにも得られない。自分の意志が強くなければ、神様になることになんの意味もないのだ。

 自分が生まれた意味を神様に求めるのなら、それがわからぬまま解放されて消滅するようなことがあってはならない。僕でなければならない役割が、はたして天界に存在するのか。みな等しく全能の力を持つ世界で、僕が僕である意味とは――



「考えはまとまったかい」

 しばらく黙りこくっていると、母さんから声をかけられた。


「ああ、まあ、道筋は見えたかな」

「ならよかったけど。それよりアンタ、もっと自分の心配した方がいいよ。いつまで親の金で生きていくつもりだい」

「べ、別にそうしたくてしてるわけじゃない。僕だって頑張ってるよ」

「頑張るだけならだれでもできるんだよ。漫画家を目指すのも結構、シナリオライターでも結構。ただしアンタがそうなりたいと本気で思っているならね。なあなあでアシスタントなんて続けるくらいなら、まともな職に就いた方が賢明だ」


 返す言葉もない。そもそもアシスタントをやっている話自体が創作だという事実が、僕の心を余計に痛ませる。


「アンタの性格だからね、自分の決断力なんてアテにしない方がいい。人とか物とか、出会い、出来事、アンタにも大切なものがひとつくらいあるだろ。それとどう向き合っていけばいいか、ちゃんと考えな」

「……なんだかんだ、心配してくれるんだな」

「バカだね、アタシは心配してるんじゃないよ。アンタにさっさと独り立ちしてほしいだけさ」


 母さんはそう言うと、コーヒーを手に取りまた一口飲んだ。まだ頭の中には嵐が吹き荒れていたが、道筋が見えたという言葉は嘘ではなかった。雲の向こう側から日の光が透けてくるような、あとちょっとで答えが出せそうな感覚に包まれていた。


「アンタ、夕飯まだなら適当に食べな。あいにく冷食かレトルトしかないけど」

「……え、急にどうしたの」

「なにやるにしたって体が資本だってことよ、これも覚えときな」


 母さんはそう言うとキーボードをとんでもない速さで叩きだし、それきり口を開くことはなかった。なんだか急にお腹が空いてきた僕は、母さんのありがたい申し出に乗っかることにしてキッチンに向かう。冷凍庫を開けると、好物の冷凍ピラフが入っていた。

 しかしそれを手に取ったところで、少女の警告が脳裏をよぎった。今日来るはずのなかった僕がこの冷凍ピラフを食べるということは、いつか未来の母さんが食べられなくなるということだ。ほんの些細ささいなことかもしれないが、それは紛れもなく、他人の未来に影響を及ぼす行動だ。ここにきて僕は、またしてもつらい嘘をつかねばならなかった。


「……いや、やっぱいい。ここに来るまでに食べてきたんだった」

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僕は未来の神様 たたみ @tatami

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