第5話 角速度の変化についての観察 -The Observation of Anguler Velocity-
和泉隆平は思索に耽っていた。
普段通り、会社の自分の席に座っていた。今は場間で、先ほど昼食を近くの蕎麦屋で食べてきたところだった。少し食べ過ぎてしまったようで、胃が円高の日の自動車株のように重たい。
昨日は結局、道端で刑事たちの事情聴取を受ける羽目になった。部室に行った理由以外、和泉に話すことはなかった。しかし千束は事件当日の状況やサークル内部の様子について根掘り葉掘り聞かれていて、和泉も状況をかなり事細かに知った。
部屋の前方に掛けられた株価ボードを確認する。為替も海外市場もほとんど動いていない。シンガポールに上場している日経平均先物も、前場の終値から動いていなかった。もっとも、今日はオーバーランチした銘柄は一つも無いので、動いたところで特に問題はない。
発注端末を見てみる。後場寄りの注文受付はすでに始まっているが、特に怪しいものは見当たらない。ファンドか投信のクロス注文なのか、大型株には売り買い共に注文が入っているが、数量が拮抗しているので大きな影響は無さそうだった。
「よう。調子はどうだ?」
「あんまり良くないね……。前場はほぼトントン」
答えながら振り向くと、背後には榊と栗田が並んで立っていた。どうやら二人で一緒に食事をしてきたようだった。
「ふうん。トレンド出て全体的にうねうねしてたから、今日は儲かってるのかと思ったけどな」
「いや、あんまり手が出せなくて」
和泉が首を振ると、榊はぽんと肩に手を置いた。
「まあ、そんな日もある」
「知ってる」
榊は和泉の隣、栗田の席に勝手に座った。自分の椅子を取られた栗田はそこに立ち尽くしたが、特に何も言わなかった。
「和泉さん、アルゴ作ってる人と知り合いなんですよね?」
「昨日からね」和泉は横目で見た。「榊もだけど。どうして?」
「いや、だって。あのアルゴの注文ってウザいじゃないですか。どうにかする方法ないかなって」
「ああ、あれね……」和泉は三秒くらい考える振りをした。「昨日知り合った人が作っているのは、そういうアルゴリズムじゃないみたいだったよ」
和泉はそう正直に言った。栗田の言うアルゴとは、直近の値段から一円離れた場所に出続けている大きな注文のことだ。株価が動くと、その注文もそれに合わせて上下し、約定することはほとんどない。板に表示される数が大きくなるためついつい惑わされてしまうが、それを当てにするとあっさり逃げられる。無視しようと努めるが、他の本物の注文の数量も判然としなくなるため、ディーラーにとっては非常に厄介な注文だった。
「どうしても、あれに騙されちゃうんですよね」
「結局無視するしかないよ……。注文を分解して数量に当たりをつけてさ。値段が動くときにどう変化するかちゃんと見張っていれば、そんなにやられ続けるってことはないと思う」
和泉は溜息混じりにそう言った。栗田は新人なので一応言葉にして伝えたが、そんなことはすでに解っていることだろう。実践にいたるまではある程度経験が必要にはなるが。
「他にアルゴってどんなのがあるんですか?」
「色々。目的によって違うよ。僕たちみたいに、稼ぐのが目的じゃないものもあるし……」
「……え?」栗田の目が丸くなった。真円からほとんど誤差がなかった。「いや、それって。どんなのですか?」
「投信とかが使うやつだね。VWAPとかTWAPとかそんなの」和泉は簡単に説明した。「指数連動型の投信とかだとさ、今日中に五十万株買わないといけない、みたいなオーダーが来ることがあるらしいんだ。一定時間毎に、とか、約定数量に合わせて、なんていう条件で注文を自動的に出すアルゴリズムがある。儲かるかどうかじゃなくて、ただ注文をその日のうちにいかに効率よく約定させるか、しか考えてないアルゴリズム」
「そういうのは早めに気がつければ稼げるぞ。五分おきに成行で買い注文が入る、とかいう美味しい場合もあるからな。早めに気づけたら、いっぱい仕込んで放っておいてボロ儲け」
榊の説明に和泉も頷いた。榊はその手の注文を見つけるのが上手いし、強いと思えば放置して我慢していられる精神力がある。自分にはちょっと真似できない手法だった。
いつそのアルゴリズムが予定枚数を発注し終えるか不安になってしまう。だから雲行きが怪しくなるとつい手放してしまう。しかしアルゴリズムがまだ途切れておらず、値上がりして悔しい思いをする。そんなことを頻繁にやってしまう。
逆に榊は信じ切って大引けまでポジションを維持する傾向にある。もちろん、早い段階で予定枚数が約定し、反落して大きな損失を出すこともある。
いつアルゴリズムが終了するのか、見ているディーラーの誰にも確実なところは判らない。細かい雰囲気を感じとろうとする者もいれば、期待値が高い方に決め撃ちする者もいる。和泉は前者で榊は後者だった。そして、こういった商いに関しては榊の方が明らかに稼ぎが多い。
「普通に利益を出すことを目指すアルゴリズムもあるんですよね?」
「あるけど……」和泉は首を二十五度ほど傾けた。「多分、見ている限りではアルゴだって気がつかない。普通に買ってきて、普通に売ってくるから。ディーラーとかデイトレーダーの注文と変わらないよ」
「昨日の……篠さんだっけか? 彼女もそんな感じだったな」
「そうだね。かなりディーラーの感覚に近い」
「え? 女性だったんですか?」
栗田がまた目を丸くした。そのまま固定してしまっても特に問題なさそうだった。
「ああ、K大の……無茶苦茶綺麗な娘だったな、あれ。銀座にも中々いないレベル」
「褒めてるのか、それ……」
「うわ、うわ。マジっすか!?」
「おう。でも俺にはアレは駄目だ。言ってることが難しすぎてワケ解らん。ディーリングの話してるのにさっぱりついていけなかったのは初めてだ」
「まあ昨日のは……」和泉は頷いた。「ほとんど数学とプログラムの話だったからね。ちょっと物理も混じってたかな」
「あー」栗田が呻いた。「僕も駄目です、それ。数字見るとジンマシン出るんで」
「板すら見られないね、それ」
「っつーかな。結局一番儲かるのは手でディーリングしてる奴なんだよ。アルゴなんて俺様の足下にも及ばないぜ」
榊が吠える。
「大体さ。誰にだって真似出来るってのが、もう駄目だよな。早い者勝ちになっちゃうじゃん。実際さ、昨日帰ってから、ファンドに勤めてる知り合いに訊いてみたんだけど、やっぱり情報流出には無茶苦茶厳しいらしいぜ」
「まあ、そうだろうね」
「逆に、自称ファンドマネージャーとか似非数学者とかからアルゴ持ち込まれたりするんだってよ。でも内容明かすと価値が無くなるからって、秘密のまんま百万で買えとかいう無茶な営業をかけられるらしい。絶対毎月一千万儲かりますって」
「そんなの、嘘に決まってるじゃないですか!」
「もちろん門前払いばっかりなんだけどさ。でも半年くらい前にネットに公開されたアルゴが、凄く出来が良かったらしくて。無茶苦茶儲かるからって、一部自社のシステムに取り入れたりとかもしたらしい。世の中、とんでもない奴がいるって言ってたよ」
「ふうん……」和泉はボンヤリと頷いた。「まあ自称スーパーディーラーとかスーパーデイトレーダーは山ほどいて、でも本物もごく稀にいるからね。スーパーアルゴリズムにも一つくらい本物があるかも」
「まあ、スーパーじゃなくても、そこそこ稼げるディーラーもいるからな」榊が和泉の肩を叩く。「栗田。お前も早く一人前になれよ」
「はい!」
「お前な、そうすりゃ銀座の女の子にだってモテモテだぞ」
「はい!」
「まあ、その場合モテてるのはお前自身じゃないけどな!」
和泉は鼻をひくつかせた。少し、嗅ぎ慣れた匂いがする。
「っていうか、そんなことはどうでも良いんだよ!」榊が和泉の方を向き直る。「千束ちゃんだよ、千束ちゃん!」
「……白石君がどうかした?」
顔に息を吹きかけられて、和泉は眉をひそめた。
「おい、あの娘、うちの会社で雇おうぜ。事務かなんかでさ」
「就職活動はまだ先だよ」
「じゃあ、あっちの……瑠夏ちゃんだっけ。あの娘」
「ああ……。あの娘は僕も初対面だから、よく知らないけど……。あんまりOLは向いてないんじゃないかな」
和泉は瑠夏を思い出しながら言った。平均値から乖離しているという意味で、特徴的な娘だった。ただ、乖離の方向性という意味では、さほど珍しくはなかった。ユニークという点では、千束などの方がよっぽど希少だろう。
「それより、榊。お前昼から飲んできただろ」
「お? 判る?」
「それだけ息を吹きかけられればね。誰にでも」
「良いの良いの。今日は儲かってるから」
和泉は肩を竦めただけで何も言わなかった。実際のところ、ディーラーというのは他人に迷惑をかけない範囲で儲かれば何をしても許されるという側面がある。勤務時間も態度も、稼ぎさえ上がっていれば何も言われない。
この会社にも、引け職人という一風変わったディーラーが一人いる。十五時直前の、引成や引指が多く出る時間帯しか商いをしない。十四時頃ぶらぶらとやってきて相場を見始めて、十四時半くらいから注文を出し始める。大引けには全てのポジションを解消し、十分後にはもう会社を出ている。一ヶ月ののべ労働時間はわずか二十時間余り。しかしそれでも毎月終わってみれば数百万の利益を出していて、しっかりインセンティブを貰っている。それが許される職場なのだ。昼に少しビールを引っかけるくらい大した問題ではない。あくまで儲けを出し続けていれば、だが。
「栗田は……さすがに飲んでないね」
「はい、さすがに……」
「俺が許さなかった。偉いだろ?」
気がつけば後場寄りまで後十分ほどだった。榊は立ち上がって自分の席に戻っていた。足取りはしっかりしていた。栗田がやっと自分の席に座る。
後場が始まる。前引けからほとんど動いていない。為替も海外も商品も動きは見られない。とりあえずはニュートラルのまま静観する。
昨日、榊と訪ねた部室の様子が頭をよぎる。
―――東と名乗った男。
―――千束の先導。
先物に、
大きな売り注文。
―――地下に停めた榊のベンツ。
―――マンションの入り口のオートロック。
先物、
二○円ヤリ。
225銘柄に一斉に売り。
―――出されたコーヒー。
―――淡雪と名乗る女性。
―――派手な女子大生。
為替は動かない。
輸出株に狙いを絞る。
六百五十二円買い。
三円ヤリの、
トントン。
―――死体があったという、
―――リビングに並ぶ、
―――九面のモニタ。
板が苦しくなる。
五十三枚、
買いをセット。
―――足下のパソコン。
―――業務用のルータ。
追加で売りが出る。
断続的に約定。
―――大仰なUPS。
―――転がっていた、
―――スタンガン。
反転。
二円ヤリ。
買いを差し込む。
約定が、
一瞬で返ってくる。
再度反転。
二円が買いに戻る。
―――高電圧。
―――感電死。
追加の売り。
ついてくる買い。
―――パソコン。
―――アルゴリズム。
「一○円ヤリ!」
栗田の声。
思わず、
身が固くなる。
一斉に売り乗せ。
失策。
先物の様子を、
見ていなかった。
一瞬で二円ヤリ。
躊躇。
一円に二枚約定。
二円に大量の売り。
ショートセル。
買い増し?
投げ?
決められない。
一円に二十二枚追加売り。
―――ディスクボックス。
―――周波数。
二円から値下げ。
一円から抜かれる。
―――流出。
―――不仲。
六百五○円を確認。
分厚い。
―――自動発注。
―――幻聴。
―――淡雪の声。
―――「それと、自分が相場を見続けている必要がありません」
一円ヤリ。
注文は、
出さず。
―――kabra。
―――留置場。
売りが、
止まる。
―――接見。
―――山中。
ゼロ円が、
つかない。
二円が、
降りてこない。
―――逮捕。
―――事情聴取。
追加で買いをセット。
五十三枚。
―――見せ玉。
―――否認。
一枚だけ、
売りをセット。
ゼロ円に投げる。
―――天沼鏑。
―――山中悟。
一枚約定。
ダウンティックが解消され、
二円の売りが一気に、
一円に降りてくる。
―――篠淡雪。
―――東健吾。
―――平山瑠夏。
一円に八十枚の売り。
ゼロ円は百二十枚買い。
―――白石。
―――千束。
セットした買いを、
八十五枚に増やす。
息を一つ吐いて。
発注。
一円がひっくり返る。
―――千束の顔。
―――彼女はどうして投資サークルに入ったのだろう。
買いがついてくる。
しかし、
溜まらない。
二十枚。
―――誰も居ない、鍵のかかった、部室。
―――鍵は、室内と、警察と、秋葉原。
売りが出る。
買いをセット。
―――すなわち、ゼロだ。
―――部屋には、誰も入れない。
三十一枚。
絶対に、
ヤリにしたくない。
―――リビングの死体。
―――転がっていたスタンガン。
売りに押される。
ひっくり返る。
即座に発注。
―――留置所に居た、kabra。
―――買い物をしていた、千束たち。
再度買いになる。
ついてこない。
ポジション確認。
―――誰も入れない、部屋。
―――誰も入っていない、部屋。
百三十六枚持ち。
五十円はちょうど百二十枚。
―――スタンガンの周波数。
―――商用電源の周波数。
「○円ヤリ!」
栗田の声。
頭が、
真っ白になった。
売りが出る。
一瞬で、
五○円が反転。
四十九円が、
抜かれる。
九円が約定。
五十円に大型の売り乗せ。
八円まで抜かれる。
五十枚売りセット。
九円に、
発注。
約定が、
返って来ない。
押し負けた。
八円が抜かれる。
先物を見る。
トントン。
戻る気配もない。
残り枚数を、
すべてセット。
八円がつく前に、
息吐く暇も無く、
成行でぶん投げた。
三文ぶち抜き。
八円で三十五枚約定。
七円で二十七枚。
六円で十四枚。
一気に七円まで売りが詰まる。
九円に五十枚売りが残ったまま。
六円の買いは三十五枚。
静観。
先物。
トントン。
今になって、
背筋が寒くなる。
七円に大きい買い。
反転。
買いが詰まる。
明らかに、
投げた玉を見て、
買われた。
八円がつく。
断続的に買い注文。
恐らく、
空売りの買い戻し。
九円から十枚スライド。
約定が返ってくる。
八円が、
買いになるのを待って、
残る四十枚をスライド。
先物。
トントン。
時折細かい買い。
約定が返ってくる。
ようやく、
ポジションを外し終えた。
損益確認。
今の商いだけで、
四十二万七千円の損失。
「ふう」
意識して声に出して呟く。それから背もたれに深く身を沈めた。腰の下で、ぎし、と金具が鈍い音を立てた。
頭を二度、左右に短く振ってから、和泉は立ち上がった。両手を腰の後ろに組んで歩き、部屋を出る。エレベーターホールに設置してある自動販売機のところに向かった。
冷たい缶コーヒーを買う。ブラックの液体は、下品な苦みがした。缶を右手に持ったまま、ホールの壁にアザラシのように寄りかかる。
明らかに、今日は商いに集中出来ていないという自覚がある。瞬間的な板の状態ばかり見ていて、潜在的なディーラーのポジションの状態をまったく考慮出来ていない。そもそも、先物の確認すらろくにしていなかった。
右手でこめかみを掴んだ。疲れた目を癒すように、指先に力を入れる。ディーリングルームから流れてくる短波ラジオが切れ切れに相場の状態を伝えている。やはり後場寄りから売りが出て下に走っているようだった。無理に大きくポジションを取って粘着するような相場ではない。落ちきったところをピンポイントで買って、少し戻したところで利食うのが、いつもの自分の商いだった。
「ううん」
先ほど、商いをしている最中に何か閃いたことがあった。壁に寄りかかったまま脳の中身を洗い出してみる。中々見つからない。さすがに四十万の損失は痛い。そんなことばかりが浮かんで思考の邪魔をする。とても、気分が悪かった。
こつこつ、と頭を叩いてみる。引っかかっているネジすら落ちてこない。
諦めることにした。
缶に残った液体を全て飲み干し、壁から背中を離す。自販機の隣に設置されたゴミ箱に空き缶を投げ捨て、ぶらぶらとディーリングルームに戻る。隣の席の栗田か、ちらりと横目でこちらを見た。
「今日は先に帰るから」
ポジションを持っている様子もなかったので、和泉は栗田にそう声をかけた。栗田は少し驚いた様子だったが、小声で、お疲れ様です、と言った。
和泉が場中に早退したのは入社して以来初めてだった。鞄を持って部屋から出る。エレベーターで一階まで降りる。
扉の上の表示を見上げる。数字が、一つずつ減っていく。
その瞬間、
和泉は思い付いた。
*
白石千束はとりあえず息を潜めた。
「それで、千束はそのとき、どうでしたか?」
有紗がテーブルの向かい側に座った東と瑠夏に問いかける。昨日のサークルには、有紗はどうしても外せない用事があると言って不参加だった。それを少しでも取り返そうとしているのか、身を少し乗り出して、興味津々だった。千束のところからは、花柄のシュシュで纏められた豊かな髪の毛ばかりが見える。
「ええと」東は顎に手を当てて少し考えた。「別にどうということはなかったけど」
「ちょっとだけねぇ、口数が少なかったよぉ」瑠夏が意地悪い目で答えた。
「なるほど、そうですか」有紗は大きく頷いた。「それはそれは」
「有紗」上下する後頭部に、結局千束は声をかけた。「普通、和泉先生について聞くものじゃないの?」
「それは、直接判断すれば済むことですもの。比較するサンプルがある対象の方が、訊いている分には面白いわ」そして有紗は振り向いて、にやりと笑った。「それとも、訊いて欲しいのかしら?」
「……別に」
大学の近く、駅の反対側にあるイタリアンの店だった。窓側の席に千束と有紗が並んで座り、向かい側には東と瑠夏。四人は少し遅い昼食を摂りに来ていた。
淡雪は今日も天沼と接見している。部室やサークルとしての共有財産について、色々相談があるそうだ。もっとも、天沼が有罪になるかどうか、どれくらいの利益が差し押さえになるかによってかなり扱いは変わってくるようだった。
千束は淡雪の顔を思い浮かべた。滅多なことでは表情を変えないため、何を考えているのか判りづらい。ただ、日曜の和泉との会話は楽しそうだった。
少し面白くない。そう考えている自分に心の中で苦笑する。引き合わせたのは自分だし、そもそも負債を返済しただけだった。
「そういえば」千束はお冷やのグラスをつつきながら言った。「あの後、警察から事情聴取を受けました」
「やっと?」
「はい。なぜか和泉先生は三回目だったみたいですけど」
「三回目?」東が首をひねった。「和泉さんはうちのサークルと全然関係ないのに、どうしてだろう」
「さあ……? 質問の内容も、当日の様子をまた訊かれただけですし」
「内容に矛盾や変更点が出ないかどうか、チェックしているのかしら。それとも、答える貴女の態度を見て怪しいかどうか見ているとか……」
「どちらも有り得そうだね」
「捜査に進展が無い、と端的に表しているのは確実ですけど」
ウェイトレスがパスタを運んでくる。千束と瑠夏はカルボナーラ。東はミートソースで、有紗はペペロンチーノだった。サラダが全員についてきている。四人は一斉にフォークを手に取った。
「正直、どう思う?」
「少し茹ですぎの様に思います。ガーリックは炒めすぎ。オリーブオイルは中々。つまり、美味しいです。値段を考えると、奇跡的な出来と言っていいでしょう」
「すごおい! 料理評論家みたい」
「褒めているのか貶しているのか……」
「いや、パスタのことじゃなくて」東が苦笑いしながら言った。「事件のこと」
「事件というのは」有紗がフォークを咥えて首を傾げた。口の中の物をきちんと咀嚼してから続ける。「見せ玉のことですか? それとも、山中先輩の方?」
「どちらかと言うと山中先輩の方だけど。正直なところ、タイミング的に二つの事件が無関係だと考えて良いのか迷っている」
「ああ……」有紗は頷いた。「言いたいことは解りますけど……。誰かが天沼先輩に見せ玉をやらせるっていうのは不可能なのではないでしょうか?」
千束は少し感心した。いつの間にか、有紗がきちんと証券用語を理解して使いこなしている。そういえば、まだ本は貸していなかった。独学で勉強したのだろうか。
「それはそうなんだけどさ……」山中はパスタをくるくる巻きながらそう言った。毎秒2πくらいだと千束は見積もった。まめな性格をしている割に。あまり手先は器用ではないようだ。
「タイミング以外に何か、関係があると思う理由があるんですか?」
「うーん。誰にも言わないで欲しいんだけどさ」東は言葉の割に、ほっとした顔を作った。「天沼先輩と山中先輩の仲って、悪かったからさ。それが気になっていて」
「たしかに微妙な雰囲気でしたけど」有紗は今度はサラダにフォークを向けた。「何かきっかけが?」
「そうなんだよぉ。それも極めつけのがぁ」
瑠夏はそう言って、一度店内を見渡した。それから声を潜めて続けた。
「去年の秋くらいなんだけどね、天沼先輩が山中先輩の彼女を取っちゃったんだぁ」
「天沼先輩が」有紗は意外そうに呟いた。「山中先輩の彼女を? 反対ではなくてですか?」
「うん。そうなんだよね」東が答えた。
「趣味が悪いですね。二人とも」
「……二人?」千束はフォークを口に運ぶ手を止めて、言葉を挟んだ。「その彼女がではなくて?」
「それもずいぶんな言いぐさだけど……」
東が小声で言う。千束は笑って誤魔化した。
「もちろん、天沼・山中両先輩のことです。淡雪先輩という至高の存在がいらっしゃるというのに、一体何を考えていらっしゃったのでしょうか。私にはさっぱり理解出来かねます」
「有紗。高嶺の花って言葉があってね……」
「いや、その女性も中々可愛かったけど……」
「えぇ!? 瑠夏、あの人嫌い!」
東の言葉に、瑠夏が膨れた。
「いや、そういう意味じゃなくてさあ」
「それは解ってるけどぉ……」
目の前で繰り広げられる茶番劇に、千束はこっそり溜息を吐いた。それから、もしかして女の子とはこうやって甘えなくてはいけないのだろうか、と少し不安になった。
「でもやっぱりちょっとどうかと思う人だったね。天沼先輩になびいたのだって、プレゼント攻勢の賜だし。結局貰うだけ貰っておいて、別のイケメンの彼氏を作って天沼先輩も振っちゃった」
「今、その方はどちらに?」
「もう卒業したよぉ」
「たしか、地元に帰って就職するとか聞いたかな。関西の方で公務員だったはずだけど。彼氏もそっちの出身だって噂」
「じゃあ、あんまり今回のことには関係なさそうですね」
有紗が興味を失ったように言う。しかし東は続けた。
「直接的にはね。ただ、やっぱりそれからずっと天沼先輩と山中先輩の仲はぎくしゃくしていたから……」
「でも、去年の秋なのでしょう? 今更になってわざわざ何かをする理由が分かりません。目の前でいちゃいちゃされ続けていたら、殺意を抱いてもおかしくないかもしれませんけれど」
有紗の言葉に少し棘があった。しかしそれを咎める気にはならなかった。
「有紗じゃないですけど」千束はふと気になって訊いた。「そこに淡雪先輩が絡んでくる可能性は?」
「二人が淡雪先輩を好きだったってこと? 無いと思うな。俺が入る前のことは知らないけどさ。少なくともこの一年、そんな気配はまるで無し」
「どう考えても脈無しだからねぇ」瑠夏が同意した。「あ、でも、昨日の和泉さんには少し興味を示してたかも!」
「え!?」有紗が大きく反応する。「淡雪先輩が和泉先生にですか!?」
「う、うん……」瑠夏が戸惑ったように頷く。「なんか少し楽しそうだったしぃ……」
「でも、ちょっと同好の士って感じだったかも」東が補足した。
「……そうですか」有紗が息を吐いた。「なるほどなるほど。和泉先生の方はどんな感じでしたか?」
「さあ……。初対面だから、なんとも」
東が歯切れ悪く答える。千束は自分に視線が集まったことを自覚したが、気づかないふりをした。カルボナーラにフォークを差し入れる。
「まあ、それは事件に関係無いことですし、良いでしょう。他に二人の間にトラブルみたいなことはありましたか?」
「いや、特には無いと思うよ。金銭的なところも無かったと思うし……。部室の家賃は天沼先輩がほとんど出していたはずだけど、それについて話題になったことも無いしね」
千束はパスタをくるくると巻きながら、何か引っかかっていた。頭のどこかに、何か関連性の糸がピンと張られていて、それが気にかかる。だが、どこに繋がっているのか判らなかった。
糸の周辺を整理する。不仲だったという天沼と山中。たしかに二人の態度に、違和感を覚えたことはある。淡雪も少し距離を置いていた印象があった。立ち上げメンバーの同期の三人だが、一枚岩とはとても言えない状況だったようだ。
「私たちが入るまでの、サークルの様子はどうだったんですか?」
「それはもう……」瑠夏は猫のように笑った。「最悪ぅ。視線を合わせようともしないしぃ」
「でも意地になってるのか、二人とも毎日部室に来るし……。だから他のメンバーも、全然顔を出さなくなっちゃってさ」
東が溜息混じりに同意した。
「そうか……」千束はフォークを回しながら言った。「だから、淡雪先輩と東先輩は新人の加入に積極的だったのですね」
「うん、まあ。俺はそうだよ。淡雪先輩はよく判らないけどさ。騙したようで悪いけど、でも二人が入ってくれて正直すごく助かった」
「本当だよぉ。なんか空気、どよぉんとしてたもん。二人が来てから、みんなだいぶ明るくなったよね」
「私は、純粋に自分の楽しみのために来ているだけですから。お礼を言われる筋合いはありません」
有紗はにっこり微笑んで、ぴしゃりと言った。
「ところで、天沼先輩の方が山中先輩の彼女を寝取ったのなら、山中先輩を殺害する理由にはなりませんね」有紗が突然話を戻した。「逆ならありえますけど。それとも、天沼先輩が振られたときに、一枚噛んでいたのかしら」
「ええと」東は首を傾げた。「それは無いと思うな。でも、絶対に、とは言い切れないけど……」
「瑠夏は無いと思うよぉ。あの頃の山中さんって、心底諦めきっていた感じだったもん。自分には金も外見も無いって……」
「お金とか顔とか、つまらない女。まったく、美学というものが感じられない」
吐き捨てるように有紗は言った。
「ところで千束。貴女、いつまでそのパスタを回しているのかしら?」
「……え?」突然水を向けられて千束は慌てて手を止めた。「ああ、ごめんなさい……」
巻き付けたパスタを口に運ぶ。一口には大きすぎるサイズになっていたが、何とか全てを収納する。苦労しながら咀嚼し、飲み込んでから訊く。
「他に何か、天沼先輩が山中先輩を恨むような理由は考えられませんか?」
「知らないけど……。あれだけ剣呑な雰囲気を醸し出していれば、知らないところで言い争ってたとかは有り得るけど」
「でもでもぉ。最近はちょっとマシになって来てたよ?」
「あら? 天沼先輩を疑っているの?」
有紗が訊く。千束は考えを纏めながら答えた。
「疑っているというか……。可能性を考えているだけ。山中先輩が亡くなったとき、カードキーの問題があって、他の誰もこの部屋には入れなかった。だったら、留置所だろうと秋葉原だろうと、条件は変わらないでしょう?」
「その論理は正直飛躍していると思うけれど」有紗はサラダの最後のレタスをフォークで突き刺しながら言った。「可能性というなら、たしかにそうね」
「他に山中先輩と仲が悪かった方はいらっしゃいますか?」
「僕の知っている限りではいないね。もっとも、サークル以外の交友関係はほとんど知らない」
「瑠夏も知らないなぁ。瑠夏は、K大じゃないから部室以外では会う機会ないし」
「サークル以外の人が、不案内な部室で犯行に及ぶとは思えません。中に入るのがますます困難になりますし、荒事になったら不利じゃないですか? どこに何があるのかも判らないでしょうし」
「サークルの人に罪を着せようとしたのかも」有紗が小首を傾げる。「だとしたら、誰も入れなくなってしまったのは犯人の計算違いかしら?」
「でも、犯人以外が部屋にロックをかけるとは思えない」
「ううん」東は首をひねった。「そもそも、山中先輩は凄く良い人だったからね。これは亡くなったから言っているんじゃなくてね。サークルの内外を問わず、あの人を恨んでいる奴なんて、そうそういないと思うよ」
「良い人だから鼻につく場合もありますよ」有紗が両の手のひらを祈るように合わせて言った。「良い人って、どうにも胡散臭いか、そうでなければただ異様に鈍感なだけだと思います」
「そんな感想を抱くのは有紗くらいのものだと思うけど……」
「ううん、瑠夏、その気持ち、解る気がする」
瑠夏が有紗に同意したので、千束は少し驚いた。
「何て言うかぁ、凄く良い人って、お子様って言えばいいのかな? とにかく、意外と無神経なんだよねぇ。人を傷つけた経験がないから、人の気持ちとかあんまり考えないで喋っちゃう感じ」
千束も東も何も言わなかった。その反応に、焦ったように瑠夏は手を振り回した。
「あ、でもでもね。別に瑠夏が山中先輩を嫌いだったとか、そういんじゃないよ?」
「ええ、解っています」有紗がにこりと頷いた。「淡雪先輩はどうですか?」
「淡雪先輩が山中先輩を? あの日、ずっと一緒にいたじゃない。犯行は不可能だよ」
有紗の問いを、東は一笑に付した。
「いえ、まあ」有紗は食い下がった。「動機としては有り得るのかどうかだけ」
「ううん。淡雪先輩はなぁ。基本的に自分の研究以外に無関心な人だからさ。二人が彼女がらみで争ってたときにも、アルゴリズム開発に没頭することで無視していたみたいだったし……。特に恨むようなことは無いと思うけど」
「やはり俗物ではないと言うことですね」
有紗がうっとりとした口調で言う。紛れもなく、恋する乙女の口調だった。千束は少し友人のことが心配になった。
「淡雪先輩に彼氏がいて、サークルで一緒の山中先輩との仲を勘繰って殺害したというのは?」
「淡雪さんに恋人がいるなんて聞いたことないよぉ。そんな素振りも全然なかったしぃ」
「……逞しい妄想力ですこと。まあ、彼氏ではなくて、一方的に懸想をした痛々しい男、という線ならあり得なくはないかしら。……ああ、この案だと私や千束が対象の場合でも成り立つわね。瑠夏さんについては、先に東先輩が殺されているでしょうけど……」
「怖いこと言わないでよ。でも、どちらにせよその場合だと、犯行後に片思いの相手に向けて何らかのメッセージが出そうじゃない? 『邪魔者は排除した』、みたいな」
東の指摘に、結局また振り出しに戻った。
「あのキャビネットの中には何が入っていたんですか?」気を取り直して千束は聞いた。
「何って……。たしか、サークル名義の通帳とか、不動産関係とかマンションの契約書とか……。まあ、サークルの財務関係の書類だね。元々は天沼先輩が管理していたんだけど。そういえば、山中先輩はどうしてキャビネットなんて開けようとしたのかな……」
「部外者がそれを狙って押し入って、抵抗した山中先輩を殺害したという線は考えられませんか?」
「理由としてはありえるけど。でも争いになった形跡もないし、そもそも山中先輩の手の中に鍵があったのに、中身を持っていっていないから」
「金銭目的なら、無くなっていないとおかしいですね」
「殺すつもりまではなかったけれど死んでしまって、怖くなって逃げたという可能性もゼロではないかしら。どちらにせよ、カードキーなしでロックをかけたという問題が解決していないのよね。マンションの玄関にあるカメラにも、不審者は写っていなかったみたいですし」
「ううん」食事を終えた千束は腕を組んだ。「動機をどうにかひねり出しても、結局手段のところが解決しない。やっぱり、スタンガンが原因の事故なのかな……?」
「でも、スタンガンで死ぬ可能性は極めて低いんでしょう?」
「ええ。周波数とか電流の量とかいろいろあるみたいなんだけど、基本的に事故で亡くなる可能性は極めて低いって」
千束の説明に、瑠夏が目を丸くした。
「すごおい! 千束ちゃん、どうしてそんなこと知ってるの!?」
「え、いえ……。ただの受け売りですけど……」
和泉からの受け売りだということは伏せておいた。
「結局、手詰まりだということを再確認しただけね。まあ、無駄ではないと思うけれど」
有紗はそう言って、小さく微笑んだ。
「それにしても、千束が事件のことに、そんなに興味を示すとは思っていなかったわ」
「そうかな。それを言ったら、有紗だって、私と同じくらい関係が薄いでしょう?」
「私はほら、面白ければなんでも良いんですもの。……不謹慎な言い方になってしまったわね。別に面白がっているわけではないのだけれど、他にやりたいことも今のところ見当たらないしね。謎のままだと落ち着かない、というか……」
千束はぼんやりと和泉のことを考えた。彼はこの事件のことをどう考えているのだろう。サークルにはまったく関係ないというのに、なぜか警察の事情聴取を受ける羽目になっているようだった。天沼と山中がデイトレーダーということもあるし、万が一にも和泉の仕事に横槍が入るような事態は避けたかった。
昨日の喫茶店での会話を思い出す。
意外な言葉。
自分があんな風に評価されているとは思わなかった。
けれど。
窓の外を眺める視線。
堅く閉じられた唇。
追いつけない。
追いつかせて貰えない。
いや。
もっと悪い。
もっと酷い。
背中を追おうにも。
背中を見せてくれさえしない。
いつも私の方を向き直ってしまう。
あまり表情を変えずに、
けれどゆっくり待っていてくれる。
ときにはこの手を引っ張って。
それが腹立たしい。
出会った日のことを思い出す。
高校受験の翌日。
彼は困ったように笑った。
そのシーンが。
酷く心に焼き付いている。
「また、どこかに行っているわね、貴女は。その機動力をどうして自分の恋愛に使えないのかしら? まさかとは思うけど、妄想だけで満足しているとかではないでしょうね?」
「ただいま」
「……お帰りなさい」
*
和泉隆平は驚愕した。
「天沼鏑が、山中悟の殺害について自供しました」
「……彼は事件当日、留置所にいたはずでは?」
「ええ。自供というと少し語弊がありますね。死亡原因について、極めて重要な供述をしました。それに従って捜査した結果、山中悟を死に至らしめた原因については、ほぼ明らかになったと言えるでしょう」
加藤が、堅い口調でそう言った。
いつもの刑事二人組だった。今回で四度目の会話になる。しかし、前回までとはだいぶ雰囲気が異なっていた。
会社を出て家に帰る途中だった。自由が丘の駅を出たところに二人が立っていて、和泉の姿を認めるとすぐに話しかけてきた。もし、自分が飲みにでも行くつもりだったらこの二人はどうしていたのだろう、と和泉は少し疑問に思った。
「今まで捜査にご協力いただき、ありがとうございました。塾の方に突然お伺いするなど、ご迷惑をおかけしたかと思いますが、ご容赦いただけるとありがたいです」
珍しく、袴田が口を開いた。それから小さく頭を下げる。
「その話は、白石君たちは知っているのですか?」
「はい。サークルのメンバーにはすでにお伝えしました。篠さんや白石さんには、先ほどお会いして話をさせていただきました。これから詰めの捜査に入ります」
「経緯を伺っても?」
和泉が少し下手に出て訊くと、加藤が袴田を見上げた。それに応えるように、重々しく口を開いた。
「詳しいところまでは話せませんが」
「ええ、それはもちろん」
和泉が一応微笑んで頷くと、彼は四秒ほど虚空を見上げてから口を開いた。
「つまりは、事故死です」
「事故?」
「はい。死亡した山中は、部室にあるキャビネットのキーを握っていました。キャビネットには銀行通帳などが入っていました」
「……なるほど」
千束から聞いて知っていた内容だったが、和泉はきちんと頷いた。それを確認するように待ってから、刑事は続ける。
「天沼によると、そのキャビネットの鍵穴に防犯のためにスタンガンの電極を繋いでいたというのですね。新入生が入ってくる時期で、部外者が部室に入る機会も増えるから、と。スタンガンを取り外さずにキャビネットの鍵を開けようとすると、電流が流れる仕掛けだそうです。天沼は理工学部で電気関係の専攻でしたから、それくらいの配線は簡単だったのでしょう。実際キャビネットの内部に使途不明の導線などが見つかっています。供述では、ただ驚かすだけのつもりだったようです。それに元々サークルの代表である彼が管理していたものだったので、今回のようなケースでなければ他の人が触れる機会はまったくない場所だった」
「なるほど」和泉は同じイントネーションで、もう一度頷いた。「しかし、ただのスタンガンでは、感電したとしても死亡には至らないのでは?」
「ええ。解剖した医師などにも意見を求めましたが、同じことを指摘していました。ただ、普通に感電させたのではなくキャビネットに回路を組み込んだことで、電圧や周波数などに何らかの変化が起こった可能性があります。回路の方を電気関係の専門家に調べてもらっています」
話を聞きながら、和泉は腕を組んだ。それをちらりと一瞥して、袴田は続けた。
「それともう一つ、山中の手には傷口かありました。傷があると、通電しやすくなるので、それも死亡するに至った大きな要因の一つだと考えています。ちなみに傷口付近からは、消毒液の成分が検出されています。これがさらに導電率を高めたと思われます。本当に、何かの拍子に怪我をしただけだったのでしょう。不幸な偶然ですが……」
「そうですか……」
「天沼としても、山中を殺害する意志があったとは思えません。そもそもが防犯目的ですし、逮捕されなければ山中がキャビネットに触れる機会もなかったはず。使っているものも市販されているスタンガンだけです。殺人でも傷害でもない。あえて立件するなら業務上過失致死になりますが、おそらく事故死として処理することになるでしょう。よほど危険な回路だと判れば話は別ですが……」
「つまり」和泉は刑事をじっと見つめた。「事件は解決したわけですね」
「山中悟が死亡した事件についてはそうです。金商法に関してはその限りではありませんが……」
「なるほど。よく解りました」和泉は組んでいた腕をほどいた。「わざわざ知らせていただいて、ありがとうございました」
「いえ、今までご迷惑をおかけいたしました」
一礼して二人が離れていく。角を曲がって背中が見えなくなってから、きっかり二十秒、和泉は数えた。それから、おもむろに携帯電話を取りだした。
電話帳を検索しようと思ったが、考え直して着信履歴を呼び出す。一番上に中トロのように鎮座していた番号に発信する。
四回のコールのあと、相手が出た。繋がると同時に声が響く。
「もしもし? 和泉先生?」
「もしもし、今大丈夫?」
「平気です! 先生からお電話していただけるなんて珍しいですね」
ずっと押さえられていた抵抗線を上抜いたように、弾んだ声が返ってきた。
「あ、きっと事件のことですよね! 先生のところにも警察の方がいらっしゃいました?」
「来たよ。事故死だってね」
「もう、私びっくりしちゃいました。先生が最初に言っていたとおりでしたね」
「ああ、うん。まあ、そうなんだけどさ」
「まさかですよね。あんな大騒ぎしておいて、事故だったなんて。怯えちゃって損した気分。あ、ちょっと不謹慎かな……」
「白石君、今君、どこにいる?」
「どこって……。塾ですけど。もうすぐ授業ですよ」
「あ、そう。ちょっと頼みがあるんだけどさ……」
*
白石千束は安堵していた。
今日の昼下がり、部室で淡雪たちと一緒に過ごしていると、突然に二人組の刑事がやってきた。警察にはアポをとるという文化が無いのかしら、とは有紗の弁である。その後に続く毒舌の数々は記憶しないことにしたので覚えていない。
話の内容は山中の死亡の経緯についてだった。天沼がキャビネットにスタンガンから電気回路を仕込んでいたと供述していることを告げ、それについて淡雪や東に二三、確認しただけだった。状況から見て天沼の供述に嘘はなく、また事故死として処理されるであろう、と幾分後ろめたそうに刑事は告げ、一応正式な発表ではないため内密にするようにと念を押し、すぐに帰って行った。
つまり単純な事故死だったということだ。部室にいて襲われることもなければ、これ以上警察につきまとわれることもない。和泉にこれ以上迷惑をかけることもないということだ。
すぐにでも和泉に電話してこのことを伝えたかったが、刑事から口止めされていたため、出来なかった。
自分のテンションが高くなっていることを自覚する。もうすぐ授業が始まる。このままの調子で教室に行ったらおかしなことになりかねない。まだ授業開始まで十分ほどある。すこし落ち着いた方が良いと判断する。
電気ポットからカップにお湯を注ぐ。ティーバッグを入れて九十秒ほど放置する。バッグがお湯の中に沈んだ段階で取り出して流しのネットに捨てて、冷蔵庫のミルクを三○ミリリットルほど注ぐ。息を吹きかけ冷ましながら自分の席に戻る。
一口飲んだところで携帯電話が着信を告げる。ハンドバッグの中に入れっぱなしだった。慌てて引っかき回して震えている電話を取り出す。
液晶画面に表示されていたのは、なんと和泉の名前だった。
「もしもし? 和泉先生?」
「もしもし、今大丈夫?」
「平気です! 先生からお電話していただけるなんて珍しいですね」
和泉の、普段通りの落ち着いた声が返ってくる。それだけでもう、嬉しくなってしまった。
「あ、きっと事件のことですよね! 先生のところにも警察の方がいらっしゃいました?」
「来たよ。事故死だってね」
「もう、私びっくりしちゃいました。先生が最初に言っていたとおりでしたね」
「ああ、うん。まあ、そうなんだけどさ」
和泉の少しずれた調子の返事が来る。
「まさかですよね。あんな大騒ぎしておいて、事故だったなんて。怯えちゃって損した気分」千束は浮かれている自分を自覚する。慌てて言葉を付け足した。「あ、ちょっと不謹慎かな……」
「白石君、今君、どこにいる?」
「どこって……。塾ですけど。もうすぐ授業ですよ」
千束は壁に掛かったレトロな時計を見上げながら言った。授業まで、あと五分ほどだった。
「あ、そう。ちょっと頼みがあるんだけどさ……」
「え、なんでしょう? 何なりとお申し付けください!」
「うん、じゃあ遠慮無く。白石君、篠さんの電話番号って知ってる?」
「……え?」頭から急速に血液が落ちていったような気がした。「どうしてですか?」
「ちょっと話がしたくてね……」
「番号は知っていますけど……。何かご伝言があれば、おっしゃってくだされば、お伝えしておきますけど?」
「ううん。そういうわけにもね。いかないかも」
「な」声が掠れた。千束は一度喉の奥でだけ咳をして言い直す。「何のお話ですか? 二人っきりでないと出来ないお話ですか?」
「ううん……。そういうわけでもないけどさ。出来ればそっちの方が理想的」
非常に危険な兆候だと千束は判断した。悪戯っぽい目をした有紗など、比較対象にもならなかった。
「それは……先輩に伺ってみないと」
千束は最後の抵抗をした。淡雪が連絡先を和泉に教えることを拒むとは到底考えられない。それは十二分に理解していたが、それでもそう口にした。
「うん。よろしく。僕の番号を向こうに教えても良いから」
「……はい、解りました」
千束はぎくしゃくと答えた。きっと自分がそうはしないだろうと思っていた。
「あ、それともう一つ質問があるんだけど……」
「……はい、なんでしょう?」
千束は精神的に身構えてから答えた。千束の中では既に核武装の配備まで終わっていた。
「天沼君と山中君って仲が悪かった? ここ半年くらい。君が入部する前のことだけど……」
「え!?」あまりに予想とかけ離れた質問だったので、一瞬頭の中が焦土のように真っ白になった。核武装が暴発したのかもしれない。急ピッチで文明を再建しながら答える。「……はい、その通りです」
「理由は?」
「ええと……」千束は言葉に詰まった。以前、有紗に喫茶店で言われた言葉が頭をよぎった。「ち、痴情の縺れ、です」
「痴情の縺れ?」
くすり、と和泉が笑ったのが解った。千束は頭を掻きむしりたくなった。我ながら、ソバージュのような表現だと思った。
「ふうん。とにかく、半年くらい前に、山中君が天沼君に対してネガティブな印象を抱くような事件があったんだね?」
「はい」
なぜ縺れの中身を言っていないのに、恨みの方向が解ったのだろう、と千束は訝しんだ。
「事件について気になっていることがあるんですか?」千束は携帯を握り直した。「もう、解決したのに。それとも、事件以外のことですか?」
「ああ、うん、ちょっとね……」
和泉の返事は煮え切らなかった。
塾のチャイムが鳴る。講師が一斉に立ち上がって部屋を出て行く。先輩講師が一人、通り過ぎる際にぽんと千束の肩を叩いて行った。
「あ、ごめんなさい。授業が始まってしまいました」
「あ、そんな時間が。ごめんね、授業前の忙しいときに」
「いえ……。では、また後で」
千束は慌てて電話を切った。通話時間が表示されている液晶画面を眺めながら、長い息を吐く。
それから、テキストやノートを纏めて立ち上がった。数学の授業で幸いだった。これがあまり得意でない英語や国語だと目も当てられない。
ミルクティをもう一口飲んでから足早に教室に向かう。少しざわついた教室に入ると、生徒の視線が一斉に集まった。二週連続で和泉に代講を頼んだ高二数学の授業だった。先週ようやく自分で授業をしたときには、質問攻めにされてしまった。講師の好きなシチューなど訊いてどうするのか、と大いに困惑した記憶がある。
「こんばんは」誰を見るともなしに、千束は言った。「授業を始めます」
千束はテキストとノートを開いた。頭のスイッチを切り替えて、前回の授業内容を思い出す。簡単な式の証明までは終わっていた。電話があったせいで、今日の分の予習が終わっていないが、千束の得意な範囲だったので不安はなかった。
「今日は複雑な文字式の説明をします。高次式とかそのあたりね。でも、その前にちょっと因数分解の復習をしておきましょうか……」
生徒から、うめき声のようなものが聞こえた。どうやら、因数分解、という言葉だけで目眩がするようだった。数学の難解さの代名詞として聞こえるようだ。簡単な作業だし、うまく解ければ気持ちいいのに、と千束は思った。
簡単な二次式をいくつかホワイトボードに書く。深く考えずとも、公式を当てはめれば良いだけのものだ。とりあえず、解説は何もしない。中学校までの範囲を思い出させるのが目的だ。
やはり記憶からすっぽりと抜け落ちている生徒がいたので、千束はボードにヒントを書いたり、席に行って簡単に説明したりした。やがて全員が終わったようなので、ボードの前に戻る。一番左の一列目に座った女子生徒から順番に当てることにする。
「えっと……。x=……」
「x=?」生徒の答えに、千束は鸚鵡返しに反応した。「これは、因数分解なんだけど……」
「え? あ? あれ?」
生徒が目を白黒させる。千束は生徒のノートをのぞき込んだ。途中、いや最後まで問題なく出来ている。しかしそこからいらないところまで突き進んでいた。どうやら、方程式と混同してしまったようだった。
「えっとね、因数分解っていうのは、答えを求める問題ではないの。だからxがいくつか知る必要は無いし、いくつでも良いの。1でも10でも百億でも」
悪戯っぽく笑いながら千束は言った。
「じゃあ、なんのためにするんですか? っつーか、何をするんですか?」
生徒の一人が訊く。予想通りの質問だったので、千束はこっそりほくそ笑んだ。
「読んで字の如く、因数に分解します、なんてね。簡単に言うと、分析、かな。たとえば……」千束は質問した生徒に問い返した。「君は何で出来ているの?」
「え、えーと……? コレステロール?」
「食生活を見直しなさい。動脈が心配だわ……。せめてアミノ酸って言ってね」
「せんせー」別の生徒が手を挙げる。和泉に習っていたという生徒だ。「俺は白石先生への愛で出来ています!」
「残念。ご両親の愛情、だったらちょっと素敵でしたね。精進して出直しなさい」
教室中に笑いが満ちる。彼は満足そうにしていた。
「話を戻します。因数分解って言うのは、今みたいに何で出来ているのか調べることです。なんだか文字とか自乗とか三乗とかルートとか。無闇矢鱈に複雑で難解で見るのも嫌になるような数式でも、分解してみると、とっても単純な掛け算だったりするの。一つ一つの単純な要素、因数って言うんだけどね。それに分解して調べるのが因数分解。どう? ちょっと好きになれそうでしょう?」
「ううん、口で言うと簡単そうですけど……」最初に当てた生徒が渋面を作る。「やっぱり最初が複雑だから……」
「うん、そうなんだけどね」千束はホワイトボードをつついた。「それも、やっぱり解りやすいところから、ちょっとずつやっていけばいいの。一つ、何で出来ているか解れば、式がちょっと簡単になる。簡単になった式から、また一つ因数を見つけて、という具合に少しずつやっていけば良いの。最初の一つさえ出てくれば、あとは芋づる式にずらずらと」
ううん、と千束は一度唸った。
「私、因数分解って好きなんだけどな。こう、分解だけして答えを出さないって辺りが、とても。それと一見すごく難解で複雑で全然関係なさそうなものでも、たった一つの共通点を見つけるだけで、簡単に解きほぐれていく感じも気持ちいいし……」
生徒に説明しながら、
何か自分の言葉に引っかかった。
「えー?」
一斉に非難の声が上がる。
千束は思考の海から引き戻された。
「白石先生って、もしかして、数学好きなんですか?」一人の生徒が、訝しげな声で質問した。
「もしかしなくても好きだけど……。どうして?」
「いや、信じられなくて。なんで好きなのかさっぱり解りません。どこが好きなんですか?」
「どこって……。面白いから」
千束は簡潔に答えた。それから首をひねって付け足した。
「まあ、個人の好みの問題だから、好きになって欲しい、とは言わないけど。数学じゃなくて歴史とか文学とかの方が好きって人も多いと思うし……」
「でも、数学って役に立たないじゃないですか?」
「それは自分次第だと思うけど。たとえば、塾講師になってお給料を貰ったりは出来るわけだし」
それに、と千束は続けた。
「役に立つことしかしないのって、少し寂しいと思うな。何かを好きになったり、お気に入りを見つけたり、自分一人だけ何かにこだわってみたり。そうやって楽しいことを見つけるのが大事なんじゃないかと思う。その対象が数学や勉強である必要はもちろんないけど」
千束はそう言いながら、淡雪のことを思い出した。趣味と研究が完全に一致していて、もしかしたらそれが実益にも繋がるかもしれない。自分もあんな風になれたら、と少しだけ思う。もっとも、淡雪のそれ以外の面をまったくと言って良いほど知らなかったけれど。
思考の途中で、先ほどの和泉からの電話を思い出して千束は少し憂鬱になった。
「さて、そろそろ授業に戻ります。これだけ時間を掛けて、まだ答え合わせが一問も終わってないなんて大問題ね……」
生徒が読み上げる答えを脳の片隅で機械的に処理しながら、千束は先ほど引っかかった部分について考えていた。
一つだけ。
たった一つだけ見つければ。
後は芋づる式に解けていく。
事件の違和感。
一人だけ。
たった一人だけ、
理解に苦しむ行動を
取っている人がいる。
理由が、解らない。
なぜ彼は。
あれほどまでに拘るのか。
あんな主張をしたところで、
何一つ得られることは
無いと言うのに。
行動をトレースする。
理由を逆算する。
認めないということ。
偶然であるということ。
意図した行為ではないということ。
たったそれだけを強調するために、
彼は未だあそこにいるのか。
「白石先生?」
「……え?」
生徒が呼びかけていた。惚けきった声を出してしまった。
「答え合わせ、全部終わりましたけど……?」
「あ、うん。そうね……」千束は殊更ゆっくりと手元のテキストに視線を落とした。「では、今日の本題に入ります。高次式と呼ばれる物で、つまり自乗や三乗どころでなく、もっと次数が高いものが出てくる式です」
説明を開始したものの、千束は上の空だった。
至急確認しなくてはいけない。時計を見上げる。まだ授業が終わるまで一時間以上あった。
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