ファンタズマ!~Story of the World behind~

鱗青

プロローグ~How Marco Verino came the world "fantasma"


 いつになく晴れ渡った空のもと、眩しく白い光が瞼の裏まで透かして見える。

 屋根の上に膝小僧を抱いて座っていると、清澄なエネルギーの波が僕の身体に優しく降り注いでくれる。いくら浴びたところでちっとも暖まりはしないのだけれど。

 僕は光のせいで重い瞼を少し上げて空を振り仰いだ。綿雲一つ浮かんでいないけれど、今日はいつもより大気が濃厚みたい。明日は一雨降るのかも知れないな、いやきっとそうだよ。

 ゴ…トン、ゴ…トン。微かな地響きに伴う水車の音。この小さな家に寄り添う小川には、樫の木製の水車が沈めてあって、規則正しく唸りを立てている。僕はもう、それが回る間隔で時間さえ知ることができる。そうだな、おひるご飯を食べてからけっこう経ってる。2時くらいかも。ああ、屋根の斜面の自分の影が傾いてきてるから3時過ぎって感じかな。

 僕の家は小川に囲まれた沼地にある。小さな面積のヒワムギの畑と鯉を飼ってる生け簀、辺りに生えている背の低い竹を慎重に編んで作った丈夫な鳩舎、粘土を長年採ってきた窪地が離れたところにあって、あとはずーっと沼。ひたすら、沼。

 粘土の窪地は家の土台に影響が出ないギリギリ近くなんだって。そろそろポイントを替えなきゃってジイジはいつも言ってる。だけど、「天気が悪い」「時間が遅い」「腰が重い」って、結局それより遠くには行かないんだ。今はほとんど採掘兼掃除用のバケツを僕が持ってるんだから、あれは言い訳だな。

 僕はここで暮らして10年。ここしか知らないし(赤ちゃんの頃は勿論だよ)、他の場所に行きたいとも思わない。

 こうして横から見たら足が三角形になる姿勢のまま、斜めに切れ下がるスレート葺きの屋根のスレートの一枚一枚を尻尾の先でなぞるのが好き。ここが切れ目、これはヒビ。いつまでやっていても飽きることがない。

 一匹の白い蛾が僕の丸いクッキーみたいだってヤスミンが言う耳にとまった。くすぐったいけど、じっとしてる。

 また一匹、すいすい羽を動かして屋根の庇に平行に走る雨樋あまどいを越えてきた。その子は、形も長さもモップの柄ほどの僕の尻尾に落ち着くことにしたみたい。鞭みたいにはね上げたくなるけれど、ぐっとこらえる。

 ヤスミンにきれいに切りそろえてもらった銀色の前たてがみがピクリともしないぐらい完璧に完全に、体を停止。

 全身に指でスタンプしたようにポツポツ散らばる雪豹人の模様をピクリとも動かさずそうしていると、二匹の蛾が羽ばたく振動が伝わってきた。会話を交わしているんだ。あは、「明日の雨で鈴蘭の開花が遅れるわいなあ」「これじゃあ商売上がったりだわいなあ」だって。愚痴をこぼしてるや。

「お坊っちゃん。マルコお坊っちゃん、またこちらなんですか」

 くぐもる声の方が先にして、背中の方で明かり取りの窓が軋みながら開いた。

 ずんぐりした灰色熊人の女の人がメイド服に包んだコールタール色の上半身を狭い窓一杯に乗り出してくる。怒ったみたいに口を曲げてる。けど、細かいシワでくちゃくちゃの目許は笑ってるんだ。

「ごめんねヤスミン。だけど今日はとっても天気が良かったから、光に当たっておきたかったんだよ」

 これは屋根にいるのを見つかったときに僕のよくする言い訳。ヤスミンはジイジの「まご」の僕が高いところにいるとこうして叱りに来る。そうして、やっぱり僕はジイジの「まご」だから仕方がないって言うんだ。どう仕方がないのかよく分からないけど。

 でも今日はいつもと違った。自分も屋根の上にヨッコラショと上ってきて、バッサリとスカートを広げて僕の隣に座って、同じように天を仰いでこう言ったんだ。

「あらまあ。本当に美しいお月様だこと」

 でも、今の僕…マルコ=ヴェリーノはちょっとびっくりして小首を立ててしまった。町から定期的に来る行商の人から買い入れて、ヤスミンが仕立ててくれた縞のズボンとチュニックのそれぞれに移動していた蛾が「やれ逃げや、それ逃げや」と飛び立っていった。

「どうしたの?いつも『高いところに登っちゃいけません』って叱るのに」

「いえね、あたしもマルコお坊っちゃんが感じているものを知りたくなったんですよ」

「僕が感じているもの?」

「そうです」大きくゆっくり頷いて、僕の肩にがっしりした腕を乗せた。「月の光で世界を見て、虫達や草木や水や土の声を聞き、文字を読むように大気を読む。そういう不思議なものをですよ」

 僕はちょっと考えて首を振った。夜は起きているもので、月の光はあるのが当たり前で、沼地の生き物や触れる範囲にある生きていないもの達が賑やかにしゃべるのを普通だと思っていたから、不思議って言われてもいまひとつピンとこないんだ。

 僕は昼の世界を知らない。錬金術師になるためには感覚を鍛えなければならないからって、ジイジとヤスミンと昼寝て夜起きるように生活してきた。錬金術には蒼い月の光を用いた実験が欠かせないし、瞳は太陽の強く紅い光にあてられたら濁っちゃうらしい。

 ぎらぎらした太陽が空を白茶けた色に焼いている昼間、僕はベッドに眠る。それが当たり前。ヤスミンもジイジも一緒だもの。これを読んでくれてる人にはどうか分からないけど、別に普通だし驚くにはあたらないでしょ。

「お坊っちゃんのおめめは本当にお月様にもらったみたいですねぇ」

 僕の光彩は白い。というより、ミルクに浸した氷みたいな色。所々に砂金みたいな粒があって、月光に反射するとプリズムみたいに色が変わる。

「あたしのは珈琲のカスみたいだから羨ましいことですわ。大きくなったら、女の子がこぞって自分の顔を映して欲しがるでしょうよ」

 そうかな。女の子なんて見たこと無いし、どうでもいいよ。

 でもヤスミンの目は綺麗だ。僕ほどには月の照らすところで働かないって言うけれど、泥の中に所々埋まってる黒曜石に似た色で、僕は好き。

「ジイジはまだお仕事?」

 僕が寄っ掛かったヤスミンの肩が「ええ」と上下した。こんなの久しぶりだから、甘えちゃえ。

「ねぇヤスミン、僕お願いがあるの」

「なんでしょうか?」

 ヤスミンは僕を抱き締めて、ゆぅらりゆぅらり揺らす。次第にウトウトしてきて、しゃべるスピードが落ちてきた。

「またね…ジイジとヤスミンと一緒にね、山の近くまで雨上がりの虹を見に行きたいの。いいでしょ…?」

「さあ、そればかりは神様でないと約束できないことですわ」

「もし、でいいの。また前みたいに…大急ぎでサンドイッチを作って…みんなで眺めながら食べられたら…最高なんだけど…」

 ヤスミンの膝元に頭を預けてると、すぐ眠っちゃいそうだ。ヤスミンも5音階の子守唄をハミングしている。昔、自分がこの国に連れてこられる前に覚えたっていう、故郷のアラビア語の音律を。

 それが、急に止まった。

「ヤスミン?どうしたの?」

「地平線の方から何か来るわ…なんでしょう」

 僕は身体を起こした。東に1つ、酷く黄色い光が明滅している。いや、1つどころじゃなくて、3つ…5つ…近づくごとに分裂して増えていく。あれはランプ?

 イヤだな。1ダースの人工の照明は、静かな夜を乱暴に引き裂いて、なんだか凄く禍々しい。遠く離れているのに鯨油の生臭い匂いが流れてくるみたい。

 その一団が、みるみるうちに沼地を突っ切り僕達の家に到達した。見たことのない乗り物は、舟と馬車を足したみたいな仕組みで、バッタみたいな生き物が舳先に繋がれている。

 その乗り物からたくさんの人…男の人が降りてきた。みんな紋章を描きつけた鋼と青銅の胴あてを着て、月桂樹の腕輪を巻いて、鎖のついた棍棒を持っている。

 あれはなんなの、とたずねようとしたとき、ヤスミンが勢いよく立ち上がった。

「あれは赤地に双頭の鷲…枢密院の紋章だわ。なんてこと!きゃあっ」そして、バランスを崩して落ちかけた。慌てて僕はスカートの端を掴んで支える。「あ、ありがとうございますお坊っちゃん。それにしても、ああ、なんてことなの!?」

「なんなのヤスミン、あの人たちは何?軍隊?役人?」

「いいえ、それよりもっと厄介な連中です」ぽちゃっとした頭を振って答える。「お坊っちゃんはここにいてください。いいと言うまで降りてきてはいけません。分かりましたね!」

 切羽詰まった言い方に、僕はただ従うしかなかった。

 ヤスミンは窓枠をぎゅうぎゅういじめて通り抜けていく。こんなに素早く動くところは、誕生日のお祝いのご馳走作り以来だ。

 屋根の上にいろとは言われたけど、様子を窺うなとは聞いてないもんね。僕はそろりそろり足を滑らさないように注意して庇の方へ行き、腹這いになって通気孔から逆さまに家の中を覗き込んだ。

 天地が逆転し、乗り物に乗ってやってきた人達がヤスミンと痩せっぽちで小人みたいなジイジを取り囲んむ姿が上から生えている。

  中でもこれは偉い人だってすぐ分かるカイゼル髭のトカゲ人のおじさんが、何か証書のような羊皮紙をジイジにつきつけている。

「…以上が錬金術学会による詔勅しょうちょくの内容です。どうかすみやかに従ってください」家の隅々まで響き渡るような太い声。「ゆめゆめ抵抗しようなどと思し召さるな。いかな高名を誇る大錬金術師デジデリオ=ヴェリーノその人であっても、こちらは我が国きっての精鋭を集めた部隊なのですからな」

  ヨークシャー系の犬人のジイジは、頬から顎まで伸ばした髭を掴んで引っ張ったり緩めたりしながらフンフンニャムニャム相槌を打っている。ふさふさした灰色の眉の下、細い目がいっそうくっついて、あれじゃ起きてるのか寝惚けてるのか分かんないんじゃないかな?僕とヤスミンだって、ときどき間違えるんだから。

「さ、ご返事を頂けますかな、ご老体」

「人が仕事しとる夜の夜中に家ン中まで土足で入ってきおって、その言い種かい。かつて帝国の花とも猛る貴公子とも謳われた枢密院の部隊も、随分とまあ質が落ちたものよの」

 うわ、隊長さん(ってことにしとこう)の眉間がどんどん険しくなってく…

「我等の職務は2つです。同意の上ご足労願うか、枷をはめた上で連行するか。どちらをとるかは自由ですが、賢明な選択をなさるよう」

「こぉんな紙切れはなぁ、いっくらでも模造コピーがきくわい」ジイジは勅令書をつまんでピラピラ振った。「大体あの錬金術学会にこんな迅速な処断は無理じゃよ。せいぜい紛糾して結論が出ずに茶菓子を食い散らかして終わるのが関の山じゃろうて。現に異端児扱いされてかれこれ半世紀以上、追放の憂き目にも遭わずにこうして予算が降りてきとる」

「つまり、ご老体」隊長さんは棍棒を腰に収め、代わりに背中に背負った鞘から鋭利な剣を抜いた。「後の方をお選びになるか」

「あっちゃあ、そりゃ参るわい」ジイジは舌をペロンと出す。いつもと変わらない様子に、ヤスミンが首をすくめて唇を鳴らしてる。僕もプッて吹き出しちゃった。隊の人達はなんだか調子が外れたようにざわざわしている。「それじゃあ隊長殿。君の要求を飲む前に、ひとつだけ聞いても良いかな?」

「なんなりと」

 ジイジの太短い指が、すっと魔除けの印を結んで、その手の先を隊長さんの髭面に向けた。犬人はもう笑ってない。真剣そのものだ。

「主と聖霊と御子の名において汝の父と母の名を答えよ!」

  トカゲ人はたじろいだけど、すぐ皮肉そうに白い歯を剥いて声を強めた。

「バカなことを。偉大なるデジデリオともあろう御方が、隊長である我輩に人外の嫌疑を」

「答えよ!」

 隊長さんはむっと片方の髭を立てた。「我が父はオットー」さあ、とジイジを捕まえようと空いている手を伸ばす。

「まだじゃ。母の名は!」

「母…?」隊長さんは途端にあやふやな顔つきになり、さっきの威圧もどこへやら、視線が見えない風船を追うようにフラフラした。「母の…名…?」

 隊長が返答しないと見るやいなやジイジはすぐ脇の棚から青い蓋の瓶を取り上げ、思いきりよくバシャリと相手の顔面に浴びせかけた。ヤスミンが鼻を両手で挟んで「なんてこと!」と叫ぶ。

「大旦那様!」

「立派ななりをしとる割にワシと視線を合わそうとせんのでな、怪しいと思えばしかり、じゃ。よく見よ!こいつらは人間ではないぞ!」

 鉛の塊を竈に入れたみたいに、隊長さんが頭からドロリと崩れた。ぐずぐじゅ、と泥になって流れ落ちる。床にはがらんどうの胴当てや籠手、武器が残った。

 大急ぎで仮装を着替えた後みたいな隊長の名残を、ほかの人…人なのかな…は無言で見下ろしていた。髭のある顔もない顔も、表情を浮かべていない。怒りも悲しみも、まるっきりからっぽだ。

「あ、あの、旦那様、これは?」

「魔術師の造りしゴーレムじゃ…こいつらの魂はまやかしの作りもの。恐れずに睨み返せば、生きた人間の魂の熱を恐れて視線をそらす。一番簡単な見分け方じゃな。ま、ワシのように肝が据わっとらんと効果はありゃせんがの」

 ゴーレムとか言う人達が一斉に首を上げた。もう人間らしさは欠片も無くなっていた。口がだらしなく開き、歯並びの代わりに乱杭の石ころが確認できた。両目はぐりんぐりんと別々に旋回するコマで、喉の奥からゴウゴウとふいごのような風を吹き出し、ジイジとヤスミンの包囲を詰める。

「それにしても」ジイジは、おほっほほ、と嬉しげに髭をしごいた。「こりゃあ、よぉく創り込んであるわい。細部のリアリティーも本物に比べて文句のつけようがない。近頃じゃとんと見掛けることのうなったええ仕事じゃ。誰の膝元に居るのか知らんが、オットーとやら、魔術師としてはなかなか腕の良い男らしいのう、うんうん」

「でも大旦那様、こいつらなんだかあたしたちを捕まえるつもりみたいですよ?」ヤスミンはフックにかけてあった箒を取り上げた。本気で怒ったときにあれの柄でお尻を叩かれたことがある。ヤスミン、戦うつもりなんだな。「またどなたかに恨まれでもされましたね」

「思い当たることはたんとあるんじゃがのう。黙って王子のルビーの1つを霊薬に使った件かのう。それとも男爵の息子の背中に鷹の羽を移植しようとして失敗した件じゃろうか?」

「知りませんよ、もう!なんとかしてください!」

「そうは言っても、聖水は今ので最後なんじゃもん」

「だから面倒くさがらず街に行って、水瓶一杯溜めておきましょうよって、あれほどあたしが」

 ゴーレム達がてんでに襲ってきた。ヤスミンは箒を振り回す。元々力のあるヤスミンだけど、ゴーレムは箒に当たっただけでバラバラに崩れていった。

 なんだ、こいつら弱いんだ…と息をついたら、「おほわわわわ!」というジイジの叫びが聞こえた。

 砕け散ったゴーレムの身体が、床の上を勝手に蠢いてひとところに集まっていく。巨大な砂山みたいになったかと思うと、そのてっぺんにポコンと頭みたいな部分がひりだされた。

 カイゼル髭の特徴。割れ鐘みたいな声で「わわわわがぁちぃちぃのぉなはなはー、オオオオオットーぉぉ」としゃべった。

「うむ、それは分かった。これ以上家の中を汚されるのはかなわんから、もう帰ったらどうかな」

 腕組みをして見上げるジイジに、地虫が餌をとるみたいに首が伸びてきた。髭の下辺りがバカッとずり落ち、飲み込もうとしてる!

「ジイジ、危ない!」

 ジイジとゴーレムのお化け…お化けゴーレムかな…?が、とにかく意識を僕の方に逸らした。それを勇敢なヤスミンは見逃さず、ジイジの襟をひっつかむと背中に背負い、スタコラ部屋を駆け出て鍵をかけた。

 僕も顔を上げ、窓から家の中に戻る。屋根裏部屋には蛍のランプが天井に下がり、壁も床も緑色に照らし出している。

 ヤスミンは踏み抜いた階段板を右足首にくっつけたまま、息切れもしないで上がってきた。

「で、どうなさるんです、大旦那様?」

 ジイジは自分の倍以上大きい熊人の背中からにじり降りて、「さてなあ。とりあえず逃げるとしようかい」と、懐からチョークを取り出して僕の周りに円を描いた。

「ジイジ、何をしてるの?」

「シッ、動くなよマルコ。今から逃げ道を作るからの」

 線の端を繋げると、左右前後に頭を巡らして方角を確かめ、それぞれのシンボル…東は木、西は梟、北は亀、南は火…を円の外に描いた。

「さてさて、なんせ魔術を使うのは久方ぶりじゃからのう。うまくいくかどうか」犬人はにまにまと両手を擦り合わせている。「マルコ、お前確か海が見たいと言うとらんかったか?」

 僕は素直に頷いた。この家から離れたくはないけれど、絵本で読み聞かせてくれた『海』という存在は僕の胸を深く感動させた。塩の味のついた水、永久に繰り返す波、錬金術の材料になる様々な珊瑚や海獣達が、ページの向こうから僕に呼びかけてくる気がしたんだ。

 こっちにおいで、マルコ、こっちにおいで。私達と話をしよう、広い広い海原に抱かれて…

「よし決まった。後は送り方なんじゃが、どうしたものか。ワシの孫なんじゃから、できるだけ派手な方が良いのう」

 入り口に頑張って階段の下の様子を注視していたヤスミンが、「大旦那様、扉が破られました!」とこっちに叫ぶ。

「ぎゃあぎゃあうるさいわい。今考えとるところじゃ。水遁はイメージが暗いのう。トイレなんかに出たら目も当てられん。土遁は魔物に間違われたら困るし、木遁は水より地味じゃし」

 胡座で顎先をひねるジイジを無視して、ヤスミンは片してあった箱から僕に一枚のマントと一袋の財布を渡した。

「いつも大旦那様がお使いになってるものです。もしあたし達が遅れても、そのお金で頼りになりそうな人を雇って待っていてください」

「え。ヤスミンとジイジも一緒に行くんじゃないの?」

 ヤスミンがいきなり僕を抱き締めた。あんまり強くて痛いぐらいに。

「お坊っちゃん聞いてください。あたし達が行けなくっても、お一人でしっかり生きていくんですよ」

「なにそれ?まるでお別れするみたいだよ」

 サッと身を引く。ヤスミンの素早さ、本日二回目。

「ねヤスミン、海って熱いの?冷たいの?何を着て入るのかなあ、ねぇったら」

 袖を掴もうとしたら、円の中につき倒された。こんなことされたの初めてで、僕は目も口もポカンとしてしまう。

 コラ、ヤスミン、何をしおるか、線が乱れるじゃろう!…そんなジイジの怒声はヤスミンに届いていない。

 僕は、この熊人が泣いているのを初めて見た。おやつのつまみ食いを注意するのと同じ顔なのに、左目からツーッと涙が毛皮を湿らせてるんだよ。

「さようなら、お坊っちゃん」

 僕に背中を向け、階段を降りていく。足音。ゴーレムの鳴き声、家具が倒れる物音。

「やだよ…ヤスミン、行かないで!」

「よっしゃ決めたあ!」ジイジが両手をパンと合わせ、階段へ行こうとする僕を押さえつける。「これなら派手にいける。フィレンツェは今カルナバルの真っ最中だからな!」

「ジイジ待って、僕一人なんて」

「大丈夫だとも」細い目の隙間から、ほんの少し黒目が見えた。「心配するな。ヤスミンは強いし、ワシは偉大な錬金術師だ。たかが魔術師のゴーレムぐらい、退しりぞけるのはわけない」

 僕の額に厳かにキスをする。瞑目し、魔術を使うための集中した状態になった。

「火の神ヘパイストスよ、神代の詩人アクタイオンのことほぎを受けよ。プロメテウスの守護神よ、銀河の星々の乙女に告げよ。我、神聖な祈りを捧げんことによりて、今この小さき命の灯火、流星と化して南西へ運べ。願いの事柄成就せよ。アー=ミーン!」

 たちまち僕の身体に火の粉が弾けた。円の中に巨大なエネルギーのうねりが溢れてくる。光に包まれて僕の足がふわりと宙に浮いた。

「ジイジ!ヤスミン!」

 ジイジが口をパクパクさせている。「待ってるんじゃぞぉ」って言ってるんだ。

 光の檻がどんどん縮まって、息が苦しい。シャボン玉に閉じ込められた妖精みたいに、僕はあちこちを折り曲げ、でも必死に下をー…ジイジとヤスミンと僕の家を見下ろした。屋根を破って突き抜けた光の柱。その中に僕はいるんだー…

 ジイジが最後に手を振る姿が見えた。それから階段の方へ行く。そこでこのエレベーターは加速がついて、全部の景色が点に集約された。

 気を失う前、小さな小さな夜の沼地が消える前にー…僕は、水車を備えた家が爆発するのを目に焼き付けた。

「ジイジ!ヤスミン!」

 全部消えた。全部、真っ白にー…


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