第1話「我が名はバルナバ」

 その①


 ____天には悲しみが、地には怒りが満ちていた。人々は見た、触れざるべきものの姿を。

 ロンバルディア経典第二巻 預言者ファクスティーナの告白

 西暦102X



 バカンスヴァカンツァシーズンの到来が間近となり、7月11日、ピサの街は近づいてくるポルカロッロの祭りのための準備に追われていた。

 いかにもイタリアらしく紀元前からの歴史を謳うような由緒ありげな名称。だがこれは、れっきとしたネーミングコンテストで大賞グランプリをとった一般市民公募の成果に過ぎない。

 ピサといえば例の観光客寄せの斜塔が名物。そしてもうひとつ、イタリアいやヨーロッパ随一のレベルを誇るピサ大学が街のシンボルだ。

 しかしながら、このそれなり以上に歴史のある街が他の都市に比して観光資源の質量においていささかパンチりょくに欠けていることは認めざるをえない。

 そのために、この祭りにかけられた市議や商工会の顔役連の熱意たるや並々ならぬものがあるのだ。

 ピサの街の人口8万6千に対し、学生は総数約6万人。じつに人口の7割ちかくは学生という計算になる。

 そして先ほどの世界に名だたる学府の高峰としてピサ大学があるが、これは国立の中では他国に批准してもレベルが高い。近年では宇宙工学などでも注目を浴びている。

 そこで、この由緒正しい大学を燦然と輝き頭上を照らす太陽とすれば、私が教職を得ている我が聖プルチネッラ記念大学は____

 三流もいいところ、とはいかないまでも、二流半といった不名誉な立場に甘んじていた。

 私はプルチネッラ大学の講堂隣のレストランの隅に据えられてある講師用のテーブルで、お気に入りのラヴィオローネを胃袋の中に詰め込むことに夢中だった。

 ひと噛みするたびに、舌の上で撹拌するたびに、密に絡まり響く色彩豊かな季節の野菜と滋味深いジビエのひと皿。

 濃厚な風味のとろけるようなホウレン草に、貴婦人のようなチーズ。彼らに忠実でありながら、したたかに主張する鴨と山羊の肉。

 思わず頬に手を当て「うぅん」と声も出ようというもの。

 この皿は私のお気に入りのひとつだ。いまも学舎より駅二つ離れた実家に住み、そこから学舎に通っているわけだが、地元の街には行きつけの店がちゃんとあって、勿論外食といえばほとんどがそこになるのだけれど、それでも月に二度は必ずこの大学敷地内のレストランに来てしまうのだ。

 ぱくぱくぱく。擬音が出てしまうほどフォークにダンスを踊らせていると、向かいから半ば呆れ気味に言われた。

「本当に夢中になって食べるわよね、ジュリエットって」

 英語風に発音してジュリエット、イタリア語ならジュリエッタ_____私の真正面の席を取っている数少ない友人の一人、イギリスからイタリア美術史の研究のためにやって来た兎人のファニー=ライトストーンがネイルの曇りを確認しながら少し噴き出しがちになって言う。

私達ウチらがしてた会話ももう覚えてへんでしょ」

 控えめに化粧を施した目元を照らす大きな瞳に、小さな鼻先。微笑に上がる唇は、幼い顔立ちの中でそこだけ色気を醸す左下の黒子がアクセント。

 肩から胸に流れ落ちるハニーブラウンの髪はやや内向きにはねており、豊かな胸のふくらみと相まって古風なような、あるいは80年代風のキッチュないでたちのような印象を作っている。

「花より団子ってよういったわよね。けど、食い気より色気が嵩じすぎれば肝心の乙女の花が枯れちゃうゾ」

 陽気な意地悪を込めたイングランド訛りの科白に続き、ファニーはカトラリーセットの籠からデザートスプーンをつまみ上げ、その背を私の正面に立てた。

 小さな銀面に反映されている私の相貌。広い額に細い眉、アッシュグレーの混じった癖のあるくすんだブロンドは、顔の右側のもみあげあたりでくるくると巻いて房飾りのように垂れている。

 そして両眼にたいして高すぎる鼻_____何よりも嫌いな私の特徴。

 シャム猫人の私、ジュリエッタ=ヴェリーノがスプーンの背から睨み返してくる。

 私はこの世で三番目に嫌いな自分の顔から目を背ける。こんな容姿でなかったなら、私だってもっと自信を持って異性に声をかけることができていただろう。不細工ではないが、きつすぎるのだ。

「美味しいものを美味しそうに食べてるってだけじゃない。何が悪いの?誰にも責められるいわれはないわ。それにこれほど道理にかなった行いはないでしょう?…で、なんだったっけ」

 ファニーの肩が突然脱臼を起こしたごとくガクンと落ちる。

「あンのねージュリエット、100歳超えのおじいさんだってもうちょっとは聞き耳立ててくれるわよ」

 私はごめんね、のしるしに少し小首を傾げて見せる。

「夏のバカンス先のことについて検討してたとこやん」ファニーの昼食は質素にフォカッチャパンモッツァレラチーズ。それらを慎ましくココアでつまんでいる。「そのうち教授職を退いてミシュランの格付け人になるんじゃないかーって噂、いよいよ現実味を帯びてきたわねっ」

 私はモグンとさらにもう一口パスタを頬張った。私の、このほぼ灰に近い凍てつくような金髪は強烈なくせがあるので、食事の際には憩いの時間の邪魔にならないようバレッタで後ろにたくし上げてある。

 フランスに本社を置く知らぬものとてないグルメガイドの採点者になって、地球狭しと世界各国を飛び回る。しかもそれで暮らせたら…

 私はなけなしの想像力を会話コンバチュラルへの義務として行使してから頭を振った。

「魅力的だけど無理だわ」

「あらーどうしてぇ⁉︎ジュリエットやったら適任や思うけど。そないにこってりしたもの食べても一向に肥らへんし、食べることが大の好きでしょ?」

「暗に食いしん坊で痩せの大食いだからってこと?それだけじゃ根拠が甘いわね」

「赤ちゃん本をちまちま翻訳するよりよっぽどやりがいあって素敵やないの!それにいろんな国にいけばぁ」ファニーは言葉を切らずに片目をつぶり、可愛らしい顔の横で人差し指を拳銃の形にしてみせた。「ワガママな氷の女王様のお眼鏡に叶う王子様も、案外簡単に見つかるかもよっ」

 チクリとした言葉の選択。しかしこれは侮蔑ではない。ファニーのいつものやりくちなのだ。

「児童書の翻訳はけっこう知力も体力も使うし、子供達の感想をもらったときの感動は充分にやりがいを感じさせてくれるわよ」

「ふーん、そうなん?」ココアをひと口含んで、私の後ろを見やる。先ほどから頻繁にそうしているけれど、何なのかしら。「私も子供は好きやけど、そないに大変なのは無理かなぁ。そんならミシュラン記者の方がまし」

「外国を飛び回る片手間にできる代物じゃないことは確かね」

 それに私は、地方新聞や雑誌にコラムを書く仕事も請け負っている。万年仕事不足、求人にあぶれた若者が日がな一日カフェで時間を潰していることも珍しい光景ではない就業率の低さを誇る我が祖国イタリアにおいては、まことに稀有なる幸運ともいえるのだ。おまけに近年では富裕層のEU諸国への流出が止まらないことも、国を萎えさせる要因に拍車をかけている。

「最大の問題点は、外国にはマンマの手料理がないってこと。幾ら贅沢なものを食べ続けられても、それと引き換えに手放すにはウチのマンマの腕は一流すぎるわ」

「おーお、出ーた出た。イタリア人の十・八・番お・は・こ!言うてくれるじゃないのマンマの手料理自慢」

 イギリス人の彼女には、この国の食と家庭を密接につなげる文化というものが未だ不可解な分野であるらしい。

 味音痴だからとかそういうことは言いたくないし不適切な表現であると思う…が、一緒に遊んだ晩に夕食をご馳走になったとき、パスタを水から茹でてグデグデにした挙句故国から送られてきた缶詰(豆なのかトウモロコシなのかよく分からない塩気のない塊)をぶっかけたものを出されて以来、この女友達とは料理について議論しないことにしている。

「そういう諸事情から、私はイタリアを出たくないの」

「なんだかんだ言ってイタリア人て、根底では積極的に外に出たがらへん人種なんよ」と言って、またチラリ。

 私がファニーの背後を訝しんで伸び上がるのを見て、彼女は私もが見えやすいように少し上体をずらしてくれた。

みたいなのとは正反対にね」

 彼という単語があてられたのは、ファニーがスプーンで差した先にいる白衣を着けた豚人の学生。彼女の席のはるか後方に居る、私もよく見知った相手だった。

 私の瞳孔に映ったその姿は_____

 私がこの世で一番嫌いな顔。

「うわ!」

 まずい、と身を伏せるも間に合わなかった。さっきからしばしば友人の意識を奪っていた相手が、めざとくこちらに反応して手を振るのを苦々しく眺める。

「わざわざ海の向こうから渡ってきてくれる王子様タイプなんてそうはおらんし、大事にしときや」

「ファニー、あなた分かっててわざと…」

「あらなんのことかしら私にはさっぱりよ?」ファニーは“彼”にウインクを一つ飛ばす。相手も投げキッスを返す。馬鹿馬鹿しい。

 日本というそれはそれは遠い東の涯にある神秘の島国からやって来た、私たちの祖先がかつてそうであったように、大海原に漕ぎ出でる冒険心と俠気に溢れた青年……

 いや、正確ではない。間違いなく言い表さなければ。

 丸太町信長ノブナガ=マルタマチ。東洋人らしい黄色味の濃い肌革、豚人の両耳の突き出る朱色のメッシュを入れたぼさぼさ頭、その髪の傘の下には整えることもしない野獣の尻尾じみた太短い眉。

 るというよりにらみつけるという表現が似合う三白眼。スペード型の鼻筋はまぁ東洋人にしては秀でているが、根菜の切り口みたいで低く野暮ったい広さ。そして顔の下部の表面積のほとんどを占めた大きな口。

 笑ったところはでっぷりずんぐりした体型もあいまって、人里に行商に下りてきたトロルといったところだ。おまけに白衣の下に着ているのはなんだ、道端に置いてあるカラーコーンのように真っ黄色のシャツときている。これでは目がチカチカするじゃないか。

「彼、ジュリエットに首ったけなんやって?もう片手で数え切れんぐらいの回数でバラの花束贈られたんでしょ?」

「やめてよ、私にはそんな気は少しだってないんだから!」

「あーらお怒り?歳下の男の子からの熱烈アプローチを優しく受け流してあげるような器量は持てへんの?オトナとして」

「そりゃあ私だってイヤな気はしないけど、それはタイプの合う相手だったらの話よ。それに回数が重なればいいってもんでもないし、いくら断ってもしつこいし」

 ファニーは頬杖ついて、思い出すように言う。

「ジュリエットのタイプって、高身長で細面でハニーフェイスなイケメンで、でも胸とか腕とかお尻とか筋肉でキュッと締まってるアイススケーターみたいな男の子だっけ?」

「そうよ」私は急がず食事の残りを平らげることに腐心する。内心早くここから逃げたい思いでいっぱいだったが、そんなことで大事なランチを消化不良にしてしまうこともシャクだ。「あと、大人の男の人でなきゃイヤ」

 そう、歳下といっても1歳やそこらではない。

 向こうは14で、こちらは24。まるまる一回りも違うのだ。これでは対象として見ようがない。

「ま、ノブよりジュリエットの方が身長はずいぶん高いわよね。彼はきっと150そこそこで、そっちは174ぐらい?…というか、東洋人モンゴロイド西洋人コーカソイドでは遺伝子の描き出す特徴も違うしね。顔も幅が広いし、お尻も大きい。でもそんなこと、恋愛の障害にはならんやん?」

「それだけじゃないわよ」

 私とノブナガでは基本となる性質というものがまるで違う。

 私は手足が華奢でどちらかというと胸も発達未満、顔どころか頭も小さくてよくディズニーのアニメ映画の主人公に例えられる。だからジュリエットの悪意ない『氷の女王様』呼ばわりも無理ないのだ。なにせそれは私の、かつてのあだ名の『マネキン』と近しいのだから。

 性格の方もまるで対照的。

 私は何もかもきっちりさせなければ気が済まない方だ。論文も原稿も期日以前に余裕を持って仕上げる。人を待たせることはしない。店の勘定はきっちり割るし、異性とめったに外食しない。というか二人きりの食事などしたことがない。エクセルのセルのように整って使いやすく文具とPCの並んだデスクには、クロスワードとクイズの大会の優勝のしるしに小さな盾が二つ。

 対して彼は、これがあの精密かつ合理的かつ繊細な電子産業を興した国の生まれかと疑いたくなるほど大雑把な性格だ。

 まず学部がこのプルチネッラ大学への入学以来、いまだにはっきりしていない。一応は電子工学科の学生ということになってはいるが、プログラミングに始まり建築・物理・果てはデザインとあちらこちらの学部・学科の講義に顔を出しては、そのすべてにどっぷり足を突っ込んでいる。

 そしてそのどれもを平均をはるかに超えた成績でテストをパスしているのだ。おまけにどの学部の教授も口を揃えて彼のことを「あんな面白い学生は見たことがない」と褒めそやす。

 正気の沙汰ではない、とつねづね私は思っている。己の依って立つべき位置が定まらない状態は、自分だったら気が狂ってしまうだろう。

「それにノブナガのルーズさったら呆れるくらいなんだから。時間も守らないし、スケジュール手帳も持ちたくないって言うし、財布はあったりなかったりだし、約束事は適当なその場しのぎだし方向音痴で感情まかせで忘れっぽいの」

 ちゃらんぽらんな、という形容がぴったりなこの日本人は、彼の民族に対する私の(どちらかといえば賞賛に重きを置いていた)偏見をそれはもう丁寧にぬぐい去ってくれたのだ。

 いまも、なにが嬉しいのかこちらへ向かってしきりに手を振り、ニタニタしたり唇を吹くようなおかしな顔をしている。

 表情というものを作るのが苦手でファニーから「灰色髪の氷の瞳の女王様」とからかわれる私と「イタリア人よりアバウトで情熱家」と評されるノブナガの唯一の共通点といえば、二人とも老齢ならずして大成しているという点だけだろう。

「私は好きやけどなー、粘り腰で積極的で熱血的。面がまえだって見ようによっては可愛い思うわー」ファニーはノブナガを優しく値踏みするようにめ回し、こちらへ身を乗り出してきて声をひそめた。「ウチの勘ではね、きっと彼、将来は大物になるんじゃないかー思うの。究極の青田刈りのチャンスよぉ」

 ダンディズムを匂い立たせる端正な紳士ではなくきっと、成金めいた野卑な迫力の食わせ物になるだろうことは私にも容易に予想に描けた。

「そんなに気に入ってるのなら、ファニー、あなたが付き合えば?」

 一拍の間。

「ええの?もらうって言ったらウチ、本気で狙うわよ?」

「いーのいーの、あんなやつ、リナシェンテのラッピングをつけてプレゼントしてあげるから」

 やった!と手を合わせ、でもねえ、と一転して大袈裟に眉を下げるファニー。

「ウチはまだ知り合ってほんの2カ月くらいだもの。そんないきなりよう言い出せへんってば」

 そう、この親しげな友人よりも私の方が4ヶ月ほど長くノブナガの事を知っている。そしてその間に私が彼を苦手とするのに必要な条件はもうじゅうぶんすぎるほど揃っていることもまた、悟っている。

 普通なら、そんな相手のことをこんなにまで熟知しているという事はあり得ない。なのに、なぜなのかと聞かれれば……………

「まだ手を振ってる。ほらジュリエットも、こそこそしてないでノブに手の一つも振り返しなさいよ」

「お断り」こそこそぱくぱく。「私のこの手はこのランチだけでいっぱいいっぱいなの。あなたが私の代わりに私のぶんまで振っといて」

「まったくもうジュリエット、あんたって…」

 ファニーはフォークの操作をやめない私に呆れ果てているらしい。知ったことか。

「子供っぽいこと言って、それでもエリートなん?…いや、エリートやからこそなのかな、あんたも彼も、ちょっと変なところは」

 !

 私は喉に詰まらせ、大げさにむせ込んだ。

「やめてよファニー!あんなのと一緒くたにしないで!」

 微笑の中に埋もれた瞳が囁いている。並外れて食い意地の塊のあんたと彼は、どっこいどっこいよ、と。

 まだ二言三言ばかり逆襲してやろうというつもりでいたのに、拡声器のハウル音が遮った。

 鼓膜がキインと震える騒音に混じり、「紳士淑女の皆々様よ!」とやや甲高い声で男子学生が告げる。

「それにしても…あんなに人だかりを作って、あっちの方でなにをしているのかしら?」

「って、さっきから何度も言ってるじゃない、あの司会役の…なんていったっけな…とにかく、彼が。聞いてなかったの?」

 よく聞いていないのはファニーも同じらしい。

「ええっと…なんだったっけ?」

「本気で耳に入ってないのね」

 苦笑でファニーは答える。

 私が皿の上のものとの格闘に夢中になっているあいだに降り積もっていた他の学生たちの沈黙が、いまや膨大な静寂となって辺りを包んでいた。

「ま、そのうち分かるんじゃない」

 周りのテーブルについている筈の学生達のざわめきは嘘のように消えている。古めかしい食堂は水を打ったように静まり返り、誰かが配光盤をいじっているのだろう、石造りの天井から煌々と降ってくるべき照明全体が辛うじて目鼻の区別がつくほどに絞られている。

 さっきまで他愛ないおしゃべりに興じていたファニーの整った面差しが向けられている方向、この空間の中央部分。

 薄暗闇と静けさ。___否、息づかいと大方の意味は聞き取れぬほどの耳打ちや囁きが衣摺れとともに幽かにゆらめいている、沈黙。

 大勢の人間たちがいる気配に包まれて、この空間___石組み建築の食堂は黙祷を捧げているように鳴りを潜めている。

 遠い過去の職工が腕を振るい、歴史が手ずから化粧を施した重々しい石材の壁は天井で合わさる。その様式はバロック前期のカーブを描き、ともすれば監獄を連想させそうな日の届かぬ空間を、ピサを支配したいにしえの共和国に権勢を競った貴族の宴の間のように華やかに変えていた。

 なにか面白そうなイベントでもあるのかしら。掲示板にはそんな張り紙はしてなかったけど…

 それともTwitterとかで参加者を募る即席のゲリラライブだろうか?とまれ私は咀嚼を続けながら静観することにした。

 パッとひときわ眩しいライトが灯る。その下にはひとつのテーブルと、向かい合って座る二人と、一人の立ち姿。

 私から見て左奥にいるのはノブナガ。いつのまにか袖まくりにした白衣の袖からのぞく二の腕。まるで包装されたハムみたいだ。

 右手前にいる学生はやたらに逞しい山脈のような背筋と、紺のタンクトップを破らんばかりの広い肩幅をしている。どうやらハスキー系か狼人らしく、まだ年若いはずなのにどこか渋みを感じさせるクルーカットの黒髪。苦みばしった顔を一層しかめてノブナガに対面している。あれは一体誰だろう?

「お集まりの皆々様方。ここで行われることは二人の男の間で厳粛に取り交わされた、ある契約に関するものでございまする」

 溜めが入る。司会も学生らしい。あまり見覚えはないが、ひょろりとなで肩のアフリカ系インパラ人の青年で、刈り込んだ頭に汗の玉が光っている。辺りを窺う黒目がちのびっくり眼が、ピエロのそれのように大袈裟に天を仰いだ。

「その契約とはなんと!決闘にまつわるものなのでございまするよ!」

 ここで多少のどよめき。さすがの私もそちらに(味覚以外の)感覚を傾けた。

「ことここに至った経緯を手短にご説明致しましょう。手前の左におります人物は、学内に知らぬものとてない天才留学生・ノブナガ=マルタマチその人であります。そして右におりますのは昨今負け知らずのレスリング部の主将・トリフン=アレクサンドロヴィッチその人であります」

 トリフンという名前は聞いた覚えがある。イタリア政府が出資しているスポーツ奨学金で入学してきたモンテネグロ出身の苦学生だ。

 性格は実直で大層勤勉、群を抜いた身体能力に比して初めは覚束なかった学力も大方の分野で克服し、昨年度は万年初戦敗退を喫していた我が校のレスリング部を、なんと欧州カップの覇者へと導いた。

 しつこいようだが二流半を自称する我が校のような大学は、毎年入学生の獲得に頭を悩ませている。だから大会優勝という華々しい戦果はいい宣伝になるのだ。

 その功績を認められて今年度から同部の主将におさまり、奨学金の返済は大学が肩代わりをすることで全額免除を獲得。祖国に帰ればオリンピック出場は確定、英雄への昇格も確約されているという。____英雄とはまた、この時代にはそぐわぬ大仰な呼び名だが。

 そんな苦労人と、あの極楽とんぼか南仏の蝉ノーテンキを絵に描いたようなノブナガが、一体どんな因縁を結んだのだろう?

「単純明快に申せばーァ、ノブナガが先日、トリフンの属するレスリング部を嘲弄したのでありまするゥー。して、その内容とは?」

 拡声器をトリフンに差し出した。あまりしゃべる性格ではないのだろう、冗長な司会に叩きつけるように「ステロイド剤を打ちまくった挙句脳みそまで筋肉を移植した愚か者ども、と侮辱した」と吐き捨てた。

「これはひどい!そこでその侮辱と怨恨をすすぐため、この場を設けて皆々様方の前で男らしくどちらが正しいか決着をつけよう、とそうなりますったわけですね!?」

 今度はノブナガへ。

「ま、そゆこと!」

 それだけ?と眉を上げる司会にノブナガは大きな口を余裕の笑みで歪め、しかりと応える。

「えー、そういったわけで、本日は7月11日、時はただいま正午ぴったり!ころは整いところは我らが名高きプルチネルラ大学・旧講堂であるこの食堂で、厳粛な勝負を行うことと相なりましりた!」

 座っていた学生たちが我先に雄叫びをあげて席を立つ。

「ちょっとジュリエット、あんたのノブが大変なことになってるじゃない!」

「どうもそのようね」私はコーヒーを一口含む。「あと『あなたの』っていうのは訂正して。私はノブナガの所有者じゃない」

「ちょっと、なんなのその冷静な態度は?相手のトリフンって、確か相当強いんでしょ!?ノブがこてんぱんにされちゃう!!」

 皿の最後のひとすくいを口に入れたところで、ファニーが乱暴に私の腕をとった。「とにかくもっと前に行くわよ!」と引っ張って行かれる。

「ファニー、待って、私は別に」

「つべこべ言わん!」

 どこにそんな腕力があるのか、どいてどいてと人波をかき分けて進むファニー。あっという間に私たちは二人のテーブルリングを囲む輪の一番前に立った。

「それでは審判は不肖私、法学部かつ弁論部所属ボビー=ヘスス、通称『メリケンアメリカーノ・ボビー』が務めさせていただきまする。さぁさぁどなたさまもお立ちあい!耳に遠くば寄って目にもご覧あれ!さぁさぁさぁ!」

 トリフンが腕組みをして象も吹き飛びそうな鼻息をふかしているのに対し、体格でずっと劣るノブナガは物怖じするどころか頭上に高々ともみ手を作り勝利宣言。

「…これはどこから見てもあっちが勝つわよね」

「あっち、ってどっちよ⁉︎」ファニーの眉間が鋭くなる。「ええことジュリエット。ノブじゃないほうだーなんて言うたら、そのお綺麗な唇が二度と閉じひんようにしてあげる!」

 おおこわいマンマミーア

「それでは両者、見合っていざ尋常に…」

 司会の声に従って、二人の両腕がテーブルの上に置かれる。ノブナガの腕がまるんとした脂肪の束とすれば、トリフンのそれは屈強な軍人の筋肉の切り株だ。

「これよりタイムを取りまする。5…4…3…2…」

 おかしなことに気づいた。腕相撲って両手でするものだっけ?それになんで指先をあんなにわきわき動かしているのかしら?

 ドン!と、大皿にうず高く盛り付けられたパスタのピラミッドが二つ、テーブルに投げ落とされた。

スタートアッッッッレィ!!」

 フェンシング風のかけ声。それが、物凄い歓声を巻き起こす。

 竜巻のようにフィットチーネがフォークに絡まり、ノブナガとトリフンはそれぞれの口に逆さまに流れ上がる滝みたいな勢いで飲み込んでいく。

「なによ、決闘ってつまり、フードファイトのこと!?」

 当然!学内で血を流すわけにはいかないからね!とボビーが叫び返してくるが、拡声器越しのその声が、観客ギャラリーと化した学生の群れに早くもかき消されんばかりだ。

 私は安堵というか呆れて肩の力が抜けた。ファニーはもう無我夢中でノブナガの応援に回っている。

 ずるずるずっちゅん、もぐりもぐりごっくん。

 延々と続く咀嚼の音。

 二人の勝負はノブナガが押され気味ではあるが、ようよう互角といったところで、とにかく、もう、なんというか…

「アホらしい」

「ちょっとジュリエット!あなたもノブを応援しなさい!彼の味方でしょ!?」

「え…」

 普段おしとやかな女友達の目が完全に血走っている。ここで「いえ私は別にノブナガが勝っても負けてもどうでもいいし、どちらかというと家(おうち)に早く帰りたい」などと正直に言おうものなら、ファニーの照り映えるネイルを口に突っ込まれて勢いよく左右に裂かれてしまうのだろう。

 なので仕方なく。「がんばーれフォルツァー、ノブナガー、がんばーれ、えーと……負けるなー」と形ばかりの応援を送る。

「声になってへんやない!ちゃんと腰入れて!お腹の底から声出すのよ、せーの!」

 うう、いやだなぁ…

「ガンバーレ!ノッブ!負けるな、ノッブ!!」

 せいぜいファニーの真似をし、声を合わせて声援を送る。と、まさに竜か怪物のようにがっつくノブナガの目がギラリと光った。

 そしてパスタを飲み込むスピードが飛躍的に上がる。もはや食べる、噛む、咀嚼する、飲み込む…という段階を置き去りにして、ポンプで水を吸い込むように残りをさらっていく。

 しかし、そこからものの5分もかからず、誰の目にもノブナガの負けが明らかになってきた。やはり運動選手の食事の量と速さは常人のそれをはるかに凌駕するのだ。

 と、突然ノブナガが手を止めた。

「おいトリフン」

 相手はこの隙にと手を動かす。視線だけが科白のぬしを刺した。

 その瞬間だった。

 ノブナガがサッと懐から赤い紙の仮面を取り出し鼻から上を覆う。

 眉をハの字に下げ、鯉のような目玉のプリントされた半顔の仮面。

 あれはノブナガの郷里だという日本のキューシュウから届いた小包に、なぜか梱包されていたものだ。一目見て爆笑する私の両親に「ハカタニワカの仮面ペルソナだぜぃ」とか説明していた気がする。

 その仮面は、生まれついて皮肉の神が滑稽な部類にこねあげたノブナガの顔を、それ以上に情けなく滑稽なものに変えた。

 そして。

「ブフォッホ!」

 相手の顔の表面で爆発が起こった。

 トリフンが、勇猛果敢な体育会系の苦学生が、ものの見事に顔面のあらゆる喉とつながった部分から空気と食品とを噴き出した。

 ノブナガはそこを逃さず、徹底的なラストスパートをもって、体格のまさる対戦者ことトリフンの苦悶も知らぬとばかりフィットチーネの最後のひとすじを膨れた腹に吸い込む。

 ちゅるりん。なんだかしまらない音ともに決着がついた。

 トリフンは未だ轟然と咳き込んでいる。ノブナガは目を細めておごそかに掌を合わせた。

「ご馳走様でした」

 始まりとはまた違った沈黙の中、集まった学生たちはあっけにとられて顔を見合わす。

 司会が言葉に詰まる。

「え、え〜…」

 なんともいえない微妙な空気が粘性の高い液体のように皆を固まらせるなか、ノブナガはいきなりテーブルに飛び乗って、唇を突き出してつんざくような口笛を猛らせた。

 裾を切り詰めて身長に合わせて短くした白衣を、凱旋将軍さながらに翻してひとつ旋回。

 そしていつも男子学生の中心でおどけているように「オイラがNo. 1sono il numero uno!」とボルト選手みたいなポーズをつける。

 やんやと上がる歓声と拍手。それらが渾然一体となり、目に見える上昇気流になって彼を押し上げるように見えた。

 ここで出しゃばるのが司会の務めと、ボビーが半ばやけくそでノブナガの右手をつかんで差し上げた。

「この勝負、勝者はノブナガーァァァ、マッッッッルルルルタマチィィィーィィィ!!」

 戸惑いのこもった拍手と歓声のなか、トリフンの背中をさすっている彼のチームメイトらしい連中が「汚いぞマルタマチ!」と非難する。

 ええもう、文字通り汚いですね。得意満面でガッツポーズをしていても、シャツもズボンの前も食べかすとソースでベッタベタ。顔だって見られたもんじゃない。…不細工というのは言及しないけど。

「おいてめぇ調子くれてんじゃねぇぞ!こんなもんやり直しだ!」

 レスリング部の一人らしい猪人が、自分より三周りは小さな身体に乗ったノブナガの首っ玉を、片手で掴んでねじあげる。そのままノブナガの爪先が床を離れたとき、観衆からの愉快なざわめきが不安のどよめきに変わる。

「男らしくねえマネはよせやい。オイラの勝ちじゃん」

 襟元から吊るし上げられているにもかかわらず、悪びれることなく相手を真っ直ぐに見つめ返すノブナガ。

 これで完全に相手がキレた。半分笑ったみたいな表情。吊り下げた方とは反対の腕を腰まで引き、アッパーを決めようとしている。

「やめろ…」

 トリフンだった。まだ憤りに瞳を燃やしたまま立ち上がり、口元を拭っている。

「いや、だってよトリフン、お前…」

せといったら止せ!」

 トリフンの肩が悔しさにわなないている。拳を振り上げたいのは彼の方なのだと、それを代行するのは恥の上塗りなのだと悟らせるのに十分なほどに。

 そうして相手はパッと手を離す。ノブナガはテーブルに尻餅をついて「いでっ」と眉をしかめる。揉めそうとなるや雲隠れしていた司会が駆け寄る。

 トリフンがなんとか呼吸を保って顔を上げる。

「俺は、負けた。これ以上醜態を晒すつもりは毛頭ない」

 感動的な潔さ、男らしい科白。

 それをノブナガは裏切った。

「お前自分の顔見てみろよ!」

 トリフンの片方の鼻腔から、パスタが条虫のごとく長く垂れ下がっていた。

「わはわはわはは!ぶぎゃーっはーっはーっぎゃははははははははは!!」

 相手の顔面の粗相を指をさして盛大に笑うノブナガ。その相手の形相は、これはもう表現のしようがないほどだった。

 厳正な勝敗が立場を決定していなければ、ノブナガはこの屈強な対戦相手からものの1秒でひき肉にされているだろう。

 トリフンの見事に逆三角形の体型のあちらこちらが重ね重ねの屈辱と、忍耐にピクピクと震えていた。確か学生レスリング界では負け知らずで『荒ぶる肉塊』と呼ばれているのではなかったかしら。

 彼と同じ部の面々もこれでは黙っていられない。「貴様、卑怯な勝利をつかんでも飽き足らず____!」と、更にいきりたつ。

「えー、だって面白ぇーじゃん。それにさ、そっちも言ってたじゃん『勝ちは勝ち』だって。そんなもんだろ?」

 顎に伸びる無精髭をなぞりながらうそぶくノブナガと詰め寄るレスリング部を、司会のボビーが尻込みしながら抑える。

「え、えー、マルタマチ、アレクサンドロヴィッチ、それでは双方の要求のうちノブナガの方を採ることとしまする。ノブナガ、汝は何をトリフンに求めるか!?」

「そんなもん、決まってるじゃん」

 居合わせた学生も講師も固唾を呑んで見守る。

 一触即発。ここでまたなにか無礼な発言をすれば、今度こそ決闘のルールも学内の秩序も忘れ去られるだろう。

「ちょっと___」私は思わず一歩前に出た。こんなところでの暴力は、いくら小生意気な留学生の方が自業自得とはいえ目に余る。

 ややあって、憤りに喉を鳴らすトリフンに向かい、ノブナガは傲然と言い放った。

「オイラと友達になるんだよ」

 張りつめきった空気から音を立てて緊張が抜けた。

 誰もが「は?」と耳を疑う。

「あれ、オイラ間違えた?友達フレンドって、アミーコで合ってるよな?あれ?違う?なぁジュリエッタ!」

 いきなり私だ。面食らってしまい「え、ええそうよ、友達のイタリア語はアミーコで間違いはない…けど」と答える。

「ふざけるなよ、日本人」

 それはそうだ。敵に対し親愛の情を示すなど、唐突にすぎるというものだろう。

「いまさらへりくだって許しを乞うとは、なんのつもりか。そもそも貴様が我がレスリング部を侮辱したがために、このような仕儀に至ったというのに」

 またも我を侮るかと憤慨するトリフンだが、ノブナガはゆったりと頭の後ろで腕を組んで一言、

「あーそれね。多分デマだわ」

 と応える。

「なに!?」

「うーん、てかそもそもさぁ」

 どこも柔らかそうな肥満体のうち、そこだけ頑丈そうな顎骨をひと掻きして口惜しげに白状する。

「オイラ正直なところ、まだイタリア語完璧じゃねーからさ。自分で言うのもなんだけど、言い間違い聞き違いもしょっちゅうなんだよ。誤解を与えて嫌われるなんてこともザラだし」

「…むう」

 テーブルに腰掛けたまま短い足を組むノブナガ。

「でもさ、今回のあんたら…レス部の悪口に関しては、絶対にそんなこと言っちゃいねって。内容のフレーズもオイラにゃ、ちっとばかし難しーしさ、凝りすぎてて」

「…それを信じろと言うのか」

 睥睨する将軍のように腕をこま抜くトリフンの、シャツからはみ出ている筋肉を見上げ、ノブナガは今度は謙虚に目をつぶってかぶりを振る。

「オイラにゃこんな事ぐらいでしか勝負できねっけど、あんたらは毎日ハードな訓練積んでさ、肉体カラダ精神ココロもタフな戦士ぞろいだろ?」てへっ、と額を掻く。「リスペクトしねえわけがねって」

「…じゃあなぜわざわざこんな舞台を作った?負けたら貴様は痛い目を見るだけだったんだぞ」

「あんたとダチになりたかったからさ、そりゃ」

 ノブナガは照れた笑いを含みながら、仲良くなるには喧嘩するのが一番いい、お互いのいいところも悪いところも全部見えるだろ?と言う。

「そうか」

「そゆこと!」

 そしてノブナガとトリフンは無言の握手を交わす。

 納得と苦笑のこもった雰囲気のなか、司会が「なんと素晴らしい!」と叫んだ。

 勿論観客からは、拍手。

「卑怯この上ない戦法だった、それは確かだ。しかしマルタマチ、貴様の勝ちを心の底から認めよう。これから貴様は自分の友だ」

 雄々しく腕を組んで仁王立ちになっている覇者の風格の敗者に、豚人は腹をさすりながら床に降り立つ。

「絶対負けられねーと思ってたかんね。勝たなきゃ意味ないし、あんたはイカツイし、他の手段は考えらんなかったし」

「それにしても、自分たちは踊らされたようなものだな。一体どこの誰が…」

「…ま、想像はつくけどね。多分オイラをズーッと誘ってたけど、忙しいからって結局入部を断ったアニ研とかオカルト研あたりの逆恨みじゃないのかな?」

 出口へそろそろと移動を開始した一団の中に、びくりと動くグループがあった。そそくさと戸口をまたいで消えたが、いかにも眼鏡率の高いオタクくさい連中だった。

「トリフン、あ、もうファーストネームで呼んでいいよな?…ちなみにアンタが勝ってたらオイラをどうしてた?ぶっ殺すまでタコ殴りとか?」

「む。当然のことだが、殺人は犯さん。その代わり、有無を言わさずレスリング部の特訓メニューに叩き込んで自分達の練習の厳しさをその身に教えるつもりだったぞ」

 ひっえええそれはそれでゾッとする〜、と両腕を抱いて震え上がるノブナガに、トリフンの頬がほころんだ。にこやかな彼らはもう互いを認められる友人同士に見えた。

「誤解を与えていたのはお互い様だったようだな。改めてよろしく頼む、マルタマチよ」

「ノブでいーって。友達ダチはみんなそう呼ぶしさ」

 さて、気を取り直して退散しよう。二人の決闘じみたゴタゴタも無事に済んだことだし、このままここにいると別口で厄介なことに巻き込まれそうだから。

 私は静かに、背景に解けるように後退あとじさる。その隣からファニーが飛び出してノブナガに巻きついた。

「もー、ノブノブノブ!心配したじゃないのよ!」

「うぉっと、なんだよファニーかよ、びっくりさせんなって」

「びっくりしたのはこっちよ!もー、こんな無茶ばっかりして、いらんことしぃさんなんやから!」こつんと拳で甘くノブナガの額を小突く。「私もジュリエットも、ノブが怪我したら悲しんじゃうんやからねっ」

 まずい。それを聞いたノブナガの小さな意地きたない瞳が輝いてる。

「そうなのか!?」

「ねー!ジュリエット!」

 いやいやいや、いやいやいやいやいや、そんなわけないでしょう。

 この私の、意識しないでも自然と浮かぶ嫌悪とそこから産み出される邪険の表情、蝿を叩き落とすみたいな辟易がわからないなんて、どうかしてる。

「それじゃあ私はここで」

「って待てよ、ジュリエッタ!せっかく来てくれたのにそりゃねぇだろ!」

 普通はファミリーネームで呼ばれるだろう目上の人間つまり私に、下の名前で呼びかけるノブナガ。トリフンが訝しげに問いかける。

「ヴェリーノ教授…?マルタマ…いやノブナガ…ノブ、貴様教授と親しいのか」

 ノブナガは脂肪がついて盛り上がりのある自分の胸を親指で示す。

「ふふん!オイラとジュリエッタはひとつ屋根の下で暮らす恋人同士なのだ!あっ」

 私はノブナガの科白の「ひとつ屋根の下で」を聞くやいなや引き返し、「なのだ」のタイミングでボサボサ頭に渾身の平手チョップで喝を入れてやった。

ってえー!なにすんだよっ!」

「何が恋人同士よ!誤解を招くような言い方よしてちょうだい!同じ建物で寝起きしてるだけでしょうが!!」

「ひ、ひとで男と女が寝起き、か。ノブ、貴様…見かけより大人なんだな」

 途端に私から目を逸らし、もじもじとする狼人の大男。私は「N.O.N!!」と否定の三文字を叩きつける。

「だから違うってのよっ!トリフン、あなたも勘繰らないでちょうだい!!」

 ノブナガは部屋を借りるという形をとり、私の家族が経営するアパルトマンに居住している。というより広い意味ではホームステイに近い。かつては貴族の邸宅だった我が家は敵の襲来に備えて複雑な構造になっているのだが、それが売りにもなっている。ノブナガ以前にも幾人もの外国人が滞在していた。

 1番上の全面的に日当たりのよい階に私達ヴェリーノ家(父、母、祖母と私)の居住スペースがあり、ノブナガの部屋はその一隅を占めている。それをいいことに、ことあるごとにというかほぼ毎日のようにノブナガは私達のスペースに入り浸っているのだ。

 だから他の階の住人や近所の人からも、たびたびおかしな目で見られることになるのだが、それに辟易しきっている私の神経をこうして逆なでしてくるのが、このノブナガという豚人なのである。全くもって忌々しい。

「年頃の男と女が同じ建物で寝起きしとれば、ねえ?そりゃあ勘ぐりの一つもされるでしょうよ。ノブもジュリエットの家族に気に入られてるみたいやし」

 ファニーに諭され私は上がりかけた血圧を鎮めようと額に手をやる。

「まあね、それは認めるわ。うちのお婆ちゃんなんかこれのことを孫の一人だと勘違いしてるぐらいよ」

 旅行代理店を経営する父もその手伝いをしている母も、納豆や干物を食べる留学生に初めこそ戸惑ってはいたが、今ではすっかりこの風変わりな東洋人の味方だ。そして冬は陽だまり夏場は雨戸の内側で日がな一日編み物やクロスワードパズルをしている祖母も、豚人の親戚などいないにもかかわらず暇をみては「ノブや、ノブや、可愛い孫息子や」と世話を焼く。

 つまり我が家のメンバーはこぞってノブナガのファンパトローネなのだ。…この私、ジュリエッタを除いては。

 でなければとっくに追い出しているのに!

「フムン、ノブは…ヴェリーノ教授の食客といったところなのか」

「っていうより、もう家族の一員みたいな扱いされとんのよねー?」

「そうそう、だからこうやって身も心も許してひぎゅぎぎぎ」

 私は肉も千切れよとばかりノブナガの頬を掴んで捻る。

「あることないこと吹聴して回ってるのはこの口かしら?」

「あることあることじゃねーか!いで、大きく事実と異なる効果や誇張した表現は当社では採用しておりまっせん!それに既成事実ならいつでもバッチ来いだぜ、オイラのベッドはシーツも毎日洗ってあるし、ジュリエッタのためにいつでも空けてあ、ひっででででで」

 いくら男日照りになったところで、死んだってこいつの横になど寝るもんか。第一、私はまだ……これは、秘密。

「洗ってるのはウチのおばあちゃんだし、大体あんたの汗っかきが原因なんでしょうが」

「ノブが可哀想じゃない!やめてあげてよ」

 おーよしよし、痛かったでしょ?と、豚人の頭を豊かな胸で包み込むファニー。そしてノブナガはおっぱいの谷間に沈み込んで、三白眼をだらしなく下げては「うへへへへ」と舌を出している。本当に助平でどうしようもない男…の子だ。

 トリフンはその光景に純情にも頬を染めて、目だけ逸らしながら「貴様…日頃そんな調子だから逆恨みされたり悪い噂を立てられるんじゃないのか」と苦言を呈する。

「なんだよ、オイラ素直に言ってるだけじゃん?」

 悪びれずファニーの乳房の感触を楽しみながら、ノブナガは小さな包みを私に差し出した。

「…何よこれ」

「プレゼントに決まってるじゃん!鈍いにもほどがあるぜ」

「…別にあなたからプレゼントされるいわれはないんだけど」

「ままま、そー言わず!ふるってご応募ください!」

「またイタリア語間違ってるし…」

「受け取ってあげなさいよ、ジュリエット」

 怖気づいてひるむ私に突き出された、ノブナガのハムそのものの太短い腕。その先に掴まれてあるは、真っ白な函。

「開けてみ」

「何よこれ、何なのよ」押し付けられて仕方なく受け取り、両手で軽く振ってみた。ことことと小さく硬い何かが…ピーナッツ4.5個程度ぐらいの…「まさか甲虫とか芋虫なんかじゃないでしょうね」

「そんな子供じゃないんやから」

「ノブナガならやりかねないの!中身も悪戯小僧なんだから!!」

 私達のやりとりも聞きやせず、豚人は函の封を開けるタイミングで「ぱーぱぱらぱぱ・ぱぱぱぱぱぱぱぱ・ぺぽぺぽぺぽ・ダーンダダッタラララ〜🎵」と交響曲の開始のようなファンファーレを口にする。

「あっノブ、それ私聞いたことある!たしかドラゴンクエストとか言うゲームのイントロやない____」

 ファニーのセリフ後半を包み込むように箱が爆発した。

 ボフッ、というか、ドフッ!というほうが近い、鈍重な粉塵まみれの炸裂。すわテロか爆弾か、と周囲に残っていた学生が散り散りになって逃げる。

 飴色の煙が視界を塞いだ。私は咄嗟に手で口と目を覆ったが、近すぎたのと想定していなかったのとでタイミングが遅すぎた。

 ラメと金粉がたっぷりの紙吹雪が、食堂の天井まで昇ってはね返り、キラキラと散っていく。

「ごほっごほっ、ちょっ、みんな無事やの⁉︎」

「ぐわぁぁぁ!目が、目がぁぁぁ!なんだこれはノブ!」

「アイラブユー、ジュリエッタ=ヴェリーノ。オイラはあんたが好きだ。っていうかそろそろ付き合ってくでゅえっ_____」

 私はかなり我慢ができるほうだと自負しているのだが、気がついたら信長の腹をパンプスで蹴り飛ばしてしまっていた。

「何してくれてんのよ!何してくれちゃってんのよ!!ミラノで買った服が台無しじゃない!!これ、こ・こ・ここここここここの粉、落ちるんでしょうね!?」」

 ヘソの上あたりに私のヒールマークを黒々とつけ、だがそれでもへこたれることなく豚人はやにさがる。

「いやー、へへへ、予想外に火薬の勢いが強かったぜい。だけどよジュリエッタ、そんなカッコになってもあんたは可愛いドベッ」

 ここでスローモーションで観察してみよう。

 私の平手打ちを受け、頬肉をぶるんぶるんと波打たせて「うぬぉぉぉぉぉ」と飛んでいくノブナガ。

 これを見てトリフンも少しは溜飲を下げられたかもしれない。

 爆発とともに溢れたスモークがまだかかったままの空間に別れを告げ、私は怒り心頭の早足で外へ向かった。

 私の暴力に対するファニーの非難も届かないところまで…それに、ここまでの事態を把握してさえいれば、さすがの女友達も私のことを人非人扱いすることはないだろう。

 ___とにかくこの粉まみれの服を一刻も早くクリーニングに出さなければ!

 暑気のまどろみに沈むピサの街。その片隅で私は、文字通り身に降りかかる_____降りかかり続ける災難に溜息をついていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る