第6話 ディーラーによる密室の作り方 -The Awkward Measure for Making Closed Room-

  和泉隆平は困惑していた。

 部室が入った高級マンションの玄関で部屋の番号を押す。すると、予想に反して東が応対した。気を取り直してとりあえず部屋の中に入れて貰う。

「篠さんは?」

 玄関に入ってお座なりに挨拶をした後、すぐに和泉は尋ねた。

「淡雪先輩ですか?」東は首を傾げた。「今日はまだ来ていませんよ。珍しいですけど……、でも常にいるわけじゃないですから」

「あ、そう……。彼女と約束だったんだけどな」

 和泉はそう言いながら、勧められた椅子に座った。斜向かいには瑠夏が座っている。髪の色と長さでなんとかそう認識できた。メイクをしていないとだいぶ印象が違う。とても眠そうな様子だった。

 東がコーヒーを持ってきてくれる。板についた行動だった。きっと、よく気がつく性格なのだろう。サラリーマンになったら重宝されそうだった。

「すいません。でも、きっとすぐに来ますよ」

 東はそう言いながら自分もカップを持って席についた。それから瑠夏に何か耳打ちをする。瑠夏は立ち上がって洗面所の方に向かっていった。

 左腕の腕時計に視線を落とす。電波時計はきっかり十時を指していた。約束の時間にぴったりだった。

 今日は和泉と淡雪の二人だけで会うという約束だった。時間と場所を指定してきたのは淡雪の方。土曜日の午前と言うことで、特に大きな問題はなかった。

 少し嫌な予感がした。予感と言うよりは、ほとんど予測に近い。ディーラーの職業病なのか、常に複数の未来を予測しそれぞれに対応策を考えてしまう。しかし仮に予測が当たった場合、取り得る対抗策はあまり多く無さそうだった。

 他にディーラーの職業病といえば、企業名と証券コードがある。テレビなどを見ていて企業名を目にすると、自動的にそれを証券コードに変換してしまう。特にコマーシャルの間などは四桁の数字が頭の中を舞い踊ることになる。

 瑠夏が戻ってくる。寝癖も直っているし、メイクも済んでいる。目が先ほどの二倍くらいの面積になっていた。見せ玉ではないか、と和泉は訝しんだ。

 インターフォンの呼び出し音が室内に響く。

「ん、来たみたいだね」

 和泉は少し安堵してそう呟いた。しかし、東は首をひねりながら立ち上がった。

「おかしいなあ。淡雪先輩ならカードキーを持っていますから、インターフォン鳴らさずに入ってくるんですけど……」

 東が受話器を取る。普段より少し高くなった声が聞こえる。すぐに彼は首を傾げながらスイッチを押して解錠した。

「違った?」

「ええ、はい」東は釈然としない顔で頷いた。「あの、刑事さんたちだったんですけど……」

「刑事?」思わず和泉は首を傾げた。「あの二人組?」

「そうです」

「何の用かなぁ」

 少し待つと、東の言っていたとおり、刑事が部屋を訪ねてきた。和泉の顔を認めて、彼らもやはり訝しげな表情になる。

 事態が飲み込めないながらも和泉は頭を小さく下げた。刑事も同じように会釈をする。東が慌ててまたキッチンに向かった。

「あの、どうしてこちらへ?」

「え、ええ。ちょっと野暮用で……」

 いつかと同じように加藤が言う。口癖というか、これも職業病なのかもしれない。

 続けて和泉が質問しようとしたとき、またインターフォンが鳴った。コーヒーを刑事のために注いでいた東が、慌てて駆けて行く。また少しだけ話をしていたが、すぐにまた解錠した。

「今度は?」

「ええと、公正取引委員会の方がお一人……。篠淡雪さんはいらっしゃいますか、と」

「公正取引委員会?」和泉は鸚鵡返しに呟いた。「まあ、来ても不思議ではないけれど、ね」

 少し慌てた様子で東がコーヒーメーカーをセットする。スイッチを入れたところで、またインターフォンが鳴った。座っているだけなのが落ち着かなくて、和泉は訊いた。

「出ようか?」

「いえいえ」

 東が和泉を制して受話器を取り上げる。今度はすぐにスイッチを押して受話器を置いた。

「和泉さん。白石さんが来ましたよ」

「白石君が? どうして……」

「え? 和泉さんとお約束じゃないんですか?」

 東が首をひねりながらまたキッチンに向かう。千束のためにコーヒーを淹れるのだろう。なんだか、少し申し訳なくなった。

 公正取引委員会の人間が入ってくる。

「山口と申します。篠淡雪さんはいらっしゃいますか?」

「申し訳ありません。今、出ています。おかけになってお待ち下さい」

 東が幾分引き攣った顔で応対する。不審そうな顔をしながらも、山口は腰掛けた。

 コーヒーの黒い液面を見ながら考える。千束が部屋に上がってくるまでの数分間。その間に考えはほとんど纏まっていた。

「お早うございまーす」

 千束が明るい声をかけながら入ってくる。リビングに和泉と刑事と委員会の人間がいるのを見て、目を丸くした。

「和泉先生……。どうしてこちらへ?」

「白石君。篠さんに呼ばれて来たね?」

 和泉は確信を持って訊いた。しかし千束は首を横に振った。

「いいえ。私の方から二人でお会いしたいとお願いしたんです。そうしたら、なんだかよく解らないんですけど、十時十五分ぴったりに来るようにって。時間厳守で、早くても遅くてもいけないって」

「そう。刑事さんたちは篠さんに呼ばれて来たんですよね?」

「……はい」袴田が重々しく頷いた。「事件に関して重大な話があると。私たちは十時五分でした」

「委員会の方は?」

「十時十分です。天沼鏑の取引について重要な話があるから、ここまで来て欲しいと」

「東君たちは何と言われてた?」

「ええと、特に呼び出されたわけではないですけど。でも、今週はどうするか確認されましたっけ」東は一瞬瑠夏の方を見遣り、照れた顔で続けた。「俺たち、金曜の夜は大抵ここに泊まるんで……」

「あ、そう」和泉は曖昧に頷いた。「それはそれは……」

 和泉は立ち上がって、リビングの淡雪のPCの方に向かった。モニタの前でしゃがみ込む。

 UPSの電源が落ちていた。背後から伸びている配線を、一応慎重に確認する。特におかしな箇所はなかった。

「東君」和泉は立ち上がった。「この部屋に、救急箱ってある?」

「ありますけど……」

「見せて貰っても良い?」

「はい」

 東が洗面所から持ってきた救急箱の中身を和泉は調べた。当然あるべきものが無かった。

「なるほど」和泉は思わず呟いた。「もう手遅れかな、これは……」

 全員の視線が自分に集まっていることを自覚しながら、和泉はしかし先ほど座っていた席に戻った。左隣には千束が座り、右側の辺には刑事二人。左辺に公正取引委員。正面に東と瑠夏が座っている。密度がおでんのように高く、息苦しかった。

「どういうことです? 和泉さん。篠さんはどちらです?」

「さあ……。どうして僕に訊くんですか?」

「あのっ!」突然千束が大きな声を出した。「私、皆さんにお話があります。本当は、淡雪先輩に最初に確認したかったんですけど……。でも、ちょうど良いので」

「……お話?」

「何のぉ?」

 東と瑠夏が問いかける。千束は胸を張って答えた。

「事件の、真相を、です」

「事件の真相って……」加藤が反駁した。「そもそも事件って何? ただの事故でしょ? まあ、見せ玉の方は、事件と言えなくもないけど」

「いいえ。それは犯人がそう見えるように仕組んだからです。このままでは、逃げられてしまいます。それに、その二つは関連しています」

「関連?」

「ええ。天沼先輩の見せ玉と、山中先輩殺害は関連した一つの事件です」

「殺害って。だから、事故死だって」

 呆れた風情で加藤は首を横に振る。しかし千束は決然と言い放った。

「いいえ。それは犯人の計算です。そう見えるように仕組んだのです」

 何か言い返そうとした加藤を、片手で袴田が押さえた。

「なるほど。でしたらその計算とやらを説明してくださいますか。もしそれが真実なら大変なことです」

「はい」そう頷いて、千束は少し目を伏せた。

 緊張した時間が数秒、流れた。

「始まりは半年前。去年の秋頃です」千束はおもむろに話し出した。「天沼先輩と山中先輩の間に不仲が生じました。一人の女性を取り合ったんです。結果としては二人のどちらにも女性は靡かなかったようですが、二人の間には埋めきれない溝が生じました」

 東と瑠夏がこくこくと頷く。和泉はとりあえず黙って聞いていた。

「それは、つまり……」

「ええ。山中先輩を殺害した犯人は、天沼鏑先輩なのです」

 千束の言葉に、加藤は色めき立った。

「そんなことあるわけ無い! だって、山中が死んだときには、天沼は留置所にいた。奴が殺すことは不可能だ!」

「いや。可能性はあるな」袴田がゆっくりと言った。「山中の死因を考えてみろ。スタンガンの電流による感電死だ。そのスタンガンを設置したのは天沼。経緯が事故だと認められただけだ。殺す意図さえあれば殺人事件になり得る」

「ええ、その通りです。天沼先輩は、塀の中から巧みに山中先輩を操って、死に至らしめたのです」

「と、いうことはつまり……?」公正取引委員会の山口が口を挟む。

「ええ。その通りです。天沼先輩は、自ら見せ玉を繰り返して、自分が逮捕されるのを待っていた。塀の中なら最強のアリバイを確保できますから。つまり、警察も公正取引委員会も最初から手の上で踊らされていただけだったのです」

「なっ!?」

 加藤と山口が絶句する。気にする素振りも見せずに千束は指を二本、ぴんと立てた。

「留置所の中から山中先輩を殺害するためには障害となる点が二つあります。一つは、山中先輩にスタンガンの電流を浴びせること。上手く事故が起きるように誘導しなくてはいけません。もう一つは、浴びせた電流で殺害にまで至らしめること。普通にスタンガンの電流を浴びせただけではただ気を失うだけで終わってしまいますから」

 千束はそう言って和泉の方を見た。和泉は一つ頷いて、続きを促した。

「まず一つ目から説明します。スタンガンが仕掛けられていたのはキャビネットです。これは普段は天沼先輩が使っていたものなので、仕掛けるのは容易です。ただし、それだけでは山中先輩が感電するとは限りません。しかし、キャビネットの中にはサークルの通帳や財産に関するものが入っています。これらは、天沼先輩がいない間、一体誰が管理するのでしょう? ええ、勿論山中先輩です。恐らく、逮捕されて連行される直前に、山中先輩にこっそりそう言い残していったのでしょう」

「まあ、確かにね」東が同意した。「俺や淡雪先輩がやるとも思わないし、どうしても山中先輩だね」

 千束は深く頷いた。指を一本倒して続ける。

「そして二つ目です。ただスタンガンの電流を流しても、普通人間は死なない。一番の要因は皮膚の抵抗が大きいからですが、電流量や周波数の関係もあります。しかし、スタンガンを改造したり危険な回路を組み込んだりしたら殺意があからさまになってしまう。しかし、皮膚の抵抗さえスルー出来れば。たとえば粘膜や体液に直接電流を流すことが出来れば、その問題は解決する」

「でも、死体の状況からして、電流が流れたのは手から……」

 言いながら気がついたのだろう。加藤の声が尻すぼみに小さくなった。

「ええ。指先に怪我がありました。鍵かキャビネットに細工でもしたのだと思います。傷口から血液が流れ、それを伝って心臓まで電流が流れた」

「な、な。そんなことって……」

「不可能では無いだろうが……」

 加藤と袴田が呻く。

「署に戻ってキャビネットと鍵を調べ直してください。きっと何か見つかるはずです」

 千束は胸を張っていた。

「傍証もあります。天沼先輩は執拗に冤罪を主張して、未だに留置所に居座っています。罪を認めて保釈金を支払えばすぐに出られるのに……。お金が無いということも無いはずです。これは、留置所の中で山中先輩が死ぬのを待っていた。そして、万が一にも見せ玉が故意であると悟られないためです」

「でもぉ」瑠夏が口を挟んだ。「天沼さんの方が、山中先輩の彼女を寝取ったんだよぉ。恨むなら逆じゃない?」

「ええ。しかしその女性は、天沼先輩ともすぐに別れています。その際、山中先輩とのことが理由の一つにもならなかったとは思えません。女性の方だって元彼の友人と付き合うのは気まずいでしょう? 逆恨みも良いところですけど」

「まあ、それはそうだけどぉ」瑠夏は少し不満そうに頷いた。

「和泉先生」千束が横を向いた。「どう思いますか?」

「そうだね」和泉は片方の唇をつり上げた。「三十点くらいかな。部分点ならつけてあげてもいい、くらい」

「……え?」

 千束の顔から、一切の表情が抜け落ちた。

「白石君。君、篠さんに会いたいって言ったとき、こんな話をしなかった? 『天沼先輩が逮捕された後、サークルの財務管理はどうなっていますか?』って」

「はい。そうですけど」千束は呆然としたままだった。「どうして……?」

「うん。残念ながら、君の論理構築には少し穴がある。そもそも天沼君にはね、無理なんだよ」

 和泉は苦笑して、続けた。

「あんな稼ぎを出し続けるのは」




     *




 和泉隆平は思考していた。

 部屋にいる全員が自分の方をじっと見ていることには気づいていた。しかし、どう説明したものか、迷っていた。そもそも、説明するべきなのかすら、解らなかった。

 明確なメッセージ。

 それを受け取ってしまった。

 これすら、完璧なヒューリスティクス。

 ただ一人だけが為し得る、

 芸術的なまでの不確定システム。

 確定した、

 たった一つの答えを、

 算出するのでなく。

 数多の要素から、

 複数の数式から、

 答えに漸近する。

 手のひらの上で、

 踊らされている。

 それが解っているのに、

 抗えなかった。

 和泉は諦めて、

 持っているポジションを

 すべて成行でぶん投げた。

「先ほど白石君が述べたとおり、始まりは半年前。去年の秋頃です」和泉はおもむろに話し出した。「天沼君と山中君の間に不仲が生じました」

「ちょ、ちょっと待って!」加藤が叫んだ。「始まりって、何の始まりです? 白石さんが言うには……」

「もちろん、今回の一連の事件の、です」和泉は加藤の言葉を遮った。「ああ、ここでいう一連の事件、とは天沼鏑の見せ玉および、山中悟殺害を指します。その点で、白石君は間違っていない」

「殺害?」東が言う。「やっぱり殺害なんですか?」

「そもそも、その二つの事件が関連しているんですか?」袴田が訊く。一人だけ、冷静な声だった。

「順を追って説明します。とにかく、山中君が天沼君を恨むような事態が起こったそうですね? 白石君は、痴情の縺れ、などと胡乱な表現をしていましたが……」

「あ、はい。それはその通りです……。天沼先輩が山中先輩の彼女を寝取ったんです」

「それがすべてのきっかけです」

「待ってください」今度は千束が和泉の言葉を遮った。「私の推理の、どこが間違っているのか教えてください。さっき三十点って言ってましたけど、そんなに的外れですか?」

 千束は少し不安そうに和泉の方を見ていた。答えに自信が無いまま答案を提出したときの姿を思い出した。和泉は彼女の方を向いて言う。

「どこが、って。ううん、そうだね……。事件に関して言うなら、指に傷を作ってそこから感電させるのはとても現実的とは言えない。山中君が注意深くて怪我をしなかった可能性もある。何より問題なのは、怪我したらキャビネットを開ける前に普通は治療をしない? 止血や消毒だけならまだしも、ビニール製の絆創膏とか巻かれたらむしろ抵抗値が跳ね上がる」

「それは……」千束はうつむいた。「そうですけど」

「まあ、一番大きな理由はそこじゃないけど。まあ後で。話を戻します」

 和泉は正面に向き直った。

「さて、交際相手を奪われた山中君は相当腹に据えかねたのでしょう。天沼君に報復を行います。天沼鏑、すなわちスーパーデイトレーダー・kabraの取引の秘密をネット上に盛大にばらまいた」

「秘密? 天沼先輩の取引の秘密って……。あ、注文履歴をネットに流出させたとかですか? そうか、だから淡雪先輩はあんなにナーバスになって……」

 千束が顔を上げて言った。しかし和泉はゆっくりと首を横に振った。

「そんな生やさしいものじゃないよ。流出したのはkabraの取引手法そのもの」

 和泉は一度言葉を切った。

 少しだけ、口にするのが憚れた。


「つまり、アルゴリズム『kabra』」


 誰も何も言わなかった。

 和泉は続けた。

「ああ、篠さんが流出に対してナーバスになっていた原因の一つは、たしかにこれが原因だろうね。一度、酷く痛い目にあっているから」

「え? え? それって、つまり……」

 上擦った声を上げる東に、和泉は頷いた。

「天沼君はスーパーデイトレーダーでもなんでもないんだよ。彼はただ、篠さんが作ったアルゴリズムが指示するとおりに発注していただけ。きっと利益の何パーセントかを報酬として貰ってね」

「な、あ、そんなことあるわけが……」

「あるわけない? まさか。むしろ天沼君がkabraであるはずがないんだよ。より正確に表現するなら、kabraが人間であるとは、到底考えられない。kabraは毎日千七百もの銘柄を完璧にチェックし続けた上、取引に関するルールがまったくぶれることがなかった。僕は会社の内外を問わず、何十人もディーラーやデイトレーダーを知っていて、その中にはkabraより利益を出している人もたくさんいるけど、そんなことが出来る奴はいない。もっと違うアプローチで利益を上積みしている。人間の、言語に還元できないレベルでの判断力を持ってすれば、どう考えてもそちらの方が効率が良いからだ。あんなやり方は、単純作業だけならとてつもない速さでこなすことが出来る、パソコンを使ったアルゴリズムならではの取引手法だ」

 和泉は吐き捨てるようにそういった。それから二度、息を大きく吐く。それから口調を整えて再開した。

「少し知り合いに当たって調べたけれど、実際半年くらい前にネット上に優秀なアルゴリズムが流出したのが話題になった。それと時を同じくしてkabraの成績は急降下している。彼の注文履歴を見たけれど、その原因は明らかに発注タイミングで押し負けた所為だ。つまり流出したアルゴリズムを組み込んだファンドなどの注文スピードに、手で注文を出していた天沼君は勝てなかった」

「ちょ、ちょっと待って下さい! どうして篠さんはそんな面倒なことを? わざわざ人を介さなくても……」

「これは想像になってしまうけれどね。彼女がアルゴリズムの開発を始めたのは五年前。この頃にはネット証券もアルゴリズム開発もまだそんなに盛んではなかった。きっと自作のプログラムでネット証券経由で発注しようとしても出来なかったんだと思う。今でさえ、アルゴリズムの開発を視野に入れたサービスをしているネット証券はほとんどない。プログラムにアクセスさせるとなると技術的にウィルスやクラッカーの攻撃と見分けがつきづらいからね。証券会社側のセキュリティ回りに邪魔されて実現出来なかったんだ。だからその頃から手で注文を出していた天沼君に、ついでに発注してくれるように頼んだ。そんなところだろう。山中君もこの事は当然知っていただろうね」

 東は酷く呆然とした顔をしていた。入部して以来、ずっと淡雪や天沼と接していたのだから、衝撃も一際大きいのだろう。

「話を戻すよ。これで先ほどの白石君の仮説は覆されるね。天沼君が自分の意志で発注していたのでないから、自分から見せ玉で逮捕されることはない」

「ええ」千束は力なく頷いた。「そうですね……」

「さて、天沼君と山中君の諍いで一番割を食ったのは間違いなく篠さんだった。人の女をあまり上品でないやり方で奪った天沼君もだけれど、彼女が何より許せないのは山中君だろうね」

「それは、つまり」東が震える声で言った。「山中先輩を殺したのも、淡雪先輩ってことですか?」

「そうだ。篠さん以外がやったとは考えられないし、彼女がやったと確信するだけの理由もある。それも含めて彼女の計画のようだ。ま、その辺も追々……」

 和泉はぼんやりとそう言った。なかなか話が進まない。

「何しろ彼女からしてみれば、四年半も部室に籠もりきりでようやく開発した素晴らしいアルゴリズムを、たった一つの愚かな行動で台無しにされたんだから。もはや自分の子供を殺されたに等しいくらいの大事件だ。しかし彼女はアルゴリズムが流出してしまった後も、めげずに開発を続けている。修正を施したのか一から作り直したのかは解らないけれど、kabraの成績は一旦は落ち込んだものの、二ヶ月ほどでまた上昇して最近では半年前より良いくらいだ。彼女こそまさに天才と呼ぶに相応しい才能だよ」

 言いながら、和泉は自分の言葉に身震いした。自分とほとんど変わらない成績を叩き出し続けてきたkabra。つまり、人間の、それもその世界で烏滸がましくも一流と呼ばれているディーラーの、手法を数値化し一般化したということ。

 計り知れない危機感を覚えた。彼女のような存在が何人もいたとしたら。古臭い証券ディーラーなんてそう遠くない未来に絶滅してしまうのではないだろうか。

「ちょっと待って下さい。その、アルゴリズム? 自作のプログラムを流出された。その程度のことで殺害に至ったんですか?」

 加藤が言う。

「その程度、という表現に、僕は賛成出来ませんね」和泉は加藤を睨み付けた。「まず彼女の作ったアルゴリズムは、一般的に見ても非常に高い価値があります。そうですね、例えば……。保険金殺人って言うのがあるでしょう? 強盗殺人でも良い。とにかく、お金目当ての殺人。あれって、普通どれくらいの額が動機として相応しいのでしょうか?」

 和泉は息を落ち着けながら問いかけた。袴田が低い声で答える。

「殺人に相応しい額などありません。しかし過去の例からすると、犯人の経済状況にも拠りますが、数百万から数千万というケースが多いでしょう。それ以上は、そもそも被害者の側が持っていませんから」

「kabra、すなわち彼女のアルゴリズムは流出直前の一年間で、月間平均七百万ほどの利益を出していました。一年で八千四百万円です。しかもこれは一度きりでなく、長期にわたって利益を出し続けると見込まれます。データの更新をする必要はあると思いますけどね……。二年動かせれば一億六八○○万。これでも動機として不満ですか?」

「……いいえ」

 加藤が目を逸らして頷く。和泉はそれを眼を細めて見た。

「ただ、これは僕の勝手な想像ですが……。彼女の場合、それは直接の動機では無いと思います。金銭的な部分よりは、作品を汚されたことに対する報復とでも言いましょうか……。自分が手塩に掛けて作り、育ててきた最高傑作のアルゴリズム。それが完膚無きまでに踏みにじられたことが、彼女にとって一番大きな問題だった」

「完膚無きって……。流されただけでしょう? 消去されたわけでもあるまいし……」

「いえ、それは逆です。彼女にしてみれば消去の方がまだマシだった。消されたなら同じものを作り直せばいい。彼女ほどの頭脳があれば多少時間はかかるかも知れませんが十分可能です。しかし流出だけはまずい。アルゴリズムがその真価を発揮できるのは、同じ手法を使っている者がいない、というのが大前提なのです。流出した場合、かなり大幅な修正、もしくは一から作り直さなくては、とても利益を維持できません。四年半分の研究、それもきちんと結果が出ていたものと同じレベルのものを一から作り直すのですよ? しかも同じ手法はもう二度と使えない」

 和泉はそう粘り強く説明した。しかし加藤は曖昧に頷いただけだった。それを見て和泉は諦めた。説明を続ける。

「アルゴリズムの開発をしながら彼女は考えた。自分の最高傑作を踏みにじった山中君を殺害する方法を。同時にやはり人を介してアルゴリズムを運用することへの反省。今のやり方だと、少なくとも発注を任せる人間にはアルゴを公開しないといけない。そう考えるとやはり人間ではなくて自動で発注出来るシステムの方が望ましい。五年前ならいざ知らず、今なら実現できる手段がないわけではない。対応している証券会社も、わずかですが存在します」

「淡雪先輩が自分の手で発注するのでは駄目なんですか?」千束が質問を差し挟む。「運用的には以前と変わりませんし、流出も避けられます」

「駄目ではないけれど、望ましくはない。第一に、自動発注ならアルゴリズムの計算と発注がタイムラグなしに行えるメリットがある。手で出すと計算結果を確認してから発注画面にデータを打ち込む必要があるから手順が増える。スクリプトなんかで多少は時間短縮出来るだろうけどね。それでも実際に天沼君が押し負け続けたという、負の実績がある。せっかくパソコンなんて愚直な物を使っているんだからね。可能ならば実現したい。それともう一つ、自分で発注するにはずっと相場を見ていないといけない。毎日四時間半だ。彼女ならきっと、そんな暇があるならその時間を使って開発を進めたいと思うだろう」

「淡雪先輩なら、たしかに言いそうです」東が苦笑した。「今思い出してみれば、実際半年くらい前に毎晩徹夜していた記憶があります」

「そうだったねぇ。金曜の夜にもいたもんねぇ」

 瑠夏が無邪気に同意する。和泉は頷いて説明を続けた。

「こうして篠淡雪の計画がスタートした。彼女が最初にしたことは、アルゴリズムに手を加えることだった。利益を出すためにきちんと計算した注文の他に、敢えて見せ玉の注文を紛れ込ませる。天沼君はアルゴリズムの指示通りに発注していただけですから。きっとろくに中身も見ずに手を動かしていたのでしょう」

 和泉は千束の方を見た。目が合うと、恥じ入るように千束は顔を伏せた。

「見せ玉が故意に逮捕させるためだった、という点に関しては、白石君の説明した通りです。二つの事件が関係していることと、事故死に見せかけようしたことに気がついたところも評価に入れて、だいたい三十点といったところなんだけど……」

「……はい」千束は下を向いたまま答えた。「何も、文句はありません」

 そのリアクションに少し心が痛んだが、和泉は話を元に戻した。

「さて、一度や二度ならともかく、何度も不穏な注文を繰り返していればやがて公正取引委員会の目に留まって逮捕される。ネット上で絶大な人気を誇るkabraなら尚更です。篠さんは着々と準備を進めながらその日を待っていた。彼を逮捕にまで追い込んだのは、アルゴリズムに自動発注機能を組み込むのに障害となったからでしょう。アルゴの中身も知っていましたし……。もしかしたらつまらない理由でアルゴ流出という事態を引き起こしたということに対する、制裁という意味合いもあったのかも知れませんが……」

 和泉はそう口にしたものの、自分では信じていなかった。どちらかというと、解りやすい理由をつけて刑事たちを安心させようと思っていた。

 きっと、淡雪の論理の中に、そんなつまらない感情は潜んでいない。和泉はそう信じていた。もしかしたら、そう考えているのは、和泉自身の希望的観測かもしれなかった。

「篠さんの思惑通り四月になってすぐ天沼君は逮捕されました。そこで彼女の計画は次の段階へと移行します。山中君に、自分のアルゴリズムの発注を依頼したのだと思われます」

「発注の依頼?」東が首を傾げた。「それって、天沼先輩がやっていた作業ですよね?」

「うん。天沼君がいなくなってしまったので、代わりにお願いすると言ったのでしょう。利益の何割かを報酬として提示してね。当然山中君は飛びつきます。何しろ今までの実績がありますから。発注代行をするだけで、何十万、何百万というお金が毎月転がり込んでくるのは確実です。見せ玉は天沼君が自分の取引で勝手にやっていたこと、とでも言っておきましょうか。少しは怪しんだかも知れませんが、この時点で山中君の、天沼君に対する印象は最悪ですから、悪口を少々混ぜ込めば深くは考えなかったでしょう」

 和泉はここまで言って、コーヒーを一口飲んだ。すっかり冷め切っていた。時間が経ったコーヒー特有の、嫌な苦みが舌を刺す。

「篠さんは山中君に大体こんなことを言ったと思います。『アルゴリズムを使っていることを他の人に知られなくない。サークルのメンバーを連れ出すから、その間に私の席の足下にあるボックスの中からディスクを取り出して、それを山中君のパソコンにインストールしてほしい』」

「え!」千束が大きな声を立てた。「だって、山中先輩が握っていたのは、キャビネットの鍵でした」

「うん。そうなんだけどね……。時間軸に沿って説明する。秋葉原に行く前夜に彼女はキャビネットの中にダミーの配線を走らせ、上にスタンガンを置いておく。これはきっと電力を伝えるだけの単純なものだったろう。そして、今度はディスクボックスの鍵穴とその横にあるUPSを配線する。恐らく、途中にアップトランスかなんかを仕込んで電圧をスタンガンと同じくらいまで上げておいたのだろう。UPSは普通のコンセントと同じ一○○ボルトしか電圧がないからね……。トランスはそんなに大きい物じゃないからボックスの中に十分収納できる。更に、迂闊に持つと指に怪我をするような仕掛けを施したボックスのキーを所定の場所に置いておく。これはきっと駄目元の保険程度だったろう。さっきから何度も話題になっている通り、ただスタンガンの電流が流れただけで死亡までするのは正直考えにくい。怪我があれば抵抗が極端に小さくなるから説得力も出てくる。もし傷が残らなかったら、山中君は最近心臓の調子が悪かったようだ、とでも証言していたのかも。逆に怪しいかな……」

「だって、そんな、そんなことって……」

「傍証とも言えないけど、UPSを使ったのはほぼ確実だと思う。周波数の関係でスタンガンより遥かに人を殺しやすい電流を流せる。蓄電量だって十分だ。それに、漏電用ブレーカーも作動しない。感電に使われた電力はすぐに充電される」

 反論は無いようだった。

「そして最後に彼女がしたことは、救急箱から絆創膏を持ち去ること。理由は先ほど述べたとおり、怪我をした後に指に巻かれると抵抗が上がってしまうからだ。止血だけなら傷口自体は残るからね」

「……えっ?」

 机に置いたままだった救急箱を慌てて東がひっくり返す。しかし、絆創膏は一つも入っていなかった。

「本当だ。天沼先輩が逮捕された日にはあったのに……」

「あ、そうだよねぇ。瑠夏が怪我したときにあったもん」

 東と瑠夏が口々に言い合う。先ほどから刑事たちは一言も喋っていない。気にしないことにして和泉は続けた。

「さて、事件当日だ。部室の外で待ち合わせた君たちは秋葉原で買い物をする。その間に首尾良く怪我をした山中君はボックスにキーを差し込み感電して死亡する。部屋に帰った彼女は一番に倒れている山中君に縋り付き、脈を取るふりをしながら握ったキーをボックスのものからキャビネットのものへとすり替える。その時点でカードキーを持っているのは彼女だけだからね。間違いなく第一発見者になれる。工作の結果、山中君はあたかもスタンガンが繋がっていたキャビネットを開けようとして死んだように見える。その後の救急車やらが来ているどさくさに紛れて、ボックスの方の配線だけは引っこ抜き机の下に放っておく。最初からそれを考慮した設計になっていれば、二秒もかからないでしょう。パソコンが押収されているから、繋がっていないケーブルや電源コードが机の下には散乱していて、一本くらい増えても誰も気づかない。モニタの電源コードを一本外しておけば偽装は完璧です。そもそもマンションのカードキーは三枚しかないが、警察と、鍵がかかった部屋の中と、秋葉原だ。死因が感電で能動的な犯行は誰にも不可能になる。最終的に、少しやり過ぎた防犯システムによる、不幸な偶然が重なった事故として処理される。これが彼女の描いたシナリオで、実際にその通りに事は進行しました」

 ふう、と和泉は息を吐く。

「ただ、一つだけ誤算が生じた。死んだ山中君がぶつかったのか、机の上にあったスタンガンが、配線を外れて床に転がってしまった。防犯目的という名目だし、すぐに取り外せるようになっていないと運用上不便だと疑われる可能性を憂慮したんだろう。どう見ても事故となる予定が事件性が高まってしまい、本格的な捜査が始まってしまった」

「たしかに」袴田が口を開いた。「スタンガンがキャビネットの上にあったら事故死として処理したと思います」

「しかし、捜査が始まってしまった。キャビネットの配線もただ導線が繋がっているだけだからか、今一つ気がついて貰えない。仕方がないので彼女は自分から警察に防犯システムのことを告げることにした。しかし今更自分が言ったのでは少々不自然かもしれない。そこで、天沼君の口から言わせることにした。彼は電気工学を専攻しているし、うってつけの人材だった。彼女が一人で接見したことがあるでしょう? そのときに焚きつけたのだと思います」

「でも、天沼が言うことを聞きますか?」加藤が久しぶりに口を開いた。

「天沼君は篠さんが山中君を殺害したことに気がついていません。見せ玉が彼女の謀略だということにもです。それに……気づいたとしても、主張を曲げるとは思えません。スタンガンについても、見せ玉などの取引についても。まあ、拷問でもすれば話は判りませんが……」

 和泉が低い声でそう言うと、今までずっと黙っていた公正取引委員会の山口が口を開いた。

「どうしてですか? 天沼が篠を庇う理由など今更ないでしょう?」

「そんなことはありませんよ。むしろ、天沼君は既に篠さんの言うことを聞くしかありません。彼、いえ、kabraはネット上で絶大な人気を誇っています。もはやkabra教と呼んでも差し支えないくらいの信奉者がいる。また、天沼君はそうやって崇められてとても得意になっていた」

「ああ、確かに」東が頷いた。「凄く誇ってました。もちろん、それだけの実績があったからおかしなことじゃない、って思ってたけど……」

「でもぉ、今考えてみたら確かにちょっと異常だったかなぁ」瑠夏が首をひねる。「ことある毎に自慢されたし。ホントあれはうざかったぁ」

「ええ。彼は自分の功績でもないのに祭り上げられて得意になっている。現実のサークルの方では正体を知っている人が身近に二人もいてひどくやりづらい。だからこそ余計にネット上の評判を大事にしていたのかもしれない。今更その立場を降りる気など毛頭無いでしょう。だから彼は決して自分の商いが篠さんのアルゴリズムに拠るものだ、などとは認めない」

「しかし今のままだと、金商法違反で有罪判決を受けますよ。実刑にはならないかもしれませんが……」

「仮にアルゴリズムに従って注文を出していたとしても、見せ玉の罪に問われるのはやはり天沼君なのでは?」

「……は?」

 山口が間の抜けた声を出す。和泉はわざとらしく首を傾げた。

「kabraの取引はすべて、天沼鏑名義の口座から、天沼鏑自身が発注したものです。部員がそれを見ていますからね、疑う余地はありません。見せ玉を発注するアルゴリズムであったとしても、発注する際に何も考えなかった天沼君に責任はあります。仮に篠さんを連れてきて話を聞けたとしても、彼女はこう言うでしょう。『私はパソコンを使って相場を分析し、天沼鏑に助言しただけ。投資サークルの活動としておかしなことですか?』 もちろん、何もおかしなことはありません。比率はともかく天沼君自身も、取引による利益を十二分に得ています。それでも立件したいなら仮面取引の禁止という条項がありますけど、それすら立証は難しいのではないですか?」

「それは……」山口は絶句した。ややあって、喉の奥から声を絞り出した。「その通りだ。発注しているのが天沼自身である以上、最終判断は自身で行ったと判断されるのが通常だ。利益も得ているとなれば、関与は否定できない」

「アルゴリズムを認めても認めなくても、天沼君は罪に問われます。ならせめて評判を守れるよう、意地でも認めないでしょう。と、言うよりは意地以外の何物でもありませんけど。本人が言っていたそうですが、『あまりに儲かっていたから見せしめのために冤罪を着せられた』 そう主張すればむしろ箔がつくとでも思っているのでしょう。何の意味もないことだと思いますが……」

 和泉は溜息混じりに言った。隣で千束が頷いている。

「なるほど。それは解った。しかしそれは天沼が篠の言いなりになるというのとはまた別の話なのでは? スタンガンについてはまるで関係がない」

「いいえ。罪が天沼君の上にかかるということは、一つの重要な未来を意味します。見せ玉は課徴金の対象となっていますね?」

「あ、ああ……」

 山口が頷くのを見て、和泉は続けた。

「天沼君が得た利益のほとんどが恐らく課徴金として没収されることになるでしょう。しかし、天沼君の懐にそんな額があるとはとても思えません。稼いでこられたのは、ほぼ篠さんの功績ですからね。二人の間の力関係はよく知りませんが、取引の利益のうち天沼君が手にするのは半分以下、二割もいけば良い方でしょうか。さらに彼がそのお金に手を付けずにいたとはとても思えませんし……」

「はい。先輩はかなり豪勢な生活をしてました」東が少しだけ項垂れた。瑠夏も悄気た声で言う。

「うん……。瑠夏もいっぱい奢ってもらっちゃったよ」

「それは君たちが気にする必要があることじゃないけどね……。そうそう、彼の贅沢具合も傍証の一つです。東君は榊の車を見てずいぶん感激していたけど……」

「あ、はい」東が頷く。「だって、ベンツの、しかもオープンカーですよ」

「うん。でも、kabraの稼ぎからすると、あのくらいの車なら五台くらい持っていてもおかしくないはずだ。ディーラーと違って、デイトレーダーなら会社にピンハネされることが無いから。彼が本当に一人で利益を得ていたならもっと贅沢できただろうね。愛人だって何人も囲えたかも……」

 和泉がそう言うと、東と瑠夏は目を白黒させた。

「ともかく、彼は有罪になり破産し借金塗れになることが確定的なのです。それを救えるのは篠さんしかいません。彼女は得た利益を持っているはずです。天沼君としても、彼女の弱みとまでは言わなくても、秘密を知っています。ここで恩を売っておけばある程度は融通して貰える。そんな期待があるはずですし、篠さん自身がそう仄めかしたのかも知れない。他に彼が社会復帰する道はありません。絶対それに飛びつくはずです」

「まあ、それでも、篠淡雪が山中悟を殺害した証拠を見つければ済む話ですよ」

 加藤が不敵に笑う。その顔に向けて、和泉は笑い返した。

「証拠? もうとっくの昔に手遅れです。この部室がサークルの手に戻ってもう何日も経っている。ここは元々彼女が入り浸っていた部室ですからね。指紋もDNAも目撃情報も何の意味もなさない。殺害に利用したのはUPSとアップトランス。そしてディスクボックスとそのキーだけです。すべてとっくの昔に回収済みですよ。UPSだけは置いていったようですが、これはコードを繋ぐという通常通りの使い方しかされていないからかな……」

「え? ボックスもありますよ?」

 東が椅子から立ち上がって三つ積んであるボックスの方に近づく。千束もその後についていく。ぽん、と手を打って、仕草の割に低い声で言った。

「一つだけ新しいですよ、これ……。ほら、傷とかついてないし、陽に灼けてもないし……」

「同じ型の物を用意していたんだろうね。どこででも売っているものだし一つ千円くらい。それとも警察ならこの線からでも追えるのかな……」

「難しいでしょうな。そもそも、犯人が判っているんだから、遺留品の経路なんて何の意味もない」

 袴田が言う。和泉は深く頷いた。

 東が恐る恐る手を伸ばしてボックスを開ける。鍵はかかっていなかった。東と千束が覗き込んだが、中身は空っぽだった。ディスクの一枚すら入っていない。

「物証は何も無い。証言をする者もいない。そして目の前に、矛盾のない事故死が転がっている。それに反論できる根拠はただ一つ、kabraの取引がアルゴリズムのようである、というたった一人のディーラーの意見。求められれば裁判で証言するのにやぶさかではないですけどね……」

「……」

「……」

 刑事の二人。委員会の男。三人とも一言も答えなかった。和泉ももう特に言うことはなかった。東がコーヒーを啜る。もう冷め切っているだろう。

「ええと、疑問があるんですが」千束が授業中のように手を上げた。「淡雪先輩、私たちを入部させるのに積極的だったと思うのですがどうしてですか? 話を聞く限りではどうせすぐにサークルから離れるつもりだったはずなのに」

「一つにアリバイの確保に役立つと判断したんじゃないかな。新入生が入部する前に、サークルに日常的に来ていたのは関係者三人の他には東君と平山さんだけだ。以前からずっと所属していたメンバーが出かけただけだと、アリバイとして弱いかも知れない。それと、関係者が増えることで捜査が攪乱されると思ったのかな……」

「でも部外者が増えると、不確定要素が増えませんか? 計画通り進むかどうか判らなくなってしまうじゃないですか」

「それはそうなんだけどね。彼女にとっては不確定であることは、忌むべきことじゃないんだよ……」

 和泉は小さな声でそう言ったが、千束は首を傾げただけだった。

「篠から話を聞く必要がありますが」袴田がぼそりと言った。「とっくにいないでしょうな。物を持ち去っているんだから」

「ええ、もちろん」

「礼状も取れなければ指名手配も出来ない。八方塞がりだ」

 袴田が嘆息混じりに呟く。加藤が呆然とした様子でそれを聞いていた。

 和泉は淡雪のことを考えた。

 ディーリングの手法。

 アルゴリズムの構築。

 楽しそうな瞳。

 あまりに、純粋だった。

 汚したくなかった。

 そんな思いがあることを自覚する。

「淡雪先輩はどちらにいるとお考えですか?」

「これはもうただの想像だけどね」和泉は顎に手を当てた。「どこかのファンドに潜り込んだと思う。多分、日本に進出してきている、外資系のあまりお行儀の良くないファンド。アルゴリズムは国内のところより外資の方が進んでいるから……」

「潜り込むって、そんな簡単に出来ますか? なかなか雇って貰えないんじゃあ……」

「半年前に流出したアルゴリズムがある。ソースコードを見せるなどして、あれの制作者が自分だと証明するだけで引く手は数多だろうね。以前、コンピュータ・ウィルスを世界中にばらまいた人がいたけど、その後各国のIT企業からスカウトが殺到したこともあったし……。技術の証明としては十二分に効果があるだろう。固定給はリスクが高いにしても、利益の何割かを配分する、という契約ならファントとしても安心だ。あれほどの才能を見せつけられれば、たとえ警察が話を訊きに来たとしても、リスクを冒して匿っても何倍ものお釣りが来るだろう。礼状がないならなおさらだ」

「それほどですか?」

「環境が整えば、毎月一千万以上コンスタントに稼げる社員です」

 和泉が言うと、刑事は目を白黒させた。

 東が首をひねった。

「え? だってさっきは、アルゴリズムで自動発注出来るところもあるって言ってませんでした?」

「うん。彼女も多分最初はそのつもりだったと思う。でも、警察に追われて公正取引委員会にもマークされている状態で一人で取引をするよりは、安全だと判断すると思う。自分一人より遥かに資金の量が多いし、ファンド名義の注文になるから自分の居場所が明らかにならない。それに開発と運用にも環境が整っている」

 和泉はぼんやりと手に持ったカップを見つめた。波紋が、不規則に生まれては消えていく。

「先日、彼女とディーリングやアルゴリズムについて意見を交換しました。話を聞いている限り、彼女のアルゴリズムはとても複雑な計算を必要とします。もしかしたら天気予報くらいの計算量をこなしているかもしれない。最近の気象予測にはスーパーコンピュータを使っているようですが……」

「天気予報?」加藤が小さく笑った。「だって、それじゃあ当たらないじゃないですか」

「当たらないって……そうですか? 僕はそう思いませんけど……」

「だって、予報が外れるなんてざらでしょう?」

 加藤が言う。瑠夏も同意した。

「そうだよぉ。信じて出かけて、何度酷い目に遭ったか」

 東も山口も、口は開かなかったが同じ意見のようだった。

「それって、たとえば降水確率が二十パーセントと出ていたから、傘を持っていかなかったのに、降られてしまった、というようなことですか?」

「ええ、まあ。だいたいそんな感じです」

「でも、二十パーセントって五回に一回は雨が降るって意味ですよね?」千束が口を挟む。「一回雨が降ったくらいで、予報が外れてるって言えるのですか?」

「でも、その理屈じゃあ、ゼロパーセントとか一○○パーセントで無い限り、決して外れないじゃないですか」

「ええと、多分ですけど……」千束はちらりと和泉の方を見てから言った。「一度のサンプルじゃ判断出来ないんだと思います。降水確率二十パーセントの日を、たとえば百回調べてそのうち何回雨が降ったのか、が判断の基準になりますね。天気予報は十パーセント刻みだから、十五回から二十五回に収まっていれば、予報は当たっていると言えます」

「そうだね」和泉は千束の方に頷いた。「計算の複雑さを考えればもう少し幅を取っても、十分評価できるでしょう、まあ、これがたったの三回とか、逆に四十回を超えているようだと、外れていると非難されてしかるべきですけど。天気予報の精度について文句を言っているのを何十回も聞いたけど、きちんとしたアプローチで非難しているのを見たことが無いですけどね」

 千束と和泉の説明に、他の五人は曖昧な表情を浮かべただけだった。

 気を取り直したように加藤が言う。

「まあ、外れてないってのは、べつに良いですよ。でもそれって結局、数字上予報は当たっていても、実用上少々問題があるっていうことには変わらないじゃないですか」

「天気予報に限って言えばそうですけど、アルゴリズムなら十分な精度です」和泉は意識して微笑んだ。「たとえば、天気予報で九十パーセントの降水確率と出る。これはまず雨が降るであろうと判断出来ます。しかし、刑事さんたちは出勤しなくてはいけませんし、事件が起これば外での仕事を余儀なくされる。その点は動かしようが無いわけです。でも、アルゴリズムなら話は違う。九十パーセントなら出かけなければいい。天気予報で言うなら、降水確率が十パーセント以下の日にだけ出かける。それ以上の日は家から一歩も出ない。そんな判断が可能です」

「だって、それじゃあ仕事をこなせないじゃないですか。大学生ならそれでも良いかもしれないけど」

「いいえ。世界中すべて見渡せば、どこか一都市くらいは晴れる場所があるでしょう? 千七百もの銘柄を常時監視していますからね。勝率が九十パーセント以上と計算される銘柄も毎日一つや二つくらいはあるでしょう。相場全体の一番美味しいところだけ頂いていけば良いのです」

 加藤がぽかんと口を開けた。小型のアップトランスくらいなら楽に入れられそうだった。

「話を戻します。彼女のアルゴリズムは非常に複雑な計算をしています。いくら高価なパーツを買い集めて組み立て、チューニングしたところで、一般のパソコンでは処理速度にやはり限界があります。現状では、データを更新するのに何日もかかるのではないかと思います。少し余裕のあるファンドでしたら数値の解析に高性能のサーバを何台も並列につないで利用できますからね。毎日最新のデータに対応させられますし、運用にはコロケーションが利用可能です」

「コロケーション?」

 加藤が問う。委員会の山口が答えた。

「取引所の中にサーバを設置して、発注するサービスがあるんです。インターネット経由だと、投資家のところまで情報が届くまで何秒もかかりますが、コロケーションなら千分の一秒単位のタイムロスで発注出来ます」

「天沼君の手打ちからコロケーションに変わるだけでも、利益がかなり伸びるでしょう。スピードで押し負けることがまずなくなりますからね。資金の量も恐らく劇的に増えるので、何倍、何十倍になるかもしれません。ディーラーとしては手強いライバルが増えるのでちょっと遠慮して欲しいところですが……」

 和泉は肩を竦めた。袴田が口を開く。

「海外に脱出した可能性はありませんか? 捜査の目を逃れるにはそちらの方が……」

「日本と海外では微妙に取引所のシステムが異なります。空売り規制の程度や引け注文の取り扱い。昼休みの有無などがありますので、アルゴリズムがそのままでは使えません。今のタイミングでわざわざ海外仕様に作り替える手間をかけるとは思えません。ファンドに入って恒常的に利益を稼げるようになってから、手を広げる可能性はありますけどね……。それに、彼女は一般人ですからね。普通にパスポートを見せて飛行機に乗る以外の手段を持っているとは思えません。行き先が丸わかりです。そんな危険は犯さないでしょう。まあ、彼女を見つけたところでもはや意味はありませんけど……」

「では、我々に出来ることは、打てる手は、もう何もないと?」

「ええ。そう思います。そして、篠さんもそのことを知っています」

「……え?」

 千束が眼を瞬かせた。

「数日前、僕は彼女に話がしたい、と申し入れました。その時点で彼女は、僕がすべての経緯に気がついたことを悟ったのでしょう」

 和泉は電話口での淡雪の声を思い出した。会って話がしたい、と切り出した和泉に、彼女は一瞬の迷いもなく、日時と場所を告げた。少しだけ、嬉しそうな声だった。

「僕は今日ここに十時に呼ばれた。五分刻みで、警察、公正取引委員会、そして白石君。ホストとして東君と平山さん。関係者全員を集めて、すべてを僕に語らせるという趣向なのです。姿をくらましたのは、警察や天沼君に付きまとわれるのが面倒だからでしょう。このサークルでやり残したことはもう何も無いはずですし」

「淡雪先輩はなぜそんな趣向をするんですか? そんなことをしても意味がないじゃないですか。先生が語らなければ、自分が追われることだって無いのに……」

 千束が言いつのる。

 和泉は少し逡巡した。

 真剣な千束の目。

 すっと伸びた鼻筋。

 ルージュが乗った唇。

 頬には薄いチーク。

 初めて会ったときから

 もう三年が経った。

 年月を意識する。

 和泉は、

 優しい声で、

 宣告した。

「君の所為だよ」

「え?」

「白石君の所為で、彼女はそうせざるを得なくなったんだ」

 千束が呆然と見返す。和泉は、テーブルの真ん中に向けて言った。

「彼女がこんなことをしているのは、天沼君を救済するためです。山中君を殺した件について、天沼君が罪に問われることがあってはならないと思ったのでしょう」

 和泉は一度言葉を切った。千束はじっと見つめていた。

「白石君が篠さんに連絡した。その際、サークルの資産管理についての話題を出した。つまり、天沼君が逮捕された後、キャビネットを利用するのが誰かという話です。その時点で篠さんは、白石君が天沼君を疑っていることに気がついた」

 千束が、

 下唇を噛んだ。

「彼女はだからこんな回りくどいことをしているのですね。天沼君が罪に問われることの無いように。こうして僕に語らせることで、すべて自分がやったことだと関係者は知ることになる。絆創膏を救急箱に戻していないのもその現れでしょう。けれど、彼女がやったという確実な証拠は何もありません。状況証拠としては事故死の方が採用され、彼女が逮捕されることはない。見せ玉の罰金や課徴金については彼女が代わりに支払うつもりなのでしょう」

 和泉は言いながら周りの反応を見た。あまり納得していないようだった。淡雪のアルゴリズムにしては、少し詰めが甘かったかもしれない。しかしそれは、彼女自身の言葉が出せないこの状況では致し方ない部分なのだろう、と判断する。

「正直、彼女の意のままに動かされている実感があります。少し悔しいですが……。でも、天沼君のことを考えると、言わずにはいられませんでした」

 沈黙が落ちる。静寂の中で和泉は淡雪のことを考えた。

 和泉が淡雪と直に対面したのは一度きり。この部室でだった。話題はもっぱらディーリングとアルゴリズムについてだった。わずか数時間の邂逅。しかしその類い稀な知性と観察力で、和泉の中に強烈なインパクトを残していった。

 淡雪の顔を思い出す。整った顔立ちに、微笑が浮かんでいる。アルゴリズムの話をしたときの、プリミティブな喜びに爛々と輝く瞳が印象的だった。

「個人的に、今回の計画は非常に彼女らしいという印象がしますね。彼女が作っているアルゴリズムに、ある意味で非常に近い」

「近い? 株取引と殺人がですか?」

「発想が、という意味です。つまり、物事は不確定性である。それを強く意識した計画です。例えば……、キーに細工をして山中君の指に傷を付けたトリックですが、結果的には成功しました。しかし先に述べた通り、彼が注意深くて怪我をしなかった可能性は大いにあります。もちろん怪我をしなくても計画の大筋には問題は無い。それでも彼女は仕掛けを施しておいた。なぜならそれが成功すれば死因を事故死に見せかけられる確率が高くなる。新入生をサークルに引き込んだのもそうです。アリバイだけなら一人でも、どこかの店に入って店員に覚えてもらえば問題ない。そもそも計画のタイミングとして、新入生が入る前に天沼君が逮捕されていた可能性もあった。けれど、よりアリバイを強固に出来るかも知れない。捜査を攪乱できるかも知れない。その判断の基で計画を組んでいるのです。恐らく、成功しなかったトリック、あるいは僕たちが気づいていない方策も数多くあるのでしょう。この計画の中に、一○○パーセント必要なことは何一つ無いのです。極端な話をすれば、事故死でなく変死と扱われても、アリバイがあれば逮捕されることはない。天沼鏑の取引がアルゴリズムを使っていたと発覚しても、彼女が罪に問われることはない。その後の行動に若干の制約が出たとしても致命的なものにはならない。極めて高いフェイルセーフを誇っています。最大損失を限定した上で、自分が有利になる要素を丹念に積み上げていく」

 和泉は淡雪のパソコンを見た。置いていったようだが、当然データは完璧に復元不可能になるよう消去されているだろう。あるいは、記憶デバイスだけは持っていったのかも知れない。

「世界は数式ではないのですからね。不確定で予測不可能な要素が必ず紛れ込む。自分から能動的に状況を進めるのでなく、天沼君逮捕直後という、自分が勝ちやすい状況が出来るまでじっと待ち続ける。そして目的を達成するために、極力勝率を高める方策を出来る限り多く練って実行した。とてもディーラー的で洗練されていない、しかし極めて画期的で有効性の高いアルゴリズムだと言えるでしょう」

 誰も何も言わなかった。

 千束がテーブルの下で、そっと和泉の手を握った。

 和泉はそれを解かなかった。

 温かい手。

 先日、この部屋で握った淡雪の手とは違っていた。

 インターフォンが鳴った。

 和泉は思わず自分の腕時計を見た。

 ちょうど十一時を指していた。

 平日なら、相場が休みに入る時間。

「はい?」

 警察が身構える中、東が受話器を上げる。

 室内からの問いかけるような視線。

 しかし短い会話の後、東はあっさりと解錠スイッチを押した。

「ええと」東は困ったように言った。「小宮さんでした」

「有紗?」千束が首を傾げた。「もう、こんなときに、紛らわしいんだから……!」

「ええと、コーヒー、淹れ直しますね」

 東が手早くカップを集めてキッチンに向かう。慌てて千束が手伝いに向かう。

 扉が開いて有紗が部屋に入ってくる。ぎょっとした顔で、皆が有紗の方を見た。

「こんにちは。……あら、お客様がいっぱいですね」有紗はダイニングに入って、おっとりとそう言った。「千束までいるのね。そうと知っていたら、今日は来なかったのに。淡雪先輩もお人が悪いんだから……」

「ちょっとそれ、どういう意味?」

 千束の低い声に、有紗は反応を示さなかった。和泉に向かって艶やかに微笑む。

「お義兄様もお久しぶりです」

「おにいさま?」

「お義兄様はやめてくれ。それに毎週のように僕の部屋に来ているじゃない。それと、白石君の友達って有紗ちゃんだったの?」

「あ、有紗ちゃん? 部屋に来た?」

「……そうか。考えてみれば高校も大学も一緒だったっけ。最近急に株について質問してきたのはサークルに入ったからか……」

 和泉は二度頷いた。有紗は勝手に和泉の隣に座る。先程まで千束が座っていた席だった。

「ええ。千束とは親友ですの」

「ちょっと、有紗……」

 千束が両手一杯に洗ったばかりのカップを抱えて戻ってくる。ゼロイチ銘柄の様に大きな足音だった。テーブルの上に乱暴にカップを置く。陶器が触れあって高い音を立てた。

「なぜ貴女は和服を着ているの? おにいさまってどういうこと? なぜ先生のお宅に通っているの? 有紗ちゃんって何? どうしてそこに座るの? それと」千束は一度息を吸い込んだ。「今日から私と有紗は親友なんかじゃない!」

 和泉は目を丸くした。こんな千束は初めて見た。

「ええと、よくそんなにいっぺんに質問できるね……」

 しかし、有紗はしれっと答えた。

「この服は私のお洒落着の一つです。俗な言葉で勝負服とでも申しましょうか……。お義兄様とお逢いすると判っておりましたので、少し粧し込んでみました。和泉先生と私は実の兄妹ではありません。私の姉と先生のお兄様が結婚されたので、姻戚ではあります。最近では水曜日に先生のお留守にお部屋にお邪魔して、夕餉を準備しながら待っていました。殿方の一人暮らしですし栄養が偏ってはいけませんからね。そうそう、合鍵は先生のお兄様が海外転勤になった際に譲り受けたものですし、同衾などしているわけではないので気にすることはありません。有紗というのは私の名前で、初めてお逢いして以来ずっとお義兄様は私のことをちゃん付けでお呼びになります。当時私は小学校の低学年でしたから、その名残ですね。少し恥ずかしいですけど、でもお義兄様の優しさが感じられてこそばゆく面映ゆく、誠に重畳です。この椅子が空いていて、隣に敬愛するお方がいらっしゃるのですから、この席を選ぶのは当然の帰結かと思います。それから」

 有紗は千束の頬に手を伸ばした。

「私はお義兄様のことを敬愛していますけれど。愛しているのは千束一人だけです」

「……なっ!? えっ?」

 千束が絶句する。頬に有紗の手が優しく添えられる。

「うわ! うわ!」瑠夏が華やいだ声を上げる。「それって、マジ告白!? きゃー」

「え、だって……。女同士じゃないか」東が上擦った声を上げる。

「個性の差の前に、性別なんて些末な問題です」

 有紗は落ち着いた声でそう返した。薄く微笑んだまま千束の方を見ている。千束の頬が、少し朱くなった。

「え、えーっと?」千束は少し俯いた。「あ、ありがとう?」

「……まあ、返事を期待しているわけではないですけど……」

 有紗が、無表情に呟く。手をゆっくりと下ろした。千束は戸惑ったようにその顔を見返し、それから柳眉を逆立てた。

「有紗、貴女……! 高校のときからずっと、和泉先生のことを知っていて黙ってたのね!」

「あ、いけない。今日ここに来た目的を忘れていました。お義兄様、どうぞ」

 有紗が和泉に封筒を差し出す。白地のシンプルなもので、切手はおろか宛名も差出人も書かれていない。

「これは?」

 和泉は首を傾げながら受け取る。

「淡雪先輩からです。昨晩お会いいたしまして、今日の十一時にここに持ってきて渡すように頼まれましたの」

「なっ……!」

 刑事たちが色めき立つ。

 有紗が不思議そうに首を傾げた。

 和泉は少し震える手で封を切った。

 中にはシンプルな便箋が一枚。

 中身もわずかに一行だけ。

 彼女のアルゴリズムに欠けていた

 最後の一ピースがそこにあった。

 思わず、和泉は笑ってしまった。

「先生、何が書いてあったんですか?」

「ん」和泉は便箋を折り畳んで、元の通り封筒にしまった。

「とても刺激的な、デートのお誘いだよ」




     *




     ―――また、市場でお逢いしましょう。


                     篠 淡雪―――




     *

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