「我が名はバルナバ」2
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魔的なものと神々しいものとは裏表。そう言葉に叙述するのは簡単だ。
だがそれだけでは単なる言葉遊びの領域を出ない。探求者としては「なぜ?」「なにが?」「どこが?」を如実に表せなければ幼稚なたわごと、舌ったらずな知恵の浅い論理に堕してしまう。
我が思うに───神と魔とは『畏れ』というものを大いなる力の根源としているようだ。
生命・感情の流れがプラスに動くものが神々しく感じられ、マイナスへ引っ張られるものが魔と受け止められる。単純に言えばそういうことだ。…単純なようでいて、これを理解していない輩が多すぎる。
魔術に携わるものとて人間。裏切らず、誠実で、情愛に満ち溢れた者もいる。
一方で、僧侶や尼僧、祈祷師もまた人間。犯罪に手を染める者も権力闘争に明け暮れる者も、或いは贅沢三昧な者もいる。
ただ、人が変わろうとも、地に潜む悪魔や天に座す神々や空を飛翔する精霊は変わらない。それが真理。
───
我は頰が隠れるまで深く被った帽子の下で唇をきつく結ぶ。
騎士道と魔道・仙道とは本来相容れぬもの。
主人に対する忠誠と親愛を旨とする戦士の
いずれかを選択せよと迫られるならば、我は双方を受け入れると声高に宣言しよう。
合理的であることこそ至高であり、至高を求め己を
「騎士ベルイマンよ、前へ───」
我はあてどない思索から現実に引き戻された。
広々とした洞穴の中には幾本もの松明が立てられ、光が枝葉を伸ばしたその下には、その本数よりも多くの人がひしめいていた。
ちょっとした聖堂ほどの空間。その隅々にまで黄昏を集めたような光に満たされている。実際、松明となっているニワトコの太い枝の先に月桂樹の葉を巻きつけたそれは、点火されてもいないのにそれ自体が照り輝いている。
魔法のわざ。神聖な吉日に陽光のもと祈りを捧げ、精霊の依代として照明の機能を果たしているのだ。
我は一呼吸を入れた。ここから始まる。これより先が、我の運命をさらに切り拓くものとなるのだから。
「
周囲をざわめかすほどに
四つの方角にはそれぞれ木、梟、亀、火といった東西南北を司る聖なるシンボルが表されている。
これは異界への扉を開く陣、今回我が臨む任務の要となる魔法だ。
枢密院直属、魔道を極めし導師が小首を傾げて脱帽を促す。
もちろん我はすぐに従う。右手に飾り石をつかみ、引き抜くように帽子を外せば、取り囲む他の志願兵や導師たちからホオと感嘆の声が漏れる。それもそのはず。
騎士の理想像とは!
厳しい修行により俗世の甘さの削ぎ落とされた
───と、ことごとく反対なのが我である。
勢いのついた動作に遅れて帽子の下から「ぽろん」と溢れ出た垂れ耳。下膨れの饅頭顔に、笑ってもいないのにいつも微笑みの形を作る糸目。
甲冑は太りじしかつノッポの身の丈に合わせて特別に誂えさせたものだが、それがまた体型のふくらみを強調する形になっている。そう、四肢の短い太っちょのマリオネットのように。
甲冑の関節や継ぎ目からわずかに覗く体表は、百戦錬磨の兵士の煤けたものではなく、乳白色と焼き上げたパンの色の混じった赤子の如き
それらレトリバー系犬人の我の特徴、童顔と柔和なシルエットの線は、成人を済ませたものとはにわかには信じられないものだ。───身長だけは、60フィートと恵まれてはいるが。
つまり先ほど聞いた感嘆符まみれの吐息は、確かに感動ではあれど、賞賛や羨望とは真逆のものであったことを、しかし我は気付いていないのだった。
導師が手にした羊皮紙にある我の使命と年齢と性別と出身地をなんども確認している。ここには我の他に数十名もの裏面世界行きの志願者がいるのだ。そしていくたりかの枢密院や政府の関連者。残りは魔術の交代要員だ。なんでも相当に疲弊する魔術であるらしい。
「え…えー、汝が、勇士……数え歳は17か……イリル=ベルイマンその人であるか?」
ピスピスと犬人の鼻腔をおっぴろげると、我は胸を張る。その盛り上がった胸筋の前で、心臓を示すように拳を持ち上げる。
「然り。我はそのベルイマンである。父の名はペール、母の名はモンダ、エステルシュタット門前町の生まれ、師は偉大なる賢者オットー=エンデその人」
ヒソヒソ・ニヤニヤと言葉を交わしていた人垣から、最後の名前を発するや会話が絶たれる。我が師の名前は、眼色なからしむるに充分な威光を発揮したのだ。
「…エンデ?まさかあの、西の生き神のことか?」「オットー=エンデが二人いてたまるか。ということは、あやつは体術剣術だけの騎士ではないのだな」「国家再興の要人の愛弟子だぞ」「魔法剣士というやつか…」
数々の塵芥のような文句の中からひとつの科白を聞き咎め、我は振り向き牙を剥いて唸る。
「否!我は仙道騎士である!!」
水を打ったようにざわめきが止む。導師が咳払いをして気を取り直し、我に円の中に歩み寄るよう促す。
「それではイリル=ベルイマン。汝が忠誠確たるものであれば沈黙を。さもなくば異を唱えたまえ」
我はただ押し黙る。当たり前だ。決意は揺るがない。今日この日この時のために己を研鑽してきたのだ。あの尊崇すべき師の恩に報いるには、この任務で成功をもぎ取るしかないのだ。
「よし。それでは陣の中央へ身を低くするがいい。これより汝を
頷き、右膝を折ってしゃがむ。───こうしていると、出立に際して王宮の
我を育て、教育を与え、仙道の特質を見出してくれた師。魔術師ではなく騎士になるよう親身に導いてくれた、帝国の西部辺境出身の偉大なる賢人、オットー=エンデ。
我が出立を告げた時も、いやそれより前にこの任務への志願を申し出た時も、まるで泣き出す寸前の少女のような顔を隠しもせず、ひたむきに心配して下すった。
あれを思い出すと我知らず胸が高鳴る。鼓動が大地震の前触れのようにずんずんとましていき、それが股間に集っていき、興奮が身体を貫く焼けた鉄杭のようになって雁首をもたげる…あの師の温情に応えなければ、男が、いや騎士道がすたるというものだ。
「
いかんいかん。かぶりを振る。こんな乾坤一擲の舞台でも、煩悩というものはなかなか散じないものだな。
キッと相手を睨むように眦をあげる。我がこの想いを捧げるのは師のみ。そして使命を遂げたあかつきには、この想いを晴れて伝えることもできるだろう。そうすればその先には、さらに幸せな未来を我が手にすることが叶うだろう。
そう、総ては愛しき師の恩為に!
「オットー=エンデの弟子イリル=ベルイマンよ。枢密院の名において、そなたを以後こう呼びそなわす」
頭上で魔道士の指が組み合わされ、聖別の四角形を自分の犬人の両耳の上に切られるのが雰囲気で分かる。
「─────
おお。
…今度の嘆息は驚愕と賞賛のブレンドだ。それも当然、騎士が通称を掲げること許されるのは、叙階される以上に名誉あることだからだ。名誉により一代限りの爵位を得た貴族並みの権限も許される。
我も知らずに小鼻がヒクつき、どっしりした鎧に覆われた尻の間から突き出すレトリバー系犬人の太い筆のような尻尾がプコプコ跳ねてしまう。
「───はっ。我は必ずや、帝国に仇なす
よろしい、と魔道士の声。そして続いて早速精霊達への祈念の文句が始まる。
「土の神リカルダよ、かつて御身を称えし神代の巫女パーディタの嘆きを思い出し給え。ハデスの守護神よ、銀河の星々の乙女の指差したる行き先を示せ…」
土遁の秘術。火遁や水遁と同じく、遠く離れた場所へ人を送り込む術。ただし今行われているのはその内においてさらに難しいと言われる、世界そのものを、次元を渡る魔法だ。
「我、神聖な祈りを捧げんことによりて、今この命の灯火、さきに破られたる世界と時の壁に投げ込む
我が身を屈め畏まった円の周囲で、うっすらと青い煙が立ち上り、地面に闇色の亀裂が走る。
「
周囲の他の志願者たちが固唾を飲んでいる。失敗すれば次元の狭間に放り込まれ、永遠にそこを漂い続けるという、死と隣り合わせの高難度の遁術。
「アー・ミーン!!」
魔法を締めくくる決まり文句。我はギュッと肩の関節に力を込めた。もう、後戻りすることはできない。任務を達成するまでは。
ぎしぎしと大木が
それが光ではなくとも、我は思わず眼が潰れぬようきつく瞑目し、いっそう身体を縮めた。
足元がフッ───と消えた。度胸だめしの修行の一環で滝壺へ落下した時のような、睾丸がちぎれそうな浮遊感。
あたりが真の静寂に包まれる。何も見えず、聴こえず、自分の鼓動すら感じられない。死にも似た静寂。
永遠とも思えた次の瞬間、我はまばゆい光の中に放り出されていた。そして─────
「…わっちゃちゃちゃちゃちゃ!!」
多大な熱と騒音と違和感の中で身悶えし、たまらずにがむしゃらに暴れて飛び出した。
やかましく、熱く、眩しく、不快でじっとりと湿っていて、これは…
「おい、大丈夫か兄ちゃん?」
肩を叩かれた。気安いその言葉に我に返り、顔をゴシゴシとこすって辺りを見やる…
はじめに見えたのは白いカーテンだった。否、よくよくみればそれは濃密な湯気だった。
ぐるりと首を巡らす。洞窟よりはずっと明るい。彫刻の施された柱やフレスコの鮮やかな天井は帝国首都の王宮に似ているが、どこかが違う…そう、ずっと安っぽく真新しいようだ。
「おい…ホントに大丈夫か?どうしてこんなとこから出てきたんだ?どうやって入ったァ?」
イタリア語だ。訛りはきついがちゃんと聞き取れるし意味も明瞭。
我は声に向かって振り返る。
「我は帝国が
我は無様に絶句した。絶句せざるを得なかった。
「は?騎士っつったか?仙道?なァんじゃそらァ?」
相手はゆるぼったい身体つきの中年の犬人だった。ブルドッグ系で、胡散臭そうにこちらを眺めている。こちらはそれ以上に度肝を抜かれて相手を眺めている。
「ここはホテル・ルシアーナのテルメだよ。まぁ言わずとも分かるだろうがァ」
「てっ、てっ、てるめ?る、るしあーな?」
犬人は鼻をほじりながら疑わしげな響きを重ねる。
「…おーい兄ちゃん、頭の方がイカレちまってるのか?なんだか着てるもんも妙だしなァ?」
「そっそっそっ、それはこっちの台詞だ!!」
我はたじろいで指を指す。嗚呼、常在戦場、取り乱すことなかれと説く騎士道とはかくも険しきものか。
「我は問いたい、なぜ、なぜそなたは裸体であるのか!!」
そう、腰に手を当て胡乱げな眼差しを我に向けるそのブルドッグは、その股間からそっくりかえり、男であることをこれでもかと見せつける素っ裸だった。
「なんでって、そりゃあここは
「ぱっ、く?なんだそれは?」
「いま兄ちゃんが飛び出してきたそれのことだァ」
後ろには、崩れかけた巨大な三角錐の盛り土…いや泥…?がほこほこと蒸気を立てていた。周りが湯気に覆われているのはどうもこれのせいらしい。
「このホテルは
つまりこの建物は何らかの施設で、その中では裸体でも構わないということか。さながら古代の入浴施設のように…。
「…なるほど、まず落ち着こう。そして互いの誤解を解いた上で、できれば助力を願いたい。そなたが義勇の士であれば」
「いやだからそれはこっちの台詞だろうが。あんたあれか、OTAKUってやつか?なんだこのケッタイな甲冑は?それともオーナーの関係者のパフォーマーか何かか?何かのイベントの準備でもしてたのかァ?」
ま、とにかく警備室まで来なよ、と言う犬人を振りほどき、我は走り出した。三十六計逃げるに如かず、どうやらここは一目散に離れた方が良さそうだ。
幾つもの通路を通り抜ける。その間、服を着たのや着てない者たちの戸惑いの悲鳴や罵声を浴びながら、建物の中をどう走ったのかわからないが何とか脱出に成功した。
外は抜けるような青空だった。向こうでは深夜に儀式を執り行ったはずだが、こちらでは───
フードを取り、涼やかな風を胸いっぱいに吸い込んで、我は街並みを見渡した。
どこもかしこも清潔だ。石畳の舗装は美しく、闊歩する人々の顔つきには生気がみなぎり、装いは派手で───なんというか肌の露出が多いのだが───
かなりの大都会であることには間違いない。帝国の首都か、少なくとも地方都市並みには栄えているのだろう。
我は懐に深くしまっておいた深緑色をした絹の小袋を引き出した。千年生きた亀の胆汁で染めたそれには、金物で出来た小さな竜の像が納めてある。
少し袋の口を緩めて像の頭を大気にさらす。と、その髭がクキキキ…と軋みながら動き出した。どういう理屈か知らないが、我が師はこれを謀反人探索に使えと託されたのだ。
「さぁ、我に行き先を示せ。デジデリウスとマルコ、すなわちヴェリーノの一族は何処にいる?」
慎重にささげ持ったまま、円を描くように回すと、とある方角でピクンと銀色の髭が跳ねた。
「…太陽を背に正面か…よし!」
我が目指すべきは、昼間の明るさに慣れてきた眼にも白く映える物見塔の方角らしい。壮麗な造りだが、なぜか大地に斜めに突き刺さったように傾げた奇妙な塔だ。
そしてそのはるか遠くには、わが帝国と様式の近い尖塔が聳え立っている。おそらく聖堂か何か…この場所も異世界とはいえ、信仰があるのだろう。この世界では建物が軒並み高くできている。もし塔を見失ったとしても、あの聖堂の先頭さえ見失わなければたどり着けるだろう。
どこかでピィポオという不思議な音がしていた。まるで我を勇気付けるような、愉快なその音色に合わせて、我は甲冑を身にまといながらも軽々と街並みをかけていくのだった。
微笑みを浮かべて駆け抜ける町がピサという呼称であることも、聴いたこともないそれがパトカーのサイレンというものであり、まさにこの身を追って肉薄しつつある数台の自動車のことも、ただ前のみを見て走る我は気付かなかった。
🐲
うだるようなイタリア西部の昼間の麦畑を、一筆で青い絵の具を引くように一台のスポーツカーが走っていく。
それは私、ジュリエッタ=ヴェリーノの愛車、中古の日産。翼を畳んだ燕を思わせる流線型のボディと
スピードを出した車に乗って短めの髪を風に煽られていると、自分がいるのは世界の中心であるように思われて気分が良くなる。
ノブナガに萎えさせられた感情がみるみる元気を取り戻していく。そのぶんだけアクセルを踏まなければならないが、このへんの
中古のスポーツカーを、田園地帯の中に埋もれたように建つ古めかしい教会の車寄せに停める。そして私はわざと気取って運転中は折っていた足の長さをひけらかすように降り立つ。意気揚々、日々の仕事で溜まった
目の前にそびえる教会は、太陽に向かい祈り跪くように見える。
欧州バブル経済が足元をすくわれて崩壊する前に完成し、当時は
ぼんやりと灰色にくすむその正面の大扉が内側から爆発したように開かれ、そこから数十人の珠のように穢れなき少年たちが───つまり年端もいかない男の子達の集団が、小さな生き物が広大な海原を生きるために寄り添う群体のように押し寄せて私を取り囲んだ。輪の外側で中に入れない子達などは、興奮があり余ってぐるぐる駆けずり回っている。
「やっぱりヴェリーノ先生だー!遠くからでも分かったよ!」「ね、ね、先生!俺こないだ逆上がりできるようになったんだよスッゲーだろ!」「なんだよそんなの。俺なんかこの地域リーグの試合でオーバーヘッドキックが決まったんだかんな!こっちのがすごいよな!」「なんだよやんのかよー!」「お前こそ横入りすんなよ!」「ちょっとみんな、おりこうさんにしなきゃだよ」「そうだよねー」「ジュリエッタ先生の前できちんとしなよー」
活発な男の子たちは素直な喜びと単純な好意を、控えめな男の子たちは正直な思慕と複雑な好意を言葉にして投げかけてくる。
ヨーロッパ諸国でもアフリカ大陸でもアジアでも、子供というのはどこの国でもそうは変わらない。…だからこそ…
(だから子供ってサイコーなのよね!!)
私はニッコリと、化粧気のない頬に聖母のごとき微笑を引いて───皮膚の内側では賛美と賞賛と親愛を浴びるように飲んで恍惚に打ち震えつつ───ゆるりとした歩調で最後に迎えに来た、いかにも穏やかな面相の小柄なレッサーパンダ人の老尼に会釈をした。
「ようこそおいでくださいました、ジュリエッタ=ヴェリーノ教授。いつも時間きっちりにいらしてくださるものだから、この子たちもすっかり習慣になってしまいました。貴女の来訪それ自体が、時間を守るという基本的な大切さを学ばせることにもなっておりますのよ」
「いえいえ、児童心理のフィールドワークのためにしょっちゅうお邪魔してしまって申し訳ありません」
ここで勝ち誇ったように笑ってはいけない。あくまで恥じらうように謙遜してみせる私。自分ながら女優だわ!
「それにシスターまで教授だなんてよしてくださいよ。ここにいる間は、私はただのジュリエッタですわ」
金泥装飾がなされた大型の経典から抜け出して来た聖人そのままの柔和なシスターは、「まぁま」と肩を傾ける。私よりずっと清らかな魂の持ち主であるところの彼女の癖だ。
そう、これこそが私の唯一にして無二の趣味。
年端のいかない(と断言してしまうのは外聞がよろしくないが、内実として語弊はない)男の子たちを愛でること。
ここは教会の持っている男子のみの私立の幼稚園だが、公立のものよりもずっと通学費が安い。
それは、設定してある給食費やおやつ代などが地域の善意の寄付でまかなえるからだ。当然人気も高いが、経営者のシスター達が貧窮の度合いを分け隔てなくはかって園児を迎え入れるので、移民の子も多い。
そしてそういう子達には、読み書きもおぼつかない両親であることも少なくなく、よって小学校に入るまでに済ませておきたいアルファベットの基本的な学習を進めるためにも、ヴォランティアによる絵本の読み聞かせは大変に意義があることなのだ。
………というのが、当面の私の建前である。
「プルチネッラ大学の高名な学者のかたが、わざわざ時間をおつくり頂いてまで手ずから読み聞かせをしてくださるなんて、このご時世には奇徳なことです」
私よりも母性的に盛り上がりのある胸の前で十字を切る僧衣の年配者に、私はゆったりと手を振って否定する。
「いいえ、そんなおっしゃりかたはかえって面映ゆいですわ、シスター。私はあくまで自分の喜びのためにお邪魔させていただいているのですもの」
私の言葉に嘘偽りはない。そう、これは純然たる私の趣味嗜好のためなのだから。
「ああ、これを。道すがらに買ってきたものですけど」
携えていた大ぶりの紙袋をシスターに預ける。相手は中身を見て「まぁ、クッキーをこんなにたくさん。早速お茶の支度を致しましょう。いつも本当にありがとうございます」と丸い目を糸のように細くして笑う。
「いえシスター、こちらこそお礼を言わせてください。この子たちが喜ぶことが、私の幸せなんですもの」
「まぁま、なんてありがたいことを…」
論文や講義、絵本の翻訳といった忙しい合間を縫って、ほぼ隔週のスケジュールで行われる読み聞かせ。私は金銭の発生する仕事の次にこれに人生をかけている。いや、これにありったけの時間を割くためだけに仕事をしているといっても過言ではない。
教会の尖塔の周りを旋回する鳩の群れのように、子供らは…汚れなき魂の小さな子達は私を取り囲んで引っ張り回す。
「ねー、早くきてよー、蝶のサナギとっつかまえたんだ、見せてあげるから!」「そんなの枝にくっついてたのとっただけじゃん。じまんすんなよー」「ヴェリーノ先生、またドレッドヘアの編み込みやって!洗うからってシスターにほどかれちゃったんだけど、あれすごいかっこよかった」
うふふそうねえ、あらあら気をつけて、まぁまぁありがとう。…そんな大人の女の魅力を最大限に誇張する、私の上品で控えめな態度と慈愛の笑顔。完全によそ行きの聖母的偽装で、子供達は私にメロメロだ。
(ああ、だから小さい男の子ってすばらしい!!)
外国語の翻訳でシャカリキになってコリをためた肩も、助平で頭の固い学舎のジジイ共とやりあって疲れた胃痛も、そろそろ結婚を始めた周りの女友達からのダイレクトメッセージを眺めて痛くなる頭痛も癒されていく。
もう読者の方にも見当がついただろう。成人男性との交際において私が今ひとつ本腰には入れない理由を。
そう、何を隠そう私は立派なロリコンでショタコンだ。
弾けるボーイソプラノにボーイハイF、シミひとつなくシワ一本もない毛並み、屈託も邪気もない笑顔、あるのはわずかな含羞と無限大の元気だけ。
小さな男の子は地上における天使。天使を愛でて何が悪い?
「あ、そうそう。シスター、いつものアレは?」
私の質問に対して老境のシスター、たおやかに頬に手を当てるの図。
「そうでした。このところ雨が続いたものでしょう?溜まりに溜まっておりまして」
シスターには思いもよらぬだろう喜びに打ち震えつつ、私はやおら腕まくりをする。
「電気が不安定なせいで、洗濯機が回せない日が多くて申し訳ありませんわ。お手伝いは有り難いのですが…正直、重荷ではなくって?」
「いえいえそんなことは。これしきの家事は何ほどでもありません。私、こう見えても家族の洗濯物もいつも引き受けてますのよ?」
そう、男の子たちに囲まれることが趣味ならば、その洗濯物を洗うことは私にとって唯一無二の報酬。
ウキウキと弾む胸にシスターから渡された洗濯籠を抱え、水場に向かう。
「あーっ、これこそ世界の至宝!最高の
───などとは叫ばぬものの、うっとりと頬が紅潮してしまうのは隠しようがない。
第二次性徴までははるか宇宙よりも遠く、辿り着くことさえないのではないかと思われる、無毛でしなやかな男の子たちの洗い物の香り。どんな香水よりも深淵にして芳醇な、味わいのある不思議な甘いかぐわしさ。
ホクホク顔で洗濯物を運んでいたら、予想していない一言が私の耳に飛び込んだ。
「そうでした、お友達も先ほど到着されましたよ」
「───え?」
一瞬の沈黙。思考停止。私の動きも完全にフリーズ。
「───と、友達?なんのことでしょう?」
上機嫌のあまりにヨダレが出そうになっていた。まずいまずい。上着の袖口でさりげなく口許を拭く。
「貴女の大切なご友人がたですわよ。…雰囲気は貴女とはかなり隔たりがありますけれど…貴女に相応しいかたがたですこと」
シスターの意味ありげなウインクは、その愛らしい仕草に反して私の上半身にイヤな風を吹き抜けさせた。
「本当に、随分とまぁ快活で賑々しい面々ですわ!」
快活?賑々しい?
いえ、待って、そもそも私のこの趣味と隠れ家は誰にも知られていないはずなのに…
私はおずおずと下から伺うように尋ねた。
「はぁ、話がよく見えないのですけれど…その人達は一体…?今どこに…」
唐突に突きつけられた事態にこちらが次の質問をかける前に、私のシャム猫人の二等辺三角形の繊細な耳の奥にかしこまる、さらに繊細な聴覚器官を打ったのは、聴き覚えのあるダミ声だった。
「おぉーいジュリエッタぁー!
この私を我が家でも学舎でも脅かす、やたらに発音の良いイタリア語。
私は洗濯物をその場にうっちゃり、背中を逆さに撫ぜ上げるような嫌な予感に追い立てられて教会のの中庭へひた走った。
そこで目にしたものは世界の終わり───少なくとも私にとっての、高尚な趣味の世界の崩壊の姿だった。
いたいけな少年たち…
穢れを知らぬ少年たち…
私の天国に住まう、私だけの天使達…
が、女らしさのお化けのようなけばけばしい兎人と、レスリング部の部長の筋肉モンスターな狼人と、男という生き物の不潔でだらしない部分を凝縮したかのような妖怪…もとい豚人にわちゃわちゃにされていた。
集団の真ん中でまず目立っているのが、筋肉モンスターのトリフンだった。
マットの上で対戦相手を組み伏せるために鍛え上げられたたわわな大胸筋を張って両腕に力こぶを作ったポーズで仁王立ち。そこに左右三人ずつの子供をぶら下げて遊ばせている。
次に、やや年嵩の子に囲まれて色気を振りまいている女らしさのお化けがファニー=ライトストーン。
中庭に運び出された籐椅子に女王然として座り、スカートの中がギリギリ見えない角度まで長い脚を組んでいる。私以外に乙女を見慣れぬ男の子らは彼女の横で耳まで赤くなり、かしずくような姿勢で様々な質問を投げかけている。そんな彼らに兎人の娘は訛りまくりのイタリア語ではぐらかしたりからかったりして幼い心を弄ぶ。
そして、その周囲をバイクで周回しているのが私の家に寄生する妖怪、破天荒な日本産の豚人ノブナガ=マルタマチだ。自分の膝に一人ずつ子らを乗せて、目に痛い黄色のシャツに羽織った白衣を翻している様子はまるでメリーゴーランド。虎を駆け巡らせてバターにしてしまったとある有名童話の子供のように、同じところをぐるぐる廻っている。
私の姿に目を留めたファニーが、片手を上げた。ネイルを陽光にキラキラと輝かせながら。
「着替えに時間かけすぎやない?その割になんやのその地味めのファッション!色気マイナス47%(当社比)‼︎」
ファニーのいつもの黄色い小言に続き、
「ヴェリーノ教授、邪魔しております‼︎」
という地を這うようなトリフンの渋めの声。
意識して顔面神経を止めようとしても遅く、私の笑顔は一瞬にして凍りつき、口元が引きつってしまった。
もうこの時点で耐え難いのだが、さらに追い討ちをかけるのが。
「先回りするつもり無かったんだけどよー、結構待っちまったぜ!大学から寄り道してきたのか?どおりで遅いわけだなー」
叫びながらきっかり三周し、次の子を交代して膝に乗せる豚人。なぜかオレンジのメッシュを入れた鬣の耳に近い側面を剃り落とし、真ん中だけトサカ状に残している。
ドサリ。なんの音かというと、私の手から落ちた洗濯カゴだ。
「…なんであんたがこんなところにまで来るのよノブナガ‼︎」
「んー?なんでかってー⁉︎」
私は聖女を演じていたことも忘れて駆け寄り怒鳴りつける。
嫌悪に歪む私の眼前で、肩に白衣を引っ掛けた太り肉の豚人はガムをクッチャクッチャと噛みながらバイクで周回しつつ、破顔する。
「お前さー、忘れてたろー?今夜はポルカロッロの祭りの前夜祭なんだぜー!」
そういえばそんなようなことを聞いたような。しかし私はそういった地域のお祭りには興味もないし、そちらよりもこの天国に気を引かれているのでついぞ参加したことなぞなかった。
「で、何よ。一体なんの権利があって私の憩いの時間を壊しに来たの!」
「んー、やー、ジュリエッタのお袋さんも親父さんもー、仕事でいないしー、婆ちゃんは彼氏さんとデートだしさー!」
「だから何なのよ⁉︎」
きゃいきゃいとはしゃぐ小さな子を膝に乗せたノブナガは、脂身のたっぷり詰まった顎をクイと上げ、ファニーやトリフンを示す。
「帰って俺たち二人だけでシンミリ晩飯食うよかさー、友達同士で賑やかに街に繰り出そうぜってなったわけー!ジュリエッタにー、新しくできたオイラのダチのトリフンもー、紹介しときたいんだよなー!」
「はぁ⁉︎どういうことよそれは!!夕食なんて別にあんたと一緒に食べるって決まってるわけじゃ…」
「今夜は宜しくお願いするであります!ヴェリーノ教授‼︎自分、イタリアの祭りは初めてでありまして、楽しみであります‼︎」
少し離れたところで狼人が巨躯を折って一礼。なんと彼も、オールバックだった黒の鬣をノブナガと同じモヒカンに刈っていた。
怒鳴ろうとしてハタと気がつく。ここには天使達(という名の少年達)とシスターもいる。
(いけない。ここでいつもの調子でノブナガを怒ったら、積み重ねてきた私の立場は地に落とされる…)
激怒に冷たくなる指をわざと一本一本折りたたむように握り込み、ヨガの導師よろしく鼻から深く息を吸って唇から細く長く吐く…
周回の回数はどうやら決まっているらしい。豚人のバイクメリーゴーランドから飛び降りた子が元気に手を振って離れた隙に、私はつとめて静かに告げる。
「お誘いはどうもありがとう。けれどねノブナガ───ノブナガ=マルタマチさん?辞退させて頂くわね。本当に、心の底から結構よ。ええ、とても残念ではないけれど。貴方達三人で、なるたけ早めに出発してくれないかしら?」
私の渾身の、そして最大の精神力を行使して伝えた言葉。
それを豚人は首が肩の後ろに見えなくなるほど仰け反って一笑に付した。
「ぶぎゃっははははははははは!いまさらさん付けとかよしてくれよ。てかもしかしてジュリエッタ、猫かぶってる?らしくないぜ!もっと自然体にお気楽にやろうぜーっブテギュギュギュ」
気が付いたら私の右手がノブナガのマズルを鷲掴みにしていた。
「あんたね、あんた───私のたった一つの楽しみを───土足で踏み込んで───」
スペード型の鼻先と口許をギリギリと搾り上げられているというのに、野卑な笑顔のままの豚人。
「プギャハハハ!そんなに照れるなって。ファニーとトリフンがいるからって、オイラ達はいつも通りでいいんだからよ。祭りでラヴラヴ状態を見せつけるつもりはねぇんだからさ」
「あんたのシナプス結合どうなってるの⁉︎ギリギリ私の友達のファニーとウチの大学のレスリング選手は許すわ。いいこと、いまここで、現在のこの場所で、お邪魔なのはその二人以外の人なんですけどねぇ⁉︎っていうか、あんたのことよノブナガ‼︎」
動揺と憤激に心を揺さぶられて、もう聖母の仮面も何もあったものではない。私は大声を出すのをこらえることができず、皮肉と冷笑の通じないこの日本のうつけ者を捻りあげる。
…がしかし、子供らやシスターの手前だ。髪振り乱して往復ビンタはやめておこう。それは家に帰ってからだ。土間に蹴り転がして、この憎い豚面が見分けがなくなるくらい滅多打ちにしてやらなければもう気が済みそうにない。
「えー、ノブナガ兄ちゃん帰っちゃうの?やだー!」「先生、そんなに怒んないでー!」「ノブナガにいちゃん、悪いひとじゃないよー!」「仲良くしてよー」
耳を打った純真な少年達の懇願に、ぐっ、と呻きながらノブナガを離す。
「なぁ、お前らも言ってやってくれよ。このジュリエッタはな?オイラと本当は仲が良いのに恥ずかしがって素直になれねえんでいるんだ。そうだ!お前らも一緒に行くか?祭りに‼︎」
やったぁ!と諸手を挙げて興奮する少年らを、シスターが穏やかに制した。
「それはご勘弁願えますか?この子達はまだ小さすぎますし、人数も多いものですからきっと手に余ることでしょう。貴方がたにはお邪魔になっては申し訳がありませんもの」
ファニーがすっかり目が色気付いてしまっている年嵩の少年達を後ろに従えて口を挟んできた。
「そんなら、今回は10歳以上の子を限定にしたら?それ以下の小さな子達はお留守番にして」
もちろん、ここで「えー!」と落胆と非難の声が上がるのだが。そこはファニー、さすがの手管と言うべき一つの条件をつける。
「そのかわり、小さい子のお土産を必ず一人に一つ持って帰るの。それやったらどない?あまりお金のかからんものでね」
そうか、それだったら…と少年達の見合わさす顔の間に了承と期待の眼差しが飛び交う。
「ふむ、それならば構うまい。自分の車ならば、ファニー嬢と自分が膝の上にも乗せれば子供八人はいけるだろう。常からレスリング部の遠征用に使っているものだ」
と、トリフンの助け舟。だがそれは私にとっては断崖から突き落とすのと同義の追い討ちだ。
「10歳以上の子はちょうど十三人なのです。ありがたい申し出なのですが、感謝とともに、お断りするしか…」
(やった!それよシスター!そのまま流れでなし崩しにしちゃってください‼︎)
という私の
「そんならでーじょーぶだぜ!オイラのバイクは一人乗りだけど、さっきの要領で一人いけるだろ?んでトリフンがレスリング部の車で八人、あとは…」
全員の視点が、私に集中。
「ジュリエッタの日産で助手席入れて四人乗せる。ほらこれならイケるぜ!
視線が痛いという表現の意味を、私は今日初めて知ることになった。
普段から賞賛と思慕と敬愛の念を込めた少年達の眼差し。今そこに、新たに「希望」という色が加えられた。
それら数十本の熱い視線が。私の顔の上にひたりと据えられている。
これをはねつけたら、私は極悪人だ。少なくともこのエデンの園から追放され、二度と敷居はまたげない───
選択肢①無碍に断る。
選択肢②運命に従う。
そして結局。
選択肢①は、私に降り注ぐ汚れなく澄み切った天使達の眼差しによって焼き潰されたのだった。
ファンタズマ!~Story of the World behind~ 鱗青 @ringsei
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