その二十一.雪一片ほどの儚き身なれど

「――ッ!」


 どうやら気を失っていたのはほんの一瞬のことだったようだ。

 吹雪は青い瞳を開き、ざっと辺りの様子をうかがった。リンヤによって床は完全に崩されたようで、辺りは瓦礫に埋もれている。天井が先ほどよりもずっと高く見えた。


「……ブキちゃん、無事?」


 すぐ傍からサチの声が聞こえ、吹雪は視線をそちらに向ける。

 瓦礫に隠され、サチの姿は見えない。

 だが、視界の端で大神の尻尾が揺れた。どうやら、すぐ近くにいるらしい。


「私は大丈夫です。ワンコ、貴方は……?」

「わたしも平気。落ちる寸前に林檎が護ってくれたの。だけどそれで林檎が気を失って、今はわたしの中に戻って――」

「ぐおお――っ!」


 呻き声と共に、吹雪の背後で鈍い音が轟く。

 はっと視線をそちらに向けると、時久が壁に磔にされていた。その右肩には、古めかしい形をした青銅剣が突き立てられている。

 青銅剣を握りしめているのは、リンヤだった。


「……番狂わせはあったが、もう十分であろう。これで――」


 薄い唇を吊り上げてリンヤが笑う。赤く光るその瞳に、もはや霖哉の影はない。

 考えるよりも早く、吹雪は立ち上がっていた。


「ブキちゃん……?」


 不安げなサチの声に答えず、吹雪は駆け出す。

 体のあちこちに痛みが走るのを無視して、吹雪は声もなくリンヤへと襲いかかる。

 リンヤは振り返らなかった。

 代わりにその背中から黒い大蛇が二頭ぬらりと現われ、左右から吹雪を迎え撃つ。

 どちらも、鋭い牙から毒液を散らしている。それが散るたび、しゅうしゅうと煙を立てて雫が落ちた箇所の地面が焼け焦げた。

 あの顎に噛まれたら仕舞いだ。しかし、吹雪はそれでもまっすぐに走る。


「気でも違ったか」


 わずかに振り返り、霖哉の顔をした化物が笑う。

 迫り来る蛇の顎にまっすぐに視線を向けたまま、吹雪はすっと息を吸った。

 無駄撃ちは出来ない。けれどもここで使わなければいけない。


「――涅槃寂静」


 音が遠のく。色が消えていく。

 時の止まった白黒の世界で、二頭の蛇は牙を剥いたまま静止していた。その凄まじい絵面は、さながら匠の描いた水墨画のよう。


「何――!」


 常なら無音の世界に響き渡った声に、吹雪はぴくりと眉を動かす。

 視線の先で、リンヤの顔が驚愕に染まる。

 吹雪の未熟な涅槃寂静は、太古の化物には通用しないようだ。

 それでも、もはや蛇は吹雪に追いつけない。呼吸を止めたまま、吹雪は両手を伸ばす。二頭の蛇の首を左右の手に握りしめ、その指先にぐっと力を込める。

 涅槃寂静は人外の域に一歩踏み出す技。

 それによって枷の外された吹雪の身体能力は、常時よりも遥かに跳ね上がっている。

 その手はたやすく、蛇の首をぶつりとねじ切った。

 時が戻る。音が帰ってくる。

 駆ける吹雪と、時久の視線が一度交錯した。

 その一瞬の間に、吹雪と時久はずいぶん多くのやり取りを沈黙のうちに行った。

 引きちぎった蛇の頭を投げ飛ばし、吹雪はリンヤへと躍りかかった。


「ふん――」


 リンヤは苛立たしげに眉を吊り上げ、異形と化した左腕を無造作に振るった。

 腐臭と共に、ごうっと風が舞い上がる。

 無眼の龍が牙を剥きだし、吹雪へと迫った。

 薙ぎ払うように放たれたその一撃に合わせ、吹雪はわずかに身を沈めた。

 跳躍。そして着地した先は、龍の頭。

 リンヤが目を見開く。その右手が時久を封じていた青銅剣から離れ、吹雪へと向けられた。

 その掌から赤い光が零れるのを見ながら、吹雪は軽く跳躍した。


「――飛天」


 まさしく天を飛ぶが如き二段構えの跳躍法。

 二度めの大跳躍によって吹雪の体は、弾丸の如く宙を飛ぶ。リンヤの放った赤い光弾は、その足下をすり抜けていった。


「小賢しい――!」


 リンヤが唸り、宙を舞う吹雪の体に右手を向ける。

 空中ならば自由はきかない。丸腰の吹雪は今、完全に無防備。


「――おぉお!」


 しかし、吹雪には時久がいた。

 青銅剣をやすやすと引き抜き、時久はその刃をリンヤの脇腹に叩き込んだ。

 完全に意識の外にあった時久の攻撃をもろに受け、リンヤの体が吹き飛ぶ。その華奢な体躯は轟音とともに壁面を突き破り、土煙の向こうに消えた。

 着地した吹雪は時久へと駆け寄る。


「調子はいかがです」

「最悪だ。貴様はどうだ」

「最悪です」

「そうか。そうだろうな」


 穿たれた肩を抑えつつ、時久は鼻を鳴らした。相も変わらずの仏頂面だが、その横顔はどこか満足げにも見えた。


「ブキちゃん! 御堂さん!」


 瓦礫をどけ、サチが駆け寄ってくる。あちこちに擦り傷を負ってはいるが、林檎が護ったおかげで大きな怪我は負っていないようだ。


「二人とも無茶をするんだから! それよりあの人は――」


 吹雪はちら、と瓦礫の向こうをうかがう。


「……死んで、しまいましたか」

「駄目だ。見ろ、この剣はどうやら奴が持っていないと真価を発揮しないようだ」


 近くに突き刺さっていた鬼鉄を引き抜きつつ、時久は握りしめていた青銅剣を見せた。

 先ほどまでには鈍く輝いていたそれは、みるみるうちに朽ちていく。


「この剣では奴を倒せん。――恐らく大した痛手にはなっていない」

「そうですか……」


 何とも言えず、吹雪は崩れていく剣を見つめた。胸の中には、安堵とも悔しさともわからない奇妙な感情が渦を巻いていた。


「……おまけに先ほどから毒をいくらか喰らっていてな。ろくに体に力が入らん」

「ど、毒って、そんな――!」


 息を飲む吹雪に対し時久は唇を吊り上げ、肩をぐるりと回して見せた。


「安心しろ。俺はそこまでやわではない。――それにどうやら、奴の口ぶりでは俺の祖先と奴とにはなんらかの繋がりがある。だからか知らんが、俺には奴の毒に対してある程度の耐性があるようだ」

「でも、それもどこまで保つかわからないよね……?」


 不安げなサチの声に、時久はひょいと肩をすくめた。

 そして、視線を吹雪に移す。


「それより貴様……奴を倒す決心が付いたのか」

「それは――」

「――なんだ、二人がかりでこれか」


 あざけりの声に吹雪は口を噤む。

 わずかな躊躇いがあった。それでも意を決して声のする方に視線を向ければ、何枚もの壁を穿つ大穴の向こうで影が揺れるのが見える。

 リンヤは涼しげな顔で穴の向こうに立ち、不愉快そうに唇を歪めた。


「拍子抜けだ。人間というものは、ずいぶん堕ちたように見える」

「なぁに。まだ肩慣らしに過ぎん。ようやく体が温まってきたところだ」


 時久がにやりと笑い、鬼鉄を構え直した。その体に闘気が漲るのを、傍に立つ吹雪は感じ取る。到底毒にやられているとは思えぬ頑強さだ。

 それに密やかながら感嘆しつつ、吹雪は一歩前に出た。


「小娘? なんのつもりだ」

「ブキちゃん……?」


 時久がいぶかしげに眉を吊り上げ、サチは不安げに首を傾げた。


「ほう……? 先ほどまでとは、面構えが違うな。」


 一方のリンヤは、愉快そうに唇を吊り上げる。

 その瞳を、吹雪はまっすぐに見つめた。

 黒い眼球の中心で輝く、鬼灯のように赤い虹彩。

 目の前に立っているのは、霖哉ではない。

 だがさっき――吹雪は間違いなく、霖哉の姿を見た。


「貴方は霖哉さんではない」


 吹雪の静かな言葉に、リンヤは「何を今さら」と笑い声を漏らす。


「この男の肉体はもはや私のもの。男の魂もまた大蛇の胃の底に呑まれ、消えゆく定め」

「では、まだ消えてはいないのですね」


 その言葉に、リンヤは何も答えなかった。

 吹雪はもう一歩、前に出る。時久がわずかに身じろぎした。


「……諦めていなかったのか」

「諦めるわけにはいきません。……呑まれたのならば引きずり出すまで」


 吹雪はさらに一歩、進む。

 絶句兼若は手元にない。まるで素裸で化物に挑んでいるような、そんな心もとなさを感じる。

 それでも吹雪の目は、まっすぐリンヤを捉えていた。


「……馬鹿だ、お前は」


 時久の言葉は、いやに切ない響きを伴っていた。

 それを背にして、吹雪は呼吸を整える。


「――鬼は切ります。必ず切ります」


 きっぱりと言い切った。

 その瞬間――吹雪の姿がかき消えた。

 直後、リンヤの前に移動し、吹雪はその顔面にこぶしを叩き込もうとする。リンヤはそれを難なく受け止め、じっと吹雪を見つめた。


「……命を賭けて、切ってみせます」

「鬼切りはいつの御代も変わらんな」


 気怠げな言葉と共に大蛇が牙を剥き、襲いかかってくる。

 吹雪は腕を拘束するリンヤの手首に手刀を打ちこんだ。緩んだその手を振り解き、大蛇の牙をかいくぐって距離をとる。


「化物を斬るためにあり、化物を斬らねば生きられぬ。斬るしか能のない哀しい生物だ」

「確かに私には、斬ることしかできません」


 嘲るように顎を開く大蛇を前に、吹雪は緩く構えを獲った。


「――それでも、それで人を救えるなら。私は化物を斬り続けましょう」

「……哀しいなぁ、クシナダ」


 リンヤは鼻で笑って、手を払った。

 毒液を牙から散らし、大蛇の首がしなる。現界まで顎を開き、真っ赤な口腔内を晒して迫り来る蛇を前にして、吹雪は動かなかった。

 それどころか、目を閉じた。


「なにをしている、遠峰ッ!」


 時久が怒鳴り、動こうとした瞬間。

 轟音とともに吹雪の周囲に氷壁が立ち上がった。


「なっ……!」


 大蛇の牙を氷に阻まれ、リンヤが鬼灯の如き瞳を見開く。

 しんしんと空気が冷えていく。凍てつく壁に囲まれて、吹雪はゆっくりと呼吸を落ち着ける。

 思い出すのは、猿面――雷光との戦い。

 そして、アバンチュリエで言い争ったときに雷光が発した言葉。

 ――てめェはあのクソ親父が認めた天才だぞ!


「……少しだけ、傲慢になってみましょうか」


 傲慢に考える。

 雷光に出来る事が、吹雪に出来ないはずがないと。

『あれ』がこの近くにあることを、うっすらと吹雪は感じ取っていた。

 そのおぼろげな感覚を信じて、吹雪は呼吸を整えた。

 ゆっくりと手を前に出す。


「――来なさい。絶句兼若」


 白い息とともに、吹雪はその名を口にした。

 空気が動く。どこからか立て続けに金属音が響くのがかすかに聞こえた。それは一気に近づき――やがて、吹雪を囲う氷壁に亀裂が走った。

 壁面を何かが突き破る。

 開かれた吹雪の瞳に、見慣れた太刀の姿が映った。

 黒革の柄。漆塗りの鞘。飾り気のない端正な拵えの太刀――絶句兼若。それがまるで意思を持っているかのように、まっしぐらに吹雪へと迫った。

 吹雪は太刀を受け止め、それを瞬時に抜き払う。

 同時に氷壁が砕け、視界が一気に開けた。

 龍脈の光を吸い上げ、不気味に光る壁が見えた。崩れた瓦礫が見えた。黒と赤に濁った眼を見開くリンヤの姿が見えた。口元を覆うサチの顔が見えた。

 そして時久の姿も。

 時久は鈍色の瞳を見開いて、構えをとる吹雪の姿を見つめていた。しかし驚愕の色に染まっていたその顔は、やがて不敵な笑みへと塗り替えられていく。

 それらをどこか遠くの事のように感じながら、吹雪は唇を開いた。


「雪一片、百鬼を殺す」


 今ならばわかる。この符号の意味が。

 祈るように目を伏せ、吹雪はその言葉を――誓いの言葉にも似た符号を口にした。


「……雪一片ほどの儚き身なれど、必ず百鬼を殺しましょう」


 青い光が刃を駆けた。

 空気が急激に冷え、霜が降りたようにその刃が白く染まる。ほのかに冷気を棚引かせる絶句兼若を霞みに構え、吹雪は迷いなく地を蹴った。

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バケモノ×ケンゲキ 伏見七尾 @Diana_220

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