第4話 株式に関する素朴ではない疑問 -Information Exchange between Dealer and Programmer-

  白石千束は予想済みだった。

「それで、昨夜はどうだったの?」

「一緒に食事をしただけ。奢ってもらって、その後自由が丘の駅のところで別れた」

「ふむ」有紗は小さく頷いた。「ほぼ予想通りの展開ね」

「有紗、貴女最初から来ないつもりだったわね」

「あらあら」有紗は目を大きく見開いた。「そんなことは断じてありません。ええ、私、是非とも和泉先生とご一緒したかったのに」

 千束は思い切り、有紗を睨みつけた。しかし彼女はどこ吹く風と言わんばかりにコーヒーを一口飲んで、小さく息をついた。

「行ったのはどんなお店?」

「……こぢんまりとした小料理屋。なんだか高そうで場違いだったかも。半分出しますって申し出たんだけど、結局全部払ってもらっちゃった」

「馬鹿ね。そんなこと言っちゃ駄目」有紗は鼻で笑った。「千束ちゃんはまだまだお子ちゃまですね」

「……先生にも似たようなこと、言われました」

 千束はそう言ってため息をついた。有紗はそれ以上、何も言わなかった。

 千束はミルクティを少しだけ口に含んだ。いつも通りの儀式。頭をすっと切り換え、感情だけを外に追い出す。

「いったい、食事をしながら何を話したの?」

「ほとんど、天沼先輩の取引の手法について。先生、楽しそうだった」

「そう、よかったじゃない」

 有紗はそう言ってにっこりと笑った。千束はその邪気のない笑顔に毒気を抜かれた。

 有紗は狡い。千束はそう思った。何か言いたい事があっても、いつもこの笑顔に誤魔化されてしまう。

「他には?」

「ええと、後は塾の授業について、くらいかな。会ったのが二十二時頃だったから、食事しながらだとあんまり話す余裕もなくて。先生、明日も仕事があるし……」

「あら、仕事のことばかり……。二人きりのディナー風景としては色気がない話題ね」

「そういう有紗はどうなの? 浮いた話をちっとも聞かないけれど」

「私? まあ、そうね……」

「高校の頃はいろんな人から、有紗が好きな相手は誰か、と訊かれたものだけど」

 千束が唇の端を持ち上げて訊くと、有紗は意外そうに目を瞬かせた。

「ふうん。それは初耳。何て答えていたの?」

「正直に、知らないって言っていたけど」

「それはそれは。もっとあることないこと言ってくれて構わなかったのに。親が決めた婚約者がいる、とか、同性しか愛せない、とか」

「だってそんな、有紗がその中の誰かを好きかも知れないじゃない」

「ふふ。千束は優しいのね」有紗は見せつけるように舌なめずりをした。「もしも千束が男性だったら、今頃体よく押し倒されているところだけど」

 千束は反撃を諦めて白い皿に載ったチーズケーキに取りかかった。有紗も苺のタルトに手を伸ばしている。

「この後のご予定は?」

「今日は何も無いわ。部室に顔を出そうか迷い中……」

「あら?」有紗は首をひねった。「もう目的は達したんじゃないの?」

「目的?」千束も首をひねった。テーブルの中央線を挟んで、二人は線対称の形になった。「何のこと?」

「天沼先輩の注文履歴を手に入れるためにサークルに入ったんでしょう?」

「違います」千束はフクロウのように首を横に振った。「あのサークルに著名なデイトレーダーがいるなんて知らなかったし、ましてや和泉先生が興味を示すなんて夢にも思ってなかった」

「ふうん」有紗は小さく微笑んだ。「すごい偶然。良かったね」

 千束は戦慄した。有紗のそんな表情は生まれてこの方初めて見た。見せ玉のように怪しかった。

「……」

「……? どうかした?」

「いえ、何でも」千束はもう一度頭を振った。「有紗はサークル辞めないの? あんなことがあったのに……」

「いいえ。だって面白いもの。いえ、不謹慎な意味ではなくてね。純粋にとても興味深いわ。もう、メロメロと言っても良いくらい」

「……へえ、珍しいじゃない」

「そうね。ああ、なんて素敵なのかしら、淡雪先輩……!」有紗は陶酔した様子で虚空を見つめたまま身悶えた。「あの美しいお姿、エスプリの利いた物言い。そして何より、あの冷たい視線」

「……ええと」

「あ、勿論千束のことも好きよ。でも、淡雪先輩にはそれと違った魅力があるの」

「良い。聞きたくない」

 千束はそう言い捨てて、皿に残ったチーズケーキをすべて片付けた。有紗も真似するようにタルトを美味しそうに口の中に入れた。

「でも、あのサークルも少し変よね」

「変?」千束はまた首を傾げた。「たしかに色々変だとは思うけど。具体的にはどこを指しているの?」

「ええ。人間関係と言うか……。創設メンバー三人の力関係かしら。稼ぎ頭の天沼先輩の態度が大きいのはまあ、解らなくはないけど。でも、その割にはどこか周囲を伺っているような気がするわ。まあ、元々の性格だって言ったらそうなんだけど」

「確かにそうね。主導権を握っているのは淡雪先輩っていう気がするし。山中先輩も天沼先輩に気を遣っている部分があったような……」

 千束が同意すると、有紗が意外そうに千束の方を見た。

「千束にはそう見えた? 私は違うと思うわ。むしろ、何か含むところがあるような感じ……。淡雪先輩が決定権を握っているのは間違いないところですけど。過去に何かあったのかしら」

「学部の一年の頃からの付き合いって言ってたから。五年も経っていれば恋の鞘当ての一つや二つ、あってもおかしくないんじゃない? 平山さんもそのようなことを言っていたし……」

「千束の言葉とも思えないわね。ちっとも似合わない。そんな解ったようなこと、言わないで頂戴」有紗が千束のことを睨む。「もう、本当、幻滅……」

 有紗はそう言って、殊更ゆっくりと首を横に振った。両サイドで髪を留めたピンク色のリボンがその度にひらひらと揺れる。千束は何となくその軌跡を追った。有紗の思考パターンと同じで、予想しづらい動きだった。

「じゃあ、部室に行きましょうか」

 有紗がコーヒーを飲み干して立ち上がる。千束は慌てて鞄を持ち上げた。

 駅ビルの中にあるカフェから出て大通りを北に向かう。裏道に入るとすぐに部室があるマンションの前に出る。有紗の後ろ姿を見ながら千束は歩く。

 千束は大抵人の後ろを歩く。集団の場合はまず間違いなく最後尾だ。人の先導をするのが、どうにも落ち着かない。持って生まれた性格なのか、身についた習慣なのかは判らない。

 インターフォンを鳴らし、東にロックを解除して貰う。エレベーターで七階に上がる。部屋の鍵はかかっていなかった。

 千束は一つ深呼吸をしてから部室に上がった。山中の死体を発見した日以来、この部屋に上がるのはいつも緊張する。

「こんにちは」

 東がにこやかに声をかけてくる。瑠夏はひらひらと手を振った。それに返事をして、二人はリビングのテーブルに腰掛けた。東が飲み物を用意しようとするのを、飲んできたばかりだと止める。そういえば、まだティーポットを準備していない、と千束は思い出した。

「どうですか、調子は?」

 パソコンをいじっている淡雪に、有紗が声をかけた。

「ええ……」淡雪が椅子を回転させて振り向く。「新マシンは快調です。アルゴリズムの開発も再開して、少しずつですが着実に進んでいます。もちろん課題は数多く残されていますし、どんどん増えていきますけれど」

「増えていく?」

「ええ」淡雪は薄く微笑んだ。「相場環境の変化が主な要素です。ただ単純に景気の善し悪しという要素もありますけど、それ以上に法律の改正や取引所システムの刷新などが、データが不連続になるという点で頭の痛い問題です。さらに市場参加者の比率の変化なども大きな要因ですね」

 それから淡雪は笑顔に苦みを含ませた。

「それよりも、目下最大の問題は山中君の死亡経緯が確定していないことです。部室で一人作業するのも不安になりますし、何度も警察に事情聴取を受けるのも迷惑です」

「え?」千束は目を丸くした。「事情聴取、何回もされているんですか?」

「ええ。当日以外にもう三回ほど」

「俺の所にも来ました」

「私もぉ。びっくりしちゃった」

「私も一度だけですけど受けました。アルバイトが終わって店を出たらいきなりいて驚きました」

 三人が口々に言う。千束は自分だけ受けていないので、逆に不安になった。

「まあ、私たちに関しては、元々この部室をずっと利用しているわけですから。事件にせよ事故にせよ話を聞かれるのも当然のことでしょう」

「むしろ私のところに来たことの方がおかしいのかも。疑われているのかしら?」

 だとしたら有紗の言動が原因だろう、と千束は思ったが口にはしなかった。

「そんな中でもめげずにサークルに来てくれるのはありがたいよ。天沼先輩の件の時点で、もう絶対来てくれなくなるって思ってた。本当にありがとう」

「いいえ」有紗はゆっくりと首を振った。「私たちは、私たち自身が楽しいから来ているだけですから」

 千束は隣で慌てて頷いた。東の顔が途端に緩む。淡雪も小さく微笑んだ。少しだけ、有紗の気持ちが解った気がした。

「白石さんは、こんな零細サークルのどこを楽しんでくれているの?」淡雪が問いかける。「有紗さんみたいな理由では無いのでしょう?」

「ええ、まあ……」千束は曖昧に頷いた。「元々株に興味があったので」

「珍しいね」東が目を丸くする。「そんな、高校生のときから株が好きなんて」

「はい。知り合いに詳しい方がいて。その人の話を聞いているうちに段々興味が出てきたんです」

 ついこの間、有紗にも同じような説明をしたな、と千束は思った。一緒に野球の話も思い出して、少し悔しくなる。

「ふうん。だからあんなに株に詳しかったんだねぇ。証券会社の人?」

「はい。ディーラーの方なんです」

「ディーラー?」瑠夏と話しているところに、淡雪が珍しく割り込んだ。「証券会社の契約ディーラーですか?」

「はい。ええと、Y証券と言って、あまり大きくない会社なんですけど……」

「ええ。大手には契約ディーラーはほとんどいませんから。優秀なディーラーのほとんどが中小の、半ばディーリングカンパニーと化しているところに在籍しているはずです。Y証券も、その筋ではそこそこ名の知れた会社です」

 淡雪はじっと千束の方を見つめた。彼女には珍しく、少し興奮しているようだった。

「その方はお幾つですか?」

「ええと」千束は眉を寄せた。「正確なところは知りませんが、多分二十代の半ばくらいではないかと」

「お若いのね。立ち入った話になってしまうけれど、月にどのくらい利益を出しているのか、お分かりになりますか?」

「……ううん」千束は思わず唸った。「分かりません。そこまで深く踏み込んだ話はしたことがないので。ただ、とても頭の良い方なので……」

「ディーリングに一般的な意味での頭の善し悪しはあまり関係ないようです。少なくとも、今まで私が見てきた中では、ですけど」

 淡雪が言う。千束はぼんやりと頷いた。

 改めて聞かれてみると、自分が和泉のことをほとんど知らないことを思い知らされた。自由が丘の近辺に一人暮らししていて、K大学のOBであることくらいは知っている。しかしそれだけだった。年齢も家族構成も仕事のことも、交際相手の有無さえも、千束は知らなかった。

「取引手法はどうですか? ディーラーなら多分日計ですよね。トレンドフォロー? 逆張り?」

「すいません。聞いたことがないです」

「いえ、謝るようなことではないですけど……」

「でも、面白いですね」千束は意識して小さく笑った。「その、私の知り合いのディーラーも、私が投資サークルに入ったって伝えたら、先輩たちの取引手法を知りたがっていました」

「なるほど」淡雪が突然立ち上がった。「白石さん、貴女……」

 淡雪が千束に歩み寄る。突然の行動に千束は戸惑った。

「天沼君の履歴をそのディーラーに見せましたね」

「……はい」

 千束は項垂れるように頷いた。淡雪の顔を見られなかった。後頭部の上から淡雪の声が降ってくる。怒気が頭上から伝わってきていた。目や耳で感じられる形でなくても、初めて味わった淡雪の明確な感情の発露だった。

「……とはいえ、ネット上に流すことについては釘を刺しましたが、人に見せるなとは言いませんでしたね。白石さんも、商いの参考にする、と理由を説明した覚えがあります。主語を省略した言い方でした」

「……いえ、申し訳ありませんでした」

 ふう、と淡雪が一つ息を吐いた。千束は恐る恐る顔を上げる。淡雪はすでに踵を返してパソコンの方に戻っていくところだった。元のように椅子に座り、くるりと振り向く。

「白石さん。私、そのディーラーの方に会ってみたいわ」

「……え?」

「取引手法についてお話させていただけますか?」

 それから淡雪は微笑む。意図的にアクセントを置いて言った。

「私が、アルゴリズムの開発をするのに、参考にしたいのです」




     *




 和泉隆平は振動していた。

 自由が丘駅の近く、目黒通りで榊の車に拾ってもらう。今日はベンツのオープンツーシーターだった。エンジンの一定の振動が心地よい。榊は他にもう一台、フェラーリも持っている。毎年一つずつ、収入に合わせて何かしら高額な買い物をしているようだ。

 丸子橋を渡って神奈川県へ。土曜日の綱島街道は混み合っていた。榊が目に見えて苛立ってきたあたりで、ようやくK大の近くまで来た。千束の携帯に電話して、どこに停めたら良いのか尋ねる。マンションの来客用駐車場が使えるとのことなので、そこに向かった。

「和泉先生!」

 駐車場の前に、千束ともう一人、二十歳ぐらいの男性が立っていた。東と名乗った彼の先導に従って、マンション地下の駐車場に入れる。そのままエレベーターで七階まで向かった。以前、千束から聞いていたとはいえ、学生サークルの部室が入っているとはとても思えないようなマンションだった。和泉のアパートとは比べる気にすらならなかった。

「ようこそ、いらっしゃいませ。汚いところですが、どうぞ」

 部屋のドアを開けると、同い年くらいの華奢な女性が出迎えた。淡い桜色のブラウスに黒いスカート姿だった。彼女についてダイニングキッチンへと入り、椅子に腰掛けた。すでに一人、派手な女性が座っていた。

「初めまして。篠淡雪と申します。サークルの副代表をしています」

「平山瑠夏です。こんにちはぁ」

「和泉と言います。こっちが榊と言って、僕の同僚です」

「よろしく」

 芝居がかった仕草で榊が右手を差し出す。淡雪がゆっくりとそれを握った。仕方がないので、和泉も淡雪と握手をした。ひんやりとした冷静な手だった。続けて瑠夏の手も握る。ぶんぶんと振り回された。

 東と千束がキッチンから人数分のカップを持ってくる。中身はコーヒーだった。

 榊の横に和泉。その隣に千束が座った。向かい側に淡雪と東と瑠夏が並んで腰掛けている。どうやら、これで全員揃っているようだった。

「今日はお休みのところ、わざわざお越し頂きありがとうございます」

「いえ、白石君から頼まれたときには少し驚きましたが」

 和泉は一昨日の夜のことを思い出した。

 木曜の夜、帰宅したところに千束から電話がかかってきた。それ自体はよくあることだったが、電話の向こうは普段とはまるで違う様子だった。

 千束の声が普段とは違っていた。平静に話そうという努力は感じられたが、時折混じる水音はまったく隠せていなかった。けれど内容は今週末に会いたい、というものでしかなかった。

 あまりに怪しいので問い詰めたところ、ようやく事情を白状した。kabraの取引履歴を自分に見せたことは独断であったこと。サークルのメンバーが自分、というよりはディーラーに会いたがっていること。一時間ほどかけてそれを聞き出して、自分にも責任の一端があるようだったので、せめてものお詫びとして、ディーラーをもう一人準備してきた。駄目元で頼んでみたところ、榊自身も非常に乗り気になってくれた。

「お二人とも証券ディーラーでいらっしゃるんですね?」

「はい。僕は契約で、榊は個人事業主扱い」

「ええと」東が口を挟んだ。「すごく儲かっていらっしゃるみたいですよ」

「そんなことはないけど……」

「だって、すごい車だったじゃないですか。オープンカーで。ベンツですよね、あれ!」

「えぇ! すごおい!」

「ああ」榊がまんざらでもない様子で頷く。「まあ、税金対策の意味もあってね。事業主だとそういう融通も利くから」

 東と瑠夏の視線が輝きを増した。しかし淡雪には大きな変化は見られなかった。和泉が横目で榊の様子を窺うと、少し不満そうだった。

「まあ、コイツの方が稼いでるんだけどな」

「そんなことはないけど……」

「だって、お前の方が成績良い月が多いだろ?」

「中間値なら僕の方が高いかもしれないけど」和泉は苦笑いを浮かべた。「平均値は榊の方がずっと上だ」

 和泉が大きな損失を出すことは稀だが、逆に大きく稼ぐこともない。一方榊は損失も利益も非常に振れ幅が大きい。これはリスクとリターンをどう判断するかという問題であって、優秀なディーラーであるかどうかとはまた別の問題だと和泉は考えている。

「取引手法について伺ってもよろしいですか?」

「ええ、もちろん」少し控えめに切り出した淡雪に、和泉はにこやかに頷いた。「なんでもアルゴリズムの制作をされているとか?」

「はい。過去のデータを取得して発注のタイミングを測っています。板に出ている注文も利用しますが、ほとんどは約定データから得られるチャートが基準です」

「それって、儲かるの?」

 簡単に説明した淡雪に、軽い調子で榊が訊いた。澄ました表情をわずかに崩して、彼女は答える。

「相場次第です。平均すれば手数料を差し引いてもプラスにはなります。トレンドが出ている時の方が利益が伸びるようですね。急騰や急落にはほとんどついていけませんので、極端な動きをしている場合には無視するような組み方をしています」

「へえ、大したもんだ」

 榊が二度、大きく頷く。榊からしばしばアルゴリズム関連の愚痴を聞かされている和泉としては少し意外な反応だった。

「それで、何を知りたいんだ。やっぱりポジションを取るタイミング? 言葉にするのは難しいけどな」

「いえ、それは……。ディーラーの方の感覚を数値化するのは非常に困難だと身に沁みておりますので」淡雪は薄く微笑んだ。「お訊きしたいのは、主にポジション解消の仕方です。利食いでも、損切りでも、どういう点を重視してニュートラルまで持っていくのですか?」

「ん? それは売るタイミングってこと? ……ああ、ディーラーだとほとんど買いからしか入らないけど、デイトレーダーだと空売りから入って買い戻しもあるかもしれないけど」

 和泉は訝しげな表情で淡雪に聞き返した。

 ディーラーは空売りの取引に制約がある。アップティックルールと言い、現在の株価より下には注文が出せない。そのため、瞬間的には値動きが上下非対称になる。それを嫌って空売りをしないディーラーはかなり多い。逆にそれが良いと言って、空売りばかりやるディーラーもわずかながら存在する。

「いえ、タイミングではなく注文の出し方です。指値でぶつけると約定せずに余ってしまった数量がいつまでも残ることがありますし、全部成行で出すのもインパクトが強くなりすぎていかがなものかと思いまして」

 淡雪は気を落ち着けるように、カップからコーヒーを一口飲んだ。

「正直に申しまして、ディーラーでもデイトレーダーでも、目で見て発注する場合とアルゴリズムでは手法構築の方法がまったく異なります。おそらく、ディーラーの場合には板やチャートのどういう点を重視して発注するかどうか、というのが損益の分かれ目になると思いますが……」

 和泉と榊が頷くのを見て、淡雪は続けた。

「アルゴリズムの場合はまったく違うアプローチをして、手法を構築します。一度、指標や板を基に基本となるアルゴリズムを作った後、手元にある過去のデータ上でシミュレートし、もっとも利益が大きくなる値を算出します。例えば、ヒストリカル・ボラティリティがどこまでいけば反発するのか、2σから小数点第二位まで刻んで数値を変化させ、シミュレートを行います。同じように移動平均線やRSI、ストキャスティクスといった手法でも同じ作業を複合的に行います」

「それは」和泉は口を挟んだ。「計算が大変そうだね」

「はい。手法を一つ増やす毎に、変数が複数増えていきますから。複雑な多変数関数を全銘柄、期間ごとに、条件を変えて走らせて最適値を求めます」

「なあ、さっぱり言っている意味が解らないんだけど……」

 榊がぼやく。千束と東も要領を得ない顔をしていた。瑠夏は欠伸をしていた。

「ええとね」和泉は榊の方を向き直った。「何でも良いんだけど、テクニカルの指標を利用してアルゴリズムを作るとするよね。例えばRSIを使うとしよう。数字が大きいと買われすぎ、小さいと売られすぎを意味する指標だ。なので、数字が三○以下になったら売られすぎているから買って仕込んでおいて、八○以上になったら売るというルールを作ってみる。そうしたら去年一年間そのルールに従って注文を出した場合、損益がいくらになるのか過去のデータに当てはめて計算してみる」

「そんなんで儲かるんだったら苦労しないけどな。だってそれだけで稼げるなら、全員が同じことやるだろ」

「ああ。だから一年ごとに、ここ十年分くらいやるんだろう。その後、さっきの買う条件を三○から二九に変えて同じことをやる。二八、二七とか三一、三二ってどんどん数字を変えていく。売りの方も八○から八一とか七九で試してみる。どの組み合わせが一番儲けが大きいか、そうやってパソコンに計算させるんだ」

「それって、凄い組み合わせの数になりませんか?」

 言葉少なだった千束が口を挟む。和泉は一度だけ頷いた。

「もちろん。買いと売りのそれぞれの条件を、二○通りずつ計算すると四○○通りになる。しかもこの計算を、東証一部上場だけで約一七○○銘柄、一年の営業日が二五○日くらいあるのを日計だと五分刻みあたりで十年分に走らせることになる。考えるのも嫌になりそうだね」

「ええと」千束が虚空を見上げた。「同じことを他の手法でやろうとするとその四○○通りが、一つ増やす毎に四○○倍になる計算ですから、二つで十六万、三つで六千四百万、四つなら二百五十六億通りですね。気が遠くなりそう……」

「二百五十六億っ! お金だったらすごいねー」

 瑠夏が口を挟む。淡雪は小さく微笑んでまた話した。

「はい。その通りです。一つの手法あたり四○○ではとても足りませんが……。その上、私の場合はただ数値を変えて条件を判するのでなく、それをポイント化するエンジンを作り、閾値を超えるかどうかを判断基準にしていますので、もう少し複雑になってしまっています。最近の迷惑メールフィルタやウィルススキャンと同じアプローチですね。他に時間軸を加えて微分し相場変化の方向性を加えたり、銘柄の価格帯や平均出来高、業種と為替などを利用して、ポイントに倍率を加えています。その分さらに計算が必要になりますが、ファジィな条件を作れるので実際の人間に近い微妙な判断が可能になります」

「は……」榊の口が半開きになった。目は全開きだった.幸い、瞳孔は開いていないようだった。「そんなことするくらいなら、自分の腕を磨いた方が楽だろ、絶対……」

「そうかもしれません。しかし計算するのはパソコンですし、どんな仮説を立てて式を作るのかの方がよほど重要です。それとアルゴリズムならではの利点もあります。一つに、手で注文を出すより圧倒的に速いこと。アルゴリズム同士で無い限り、押し負けることがまずありませんから。それと、自分が相場を見続けている必要がありません。他の誰かに発注してもらうなり、自動で発注出来るスクリプトを組むなり。逆に言うと、アルゴリズムが流出すると、誰でも真似が出来るので途端にその手法で稼げなくなってしまいますけれど」

 淡雪はゆっくりとそう言った。榊に、特にコメントは無いようだった。

「常に客観的な判断が出来る、というのもあるんじゃないかな?」

「ええ。たしかにそうなのですが……」淡雪はじっと和泉の目を見た。「それをメリットと呼べるかどうか、には議論の余地がありますね。判断基準に一切の変更を許さないというのは、同時に相場の急変にフレキシブルな対処が出来ないというデメリットを内包しています」

「なるほど」

 淡雪の言葉に、和泉はじっくりと頷いた。

 榊が少し呆れたような顔で訊く。

「それで、ポジションの外し方と言うのは?」

「はい」淡雪は瞬時に表情を切り替えた。「主に反対売買を行う際の注文の出し方についてです。特にディーラーの場合、大きなポジションを取ることが多いと思いますが、どうやって出しているのでしょう?」

「どうやって、て。ただ売りに出すだけど」

「一度に注文を出すと、市場に与えるインパクトが大きくなりすぎませんか?」

「まあ、タイミングは測って出すけどさ。売り買いのタイミングに比べたら、些末な問題だろ、そんなの」

「そうかもしれません」淡雪は少し眉を寄せた。「しかし、アルゴリズムの構築に関して言うのならば、とても頭の痛い問題です」

 不思議そうな顔をしている榊に、淡雪は説明した。

「シミュレートが難しい、いえ、事実上不可能なのです。アルゴリズムを構築する際に利用する過去のデータというのは、私が注文を出さなかった過去、なのです。そこに注文を出した時点で、すでにシミュレーションに使ったデータとは異なる未来へと移動することになります」

「なるほど」和泉は二度、小さく頷いた。「観測者効果みたいなものだね」

「はい。私の注文が出ることによって、相場に影響が生じ、シミュレートの精度が著しく落ちることになります。データを利用して計算している身としては、非常に由々しき問題です」

「……和泉。今度、昼飯おごってやるから」

「今日だけで何食分浮くかな……」和泉は榊の方へ向き直った。「つまりね、シミュレーションに使っていたデータというのは、アルゴリズムが入っていなかったときのものなんだよ。それを使ってどこで買ってどこで売れば一番効率よく儲けられるか計算する。だけど実際の相場でアルゴを動かすと、その注文が市場に出てくるわけだ。アルゴに先に買われて買えなかったディーラーとかも出てくるし、でかい注文を見て取りやめる人もいるかもしれないし、逆についてくるディーラーも出てくる。そうすると、すでにシミュレーションで使っていたデータと状況自体が変わってしまうから、予想と大きく違う動きになってしまうかもしれない」

「ふうん」榊は七割ほど納得した顔で頷いた。「アルゴリズム自体が相場に与える影響が未知数だと」

「その通りです。並行世界が観測出来れば良いんですけど、それではSF小説ですね」淡雪が口角を上げる。「なので、市場になるべくインパクトを出さない注文の出し方、あるいはインパクトが出る時点ではすでに自分のポジションがニュートラルになっている外し方、というのをお教え願いたいのです」

「ううん。知りたいことは解った」榊は少し唸った。「まあ、一発で全部売れる状況まで待つっていうのは一つの手段だ。すべて約定させられるくらいまで買い注文が貯まるのを待つ。一度に出すから相場に与える影響も大きいけど、それが出るころには、自分のポジションはもう無いから何の問題もない。一番単純で確実だけど、ぼやぼやしているとチャンスを逃すこともあるからなあ。善し悪しかも。引成とか、不成と組み合わせて使うとかなり有効ではあるんだけど」

「なるほど。シンプルですけど、でも確実ですね」淡雪は小さく頷く。「逆に小分けにして出すというのはどうでしょう?」

「あんまり執拗に出していると、重くなってくるからなぁ。個人的には上を買いたくなくなるし、ちょっと嫌かも」

「こまめに出し続けるのはたしかに嫌なイメージが植え付けられるかもね。僕は大抵タイミングと数量を見計らって小分けにして出すんだけど……」和泉は二秒ほど考えた。「上が買いになって値上がりする瞬間に、少し被せるとかはよくやるかな。特に節目の値段で、指値がたくさん出ている場合には。大きい注文で買いになるけど、そこにコバンザメのようについてくるディーラーが必ずいるからね。出た注文の全体数が解りづらいし、約定数量も即座に把握するのは難しい。そこにこっそり自分の売り注文を混ぜておくことで、インパクトを減らせる。ただ、出し過ぎると買いにならなくて、絶望的な状況になるから気をつけないといけないけど」

「絶望的?」東が口を挟んだ。「値上がりしなくても、ある程度は約定しますよね。買いにならないととまずいんですか?」

「ああ。上に大きい買い注文が出たのにひっくり返らないと、相当危ないね」今度は榊が答えた。「そういう買い方をするのって、大抵ディーラーだから。買ったは良いけど値上がりしないで、評価損のポジションを大量に抱えているディーラーが誕生しちまう。俺たちみたいな商いをする奴って手放すのも速いからさ、予想と反した動きになったらいつ投げてきてもおかしくない」

「紛れさせる。でも出し過ぎない。難しいですね」

 淡雪がのんびりと言った。特にメモを取ったりするつもりは無いようだが、眼はとても真剣だった。

 和泉はこっそり舌を巻いていた。事前に千束からアルゴリズムを構築している大学院生がいるとは聞いていた。それが女性で整った容姿をしていると言われたことも記憶にある。しかし、これほどまでに高い能力を持っているとは予想していなかった。

 株取引についてかなり専門的な知識がある。そんなことより重要なのは、それを根本的に概念から処理できていて、しかもそれを言葉にすることも出来る。些末な手法や観点でなく、ディーリングをする上で本質的に大事なことを知りたがっていた。

 栗田も彼女を見習ってくれないかな、と和泉はビンテージワインの瓶のようなことを考えた。

「少し話は変わるんだけど」和泉は淡雪の鼻のあたりを見ながら言った。「商いをする上でインパクトを極力出さないように、っていうのも考えものだと思う」

「……どうしてでしょう?」淡雪が静かに問い返す。

「特に日計でポジションを取るときの話なんだけど、市場にインパクトを与えることで、買いを誘発して値上がりするように仕向けるというテクニックもある。ある、と言うよりは、それをしないディーラーはいないと言っても良いくらいかな。売り注文が何度も出ているのに、ひたすら止め続けて、これ以上は値下がりしないような印象を与えるとか。あとはショートセルを全部買うのでも良い。同じ株数を買うのであっても、見ている市場参加者にポジティブな印象を与える買い方をすることで、自分に有利な動きになることがある。もっとも、やっぱり印象だけなので結局は長続きはしないけど……。日計ならその日のうちに手放すから、十分に有効な手段になる」

 淡雪がぱちくりと眼をしばたたかせた。

「逆にポジションを外すときにもさ、一発で全部売って重くして、瞬間的に恐慌を引き起こす。どこまでも値下がりしそうな状況を意図的に作り出すわけだね。恐怖に駆られたディーラーが全部投げて、値下がりしたところを拾い直す。するとやっぱり強い、と感じたディーラーが買い直して、また上に戻るから二度美味しい」

「それは……」淡雪は小声でつぶやいた。「考えもしなかったです。データ通り、シミュレーション通りだけでなく、そこから一歩進んで、自分の注文のインパクトを利用するのですね」

 そこまで言って、淡雪は真剣な顔で考え込んだ。何となく邪魔しづらい雰囲気で、和泉たちも黙ったままカップに口をつけたりしていた。

「ちょっと質問があるんですけど」千束がおずおずと口を挟んだ。「さっきから『誘発』とか『引き起こす』って言葉が出てきていますけど、それって見せ玉とは違うんですか?」

「違うよ。ええとね……。見せ玉に該当するのは、約定させる意志のない注文なんだ。買いでも売りでも出した注文がちゃんと約定すれば、決して見せ玉とは見なされない。逆に同じような状況を引き起こしておいて、約定する前に取り消したりすると引っかかる可能性がある」

「なるほど」千束は二度大きく頷いた。「約定したなら、ここでどうしても買いたかったって言い張れますもんね」

 黙ったままだった淡雪が顔を上げた。

「そうか、そうですね……」淡雪が和泉の方を見上げる。「アルゴリズムが約定した場合、その所為で約定しなかった他の注文が存在する。すなわち、その注文が市場に与える影響が消えてしまう。インパクトを減らすことばかりを考えていると、逆にシミュレーションの結果からは遠ざかってしまう」

「そうなるだろうね」いきなり話が飛んだので、和泉は少し驚いた。「まあ、個々の注文のインパクトを数値化するのは難しいかもしれないけどさ。一つのアイデアだとは思う。わざわざ時間と手間を掛けたシミュレーションで出てきた数字の結果を自分で外しにいくことになるから、抵抗があるかもしれないけど……」

「いえ、興味深いアプローチです。元々勝率が一○○パーセントになるような厳密な分野ではありません。ただ、精度の高いシミュレーションを行うのが非常に困難ですが」

 淡雪はそう困ったように言いながら、目が爛々と輝いていた。少し口元も緩んでいる。つられて和泉も少し微笑んだ。

「ところで、デイトレーダーってどんな環境で商いしてるんだ?」

 飽きたのか、榊が話題を変える。目線を追うとリビングの方を見ていた。壁際に置かれた長机にモニタばかり大量に並んでいる。

「ただのパソコンです」淡雪が立ち上がった。「少々スペックが良いくらいで、特別な機能は何もありません。……もっとも、元々使っていたものは警察に押収されてしまったので今はありませんけど」

「これはねぇ、淡雪さんが組み立てたんだよぉ」

 なぜか自慢げに瑠夏が言う。

「自作機? へぇ……」

 和泉と榊もリビングの方に向かった。

「なんだか、あんまり変わらないなあ」三面並んだモニタを見ながら榊が呟いた。それからおもむろにマウスを手に取る。「あ、でも一人一台しか無いのか。そこはちょっと違うかな。俺たち、マウスもキーボードもたくさんあるから」

「そうなんですか?」東が問いかける。「そんなにいっぱい何に使うんですか?」

「マウスがそんなにあったら間違えちゃいそう……」

「確かに時々間違えるけどな。まず発注系の端末だろ。それから情報系があって。後、取引所端末くらい?」

「そうだね。どれもパソコンだけど、専用線で各ベンダーと繋がってるはず。データセンター経由で注文を出す端末がメインで使っているマシン。後、取引所と直通で繋がってる派生の端末があって、これは東証と大証。大証は先物を扱ってるディーラーしか置いていないけど。他に新聞社系の、情報配信ベンダーと繋がってる端末が一台。これはチャートとかを表示するから、モニタの枚数を増やしている人が多い」和泉は三面のモニタを一度ずつつついた。「三枚だったら普通くらいかな。僕は四枚使ってる。榊は……」

「六枚。発注とか合わせると全部で九枚かな。情報系だけで八枚とか使ってる奴もいるし、発注系のモニタを二枚に増やしている奴もいるからな。大抵ディーラーの席はとんでもないことになってる。夏場は地獄だね。液晶になる前ってどうしてたんだろ」

 和泉は机の足下を覗き込んだ。置いてあるパソコンは一台だけ。フルタワーの巨大な筐体だった。簡単な台の上に、明らかに家庭用ではない、本来ならラックマウント型のルータが置かれている。床にはディスクを入れるためのボックスが積んであり、その横に見慣れないものがあった。

「UPSまであるのか。本格的だ」

「UPS?」榊が首をひねった。「何それ?」

「無停電装置です。停電が起きたときでもしばらくは稼働できます」

「ふうん。凄いな。そうだよな。ポジション大量に抱えたまま、引け間際に発注出来なくなったらとんでもなくなるもんな。……ってうちの会社は大丈夫なのか? 不安になってきたけど……」

「大丈夫。入ってるよ」和泉は苦笑いしながら言った。「パソコンとかの電源を二種類のタップから取ってるの知らなかった? 色違いで、赤い方がUPS経由。発注系だけはそっちから取ってる。五分くらいしか保たないらしいけど……。その間に反対売買しろって社内規定に書いてある」

「……え?」榊は少し慌てた顔になった。「俺、多分そこに空気清浄機繋いでるけど……」

「明日、朝一で外しとけよ、それ……。稼働可能時間がますます短くなるから」

 淡雪と千束が顔を見合わせてくすくすと笑う。顔をしかめて榊は頷いた。




     *




 白石千束は躊躇していた。

 目の前の和泉隆平はのんびりとコーヒーなんかを啜っている。塾以外で和泉と会うときはこんなカフェや喫茶店ばかりだな、と千束は改めて考えた。もっとも千束が和泉の生徒では無くなってから、まだ二ヶ月と経っていない。そう考えると決して悪いペースではないと、自分に言い聞かせる。初めて出会ってからは既に何年も経っていることにはこの際目を瞑っておく。そんなことをしても事実が変わらないことは重々承知しているが、人の関係などそもそも主観的な認識によるものだ。たとえ一方向からだけだとしても、それが良い方向に波及する可能性は大いにありうる。

 部室での会話が終わってから一時間ほど経っていた。千束と和泉は電車に乗って自由が丘に戻ってきていた。前回入った線路沿いのカフェではなく、駅から北東にある小さな喫茶店だった。

 榊は部室から直接一人で帰った。ツーシーターの車だったため、千束と和泉の二人を乗せることが出来ず、ぶつぶつ言いながら一人走り去った。

「ええと」

 千束は重い口を開いた。質量が普段の三倍くらいはありそうだった。顔がむくんでいるという意味ではない。

「今日は本当にありがとうございました。お話はどうでした?」

「面白かったよ」和泉は窓の外を眺めながらぼんやりと言った。「少し大学時代を思い出した」

「そうですか。良かったです」千束は小さく息を吐いた。「淡雪先輩はどうでした?」

「ええと」和泉はあごに手をやった。「すごく綺麗な人だね」

 千束は大きなショックを受けた。アメリカで大手金融機関が倒産したときくらい、大きなインパクトがあった。

 そんな千束の方を見向きもせずに、和泉は続けた。

「アルゴリズムの開発をしている人とは初めて話をしたけど、ものの見方が普通のディーラーとはまるで違っていて新鮮だった」

 千束はこっそり息を大きく吸い込んだ。肺の中になるべくたくさんの空気を取り込んで、それをまたゆっくりと吐き出した。空気の流れと自分の鼓動を意識する

 体勢を立て直さなければならない。冷静に、和泉に気づかれないように。何の意味があってそんなことを考えているのか、自分でも解らなかった。最終的な目的を考えた場合、和泉に認識させる必要がある。しかしそのタイミングは今ではないと判断した。しかしその根拠は何も無かった。

「……なるほど」千束は頷いた。「お話、弾んでいらっしゃいましたね」

「うん。彼女はね……」和泉がようやく千束の方を向いた。「すごく頭が良いんだと思う。回転が速いとか記憶力が良いとかそういう解りやすいところもそうだけど、もっと高い次元で能力が高い。概念を概念のまま抽象的に取り扱える。視点が豊富で多彩だから発想が柔軟で自由だし、それを実際の世界に落とし込める構築力もある。それと思考のトレースがうまい。状況、立場、目的……。そんな環境に合わせて相手の思考や行動をシミュレート出来る。少し練習すれば、アルゴ制作だけじゃなくて、手発注のディーラーとしても超一流になれそうな気がするよ」

「珍しいですね。先生がそんな他人をべた褒めするのは……」

「そうでも無いと思うよ。まあ、塾講師やっていたころは、あんまり生徒をほめなかったけど。でもそれは天狗になられると困るから、っていうだけの理由だから」

 千束は一度考え直してから訊いた。

「先生が教えた中で、すごいと思う生徒は今までにいましたか?」

「そうだね……」和泉は二秒ほど言葉を切った。「ノーコメント。まあ、限定的に、と言うか、個々の分野で高い能力を持った生徒はちらほらいたけど」

 千束は自分が教えている生徒のことを思い出した。全員既に顔と名前は一致しているが、特に秀でた子は思い浮かばなかった。

「生徒の中に」千束は一度息を吸った。「淡雪先輩くらい綺麗な娘はいましたか?」

「ううん、難しいことを訊くね……」和泉は苦笑した。「主観の問題だし世代の差もあるから、一概にはなんとも言えない。白石君ほど奇計を用いる生徒はいなかったと断言するけど」

「私は和泉先生ほど詭弁を弄する講師を知りません」

 千束は頬を膨らませて不満の意を表明した。しかし和泉からこの件についてそれ以上のコメントは無かった。

「ま、そんな話はともかく」和泉はまたぼんやりと窓の外を向いた。「あの部室、以前からあんな配置だったの? パソコンとか、全部壁際だったけど……」

「はい、そうです。淡雪先輩はずっとあの席で、隣に天沼先輩が座っていました。反対の壁際の、ノートパソコンがあった辺りに、亡くなった山中先輩。以前に使っていたパソコンは三台とも押収されていますけど、モニタの配置はあのままです」

 千束は部屋の配置を思い出したながらそう言った。九台のモニタが並んでいるリビングは、思い返してみても少し異様だった。

「足下にルータとUPSと、ディスクのボックスがあったけど、あれも?」

「はい。パソコン以外の電気機器はすべて以前のままです。あと淡雪先輩と天沼先輩の席の間、机の下にキャビネットがありましたけどそれは押収されています。通帳なんかが入っていたそうです」

「あのディスクボックスって、何が入っているのか知ってる? 鍵かかかっていたみたいだけど」

「え? ええと……」突然の質問攻めに、千束は目を白黒させた。「全部を知っているわけではないですけど。淡雪先輩が言うには、過去の注文履歴と、先輩が作ったアルゴリズムのプログラムが入っているとのことでしたが……。それがどうかしました?」

 千束は問い返したが、和泉は何も答えなかった。窓の外を眺めたまま、ぴくりとも動かない。

 千束は少しずつ不安になってきた。元々和泉は口数が多い方ではないが、こんな態度を取られたのは初めてのことだった。もしかして、何か気に障ることでも言ってしまったか、と自分の今日の発言を二回りほど思い返してみるが、特に思い当たるものはなかった。しかしそもそもの部室に来て貰った経緯が気に入らない可能性はあった。

「kabraは見せ玉を否認しているんだっけ?」

「はい」千束は即答した。「接見したときには、取引委員会の陰謀だと主張していました」

「ふうん。心証も悪いだろうに。それと、留置所に入りっぱなしだよね。警察から止められているのかもしれないけど……。認めて保釈金支払えば出られそうなものだけど」

「そうですね。どうしてでしょう……」

 和泉はカップを手にとってコーヒーを一口飲んだ。白熊のように緩慢な動作だった。

「君たち以外に、接見に行った人は?」

「ええと、たしか、私たちが行った翌日に、山中先輩と東先輩と平山さんが行く予定だったんですけど……」

「その亡くなった山中君っていう人も、日計でやるデイトレーダーだったよね」

「はい」

「でもkabraほどは儲かっていなかった」

「ええと」千束は少し迷ったがストレートに訊いた。「どうして事件のことを?」

「えっとね」和泉は頷いた。「面倒なんだよ、そろそろ」

 千束の頭が大雨の日のように真っ白になった。

「それは……」千束は四秒逡巡した。「私と会うのがってことですか?」

「え?」和泉の目が丸くなる。視線が千束の方を向く。「どうして?」

「だって、今面倒だっておっしゃいました」

「……ああ。別に白石君と会うことに対してではなくてね」

「先日、塾をお辞めになった理由も、私が講師になるからって……」

「それはさ……」和泉は鼻から小さく息を出した。「やっと、数学の後任が見つかったって意味なんだけど……。あの塾、数学が得意な講師が他にいなかったから辞めづらくて。白石君だったら、本質的に理解しているから大丈夫かなって」

 和泉の言い様に、今度は千束が目を丸くした。そんな評価を受けているとは夢にも思わなかった。

「もしかして君、一度も来てない?」

「え? 何がですか?」

「警察の事情聴取。ほら、あそこに二人して出てくるのを待ってる」

 和泉が窓の外を指さす。路肩に黒い車が停まっていて、その中に二人、スーツ姿の男が座っていた。距離があったので判然とはしなかったが、たしかに事件当日、捜査をしていた刑事たちのようだった。名前をたしか、袴田と加藤と言った。

「……先生のところに警察が来ているんですか?」

「僕のところというか……。塾に行こうとすると会うんだ。偶々なのか、僕をマークしているのかは知らない」

「先生はサークルと何の関係もないのに……。もしかして、私の所為で?」

「取っ掛かりは間違いなく白石君だろうけどね。僕が証券ディーラーだというのも一因みたいだ。今日部室に行ったのを見られていたんだとしたら、余計疑われているかも」

 和泉のはっきりとした物言いに、けれど千束は少し救われた。下手に優しくされるよりは、関連を指摘された方が遥かにました。

「本当に何度も申し訳ありません」

「君の所為ではないし、別に良いよ」和泉はコーヒーをすべて飲み干した。「さて、彼らがしびれを切らして中に入ってくる前に出ようか?」

「どうしてですか? 今出たらどちらにしろ、話をしないといけなくなってしまいますけど……」

「だって、立ち話の方が、すぐ終わりそうじゃない?」

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