第六話 悪魔の証明と神様の解放
「あれっ。お部屋、きれいになってる」
少女の唐突な言葉に、僕は感心した。人や環境の変化には女性の方がよく気が付くと世間では言われているが、それは本当だったらしい。
「そうだろ、久々に掃除したんだ」
僕はすこし得意気な顔で、部屋の隅に丸まった黒いゴミ袋を指さす。その脇には、昨日まで存在すら忘れていたハンディモップも転がっていた。まあ、袋ひとつ埋まるほどの断捨離をしたらだれが見ても一目瞭然なのかもしれないが、そんなのは自分の家に人を呼んだ経験のない僕が知ったことではない。
「急にどうしたの?」
「どうしたのって、ただの気分転換だよ。あ、中は見るんじゃないぞ」
「もー、見ないよ。ゴミあさりする神様なんていると思う?」
もしかしたら中身を透視することくらい神様には造作もないことかもしれないが、あの袋には
幸いにも、少女は袋の中身までは興味がないようで、僕は胸をなでおろした。本題を前に、無駄に神経をすり減らしてしまった。
身辺整理と言うと、まるでこれから自殺する人みたいだ。死んだほうがマシじゃないかと考えたことも確かにあったが、あれは単なる一過性の衝動だ。もちろん今はそんなつもりはない。
もし僕が神様になることを選べば、オリジナルの僕は天界の存在となって人間界からは消えてしまう。そのとき人間界に創られる「コピーくん」は、意志を持たず、僕をそっくりそのまま模倣する存在だ。そう頭ではわかっていても、趣味嗜好を自分以外の存在に見られるように思えて、生理的な気持ち悪さが否めない。どうせ、いずれは捨ててしまう品々なのだ。部屋を片付ける動機だけ見れば、自殺志願者のそれとほぼ同じだった。
「神様は
「わたしはあなたが理由もなく選ばれたとは思ってないけど」
「そんなの、
神様は数値だけで候補者を見ているんじゃないか――昨日抱いた疑問だ。
そんなこと面と向かって聞くことではないかもしれないが、この少女なら、正直に答えてくれるような気がした。
「わたしは、今のあなたしか見てないよ。人間としての過去も
「僕には大きな違いのように思えるけど」
「そう? たとえばお腹がすいたとき、なにか食べ物を創るとして、ハンバーグって料理を知ってるのと知らないのとで、そんなに大きく違うかな?」
うーん、そう言われてみると、僕にも大差ないように思えてきた。仮にハンバーグを知らなかったとしたら、それを食べたいとも思わないのだから、創れなくてもなんの問題もない。最低限、まともに人間として生きた経験があれば、暮らしに不自由はしないだろう。
才能も努力も、過去も
「話は変わるけど、天界でいちばんえらい神様ってどんなやつなんだ?」
だからこそ、どんな存在が天界を統治しているのかは気になるところだ。神様になった順か、他に専用の指標があるのか。
「えらい、って言うのかはともかく、天界でいちばん力を持っているのは、生まれながらの神様だよ」
「生まれながらの神様……つまり、人間だったことがない神様?」
「そう。生まれたときからずっと天界に住んでいる、純粋な神様なの」
そう来たか。生まれながらの神様、そんなものは初耳だった。
だが考えてみれば、そういう存在がいることはまったく不思議なことではない。天界の定義は「神様が住む世界」だ。人間から神様になった存在しかいないのなら、そこは第二の人間界と変わらない。それに、いったいだれが最初に天界にたどり着いたのか、という疑問も残る。少女が僕に教えてくれた天界のシステムは、生来の神様がなんらかの都合で作り上げたと考える方が、よほど自然なように思えた。
「純粋な神様、ねえ。そいつは弁天様みたいな、いかにもありがたいオーラを出していたりするわけかい」
「わからないなあ、わたしは見たことないから……わたしに限らず、だれに聞いても見たことないって言うと思う」
「なんだそりゃ。それこそ単なる言い伝えの類なんじゃないのか」
「そんなことないよ。うまく言えないけどね、彼らは確かにいるんだよ」
神様にも存在するかどうかわからない「純粋な神様」か。たとえ相手が神様だろうと、こう実態のつかめないものを持ち出されると、どうも胡散臭く感じてしまう。天界にはもっと重大な秘密や陰謀があって、それを悟られないために情報操作をしているんじゃないか――なんて考えてしまうのは懐疑的すぎるだろうか。
「そう言われてもねえ。だってだれも見たことがないんだろ、どうして存在するって言い切れるのさ」
「うーん。神様になればあなたにもわかると思うけど……」
「それじゃ困るよ、これは悪魔の証明じゃないか。本当にいるって言うなら、証拠を見せてもらわないと」
悪魔の証明――言わずと知れた「不存在の証明」だ。
有名な言葉だが、語源は法学の用語で、その本来の意味はやや異なる。しかし現在では「ないことを証明することはできない」という用法で使われることがほとんどだろう。
この世界に悪魔の姿を見たことがある人はだれもいない。だからもちろん悪魔なんているはずがないというのが世間の常識だ。すくなくとも人間が住むこの世界には、悪魔は存在しない。
ここで、ある人が「この世界に悪魔は存在する」と言いだしたとしよう。すると理論的には、だれもこの突飛な主張を論破することはできないのだ。
彼の言い分はこうだ。もしかしたら悪魔は、まだだれにも見つからずにひっそりと生息しているかもしれない。だから悪魔が存在しないことを証明するには、地球上のあらゆる場所を探しつくして、どこにも悪魔がいないことを確認しなければならない。
言うまでもなく、その作業は困難を極める。そして、仮に地球全土を衛星カメラでくまなく調べて見つからなかったとしても、問題は解決しない。もしかしたらカメラには映らない存在なのかもしれないし、もしかしたら地面の中に潜んでいるのかもしれない。こういった「悪魔は存在する」という主張のすべてを否定することは、直感的にも不可能だとわかる。
これは神様にだって言えることだ。「神様は存在する」ことを明確に否定することはできないから、目撃情報なんかなくたって、世界中のだれもがそれぞれの信じる神様を自分の中に持つことができる。神様がどんな姿であろうと、どんな形の救いをもたらそうと、そこには正解も不正解も存在しないのだ。
しかし、だからと言って悪魔や神様がこの世界に存在することにはならない。なぜなら、それはあくまで「存在するかもしれない」であり、「存在する」とも言い切れないからだ。だから悪魔の証明によって「存在しない」と言い切ることが不可能なものは、暗黙の了解として、その対象は存在しないと帰結することになっている。
「えー、そんなの意地悪だよ」
僕の簡単な解説を聞いた少女は不服そうな声を上げた。
「別に意地悪でもなんでもないだろう、僕は当然のことを言ってるだけだ」
「それなら、わたしは身をもって神様の存在を証明してるじゃない。その
「それじゃ証明になってないよ」
「えぇー、天界の話のときはそんなこと言わなかったのに」
「う、まあ、そうだけど……」
痛いところを突かれてしまった。すっかり頭から抜け落ちていたが、天界なる世界が本当に存在するのかさえ、僕に確かめる術はないのだ。そんな世界にしかいない存在を証明しろだなんて、もはや詭弁を超えておとぎ話のレベルだろう。
少女は自らの姿を見せることで、僕に神様の存在をいともたやすく証明した。それはネゴシエイターとして僕と接触している間は、天界のルールによって、彼女という存在が人間界にあるからできたことだ。相手が天界にいる以上、悪魔の証明は通用しない。
「たぶん生まれながらの神様と会った記憶は、書き換えられて、なかったことにされてるんだよ。どうしても、会ったことがないようには思えないし」
「きみの言うことを信じるなら、そう考えるのが自然か」
「ただのわたしの想像だけどね。でも、きっとその答えに意味はないと思う。いるかいないかで言ったら、間違いなくいるんだから」
少女からは最後まで、核心に迫るような情報は得られなかった。しかし、僕には少女の言葉以外なにも判断材料がないのに、それを信用しないのは愚策だ。そしてこれまでも一貫してそうだったが、彼女は僕になにかを隠しているわけではないように思える。僕はその直感を信じることにした。
「それじゃ、神様が昇格することはないの? 生まれながらの神様になることはできなくても、ずっと神様をやってたら、それと同じくらいの地位に就けるとかさ」
「ふふ、夢のある話だね。でも無理だと思うし、そんなことはまず起こらないよ」
「思うってことはきみの想像だろ。なんで起こらないって言い切れるのさ」
こんなの、ただの言いがかりだ。自分でもわかっている。僕だって別にそんなことを聞きたいわけじゃなかったのだが、神様のくせに最初から諦めた態度なのが気に食わなくて、つい突っかかってしまった。
それにしても、我ながらめちゃくちゃな論理だ。それが起きないことを証明しろ、なんて言葉が僕の口から出ているとは、三分前の自分は想像もしていなかっただろう。
「だって、神様には終わりがあるからね」
「……なんだよそれ、どういうことだよ」
曖昧な言い方をする少女に、僕は具体的な説明を求める。
「わたしたちは、永遠に神様でいられるわけではないの。あ、人間みたいに老いて死ぬわけじゃないよ。前にも言ったけど、神様の姿は意志そのものだから」
「ああ、覚えてるけど」
「その意志から『神様でいたい』って思いが完全になくなったとき――わたしたちは神様という存在から解放されるの」
「か、解放?」
ここに来て、また新しいルールのお出ましか。もう頭がパンクしそうだ。
「解放された意志は、もう天界のものではなくなる。簡単に言えば、消えちゃうんだね」
「そんなことが……いったいどうして」
「わからない。神様でいたくない神様なんて、いても仕方ないからじゃないかな」
「じゃあ、きみもいつかは消えてしまうのか」
口に出してから、失言だと気付いた。「神様になってよかった」と心から思っている少女にその事実を突きつけるのは、ともすればタブーだったかもしれない。
「そうだね……明日かもしれないし、明後日かもしれない」
「そ、そんなに急な話になるのか?」
「たとえばの話だよ。もーっとあとかもしれないしさ」
意外にも、少女は達観しているように見えた。自分の認識の外にあることだからかな、と僕は勝手に解釈した。知る由もないことを「神のみぞ知る」という表現があるが、神様にもわからないことはどう言えばいいのだろうか。
そういえば、つい先日も同じようなやり取りをしたことを思い出す。交渉の最終日、つまり僕が答えを出さなければならない日も、いつ訪れるのかはわからない。もう、なにがなんだかさっぱりだ。
ひとつ確かなのは、神様になるかならないか、その選択は、僕ひとりで決めなければならないということだ。
僕はだれかに「神様が存在すること」を証明することができない。唯一の物証である石ころだって、他の人にしてみればなんの変哲もない路傍の石だ。神様とのやり取りを日記として書きしたためたって、夢日記としか見られないだろう。
ここ一週間くらい、ずっと神様の交渉について考えてきた。自分の思いつく限り、考えつくしたと思う。それでも、答えを出す糸口は見つからない。
たとえ参考にならなくてもいい、他の人の意見が聞きたい。でも、こんな相談を大真面目にできるような友達なんて僕にはいないし、いたとしても頭がおかしいと思われて病院を勧められるのがオチだ。僕は、目の前にいる少女の存在をもってでしか、神様が現実にいることを裏付けることができないのだ。
……いや、あるじゃないか。話を聞いてもらう方法が、ひとつだけ。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
「うん、なんでもどうぞ」
「ただの思いつきなんだけど。一度だけ、実家に帰らせてくれないかな」
軽く放った僕の言葉に、少女は渋い顔をした。そんな顔を見たのは初めてかもしれなかった。
「……それ、本当にただの思いつき? 普段のあなたの行動とは、だいぶ違うものよね」
「まあ、そうだな。ここに来てからはほとんど連絡も取ってないし」
「ネゴシエイターの立場から忠告させてもらうけど、普段と違う行動を取ることは、あなたの未来を大きく変える可能性がある。これからの交渉に影響が出ることは避けられないし、最悪の場合、神様になる気がないと判断されて、強制的に打ち切ることもある。あなたはそんなこと、しそうにないと思ってたけど」
思いもしなかった強い口調でそう言われ、僕はたじろいだ。
「だ、大丈夫だって。そんな無茶なことはしないさ」
「どういう考えなのかはわからないけど、わたしとしては、あんまりおすすめしないな。ただでさえあなたを取り巻く未来は、わたしと接触するたびに揺らいでいるの。あなたがなにもしなくてもね。なぜなら、わたしという存在が、あなたにとって本来イレギュラーなものだから」
「それは……そうだろうけど」
「これだけは忘れないで。あなたの思いつきが、ほんのすこしでも人間界に影響することがあったら、未来の揺らぎはずっと大きくなる。きっと、あなたの想像以上に」
少女の言葉を聞いた僕は無意識のうちに、きれいに片付いた自分の部屋を見まわしていた。多少散らかってはいたが、モノ自体あまりなかった部屋だ。少女が現れていなければ、部屋を片付けようだなんてきっと微塵も思わなかっただろう。
ただ、今まで家にはだれも呼んだことがないし、生活必需品を捨てたわけでもない。だから妙に片付いた僕の部屋を不審がる人もいなければ、掃除をしたことで人間界の未来が大きく変わることもない。ゴミ袋がひとつふたつ増える程度の変化なら誤差のうちだろう。
しかし実家に帰るとなれば、両親に会うことになる。今まで連絡もしてこなかった息子が急に帰ってくるのはそれだけで異質だし、僕もこれまで一切そんな気を起こしたことはなかった。その未来が訪れる確率は、元々限りなくゼロに近いものだっただろう。間違いなくそれは、
「でも、あなたがそうするって言うのなら、わたしにはそれをやめさせることはできない。だから、本当によく考えてね」
きっと少女は本当に心配してくれているのだろう。
それでも、僕はなにも言わなかった。きっとどう言っても無駄だと悟ったのだろう。少女もそれ以上はなにも言わず、しばし沈黙の時が流れた。
「……もう、時間みたい。さようなら、また会えるといいね」
そしていつも通り、少女は一方的に交渉の終了を告げる。
消えていく光の泡沫を、僕は最後までじっと見つめていた。
少女の去り際の言葉には、落胆の色が濃く感じられた。
それが僕には理解できなかった。
少女いわく、ネゴシエイターは神様の仕事のひとつだ。交渉が早く終わるのは、少女にとって悪いことではないはずである。まだ人間界を離れるのが惜しい、という風にも思えない。
――さようなら、か。
明日にでも明後日にでも、また会えるだろう。今まで、そんな根拠のない楽観的な考えを抱いていた自分がいたことに、ふと気付く。どんな形の日常にも、終わりはやってくる。万一これでお別れとなれば、それが仕事とはいえ、やっぱりさみしいと感じるのかもしれない。
少女がおそらく察した通り、自分の行動を考え直すつもりはなかった。
荷造りなんて必要ない。日が傾きかけた空の下、僕は最寄り駅へ向かって歩き出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます