魚影〜廃墟に棲む亡霊〜

藤九郎/徳永大輔

魚影〜廃墟に棲む亡霊〜

仄暗い部屋の中に一人、肌を病んだ男がいた。

顔から手足にいたるまで、男の体は火傷のような皮膚に覆われ、そのところどころに白い膿が顔を出している。

赤く腫れた顔はとりわけひどく化膿し、その痒みは昼もなく夜もなく男を苛んだ。

長く伸ばした艶のない髪が膿に濡れた頬に貼りつき、一層彼をみじめにしたが、悲しいことに、それは本人にとって、少しでも自分の顔を隠したいという努力だった。

男がまだ幼かった頃、彼の両親は息子の持病を治してやろうと、できるかぎりの手を尽くした。自然療法や漢方はもちろん、気功や呼吸法も試し、しまいには外国から取り寄せた高価な泥を体に塗ってみたりもしたが、結局どれもうまくいかなかった。

医者のすすめる強く高価な薬を使えば、なるほど、使い始めはいくぶん効果があらわれる。しかし、日が経つにつれしだいにその効力は衰え、むしろ長期間にわたって薬に依存したがために、人の体が本来備えているべき抵抗力や治癒力が弱り、かえって彼の皮膚は過敏で、脆弱なものになってしまうのだった。

そういう事情で、彼の皮膚病は一向に回復の兆しを見せず、彼の容姿を著しく損なうものとなってしまった。

忌々しい持病のために、彼には幼いころからろくな友達もできず、彼自身、他人の視線に自分の肌をさらすのをことさらに嫌い、いつも体を掻きながら部屋に閉じこもっていた。

日の光を浴び、適度な運動をするように医者は言ったが、外に出て己の肌を人目にさらすことほど、彼の精神を摩耗させることはなかった。

薄暗い部屋の中、澱のように溜まるため息の海に浸かり、陰気な深海魚のようにじっと息をひそめることが、この男の生活のすべてだった。


しかしそんな彼にも、人並みの娯楽は用意されていたようだ。

男がまだ小さかった頃、彼の父親が使わなくなった古いカメラをくれた。

子供の手には少し大きくて重かったが、一眼レフの黒い筐体はずっしりとしてよく手になじみ、フィルムを巻き取るたびに、シュトンッ、シュトンッ、と小気味よい音をたてた。

彼はいっぺんにこの玩具を気に入り、身の回りのさまざまなものをフィルムにおさめようとしたが、室内に閉じこもっている少年にとって、世界はあまり多くの被写体に恵まれた場所ではなかった。

最初の頃は家の中のこまごまとしたものを写真に撮っていたが、スリッパやドアノブの写真を何枚も撮ったところで、とくに楽しいことがあるわけでもなく、彼が成長するにつれ、撮影対象の矛先が家の外へ移るのも、しごく自然なことだった。

人の視線に触れるのを恐れ、外出するのはきまって真夜中だったが、家の外に出て彼は闇の中に浮かぶいろいろなものを写真に撮った。

山から突き出した黒い骨のような灌木の影や、無数の蛾の群れる電灯……。

写真を撮るということは、いつしか彼の生活の中で大きな比重を占めるものとなり、ともすれば不安定になりがちなこの男の精神を現実の世界に繋ぎとめ、絶望の海底へ深く沈んでいくのを妨げる、のような存在となった。

とはいえ、彼が写真に熱中する根底の理由ほど後ろ向きなものもなかった。

ある時彼は自分がこれまでに撮ってきた写真を何気なく見かえし、そこにある種の傾向がみうけられることを発見した。

彼が無意識に写す写真には、どれも『破滅』や『腐敗』といった題目を冠するような被写体ばかりが映っていたのである。

踏みしだかれた鳥の屍骸や、雨ざらしの廃車……。

どうしてこういう写真ばかりを撮ってしまったのだろう。そしてこれらの写真を眺めていると、妙に心が穏やかになるのはどういうわけだろう?

手もとにある不気味なものばかりが映った写真を眺め、頬のあたりをしきりに掻きながら自問自答を続けるうちに、男は己の中にある、自分を写真に熱中させた根本の動機に気がついた。

  自分より惨めなものを写真にとれば、少しは自分も救われるかもしれない……。

他者の持つ醜悪な部分を切りだして紙の中におさめるのは、それと自分とを比べることによって、自己よりも下の存在がこの世にあることを知り、少しでも楽になろうとするためなのだ。

己の意識の水面下で営まれる醜悪な運動をかいま見た気がして、男は一時期写真を撮るのを止めた。

負の傾斜を帯びた淡い期待によって生まれたそれらの写真を、男は部屋の一角に貼りつけた。それらの写真は淀んだ部屋の一隅に悪い虫の巣のようになって蟠り、無表情な壁を禍々しく飾った。


終日黒いカーテンで閉め切り、雨の音が染みついたような男の棲みかは、時折彼の漏らすため息に淀み、闇はねっとりと苔状になってそこらにはりついていた。

自らにかせられた不条理を呪いつつ、この暗黒の浴槽に寝起きする男にとって、目に映るすべては灰色をしたくすんだものだった。

しかし最近、水底から仰ぐ明るい水面のように、彼を魅了して少しずつ膨らんでいく存在があらわれた。

壁一面に貼り付けられた写真群の中に、奇妙な形をした廃墟がある。それはかつて夜の徘徊で出会った、県境の国道に建つ古い木造建築で、二県にまたがる大きな糸杉の森を背に、ひっそりと佇んでいる。

もともとは小さなバーを営んでいたという噂だ。

誰からも忘れられ、荒れるに任せたその木造は、今はただの廃墟になり果て、なんとなく、夏草や、ではじまる、芭蕉の句を想起させた。

蔦やツユ草の繁茂した外壁のところどころには穴があき、立派な大窓も大きく破られている。遠くから見ると、うずくまる病人のようにも、チシャの葉の茂った樽のようにも見える。

この暗緑の廃墟こそ、今の彼をセイレーンの呼び声の如く惹きつけて止まないものであり、この魔窟に足を踏み入れることこそが、彼の宿願となりつつあった。

さまざまな角度から捕えたその館の写真は、他者の死を切りとったような彼の芸術群の中で、一際異彩を放ち、彼の膜のはったように生気のない眼に、妖しい光を灯らせた。

粉がふき、赤く腫れた指先で意中の写真をなぞるとき、男の世界はにわかに色彩を取り戻すのだった。

しかし、その建物に興味を持つことがなければ、或いはその奇妙な出来事は起こらなかったのかもしれない。


館からの引力は日ごとにその強さを増し、いつまでもせき止めていられるものではなかった。

ある日男はとうとう思いを抑えきれず、一人件の館へ向かう決心をした。

夜の帳の明けきらぬ早朝、糸杉の森が吐き出す死者の霊のような朝靄の中、黒いフードを目深にかぶり、県境へと続く国道に男は現れた。

その建物は国道から十メートルほど離れた、森の入口のような所にぽつんと建っていて、そこに辿り着くためには舗装された道路から外れ、荒れ放題の草むらに分け入らなければならなかった。

国道と館の間には、背の高い雑草が一面に生えていたが、館の正面へと近づくにつれ、背の高い草は姿を消し、かわりに濃緑色をしたどくだみの茂みが、独特な匂いをともなって、男の進路に広がっていた。

濃緑の茂みを抜け、ようやく館の入口に辿り着こうというとき、背後で小動物が草をかき分けるような音がした。

とっさに振り向くと、視界の隅で、細長い影が茂みの中を泳いだ気がした。

たぶん蛇か何かだろう。

長靴をはいてきて正解だったと男は思った。蝮だったとしたら大変なことになる。


建物は間近で見ると、朽ちかけた外壁をムカゴや蔦が毛細血管のように覆い尽くし、なかば植物と同化したかのような姿をしていた。

正面玄関にはしっかりとした錠がおろしてあり、さすがに入れそうにない。男は露に濡れたどくだみの茂みに足をうずめながら、館の背後に回りこみ、裏口を見つけるとあらかじめ用意しておいたバールを使い、半ば壊すようにして小さな裏口をこじ開けた。

ぽっかりと口を開いた館の内部から、黴のにおいがする空気に体を包まれた時、男の念願の一つは叶えられた。

案の定、館の中は山賊の根城のように荒れ果て、板張りの床には湿った土のようなものがうっすらと積っている。

中は洞窟のように暗いものと思い、懐中電灯を用意してきたが、意外なことに外壁の穴から漏れるわずかな光のために、館内は薄紫に照らされ、仄かな明るさを湛えている。そのためか、館内に入り込んだ植物がところどころに根を張り、館を内側から蝕んでいた。

裏口から続く廊下を真っすぐ歩くと、傾斜の急な階段が現れ、その向こうにはバーカウンターとニ、三のテーブルを備えた広間があった。

どうやらここが、かつてバーだったという噂は本当らしい。

カウンターのすぐそばに、先ほど彼の侵入を拒んだ玄関がある。扉は頑丈なつくりで、一分の隙も見当たらなかったが、そばによると、かすかにどくだみの匂いがした。

彼はおもむろにカメラを取り出して、足下に転がる瓦礫と草の根に気をつけながら、辺りを入念に撮影した。

棚には常連客が置いていったものだろう。何本かのウイスキーボトルが並んでいた。中には少し酒が残っているかもしれなかったが、ボトルの表面を覆う錆のような埃のせいで、中身は簡単にはのぞけなかった。

随所に植物の根が走る天井には、緑青に蝕まれた電気扇風機が取り付けられていて、それはどこか、ぶらさげられた動物の死骸を思わせた。

天井扇をファインダーにおさめながら、やはりこの館には自分を惹きつける何かがあると男は思った。

それは目には見えず、うまく言い表せないが、例えば水中に溶けている未知の科学物質のようなもので、この館の内に漂う何かしらの特別な雰囲気というか……とにかくそういう奇妙な空気が自分に感作を与えていることを男は感じていた。

  だがさしあたってのところ、自分は撮影をしなくてはならない。

彼は心のどこかでもう二度とここへは来れないような気がしていた。なので一階での撮影を一通り済ませると、迷わずニ階へと続く階段へとりついた。

階段はかなり傷んでおり、一段目と二段目の間には小さなシダさえ生えている。片足をのせるたび、階は久方ぶりの重力に罪人の悲鳴のような嫌な音をたてたが、なんとか無事に上階に辿り着くことができた。

そこでまず男の目に飛び込んできたのは、先程外から見た、例の破れた大窓だった。ガラスの割れ目からは朝の風が吹き込み、縁のところには外部から入ってきた蔦が、緑色をした小さな手を広げるようにして生い茂っていた。

窓の外を見ると、屋根の端の方に丸いスズメバチの巣があった。国道の向こうには黒々とした森が広がり、その上には朝焼けの空が雲を焼くようにして広がっている。

窓から見える景色を一枚撮った後、一としきりこの階を調べてみた。どうやらこのフロアは、この建物の管理人のような人物の住居であったようだ。

ベッドやたんすのある奥の部屋は寝室らしく、比較的植物の侵食を免れている。大きな窓のある最初の部屋には簡単なダイニングテーブルがあった。

住人の忘れ形見を一つ一つカメラにおさめ、全てのフィルムを使い切ると、男は満足して館を出ることにした。

外に出るとちょうど雲の向こうから朝日が顔を出していた。わずかに赤みを帯びた朝の光を背負い、逆光のために黒いオブジェと化したその館を眺めながら、フィルムを使いきってしまったことを少しだけ後悔したが、それはささいな問題だった。そんなことよりも、そのとき男の心を支配していたのは、もっと漠然とした胸騒ぎだった。

  何かが足りない気がする。

(俺は念願だった館への侵入を果たし、見事その内部をカメラにおさめてきた。しかし結局のところ俺をこれほどまでに狂おしい気持ちにさせたのは何だったのか、俺をここまで呼びつけたのはどういう種類の魔力だったのか、一向にわからない。ただなんとなく不思議な雰囲気を味わっただけじゃないか)

煮え切らない思いを胸に、あらためて館を眺めると、今度ははっきりとした違和感が雷のように彼を打った。

(おかしい……この建物は外から見ると三階建てに見える……さっき写真を撮った大窓の上に小さな窓が見えるが、調べた時にはあんなものはなかった)

男は急いでドクダミの群生の中を引き返し、もとの通路を辿り、再び大窓の前までやってきた。

天井をつぶさに調べると、劣化が激しかったために見落としていたが、寝室の天井に細い溝が、長方形を描いて走っている。それはよく見ると戸のようになっていて、端のほうに小さな金具がついていた。

彼は鞄からバールを取り出し、背伸びをして天井の金具を引くと、思った通り、戸の裏からは砂埃とともに、屋根裏へと続く梯子が現れた。


その部屋は小さなアトリエだった。

ニスのすえた匂いのする棚には、絵筆やインク壺が所せましと並び、小さな窓の下には空っぽのイーゼルが立てかけてある。

部屋の奥にある埃の積もった小机には、黄ばんだ画集がうず高く積まれており、壁にはいくつかの蝶の標本箱が飾られている。

ここから人がいなくなって、一体どれくらいの月日が流れたのだろうか……。

この小部屋に残された物たちは、どれも平等に時の侵食を受け、部屋全体が退廃的な気を放っている。それが室内に瀰漫するニスの匂いと混じり合い、この隠し部屋にどこか魔術的な空気を醸し出しているようだった。

そのとき彼はふと壁にとりつけられた額縁に気がついた。それはガラスにこびりついた埃が表面を覆っていたことに加え、棚の死角にあったので、最初気がつかなかったが、どうも小さな絵が飾ってあるようだ。

服の袖で埃を拭うと、一匹の魚の絵が鮮明に甦った。表面に積った膜のような埃が日光や外気を遮断したためだろう。その絵は全てが風化にさらされて、くすんでしまったこの空間の中で、異様に新しく映った。

魚というよりは蛇に近い形をしたその生き物は、翡翠色に澄んだ水の中を廃墟にさまよう亡霊のように泳いでいた。

小さいとはいえ、その絵には見れば見るほど深く、彼の内側に踏み込んでくるような力があり、じっと見つめていれば、いずれ魚は動き出すのではないかと思わせるほどに巧妙な筆で描かれていた。

その絵の放つ引力に彼のような男が抵抗できるはずもなく、その額縁を取り外して持ち帰ろうと思うまで、あまり時間はかからなかった。

しかしその額縁を取り外したとき、彼の表情は凍りついた。

額縁を外した部分には、一篇の詩のようなものが刻まれていたのである。


降りやまぬ雨に打たれ

余は地に伏せり

闇の淵にありて

この身はいたく弱りし

今一筋の光明だになく

願わくは汝の慈悲を得ん



その日家に帰るとすぐに、男はひどい熱を出して寝込んだ。

風邪をひいたわけでもないのに熱は一向に下がる気配を見せず、ずっと何かに魘されながら、男はもう三日も床に伏しているのである。

三日目の晩、男は奇妙な夢を見た。

いつの間にか彼は薄暗い所に裸足で立っていた。足下には蛙の皮膚のような感触のどくだみの茂みが広がり、あたりには独特の臭気が漂っている。

(ここは一体どこだろう?)

一瞬、これがいわゆるあの世というやつかと男は考えたが、どうも様子が違うようだ。

カサッ  と、何かがどくだみの草むらをかすめた。見間違えではない。

大蛇を思わす黒い影が、茂みの中を泳いでいる。


  それは魚の影だった。


まるで生きた魚拓のように、まっ黒に塗りつぶされた魚の影が、緑色の深みから陽炎の如く浮き上がり、男の方へゆっくりと泳いできた。

宙に浮かび、二メートルはあろうかというそれは、墨汁を垂らしたように黒く、どこに目があるのかさえわからないが、不思議と怖さは感じなかった。

魚影は男のところまでやってきても何もせず、ただ何かを囁くように彼の周りをぐるりと泳いだ。

「  お前は一体何者なんだ?」

その質問にこたえるように、魚影は黒いあぶくをぷかぷかと吐きだした。そしてゆるやかな動きで彼の鼻先までやってくると、彼と見つめ合うようにして静止した。

両者はしばらく見つめ合ったまま、互いに沈黙して動かなかった。

男はこんな夢のなかでさえ、自分の背中をぽりぽりやっていたが、しばらく時が流れたのち、男にはなんとなくこの影が望んでいることが伝わってくるように思えた。

ふと、彼は背中を掻くのを止め、その手を魚影に向かって差し出した。

火傷のように腫れた彼の手が、冷んやりとした鱗に触れると、魚影は黒い霧になり、彼の腕にしみこむようにして消えていった。


しだいにうすれてゆく意識の中で、地の底から響くような低い声が、彼の耳に聞こえた気がした。


目を覚ますと、熱はすっかり下がっていた。

起き上がろうとすると、ひどい貧血のためにめまいがした、一週間砂漠を漂流した後のように喉が渇いている。

冷やした瓶から浴びるように水を飲むと、体中の毛穴からドッと汗が噴き出した。

体のどこかに穴があいているのではないかと思うほどの汗だ。尋常な量ではない。水を飲めば飲むほど汗はいくらでも出てきた。

あまりにすごい量だったので、体の様子をよく見ようと鏡の前に立つと、いつもは赤く腫れているはずの皮膚が、心なしか色がひいているように見える。

袖をまくり、ためしに腕を撫でてみると、表皮は依然として荒れていたが、少し固くなり、ひんやりとして痒みもない。

長い髪をかきわけ、鏡に顔を映すと、やはりこちらも色がひき、不様に爛れていた肌は、固まった粘土のように健康的な弾力を取り戻している。

長年肌を患ってきた男にとって、自分の体に起こった変化はにわかに信じがたいものであったが、実際この日から、男の皮膚病は回復に向かったのだった。


新しい月が欠け、再び満ちてゆくたびに、彼の肌は美しく生まれ変わっていった。

傷んだ果実のように弱く、凹凸だらけだった肌は、今や陶器のようにきめがととのい、さらりとした光沢さえ帯びている。

そこにはもう、一日中体を掻きむしっていたみじめな男の姿はなかった。


例の影を夢に見て以来、皮膚の病はすっかり過去のものとなったが、彼の体には他にもいくつかの奇妙な変化があった。

男の皮膚が回復に向かい始めてからというもの、彼は異様に喉が渇く体質になり、また今まではまったくの下戸であったにもかかわらず、急に酒を飲むようになった。

清酒ならいくら飲んでも酔いがまわらず、むしろ酒が血になじみ、体の中にしみわたってゆくのが、男には新鮮な喜びに感じられた。

しかし、どうやらその水分や酒に対する渇きは、彼の体だけが訴えているものではないということに、彼はしだいに思い至るようになった。

例の廃墟に侵入することで、彼はどうもそこに宿っていた亡霊のようなものを持って帰ってきてしまったらしい。そしてその亡霊は魚の形をもって彼の夢のなかに現れ、新しい皮膚を提供する代わりに、彼を新しい宿主にしたのだ。

正体不明の亡霊にとり憑かれているというには、何だか妙な気分だが、彼には少しの後悔もなかった。

何にとり憑かれようが、この美しい皮膚の代償というのなら、どんな犠牲も惜しくはない。どんな気味の悪い化け物にだってこの体を提供してやろう。

変わることができるなら、魂だってくれてやる。

彼は一片の疑いすらなく、そう思った。


数年の歳月を経て、彼はいろいろな職業を体験したのち、それなりに名の知られる写真家になったが、今でも胸の奥に耳を澄ますと、己の内側に横たわる、波のない海の深淵に、得体の知れない生物の息づく気配を感じるのだった。

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