その二十.風神お燎
――風の音が聞こえる。
「さよならを言う前に、ちョいと与太話をしようか」
小さな吹雪は、囲炉裏の側に座っている。母はその傍で、軽く酒を煽っていた。
後ろの布団では、幼い雷光が寝息を立てている。
「八雲さんが今、何処で何をしているか。知ってるかい?」
「……ばけものたいじ」
たどたどしい口調で吹雪が答えると、母は満足げにうなずいた。
「そッ。あの人は鬼切りだからね。化物を殺して銭を稼いでいるのさ。今夜は確か金沢の方に行ッているよ」
母は盃をいったん置いて、炉端から火箸を取った。
そして柔らかな灰の上に『切』という文字を書く。
「鬼切りの『切り』ッてさ、こンな字を書くンだよ。――でもさ、鬼を斬るんだから、こッちの字もアリだと思わないか?」
言いながら、母は一度灰をならして『切』の字を消した。
そうして書かれたのは『斬』の一文字。
「わかんない……」
吹雪は眉を寄せて灰の上の文字を見下ろし、小首を傾げた。仮名の読み書きも怪しい幼子には、ほとんどその意味が理解できない。
「カカッ、仕方ないね! まッ、酒飲みの与太話だと思ッて聞いていな!」
母は豪快に笑う。その笑い方は、雷光そっくりだった。
白い手が盃を取り、また一口酒を呑む。そうしてゆらりと顔を上げ、灰に記された文字を見下ろした母の目は、はっとするほど真剣だった。
「……『斬』。この字の由来は昔の刑罰からとも、あるいは木を斤(おの)で斬ることで車の材料としたからとも言われる。意味は人や動物を刃物によって傷つけること」
対して、『切』。刀に音符の『七』を加えた形。
意味はそのまま、切ること。ただこの字が『斬』と違うのは――。
「この字の対象は生き物に限らないンだよ。例えば悪縁とか、そういう見えないモノや、形の無いものを断つッて時にもこの字は使えるンだ」
母は火箸を取り、再び『切』の一字を書く。
「だから鬼切りはこの字を使うンだろうね。見えないモノ――悪い縁や、己の迷いを断ちきッて、鬼を払う」
静かな口調で語りながら、母は『切』の前後にさらに二字を付け足した。
『鬼切り』――真っ白な灰の上に深く刻み込まれたその字を、吹雪はじっと見つめる。
母はどこか満足そうに笑って、そんな吹雪の白髪を優しく撫でた。
「吹雪、よく覚えておきな。鬼切りが一体、なんのために鬼を切るのか――」
――風の音が、遠のいていく。
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