その十九.鬼を斬れ
辺りには異様な音ばかりが響いている。
低く鳴り続ける地鳴り。みしみしとどこかが軋み、変形していく音。耳を澄ませれば、シューシューと蛇の声にも似た音も混じっている。
そんな歪んだ聖堂の中――狭い空間に、吹雪達は身を潜めていた。
時久が壁にもたれかかり、辺りを見回す。
「隠行・杯盤狼藉……大神の咆哮により相手の経絡に異常を発生させ、認識を阻害する強力な術だが――どうだ、林檎?」
『多分、そんなに長持ちしないわ……』
硬い声音で林檎が時久に返した。いつも通り表情に乏しいその顔は青ざめ、よくよく見るとその体は細かく震えている。
きつく肩を抱き締め、林檎はゆるゆると首を横に振った。
『相手が強すぎる……五分が限界よ』
「構わん。それだけあれば立て直せる。――犬槙、通信機を貸せ。社長達と話す」
「わ、わかった……」
サチがうなずき、耳に付けていた通信機を時久に差し出した。
小型の通信機を受け取り、時久はそれを耳に付けた。通信が繋がるまでの間に片手で薬湯の瓶を取り出すと、それをぐびりと飲む。
「……社長か。状況が逼迫している、手短に話すぞ――やかましい。話を聞け」
通信機からは慶次郎の他、夕子の怒鳴り声も微かに漏れてきている。時久は顔を歪めながら、現在の状況を説明し始めた。
一方のサチは心配そうな顔で、吹雪へと近づいてきた。
「ブキちゃん、大丈夫? 何処も怪我してない?」
「怪我……した、はずなんですが」
繋がった右手を見つめ、吹雪はぼうっと呟いた。
なにもかもが幻覚のように思えた。
相変わらず自分の肩を抱いたまま林檎がちら、と吹雪に視線を向ける。
「あの男、誰?」
「……帝都で最初に出会った方、ですよ。名前は涅霖哉」
「香我美の配下?」
「霖哉さんは悪い人なんかじゃありませんよ。色んな相談に乗ってくれて、さっきも伯爵から私を助けようとしてくれた……」
「アナタにとって何?」
林檎の問いかけは極めて単純だったが、何故か吹雪は答えに一瞬窮した。
霖哉のことを、自分は今どう思っているのだろう。
それまでは親しい友人だと思っていた。優しく、聡い青年だと。
けれども彼の弱さや醜さを見た今、その感情は何か違うものに変異しているように思えた。
その感情が一体何なのかは、わからない。
「……大切な人ですよ」
けれどもそれだけは、確かなことだった。
わからないことが多すぎる。吹雪は汗に濡れた額を押さえ、深くため息を吐く。
「――わかった。時間がない、一度切るぞ」
時久は通信を切り、通信機をサチに投げ渡した。
そして、彼は吹雪を見た。
「……あの男、知り合いだな?」
「えぇ。大切な人です」
その答えに、時久は一瞬きつく目を瞑った。まるで苦痛に耐えているかのようなその表情に、吹雪はなにか嫌な予感を感じた。
やがて時久は目を開けると、彼はやや固い声で問いかけた。
「……小娘。よく聞け、あの男は鬼になった。もはや貴様の知っている男ではない」
「……鬼、とは」
砂を噛むような心地で、吹雪はうっすら理解した事を口にする。
「人が、化物に変じた存在ですか……」
「そうだ」
時久は深くうなずいた。
「化物に取り込まれた、瘴気を浴びすぎた、あるいは激烈な感情に狂った末――原因はどうあれ、本来『鬼』とは人が化物となった存在の事を示す」
霖哉を思い出す。
鬼灯の瞳を身のうちに取り込んだのが決定打となっただろう。だが、その寸前から彼の言動はすでに常軌を逸していた。
首を切り裂かれながらも笑っていた霖哉の顔を思い出し、吹雪は頭を抱える。
「……先に、言う。救う手は一つだけある」
「か、彼を……霖哉さんを救えるのですか!」
考えるよりも先に体が動いていた。
吹雪は時久へと駆け寄り、必死で問いかける。
「あの人を……霖哉さんを、あの禍々しい神代の化物から解放する手があるのですか!」
時久は小さく吐息した。
その顔に、一瞬またあの苦しげな色がよぎる。しかしそれはほんの一瞬のこと。
時久はいつもの仏頂面に戻り、淡々とした口調で言った。
「鬼となったものを救う手は一つだけ――斬る事だけだ」
斬る。その言葉に、吹雪は動きを止めた。
さんざん耳に馴染んだその言葉を、今この場で一番聞きたくなかったもの。
予感はしていた。
なのに、心臓の鼓動が急に苦しく感じられた。
「き、斬るって、そんな……!」
サチが口を覆う。
一方の林檎は予想が付いていたようで、険しい顔のまま黙っていた。
「鬼に変貌したものはもう二度と人間には戻せん。人としての理性を失い、ただ衝動のままに破壊を繰り広げる……」
「本当に――本当に戻せないの?」
『サチ……』
食い下がるサチの肩に、林檎はどこか哀しげな顔で手を置く。
しかしサチは構わず時久に必死で問いかける。
「鬼って、最近は全然出てなかったんでしょう? だったら情報が足りないから――!」
「戻せないのだ、犬槙」
サチの言葉を、時久は苦々しげにさえぎった。
「……それに、『最近は出ていなかった』というのは偽りだ。実際は十年ほど前、ある事件で鬼が大量発生したことがあった。陸軍によってもみ消されたがな」
「ある事件……?」
渇いた唇で吹雪は呟く。
心臓の鼓動が異様に大きく感じられた。それでも、時久が語る言葉はしっかりと聞こえた。
「……ある新兵器の試験運用中に起きた事故だ。それによって小さな村の村民と、一個小隊が鬼となった。――一人の兵長を除いて」
一人の兵長。
それは、どう考えても。吹雪はうつろな瞳を、まっすぐ時久に向けた。
「兵長は、どうにか鬼達を人間に元に戻そうとした。かろうじて自我を保っていた上官と共に、あらゆる手段を尽くした」
「それで……どうなったの?」
サチがおずおずといった様子でたずねるサチに、時久はゆっくりとかぶりを横に振った。
「……どうにもならなかった。兵長は全員を斬り殺した」
「そん、な……」
「死に損った兵長は軍を離れ……いまはしがない退治屋をやっている」
時久は嘆息する。
そして、ゆっくりと吹雪へと近づいた。
「――さて。そんなしがない退治屋から、北陸随一の鬼切りに問う」
吹雪の前に立ち止まり、時久は吹雪の肩に手を置いた。
「あの鬼を斬れるか――遠峰吹雪」
今までに聞いたことがないほど、優しい声だった。
そんな声で初めて名前を呼ばれ――吹雪の中で、最後の砦が崩れてしまった。
「斬れ、ない……」
伯爵に追い詰められた時でさえ、ここまで弱々しい声は出なかった。
青い瞳から、堰を切ったように涙がぼろぼろとこぼれだした。
「斬りたく……ない……う、うう、ううう……!」
そして、吹雪は地面に膝を屈した。
抱き締めてくるサチの胸に顔を埋め、吹雪は子供のように泣きじゃくった。
ただただ悔しくてならなかった。
こういう事だったのか。父が鬼を知らずとも良いと言った理由は。
「と……さまはだれを……っく、……うう……!」
――父様は一体、誰を斬ったのですか。
――その時のあなたも、私のように無様に泣いたのですか。
――霖哉さんを斬らなければ、私は父様のような鬼切りになれないのですか。
問いかけたくとも、ここに父はいない。
サチに抱かれて泣く吹雪を、時久は決して笑わなかった。いつものように苛立ったような顔もせず、彼はただ静かに口を開いた。
「犬槙。遠峰を頼む。――あと、通信機を返しておく」
「……どうするつもりなの?」
吹雪をきつく抱き締め、サチが戸惑った様子で時久を見上げる。
「俺があの鬼を斬る」
「でも、でも……こんなのってないよ……! こんなひどい……!」
「ここであの鬼を切らねば全員死ぬ。――それだけじゃない。見ろ」
時久は手を広げ、周囲を示した。
見れば、周囲の壁面には淡く光る光の線が刻まれていた。地面からは青白い光が湧き上がり、刻まれた線に沿って上へと上っていく。
それを見て、林檎が渋い顔をする。
『龍脈から吸い上げられた霊気ね……』
「そうだ。こうしている間にも、この蛇の根城はどんどん龍脈を浸食し、霊気を吸収して瘴気を吐き出す……このままでは帝都は汚染される」
「根城の浸食を止めるには、あの霖哉って人を殺すしかない……でも……」
サチが迷うように口ごもり、震える吹雪の背中をさすった。
時久は小さく、ため息を吐いた。
「先ほども言っただろう。あれはもはや人ではな――」
言い終わるよりも早く、轟音とともに近くの壁が吹き飛んだ。
眉を寄せた時久は鬼鉄をぐるりと振るって、飛んできた瓦礫を一閃して防ぐ。
冴え冴えと光る刃を中段に構え、彼は土煙の向こうを睨んだ。
「……来たな。鬼め」
「ほう……神々さえ鏖殺せしめた私の毒を喰らって、まだ生きているとは」
崩れた壁の影からリンヤが現われ、興味深そうに赤く光る目を細めた。
その体は先ほどよりも、さらに化物めいた姿に変異しつつあった。
左目は白眼が黒く染まり、赤い虹彩が火の如く燃えている。さらに左腕はほぼ完全に黒い鱗と甲殻に覆われ、指先には鋭い鉤爪が光っていた。
その体には二対の大蛇が絡みつき、絶えず牙から毒液を滴らせていた。
人では、ない。
そんな事実を思い知らせるようなリンヤの姿に、吹雪はたまらず視線を落とす。
「やはり貴様、私に縁あるものとみる。――さては、かつて都を荒らしたあの鬼の末裔か」
鎌首をもたげる大蛇の頭を撫でつつ、リンヤはふうむと鼻を慣らした。
「ふん、毒だと? まるで効かんな」
時久はリンヤの問いに答えず、にいっと笑う時久。
「俺を潰したくば大吟醸でも持ってこい。……ああ。酔い潰された挙句八つ裂きにされた貴様に言う台詞ではなかったな」
答えはなく、リンヤの背後から大蛇たちが牙を剥いて襲いかかる。
鬼鉄を翻し、時久は蛇たちの攻撃を尽く捌き切った。
しかし間髪入れず、そこにさらにリンヤが躍りかかる。左腕を振り回し、地面に叩き付けた。
地面がぐらりと揺れ、そこに深々と亀裂が刻み込まれる。
崩れ落ちる足場から時久はかろうじて脱し、壁面を蹴って上からリンヤに斬りかかった。
一方サチと林檎は吹雪を庇いつつ、じりじりと後退していた。
「このままじゃ巻き添えになっちゃう……!」
『ここから離れないと――!』
轟音。ついで、鋼の鳴るぎぃんという耳障りな音。
今までとは趣の異なるその音に、吹雪ははっと顔を上げた。
「ぐあっ――!」
まさにその時、時久が吹き飛ばされ、壁面に叩き付けられた。一拍遅れ、くるくると宙を舞っていた鬼鉄がやかましい音を立てて地面に落ちる。
「御堂さん――!」
あの時久が吹き飛ばされた。――その事実に、吹雪はただ驚愕する。
リンヤは容赦をしない。蛇の如く時久を追い、追い打ちを仕掛けようとする。
考えるよりも先に、体が動いた。
一体、なんのつもりだろう。刀もないのに、自分に何が出来るというのか。
それでも吹雪は構わず、リンヤの左腕へと手を伸ばす。
リンヤが、にいっと笑った。
「……良いぞ、ここで喰ってやろう」
その左腕がめきめきと音を立てて歪み、無眼の龍の頭を形成した。
醜いあぎとを開き、龍が吹雪に牙を剥く。
吹雪はただ、迫り来る顎を見つめていた。
「下がれ遠峰――!」
時久が叫ぶ。
吹雪は仄暗い龍の顎から目をそらせなかった。
生暖かい吐息とともに、鉄錆の臭いを感じた。
瞬間、リンヤが瞳を見開いた。
その瞳が、龍の顎に呑まれんとする吹雪を捉える。
どこか呆然と自分を見つめるその瞳は、澄んだ紅茶色をしていた。
「霖哉、さん……」
思わずその名を口走る。
その時、吹雪を見つめていたのは間違いなく霖哉だった。
霖哉は歯を食いしばり、体をぐるりと回転させる。
「う、お、おぉ――!」
龍の顎が吹雪から大きく逸れた。
異形と化した左腕が唸りを上げ、地面へと叩き込まれる。
一瞬で亀裂が縦横無尽に刻み込まれ――轟音とともに、地面が崩れた。
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