第9話「Bitter Sweet Symphony」

 1


 規則的な電子音。BPMは60前後。時計と同じリズム。

 意識が血流に乗って、末端まで届くのを感じる。少しずつ、ゆっくりと目が覚めていくのが判る。気分はとても晴れやかとは言えないけれど、痛みは感じない。白い天井。体は、ひどく重い。息を吸う。医薬品の微かな匂い。そうか、病院か。

 ベッドに寝ている。その脇には椅子に座る、女性。温かな感情が溢れてくる。久遠さんだ。話しかけたいけれど、声が出ない。出し方を忘れているようだ。でも、ちょうど良いので、そのまま彼女の姿を眺めることにする。

 彼女は俯いている。眠っているのだろうか。疲れているように見える。どれくらい経ったのだろう。二日、それとも何週間、何ヶ月もだろうか。

「……ぁぁ」うめき声のようなものを、僕の喉が鳴らす。どうやら、さっき出そうとした声が、遅れて出たようだ。その微かな音に、彼女が反応する。

「あぁ……、良かった……」久遠さんの表情は、一瞬の笑顔のあと崩れた。「良かった……」

「心配かけて、ごめん」ゆっくりと、言葉を紡ぐ。段々とフィルターが外れていくように、声が出せるようになっていく。「どれくらい眠ってた?」

「二日だよ。もう、本当に心配したんだから」

「ずっと付いていてくれたの?」

「そうだよ」

「ダメだよ、無理をしちゃ。妊婦なんだから」

「だって、心配だったんだもん」

「ありがとう」

 いくつかのセンサーと、点滴のチューブ。その先には、電子音を発している、いくつかの機械。

「大丈夫? どこか痛むところはない?」

「うん。体はなんとなく重いけれど。痛み止めのおかげかな。あ、これ、もしかして医療用のモルヒネかな?」

「もう。判らないよ、私には」

「モルヒネだったら、光栄だな」

「変なこと言わないで」

「いや、変な意味じゃないよ。ベイビーバレットの曲に、『モルヒネ』っていうのがあるんだ」

 手を伸ばす。その手を、久遠さんが握ってくれる。冷たくて、少しだけ湿っている。気持ちが良い。

「渡良木さん、起きたみたいですね」白衣を着た人物が、病室に入ってくる。細い銀縁眼鏡の男性。歳は、僕と同じか、ちょっと上くらい。「担当の、大島です」

「はぁ、どうも」

「調子はどうです? どこか痛むところはありませんか? 気分は?」

「まぁ、なんとか大丈夫です」

「それは良かった。お腹の傷は、胃と腸を少しずつ傷つけていましたけれど、大丈夫です。ただ、ナイフが首にかすって、そこからも出血しました。傷自体はどちらも手術しましたが……。出血量は約1000mlです。脳やその他の臓器への影響は、今のところみられません」

「そうですか」

 なんだか眠くなってきてしまった。僕は隣を見る。この病室には、もうひとり、患者さんがいる。

「彼は、建本さんです」先生が言う。「あなたの命の恩人ですよ」

「え?」

「建本さんが、犯人を取り押さえようとしてくれたんです。そのおかげで、ナイフが逸れました。まぁ、結果、首を掠ってしまったんですが、致命傷は避けられました」

「あの、彼は……」

「眠っているだけです。命に別条はありません」

「そうですか」

 なるほど。命の恩人か……。ただ、どうにも……。

「恩人と同室なんて、なんだか気まずいなぁ」戯けた声で、先生が言う。

「え?」

「渡良木さん、あなた今、そう思ったでしょう?」

「あ、いや……」

「いやいや。平均的な感情ですよ。感謝してもしきれない。なんせ、命を助けてもらったのです。医者でも、警察でもない、一般の人に。しかも、そのせいで怪我をして入院までさせてしまった。責任を感じて当然です」

「はぁ……」なんだ? この医者……。

「でもね、渡良木さん。これはたまたまですが、この病室しか空いてなかったんですよ。だから、我慢してください」

「いや、僕は別に……」

「それに、そんな恩なんて、感謝の言葉を述べたら、忘れてしまっても良いと思いますよ。ストレスになるだけですからね。ほら、三島由紀夫の本にも、『受けた恩は、さっさと忘れろ』って書いてあったでしょう?」

「いや、でも……」

「何かあったら、そのボタン押してください。ではまた」

 先生は、ニヤニヤしながら病室を出て行く。

「変わった先生だね」先生の姿が見えなくなるのを待って、久遠さんが言う。

「まったくだね。不道徳な先生だ」

「でも、自分に対しても言っていたのかも?」

「え?」

「だって、あの先生も、命の恩人だよ」

「あぁ、そうだね」


 2


 「ウィーッス! 死に損ない!」

 遠慮、という言葉が辞書にないであろう男、近藤が引き戸を勢い良く開けて入ってくる。

「益一郎さん、大丈夫ですか。あ、これ痛み止めのモルヒネですか? 俺にも分けてくださいよ。so let’s get high!」羽鳥。その名の通りというか、こいつもこいつでいつもの軽口だ。

「よ、よう」柏木。アポ、みたいなイントネーションで、それだけ言う。ジャイアント馬場か!

「お前ら、ここは病院だぞ。静かにしろよ」僕は言う。

「なーに良い子ちゃんぶってんだ? 誰に言ってんだよ。俺たちゃ、ロックバンドだぜ?」

「良い歳して恥ずかしくないのか。矯正のために頭に電気ショックでもしたらどうだ? イアン・カーティスの気分が味わえるかもよ?」

「出た出た。さすがにそれは不謹慎だぜ、マス」と言いつつ、近藤も笑う。

 Indian Dead Spangleの三人。僕の、元バンドメンバーたち。

「ダサい格好、見られちまったな。情けないよ」

「いーや、そんなことない。よく生きてたな」近藤はそう言いながら、ベッド脇の椅子に座る。「ほら、これ。お見舞いの品だ」

「珍しく気がきくなぁ。でも、どうせエロ本かなんかだろ?」僕は受け取った箱を開ける。「あ、ラジオか」

「エロ本のほうが良かったか?」

「いーや。久遠さんたちも来るんだよ?」

「そうだよな。それに、そのザマじゃ、実用も無理だろう」

「余計なお世話だっての」

 少しだけ気分が上がる。僕にも、こうしてお見舞いに来てくれる仲間がいる。

「あの運転手の奥さんだって?」柏木が言う。普段から無口なだけに、なんとなく言葉が重い。

「そうだよ」

「現場にいた人たちに、取り押さえられたって」

「そっか」

「傷もそうだが、益一郎、大丈夫か?」

「うん。まぁね」

 何が言いたいのだろう。

「ようはですね……」羽鳥が口を開く。「益一郎さんが、なにか責任を感じていないか、ってことなんです。あの人の奥さんが益一郎さんを刺したのは、自分にも落ち度があるんじゃないかって、思っているだろうと」

「そんな……、まさか」

「ですよね。益一郎さんは被害者なんです。加害者の心配まではしなくて良い」

「それはそうだけれど」

「図星だろ?」近藤が言う。「お前ってさ、そういうところあるから。頑固っつうかさ」

「そうかな」

「そうだよ。初めてのレコーディングの時だってそうだった。いつまでもいつまでもスタジオに残ってさ。納得いくまでエンジニアとミックスしてたろ? そのうち、俺が弾いたギターまで録り直すとか言い出してさ」

「そうだっけ?」

「そうだよ。あんまりしつこいからエンジニアのおっさんも呆れてたろ? しまいにはマスタリングの時もそうだった。ラヴィンスタジオの仲村さん、それでキレたじゃん。俺の仕事が気にくわないのかって」

「そんなこともあったね。だって、なんつーか、綺麗すぎたんだよ、音が」

「いやぁ、あれは凄かったな」

「でも、それとこれとは話が全然違うじゃないか」

「そうか?」

「え?」どうだろう。

「一人で背負いすぎなんだよ」

「悪かったよ」


 メンバーが帰ったあと、少し眠る。ただ、すぐに目が覚めてしまう。誰かの話し声が聞こえてきたからだ。

『さて、今週のゲストは、今最も波に乗っているロックバンド、KUWA=GATAのみなさんでーす』

 上半身だけ起き上がり隣を見る。建本さんが、ラジオをつけたようだ。

「あ、悪い。起こしちゃったかな。小さな音にしていたつもりなんだけれど」

「あ、いえ」

「これも勝手に使って悪かったね」建本さんは、そう言って手元のラジオを指す。「とても退屈していたんだ」

「いえいえ、そんな。大丈夫です」

 そのラジオ番組には、KUWA=GATAがニューアルバムのプロモーションのために出演しているようだった。レコーディング秘話みたいな話が語られる。

『今回は大胆に、ワールドミュージックのエッセンスも取り入れているんですよね』DJが言う。

『そうなんです。世界中を旅して、直に現地の音楽に触れてきました。特にブラジルの首都、リオデジャネイロは良かったです。サンバカーニバルのイメージが強いんですけれど、ブラジルの今の若者って、いろんな音楽を聴いているんです。あとEDMもその国々で特色があって。でも当然ですよね。日本の若者だって、演歌とか純邦楽とか、聴かない人のほうが多い』

 なんかつまらないな。消したいけれど、彼は聴いているようだ。

『今作もプロデュースは、岩松エイジさんですよね』

『そうなんです。本当にもう、僕たちはこの人に出会えて良かった。岩松さんは本当にすごい人で、いろんな方面にアンテナを張っている。一緒にインドに行ったときも、いきなりクラブに連れて行かれて(笑)。インドっていったら、てっきりシタールとかそういうサウンドを探しに行くと思うじゃないですか。ブライアン・ジョーンズ的な。それがロックの歴史だし。でも違うんですよ。「本場のゴルジェを聴きに行くぞ」って。とにかく、岩松さんは、音楽に全力なんです。全身全霊というか、全人生を賭けている』

 熱っぽく語るボーカルのトークの後、アルバムのリードトラックだという『僕たちのパースペクティヴ』という曲が流れる。

「この曲、どう思いますか?」僕はきく。

「え、どうって?」建本さんはしばらく考えた後、俺あんま音楽詳しくないんだよね、と言った。

「これ、知ってるバンド?」

「えぇ、まぁ」

「ふーん。まぁ、俺にはよく判らないけれど、クソだな」

「え?」

「なんか、自己満足って感じ。他と同じが嫌だから、あえてハズしてます、みたいなさ。インテリっぽいっていうか。いや、インテリは良く言い過ぎか。専門学校っぽい」

「ハハハ。言いますね」

「あんたも、そう思ってんだろ?」

「いや……。えぇ、まぁ」

「じゃあ、とりあえずこれは消してしまおう」建本さんは、スイッチを切る。「そうだ、自己紹介がまだだったな。俺は建本だ。下の名前はノゾム。希望の望で、ノゾムだ」

「渡良木益一郎です。あの、聞きました。助けに入ってくれたって」

「あぁ。別に気にしないでくれ」

「その、本当に申し訳有りません」

「あんたのせいじゃない。まぁ、これから退院まで、よろしくな」

「はい」


 3


 点滴のパックがぶら下がったスタンドを持ちながら、病室を出る。息が詰まるからだ。あまりフラフラとしていると怪しまれるので、姿勢を正す。痛みはないが、平衡感覚が鈍い。

 売店の横にはフランチャイズのカフェがあった。コーヒーでも飲みたいところだが、カフェインを摂っても良いのだろうか。迷った末、ホットミルクにする。

 席に座り、ぼんやりと人々を眺める。病院内にカフェがあるのは便利だな。入院患者以外にも、検査結果待ちの外来患者、看護婦さんたちも休憩に使っているようだ。

「益一郎くん」久遠さんだ。「病室を出ても良いの?」

「大丈夫だと思うよ。痛みもないし、気分も良好だよ」

「そう。なら、良いけれど。無理をしないでね。早く退院してくれなきゃ困るんだから」

「うん。判っているよ」

 久遠さんのお腹は、少しずつ大きくなっている。毎日お見舞いに来てもらって、大丈夫なのだろうか。安静にしていなければならないのではないか。

 久遠さんと取り留めのない会話をする。なんてことのない、生活の話。僕のいない多田羅家は、特に何の支障もなく回っているのだろう。当たり前だ。そもそも、僕はいなかったのだから。

 少しだけ、退屈に感じた。久々にメンバーと話したからだろうか。音楽の話は、やはり楽しい。自然と早口になってしまう。言いたいことが、どんどん浮かんできて、口の回転が追いつかない。

 

 あれ?


 僕は、こんなことを思っても良いのだろうか。せっかくお見舞いに来てくれたのに。刺されて入院したとはいえ、僕は今、非日常にいる。だからだろうか。久遠さんの口から語られる、日常の風景が、少しだけ遠く感じる。

 久遠さんに付き添ってもらって、病室に戻る。ベッドに寝転がると、疲れを感じた。歩きすぎたのだろう。それとなく察したのか、久遠さんが、また来るね、と言って帰る。話し相手がいなくなると、途端に静かだ。規則的な電子音。時計と同じリズム。

 しばらくすると、先生がやってきた。

「やぁ。気分はどうだい?」

「悪くありません。でも……」

「ん?」

「なんだか、別人になったような気分です。変なことを考えるし」

「そうか。結構出血したからね。もしかしたら、脳になんらかの影響がでているのかもしれない」

 ふと横を見る。「あの、建本さんは?」

「彼はいま検査中。CTを撮っているよ」

「あぁ、そうですか」

「君も撮るかい?」

「いや、それは先生にお任せします」

「まぁ、ちょっと様子を見よう。あ、そうそう。話は変わるけれど、君は元ミュージシャンなんだって?」

「あ、まぁそうです。メジャーデビューはしていませんけれど。インディーズです」

「そうか。じゃあ、CTを撮ろうか」

「は?」

「知らないのかい? CTはね、ビートルズが作ったと言っても過言ではないんだ。彼らの稼いだお金が、開発資金になったんだ。ここは元ミュージシャンとして、CTを体験しても良いんじゃないかな?」

「いや、意味が判りません」

「だろうね。君は自分にしか興味がない」

「はい?」

「どうして建本さんがCTを撮っていると思う?」

「僕は医者じゃないので、そんなことは判りません」

「彼は君を庇って刺されたんだ。君と同じくたくさん血を流れ出した」

「建本さん、大丈夫なんですか」

「大丈夫だよ」先生はあっけらかんという。「君こそ、本当に大丈夫かい? 気分が良いってのは、錯覚なんじゃないのかい? 何か忘れていることは? 以前と変わったところはない?」

「いえ……、特には」

「そう。じゃあ、また来るね」

 先生は病室を出て行く。

 僕は先生の言ったことの意味を考えていた。

 以前と変わったこと……。

 そういえば。

 ヤツが、現れなくなった。

 僕の心の中の怪物が。

 でもそれは、良いことだ。


 3


 少しだけ眠り、目をさますと、隣で建本さんが食事を摂っていた。

「あんた、食べないのか?」

「あぁ、そうですね」

 僕もフォークを手に取り、出来損ないのパンケーキみたいな物質を口に運ぶ。

「あんた、幸せもんだな。毎日毎日、誰かしらお見舞いにやってくる」

「えぇ、まぁ……」そういえば、建本さんのところには誰もお見舞いに来ない。でも、これは、きいても良いのだろうか。

「家族や仲間がいるってのは良いことだ。羨ましいよ」

「あの……」

「俺か? 俺は天涯孤独ってヤツだ。高校の時に両親共々、病気で死んじまってな。それから妹と二人暮らし。その妹も、三年前に死んだ」

「それは、その……」

「通り魔に襲われたんだ。何の前触れもなく、ナイフで刺されて死んだ。犯人はまだ捕まってもいない。あんたが刺されたのを見たとき、体が勝手に動いたよ。でもまぁ、刺されちまって、このザマだ。でも、少しだけ良かったな、とも思っている」

「良かった?」

「あぁ。妹も多分、こんな痛みを感じてたんだろうなって。何もしてやれなかったからさ。同じ痛みを感じて。そんなことでアイツの無念は晴れないだろうけどさ」

「本当に、ありがとうございました。なんとお礼を言って良いか、判りません」

「いや、気にすんな。これはまぁ、自業自得だ。俺が助けたかったから助けた。それだけだ。ただな……」建本さんは、最後の一口を口に入れて、咀嚼し、飲み込む。「あんた、周りの人間をもうちょっと大事にしたほうが良いぜ」

「え?」

「あの騒がしい連中と、バンドを組んでいたんだろ?」

「はい」

「あいつら、まだ納得してないんじゃないのかな?」

「え? 何にですか?」

「あんたが音楽をやめたことにさ」

「へ?」いったいこの人は、何を言っているのだろう?

「あんた、あのバス事故の被害者なんだろう? 先生から聞いたぜ。それで、ミュージシャンを引退した。何があったかは知らないが、別にやめる必要はなかったんじゃないか?」

「いえ、僕は……」

「それとも何か? あんたはやめる理由を探していたのか? あの事故がなければ……、なんつって、夢を諦めたことを正当化するためにさ」

「ちょっと、何も知らないくせに!」

「どうなんだよ? 一人だけ不幸を背負ったような顔しやがって! 周りがみんな幸せに見えるか? 確かに俺はあんたの事情なんて何も知らない。けれど、今のあんたは、事故にあって音楽やめたあんたは、不幸なのか?」

「僕は……」

「つまりはさ、あんたは、そうやって周りの人間をバカにしてるんだ。普通に生きている人間をな。夢を追わずに日々を淡々と過ごしている人たちを、心の底で軽蔑している。それぞれには、それぞれの事情があるかもしれないってことを、これっぽっちも想像できていない。好き好んで退屈な日常を生きていると決めつけている」

「そんなことは……」

「無いって言い切れるか? アンタは自分の存在理由がなくなるのが怖いんだ。だから、今もずっと、グチグチと悩んでいる。そんな自分を手放したくないんだ」

「違う! 僕は……」

「俺は、そんなお前を庇って刺されたんだよ!」

 建本さんが叫ぶ。その声は、僕たち二人だけしかいないこの狭い病室に、ひどく響いた。冷たい感触の、リバーブのように。

「悪い。忘れてくれ」建本さんは、そう言うと向こう側を向いて寝てしまう。

 僕は何も言えなかった。布団をかぶり、目を閉じる。

 クソ。

 クソ。

 クソ。


 4


 夏を過ぎたとはいえ、まだ寒くなるには早い。日差しは暖かく、まさに小春日和だ。

 病院の屋上で、マクドナルドのハンバーガーを食べる。

「俺の奢りだ。食ってくれや」

「はい。ありがとうございます」

 いったいどうやって買ってきたのだろう? でも、久々に口にれるジャンクな味は、とても美味しい。

「病院のメシってさ、なんであんなに不味いんだろうな。全部消毒みたな臭いしねーか?」

「ハハハ。確かに」

「その点、マクドは良い。このポテトは塩味がちとキツイが。こうやってシェイクに浸すと美味いんだぜ」

「そんな食べ方、初めて知りました」

「マジかよ。田舎もんだな」

「え? 関係あります?」

 クォーターパウンダー、ポテトにシェイク。確かに病院のご飯は味気ない。建本さんの言う通り、桜でんぶからも消毒臭がする。

「この前は、悪かったな。言いすぎた」

「いえ、僕の方こそ」

 緩やかな風が吹き、干してある無数のシーツが揺れる。真っ白な波のようにたゆたっている。

「事故にあってから……」僕は空を見ながら言う。「変な怪物が見えるようになったんです。目が10個もあって。それが僕に話しかけてくるんです」

「精神科は4階だぞ?」

「あぁ、やっぱりそういうところに診てもらったほうが良いんですかね」

「いや、冗談だ」建本さんはズズズッ、とストローでシェイクを吸う。「そうか、怪物か。それは深刻だな」

「いつもいつも、僕にひどいことを言うんです。でもそれは、僕が未練を残しているからなのかもしれません」

「そうか。そういえば、事故にあったとき、奥さん妊娠してたんだってな」

「え、はい」あれ? そんな話しただろうか。それとも誰かが話したのか? 先生か?「でも、その……」

「いや、悪い。変なこと聞いちまったな」建本さんは立ち上がり、手すりに寄りかかる。「こっち来てみろよ」

 彼の隣に立つ。この病院は何階建てなのだろう。すごく高い。

「なんで下ばっか見てんだよ」彼が笑う。「高いところに登ったときは、遠くを見るんだよ」

「いや、僕、視力弱いんで」

「関係ねーだろ。ほら、結構絶景だろう?」

 遠くまで、見渡すことができた。ビル街、住宅地。たくさんの人々が生活する景色が、そこには広がっていた。

「怪物か。俺も見ていたことがあるよ」

「そうなんですか」

「あぁ。妹が死んでからな。俺のは、真っ黒でよく見えないけれど、ものすごく嫌な臭いがするんだ。実際に嗅覚に訴えてくるわけじゃない。ただ、ドドメ色みたいな臭いが、頭の中に入ってくる」

「今は、見ないんですか」

「あぁ。あるとき気付いたんだ。俺が、その怪物をみるのは、決まって同じ場所なんだ」

「どこですか?」

「ちょっとは自分で考えろって」彼は笑う。

「同じ場所? もしかして自分自身だったとか?」

「そう。鏡の前だ。怪物は、俺だったんだよ。妹を殺されて、犯人を恨み続ける、俺自身だったんだ」

 彼の告白に、僕は何も言えずにいた。

「潜在意識ってやつなのかな。何も普通に生きてきただけってわけじゃない。そして、それはみんなそうなんだ。何かしらを抱えて生きている。人生は苦くも甘いシンフォニーさ。安っぽく聞こえるか?」

「いいえ」

「人生を無駄にすんな。お前は生きているんだからよ。言葉で誤魔化すな」

「はい。ありがとうございます、建本さん」

「それも、やめろよ」

「え?」

「ノゾムで良い。もう俺たち友達だろ?」

「そうですね」

「だから!」背中を叩かれる。

「そうだね」ちょっとだけ恥ずかしかったけれど、僕はそう言った。


 5


 あのまま死んでいれば良かった、そう思ったことが、何度かある。

 ここはどこだ?

 暗い空間に、一人座っている。

 シートの下が揺れている。

 車? いや、バスだ。

 僕はバスに乗っている。

 ここは、僕の潜在意識か?

 ゆっくりと立ち上がり、運転席の方へ移動する。他の乗客はいない。灯りの無い暗い道の中を、このバスは走っている。

 運転席にいたのは、やはり元木さんだった。

「このバスはどこへ向かっているんです?」僕はきく。

「さぁ。私にも判りません」元木さんは前を向いたまま言う。「でも、少なくとも地獄ではありません」

「どうして判るんですか?」

「だって、ここがもう地獄でしょう?」元木さんは笑う。

「ここは地獄なのですか」

「あなたはそう思っている」

「ふざけるな」

「あなたがそう思っているんです」

「ふざけるな!」


「何がだ?」目を開けると、隣のベッドに建本さんがいた。「うなされていたな。悪い夢でもみたか?」

「あ、えぇ」僕は、深呼吸をする。

「まぁ、あんなことがあったんだ。悪夢もみるさ」

「どうしてこんなことに……」

「あの運転手を、まだ恨んでいるのか?」

「判りません。でも、許せはしないでしょうね」

「そんな自分に嫌気がさすか?」

「そんなところです」

「誰かを恨み続けるのは、人生の無駄だ」

「判ってます。でも、そうなんでもかんでも割り切れない。そうでしょう?」

「でも、お前には家族がいるだろう?」

「だからなんです? 自分にはいないから、僕のほうがまだマシだって言いたいんですか!」

 自分で自分の言葉に驚く。こんなことを言ってしまうなんて。

「気にするな」

「すみません」

「人間、いろいろなことを思うもんだ。そんで、ふとしたことで、言ってはいけないようなことも言ってしまう。けどな、それでも良いんだ。心の奥底で、何を考えているかなんて、他人には判らない。自分自身にだって、判らないときもある。でも、だからこそ、行動が重要なんだ。感情をそのままぶつけるんじゃなく、頭で考えて行動する。その行動に、あとから感情がついてくることもある。行き場のなかった思いが、すっと収まるような、そんな瞬間がある」

「えぇ」

「本当はそう思ってないだろう?」

「え?」

「お前は思っている。人の気も知らないで、偉そうに説教しやがって、って」

「どうして、僕の考えていることが判るんですか?」

「俺も同じ経験をした」

「でも……」

「俺と君は同じなんだよ」

 建本さんは、僕の目をまっすぐ見て言った。

 あぁ、そうか。そうだったのか。


 夜の屋上は、星が輝いてた。綺麗な夜空。

「建本さん。本当に、ありがとう」

「なんだよ急に。どうしたんだ、こんな夜中に」

「やっと気づきました。もっと早く気づけば良かった」

「何を言ってるんだ?」

「ずっと違和感を感じていたんです。この状況に。あなたは、僕のことを知りすぎている」

「はぁ?」

「それに、アイツが、僕の怪物が現れないなんて、おかしいんです。こんな状況で、現れないはずがない」

「おい、大丈夫か?」

「僕は、もう大丈夫。でも、夢から覚めないといけない」

「おいおい。やっぱり脳になんか影響あったんじゃないか? ちょっと待て、先生呼んでくるから」

「もう良いよ、ノゾム。もう良いんだ」

「おい、しっかりしろ! これは現実だ。夢なんかじゃない。お前が受け入れるべき、現実なんだ」

「それは判っている。僕は受け入れなきゃならない。でも、これは夢なんだ」

 僕は、柵を乗り越える。

「おい、やめろ!」

「大丈夫。古典的な方法だけれど、こうすれば、夢から覚めると思う」

「馬鹿野郎! これは現実なんだ! そんなところから飛び降りたら、本当に死んじまうぞ!」

「助けてくれて、ありがとう、ノゾム。いや、もう一人の僕。君が、あの怪物なんだろう?」

「よし、判った。判ったから、こっちに戻れ。話ならちゃんと聞いてやるから! おい! せっかく助けてやったんだぞ!」

「どうもおかしいと思っていたんだ。三島由紀夫の『不道徳教育講座』は、母さんの本棚にあって、中学生の頃に読んだ。恩人のくだりは、確かに今でも覚えている。それに、あんたを含め、どうも会話が変だったんだ。思考を先読みされているというか。最初は、たくさん出血して、頭が冴えていないんだと思っていた。でも、違う。全部、独り言だったんだ。自問自答というより、そうだな、下手な小説さ」

「おい、いいからこっちに来いって。危ないだろ」

「作者が一人で、自分の思考を書き殴っているだけのような会話。全部、僕の頭の中の妄想だったんだ。今だって、そうだ。さっきまで病室にいた。いつ、どうやって、この屋上まで来た? 映画みたいにカットが変わった? 小説みたいに、一行空白を開けて場面が転換した? それに……」足元には、遠いアスファルト。うへー、偉そうなこと言ったものの、落ちたらスゲー痛そうだな。「ブラジルの首都は、リオデジャネイロじゃない。ブラジリアだ」

「何を言ってるんだ……?」ノゾムの顔が、歪んでいく。

「君は僕の妄想だ。僕の怪物なんだ。でも、助けてくれて、ありがとう」


 僕は体を傾けて、柵から手を離す。

 天地が反転し、

 親指が宙を舞う。

 星たちが遠ざかる。

 ラジオのノイズのような、

 微かな音。

 地面までの距離を、

 数えながら、

 みんなのことを思う。


 これまでの記憶がフラッシュバックする。

 走馬灯みたいだ。

 一瞬だけ、知らない情景が映る。

 僕と久遠さん、お義父さん、お義母さん、琴羽ちゃん、莉乃ちゃん。

 それに、小さな女の子。

 きっと、未来だ。





『妹をよろしくね、お父さん』






 目を開ける。朝の光が目に刺さるようだ。聴覚のゲインがゆっくりと上がり、遠い喧騒が聞こえてくる。見慣れた通勤路。周りには、通行人や野次馬たち。スマホのシャッター音も聞こえる。救急隊員にストレッチャーに乗せられる。

「……ぁぁ」声が出ない。体が重い。痛い。そうだ、あの人に刺されて、首にも傷が……。

「喋らないでください。大丈夫ですよ。これから病院に向かいます」救急隊員が言う。声は遠い。

「……もう、ひとり……、怪我を……」僕は声を振り絞る。

「あなたを助けた人ですね? 大丈夫です。その人も、搬送されます。大丈夫ですから、もう喋らないでください」

「……助けて、あげて、ください。僕を……、庇って……」

「えぇ。大丈夫ですから! 喋らないで!」

「……友達なんです、大切な……。僕を……、助けて、くれた……」


 ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 僕と、ずっと友達でいてください。

 薄れていく意識の中で、僕は祈るように、

 そう、ここに願う。


 つづく。

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