エピローグ
和泉隆平は見上げていた。
エレベーターの扉の上部。表示されている数字が一つずつ減っていく。何度乗ってもなぜかこれを見上げてしまうのが、自分でも不思議だった。突然数字が増えたり飛んだり自乗になったりするわけでもないのに。
時計に目を落とす。時刻は十六時過ぎ。取引を終えて日課をこなし、家路についている。二ヶ月前の、サークルの部室で事件のあらましを解説した日から、和泉の日課は一つ減った。しかし、それは何の変化ももたらさなかった。少なくとも、商いをする上では。
今日は合計七十二万円ほどの稼ぎだった。久々に、実に悪くない成績だった。ここ二ヶ月の間、毎日戦々恐々としていたが取引をしにくくなった印象はない。認識している限りでは、突然アルゴリズムとおぼしき注文がとんでもない速さで飛んできて美味しいところをかっさらっていった、などということが頻発はしていない。
一階に到着したエレベーターを出て、まっすぐ玄関に向かう。今日は有紗と千束と三人でドーナツを食べに行くことになっていた。つい先日、にっこり笑顔の千束に押し切られてそういう約束になってしまった。
ああ見えて、和泉にとって千束はもっとも危険な人物の一人である。どういう仕組みになっているのかは理解出来ないが、突拍子もない言動をとることが稀にある。普段は極めて常識的な範疇に収まっているので、意表を突かれた際の衝撃も大きい。その点有紗は、常に予想外の言動である、という確実な予測が出来るので精神的には余裕が持てる。一般的に、諦め、という言葉で括られる境地である。
玄関から出る。
和泉は、
そこでぴたりと足を止めた。
目の前のガードレールに、
いつかのように、
女性が一人腰掛けていた。
真っ白なワンピース。
レトロな麦わら帽子
和泉は思わず笑ってしまった。
変装のつもりか、濃いブラウンのサングラスをかけていて、それがまったく似合っていない。
その瞬間、ふと我に返る。
「こんにちは」まったく表情に変化はない。「お久しぶりです」
「はい。篠、淡雪さん」和泉は無理して少し微笑んだ。「どうしてこちらに?」
「ええ。たまたま近くに来る用事があったものですから」
そう言って、淡雪はサングラスを外し、首だけ振り返った。視線の先には東証のモダンなビルがある。
「ちょうど今日、コロケーションに使うサーバのテストがあったんです。十五時には無事終了していて、それでここで待っていたんです。途中で榊さんが出てきたので、慌てて走って隠れました」
和泉は思わず苦笑した。想像の中でワンピースを翻して走る淡雪の姿は、幼い少女のようだった。
この格好で仕事をしているのか、と和泉は少し訝しんだ。しかし、ディーラーは元々服装の規定が緩いし、外資系なら尚更だろう。すぐにそう思い直す。
動揺している自分を自覚した。
「少し、歩きませんか?」
「え、ええ……」
淡雪に気圧されながら和泉は曖昧に頷いた。
会社の前から日本橋の方に歩き出す。
真横に並んで二人は歩く。
高速のガード下をくぐり抜けた。
和泉は淡雪の横顔を見つめた。
名前に違わぬ白い肌。
背中に流された黒く真っ直ぐな髪。
目が合う。
淡雪は小さく微笑んだ。
「先生は勉強熱心ですね。少し、待ちくたびれてしまいました。でも、その時間も少し幸せでした。どうしてそんな風に感じたのか、自分でもよくわかりませんけど……」
「そうですか」和泉は首を振った。「残念ながら、僕にもわかりかねます」
淡雪は和泉の答えに、けれど嫋やかに微笑んだ。少し上目遣いで、どこか不満そうだった。和泉は初めて淡雪がそんな表情を作ったのを見た。
「そうそう。今日和泉先生に会いに来たのはですね。伝えたいことがあったからなんです」
「伺いましょう」
和泉はそう短く答えた。しかし淡雪はすぐには口を開かなかった。
交差点を右に曲がる。
「まず一つはお礼を。あの部室で会った日のことですけど。先生は注文のインパクトと観測者効果について意見を述べ、新たなアプローチを示唆してくれました。ずっと一人でアルゴリズムを作ってきた私にとって、非常に興味深い斬新な意見でした。やはり、実戦を経験して結果を出し続けているディーラーの方の意見は貴重です。先生の言葉を基に、私はこの二ヶ月ずっとアルゴリズムに改良を加えていました。とても、とても有意義で楽しい作業でした。そのお礼を、ずっと言いたくて……」
「……そうですか」和泉は軽く腰を折ってお辞儀をした。「どういたしまして」
淡雪が今度は悪戯っぽく微笑む。
和泉は目を逸らして訊いた。
「新しい環境はどうですか?」
「ええ、ハードウェア的な問題が、ある程度解決されました。以前は一度計算を始めると何日もかかっていましたが、今ではほんの数時間です。もっとも、計算などというのはただの作業ですし、些末な問題ですけど……。サークルにいた頃はパソコンが走っている間、アイデアを練る時間がいくらでもあったのに、今はそうはいきません。もう少しじっくり検討しなくてはいけないと解ってはいるんですけどね。仮説を立てるとすぐに計算を始めさせてしまって、我慢できない子供みたいになってしまっています」
はにかんだように淡雪は笑った。
西日がその横顔を照らしている。
橙色に染まる頬。
溶けてしまいそうだった。
日本橋に差し掛かる。
二人はゆっくり進んだ。
橋の真ん中で淡雪は立ち止まった。
和泉も半歩遅れて止まった。
淡雪は欄干にもたれ掛かるように、和泉の方に向き直る。
「それともう一つ」
「はい」
「宣戦布告です」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか解らずに、和泉は惚けた声を上げた。
「今までの二ヶ月間、稼働を先延ばしにしてずっとアルゴリズムを開発してきました。そして今日、コロケーションにサーバを設置してテストでも問題は出ませんでした」
「もしかして、まだ動かしていなかったのですか?」
「ええ。明日から本格稼働です。お手柔らかに……」
そう言って、
淡雪は、
芝居がかった動作で、
右手を和泉の方に、
真っ直ぐ差し出した。
和泉はその手を取る。
以前と同じように、
ひんやりとしていた。
小さな、
冷静な手。
二秒ほど握る。
淡雪が手を離す。
冷たい手だったのに、
空気に触れたら少し寒く感じた。
「それでは、また」
淡雪が踵を返す。
日本橋を渡りきる。
ずっとその背を見つめていた。
彼女は一度も振り向かないまま、地下鉄の入り口に消えていった。
了
孤高の艶文ヒューリスティクス -The Algorithm of Closed- 葱羊歯維甫 @negiposo
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