31:婚活の終わり(後)
喫茶店を出る頃には、もう外は夕暮れ時だった。
昨夜の雪はとっくに溶けて、路面に
俺と希月は二人並んで、六花橋のバス停を目指した。
緩やかな上り傾斜の街路を、国道に沿って歩く。
「そういえば今朝、家を出る前に聞かされたことなんだけど……お姉ちゃんの婚活、いい方向に進んでるみたいなの」
ふっと思い出したように、希月が話し掛けてきた。
「もしかしたら、今週末にも新しく知り合った男性と、仮交際をはじめるかもしれないって。――相手の人とは、今月上旬に婚活パーティで意気投合したらしいんだけどね。昨日、私が知らないあいだにお付き合いを申し込まれてたとか……」
「マジか。そいつはめでたいな」
軽く驚かされたけど、素直に祝福の言葉が出た。
だが事実なら、俺が香奈さんと電話で会話した際には、実はその新恋人(仮)さんからすでに交際の打診を受けていたのかもしれない。
「まあ、おめでたいのはたしかなんだけど……こっちは、今まで散々心配していたのに、何だか少し拍子抜けしたような気分だよ」
希月は、わざとらしく溜め息を吐いてみせた。
しかしながら、瞳は穏やかで、口元はかすかに綻んでいる。
察してはいたけど、絶対にお姉ちゃんっ子だよな、こいつ。
俺のことをシスコン呼ばわりできる柄じゃないだろ。
「それで、その相手はどういう人なんだ?」
「うん……お姉ちゃんより、二歳年下だったかな。星澄銀行の行員さんだって」
若い地元の銀行員かよ!
そりゃあ、けっこうな優良物権なんじゃ……って、つい天峰や近江ファンの連中みたいなことを考えてしまった。毒されてる。
「その人、別にモテないわけじゃなかったんだけど、結婚相手には年上の女性を希望していたみたい。年下の子よりも手が掛からないし、一緒に居て落ち着けるからって」
「へぇ、そうなのか」
「あとね。一応お姉ちゃんは、自分の年齢を引き合いに出しながら、『子供のことはどうするのか』ってことも訊いたらしいんだけど――その人は、あんまりその点にこだわりはないそうなの。『自然の成り行きに任せましょう』って」
なるほど。たしかに、子供を持つことについて、そういう考えの人だって居るだろうな。
恋人同士や夫婦にとって、何が実際の幸せなのかは、当人たちにしかわからない。
子孫を残すことだけが結婚の目的であるはずがないし、「ただ好きな相手と一緒に居たい」という意思で結婚することの、いったい何が悪かろう。
……希月が以前、香奈さんの元恋人を「無責任だ」と詰ったことを思い出す。
けれど実を言えば、俺はやはり、当時の二人が別れた判断は、正しかったのだと思う。
少なくとも、両者が最終的に合意した結論である。そこに至るまでの経過はどうあれ、尊重されて然るものだ。
むしろ批難されるべきは、「偏見」や「決め付け」といった他者からの抑圧だろう。
個々人が選んだ生き方に、年齢や性別で価値の上下を判定し、格付けしようとする感覚にこそ、
――それは、おそらく「曖昧で不確かなもの」の悪しき一面である。
何歳からでも夢を追うのが悪いとは思わないし、恋愛や結婚にしたって同じことだ。
四十歳からでも五十歳からでも、好きになった相手と添い遂げればいい。
どうせ、本気で誰かを好きになったら、相手のことを幸せにしたくて堪らなくなってしまうんだ。
恋人に見返りを求めるとか求めないとか、他人からどう思われたいとか、そういう意思の有る無しを問わず――ほとんど本能的な心の働き掛けで、そうせずに居られなくなる。
ただし、そんな理屈で割り切れない情動もまた、「曖昧で不確かなもの」が持つ一面だと思う。
それゆえ、人の心はややこしい。
「……なあ、希月」
「なあに」
「俺は、誰かと付き合うのなら、年上でも年下でもなく、同い年の女の子がいい」
歩きながらつぶやいたから、希月が隣でどんな顔をしていたかはわからない。
ただ、二、三秒待ってみたけど、すぐに返事は聞こえなかった。
そこで、また思うままに言葉を連ねていく。
「明るくて、一緒に居ると面白くて、ちょっとぐらいワガママな方がいいかもしれない。でも、根は真面目で、真っ直ぐで、どんなことにでも真剣に努力できる……ついつい打算めいたことを主張してしまうけど、本当は誰より純粋なものに憧れているような子が」
そこまでしゃべって一息つくと、不意に希月が立ち止まった。
「希月と一緒に居て、そんなふうに思うようになった」
俺は遅れて、何歩か先まで進んでから、背後の街路を振り返る。
自称「(元)婚活女子高生」は、緩い坂道の真ん中で、じいっとこちらを眼差していた。宝石みたいに大きな瞳は、僅かに滲んで光をはらみ、だが真意を窺うような鋭さを宿している。
「丁度、おまえに訊いてみたかったことがあるんだ」
俺は、希月に正面から向き直った。
「先月初めに校舎の屋上で、俺がいったん断った告白だけど――あれは、返事を訂正するなら、まだ承諾しても有効だろうか」
問い掛けると、希月はそっと瞼を伏せた。片手をきゅっと握り締め、自分の胸に当て、考え深げな面持ちになる。
ちいさく開いた口唇の隙間から、何度か白い呼気が漏れた。
「もし、ここで私がうなずいたら」
たっぷり五秒は間を置いてから、希月がおずおずと言った。
「その場合は結局、私は第三者の思惑通りに利用されたことになっちゃうのかな」
「――ああ、そうか……」
その指摘で、希月が沈思していた理由を、ようやく把握した。
この子は、俺と婚活を通じて親しくなった経緯を、まだ憎むべき「曖昧で不確かなもの」の作用として捉えているのだ。
だから、このまま交際をはじめたら、やっぱり自分の恋愛は「他人が用意した筋書きに従うことになるだけじゃないのか」と。
今月の初め、図書館で篠森や近江に付き纏う女子とやり取りして以来、希月がずっと苦悩し続けてきたことだ。
それを「他者からの抑圧」のひとつと解するなら、心中は察するに余りある。
もっとも、大概の人であれば、それを瑣末な執着と見做すのかもしれない。
融通を利かせ、事実に見て見ぬ振りをすることも、大人になるには必要だ。
でも俺は、どこまでも真っ直ぐであろうとする希月の心を、いまや愛おしく思っていた。
「だったら、こうしよう」
思い切って、俺はささやかな提案を試みる。
「今からここで、俺が希月に告白する。つまり交際を申し込むのは、おまえじゃなくて、俺の方からだ。そうすれば、互いの立場と恋人になるきっかけが、全部前提からひっくり返ることになるぞ。――その上で、希月が俺と付き合うかどうか、自分の意思で決めればいい」
「……そ、そんな――……」
希月は、はっと瞳を見開き、肩を震わせた。酷く慌てて、どんな反応を示すべきか、にわかには決めかねているように見える。
あえて、心の準備を待ったりはしてやらない。
これまで俺だって、何度も突拍子もない申し出に付き合わされてきたんだからな。
とはいえ、決意を固めると、さすがにこっちも少し気持ちが昂ってきた。
「きっと『曖昧で不確かなもの』には、二面性があるんだ」
俺は、自らを静めようとして、半ば独白めいて話し続けた。
「その片側で心が挫けそうになったって、もう一方で救われることができる。世の中が何もかも、打算や悪意で埋め尽くされてるだなんて、悲観するのはくだらない。だいたい、そんな考えにばかり囚われていたら、息苦しくたって堪らないだろう……」
この辺りは、藤凛学園の通学路を外れている。
今は平日の夕方だし、国道沿いの街路と言っても、道行く人は近くに見当たらない。先月、二人で買い物に来たスーパーや住宅街は、もう数百メートル後方へ遠ざかっていた。
坂道を行き交う車の中までは、街路に居る高校生の話し声なんて、聞き耳を立てられていたって届かないだろう。
「いいか。それじゃあ、言うぞ」
「え、えっ。待って、待ってよぉ」
背筋を伸ばして、息を吸い込む。
目の前では、希月がまだ驚きと戸惑いの入り混じった表情を浮かべていた。
それを眼差していると、これまでのあれこれが脳裏を駆け巡る。
まるで二人の過ごした時間が、逆方向へ巻き戻っていくように。
「――ちょっと前から好きでした」
気が付くと、そんな言葉を告げていた。
決して、そこに錯誤はない。
俺が希月を、明確に「幸せにしたい」と感じたのは、間違いなく昨夜のことだ。
あれからまだ、ちょっとしか経っていない。
そして、それに続く告白も、何のためらいもなく口から出た。
「どうか、結婚を前提に付き合ってください」
言い終えたあと、また幾ばくか空白の時間が流れた。
希月は、ぽかんと口を開けて、呆気に取られている様子だ。表情の変化が目まぐるしい。
俺はと言えば、ここへ至って自分自身にびっくりしていた。
まさか、自分からこんな馬鹿げた台詞を口走るだなんて。
「もう、逢葉くんってば……」
やがて、希月が苦笑を浮かべながら、口を開いた。
「それじゃ、まるっきり私の告白と同じだよ」
「何となく、そういう気分だったんだ」
「そんな適当な理由で、今みたいな台詞を言っちゃっていいの?」
「何か、問題でもあるのか?」
「……婚約の申し込みって、『将来における婚姻契約の予約』だからね。結婚と違って、未成年が交わしたものでも有効になることがあるみたいだよ? 私も法律の専門家じゃないから、正確なところはわからないけど……」
「――え、マジで?」
今度は、こっちがみっともなく動揺する番みたいだった。
やべぇ。つい勢い任せで、人生に関わる重大な一言を発してしまったらしい。
と同時に、実はそれを「まあ、いいか」と思っている自分も居た。
高校生から交際に結婚を想定するだなんて、将来の担保も何もないのに、かえって無責任な言動とも思える。
だが、この子とそれぐらいずっと一緒に居たい――
そういう気持ちについてなら、少なくとも今確実に本物だ。
俺がそんなことを考えていると、希月は急に吹き出した。両手で腹部を抱え、身体をくの字に折りつつ、声を立てて笑いはじめる。
そのうち、宝石みたいに大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
さて、その雫は果たして、笑いすぎて堪え切れなくなっただけのものなのか、それとも別の原因で流れ出たものなのか――
たぶん、それは誰にもわからないだろう。
ひょっとしたら、希月自身であっても。
「ねぇ、逢葉くん」
希月は、一頻り笑ったあと、左手の甲で涙を拭って、顔を上げる。
夕陽で照らされ、赤くなった顔は、透き通るように晴れやかだった。
「ちゃんと責任、取ってよね?」
……こうして希月絢奈の婚活は、その幕を閉じることになったのである。
○ ○ ○
科学が発達した現代では、曖昧で不確かなものを、誰もが「本気で信用してはならない」という。
だから皆、魔法で物質を発火させることは不可能だと思っているし、宇宙人が地球を侵略してくる危険性もないと考えている。身に覚えがない借金の督促状は架空請求詐欺だろうし、密林に潜む未知の生物を探すテレビ番組も、大抵子供騙しにしか過ぎない。
この世の中では、ごく当たり前の常識だ。
しかし目に見えるものを盲信することが、いつも必ず正しいとは限らない、とも思う。
コペルニクスの地動説以前、ヨーロッパの人々は本気で地球が宇宙の中心だと考えていた。
ニュートリノの質量も、かつては計測できないからって、存在しないと言われていたことがあったんだ。
つまり、たとえ証明し切れなくても、それが即座に事物の実在を否定できるわけじゃない。
それどころか、「そんなものはない」と決めてかかるのは、断定による誤解かもしれないし、可能性の放棄かもしれない。
現実的たらんとするがゆえ、かえって真実を掴み損ねてしまうことも、ひょっとすると往々にしてあり得るのではないか――……
たとえ言葉に出せば、みんなが馬鹿にして
それが無価値な
――むしろ、そうしたものの即断こそ、「偏見」や「決め付け」なのではないか。
すなわち、忌むべき曖昧で不確かなもの、目に見えない他者からの抑圧だ。
見出すべき本当に価値あるものは、もっとおそらく他にある。
不可視かもしれないけど、困難で支えになるもの、苦痛を和らげ、支えてくれる何か。心の底から溢れ出る、誰かのためにそうせずには居られないという気持ち。
そういったもののことを、俺たちは「恋」とか「夢」とか――
あるいは、ときどき「愛」と呼ぶ。
<彼女の愛は惑星(ほし)より重い-希月絢奈の婚活報告-・了>
彼女の愛は惑星(ほし)より重い -希月絢奈の婚活報告- 坂神京平 @sakagami
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