第5話「Further Complications」


 1



——十八ヶ月前のこと。


 渋谷のリハーサルスタジオで練習を終えた僕は、バンドメンバーと別れ、楽器屋に入る。特に買うものがあるわけではないが、久遠さんとの待ち合わせまで少し時間があるからだ。でも、やっぱり新しいギターが欲しくて、いろいろと眺める。

 ギターの弦とピックを三枚買う。会計を終えたところで、携帯電話が鳴る。

 久遠さんと合流し、パスタを食べる。いつも通りといえばそうだけれど、なんだか少し元気がないような感じがする。

「どうする? もう帰る?」僕はきく。

「ううん。泊まっていっても良い?」

「もちろん」

 久遠さんの家は、小田急線の桜ヶ丘。僕の家は狛江なので、井の頭線で下北沢まで行って、乗り換えだ。

「ねえ、マスくん」

「ん?」

「あのね……」久遠さんはやっぱり少し元気がない。「悪いんだけれど、その、ちょっと具合悪くて」

「あぁ、やっぱり。大丈夫だよ。どっかで休んでく?」

「うーん……。電車が満員だと、ちょっときついかな……」

 井の頭線はラッシュ時だと、それはもう本当に殺人的な乗車率になる。

「じゃあ、バスで帰ろうか」

「バスでも帰れるの?」

「うん。ちょっと時間かかるけど」

「あ、あの世田谷通りを走っているやつ」

「そうそう」

 僕の家は世田谷通り沿いにあるので、ちょうど渋谷駅から調布駅に向かうバスで帰ることができる。渋滞していなければ、電車よりちょっと時間がかかるくらいだ。正直に言えば、そのバスも混雑するにはするけれど、井の頭線に比べれば大したことはない。ただ、少し不思議なのは、久遠さん、具合悪いなら家に帰れば良いのに。送っていっても良いし。


 時間を調べて、バス停で待つ。座れるように早めに行く。

「大丈夫?」僕はきく。

「うん……」と言いつつも、顔色が良くない。

「なにか温かい飲み物でも買ってこようか?」

「ううん。大丈夫。あのね……、マスくんにね、どうしても話したいことがあるの」

「なに?」

「うんとね……」

 でも、久遠さんは黙る。

 えー、めっちゃ気になるじゃんかよぅ。


 バスが到着する。左側の後ろから一つ前の席に並んで座る。車内はすぐに、七割くらい人が入る。そのあと、二、三人が乗り、出発する。

「バンド、どう?」久遠さんは、さっきよりかはいくらか顔色がマシになっている。

「相変わらず、かな」

「次のアルバムとか作るの?」

「うーん、まぁ、一応」

「そっか」

「どうしたの? 急に」久遠さんからバンドのことを話題にするのは珍しい。

「ううん。どうなのかなって」

「曲自体はあるからね。近藤とかはその前に東名阪ツアーやりたいとか言ってる」

「そうなんだ」

 三軒茶屋あたりを過ぎる。

「あのね、益一郎くん」

「うん」

「私ね……」

「なに? 勿体つけないでよ」

 話したいことってなんだろう。いや、ちょっと待て。そもそもなんだこの空気。重い。重いぞ。Heavier than Heavenだぞ!? なんだ? というか、どうしてバンドのことなんか聞いてきたのだろう。え、マジか? もしかして、別れ話的な? いつまでも売れないバンドマンとは付き合えません的な〜?

「ここで、言っても良いのかなぁ。おうち着いたらにしようか」

「いや、無理。ここまできたら話してよ」別れ話だったらどうしよう。下手すると、僕ここで泣いちゃうかも。でも、僕は言う。「無理だよぉ。気になるよぉ。大丈夫。覚悟はするから」

「本当に?」

「え? うん」

「あのね、私……」

「はい……」来い! どんと来い!

「私、妊娠したの……」

「ふぇ!?」


 ふぇーーーーーーーーーーーーーーッ!


「妊娠?」

「うん」

「妊娠って、あの妊娠?」

「他に何があるの?」

「あばばばばばばばばば」

「ちょっと、大丈夫?」

「ちょ、ちょっと待つあば……」

「待つあば……?」


 え、どうしよう?

 どうしようどうしようどうしよう!?

 ちょっと待って。え?マジで?マジでか?

 妊娠? 妊の娠!? 妊 and the 娠!?


「益一郎くん?」

「ハイ。ダイジョウブデス!」

「ちょっと?」

「あ、ハァ、ひゅうぅぅぅ」息を吸う。とにかく息を吸う。あれだ、この前読んだ小説にあったやつ。息を吸って、それを脳に意識させる。脳に酸素が行き渡る様子を想像する。「すみません。取り乱しました」

「うん……」

「妊娠、ですか……」

「そうなのです」

 全然実感が湧かない。

 隣に座る久遠さんは、伏し目がちに僕を見ている。不安そうに。

「よし!」

「え?」

 僕がいきなり大きな声を出したので、久遠さんが驚く。

「結婚しよう」

「えっ……」

「いや、バンドもやってて、そんなこと言える身分じゃないってのも判ってるけれど、その、なんていうか……」

「うん……」

「と、とりあえず、ここじゃなんだし、続きは家に帰ってから……」

「うん」

「あ、ってことは……、ってことはだよ? これから久遠さんの胸はどんどん大きくなるのかな?」

「はぁ?」

「いや、だってそうでしょ!?!?」

「え、いや、ちょっと意味が……、っていうか、大丈夫?」

「ごめん……。ちょっと取り乱してる……。でも、まぁ、なにはともあれ……」

「何が……?」

「いや、乳はなくとも子は育つ、というか……」

「なにそれ!? どういう意味!?」

「あ、いや、えっと……」

 ヤバい。これはヤバい。僕は何を言っているんだ!? 混乱している……。

 久遠さんの侮蔑の視線に耐えながら、僕は必死に頭をクリアにする。乳……、いや、僕は父になるのだ。

「あの、でも、これだけは、言っておくと……」僕は姿勢を正す。

「うん?」

「その、僕、良い父親になりたい。なんていうか、僕の親はさ、離婚しちゃったから、父親って、その……、なんていうか、どういう存在か、よく判らないんだけれど……」

「うん」

「その、と、とにかく、良い父親になるから。それは、約束するから」

「うん。ありがとう」

「それで、男の子? 女の子?」

「まだ判らないよ」

「そっか。でも、多分男の子だと思うな」

「なんで?」

「いや、勘だけど。でも、男の子だと思う」

「えー。私は、女の子が良い」

「だよね。確かに、女の子も捨てがたい」

「どっちだろうね」

「まぁ、でも、どっちでも大丈夫。あぁ、どうしよう。僕、良い父親になれるかなぁ。女の子だったら、思春期対策しておかないとな。正直さ、二十五歳過ぎてから、やっぱりいろいろと……」

「もう」彼女は笑う。「もうそんな心配してるの?」

「いや、するでしょ。正直不安だよぅ。娘に嫌われないかどうかさ」

「益一郎くん、ジョーク下手だもんね。さっきのも、私神経を疑ったよ」久遠さんは神妙な面持ちでそう言った後、クスッと笑う。「大丈夫だよ」

「うん……、面目ない。あ、でもさ、生まれたら、あそこ行こうよ」

「どこ?」

「いや、大した場所じゃないんだれど、有名な画家の絵にもなった場所で、僕の地元なんだけれど……」


 こんなことを話していたと思う。

 このあと、時間が止まる。

 強烈な、光と音。

 目が焼けそうなくらい、眩しくて。

 鼓膜が破れそうなほど、音が響いた。

 悲鳴。

 轟音。

 熱。

 激しく揺れる車内で、

 僕は、久遠さんに手を伸ばす。

 僕は、彼女たちに手を伸ばす。

 

 でも、届かない。

 離れていく。


 天地が逆さまになり、

 すべてが消える。

 薄れていく意識の中で、

 僕は、久遠さんを探していた。

 僕は、彼女たちを探していた。


 でも。


 病院で目を覚ましたあと、

 会えたのは、

 久遠さんだけだった。

 

 折れた手すりが、僕をかすっていたらしい。

 逸れたのは、僕が抱えていたギターが身代わりになったから。

 僕のテレキャスター。

 

 でも。


 どうして、僕なんかを守ってくれたのだろう。

 どうして、久遠さんを守ってくれなかったのだろう。

 どうして、あの子を守ってくれなかったのだろう。


 壊れたギターを、僕は捨てた。



 2



 カーテンの隙間から、朝日が漏れている。鳥のさえずりが聞こえ、穏やかな朝を告げている。目が覚めた。汗をかいている。なにか嫌な夢でも見ていたようだけれど、思い出せない。ただ、感触だけが。体にへばりつく汗と同じような不快感が、僕の意識にもまとわりついているようだった。

 隣を見る。久遠さんは、もう起きているようだ。僕はベッドを出て、洗面所で顔を洗い、リビングへ向かう。今日は日曜日。そういえば、時計を見るのを忘れていた。今は何時だろう。

「おはよう〜」リビングには莉乃ちゃんがいて、何かを広げている。

「おはよう」真剣な眼差しで、彼女はそれを読んでいる。

「なに見てるの?」

「専門学校のパンフ」

「おぉ。お義父さんたちには話したの?」

「うん」

「良いって?」

「うーん、パパはね、どちらかといえば賛成派なんだけど、ママがね……。できれば大学の方が良いって。美大とか、そういうところじゃダメなのかって」

「なるほどね。でも、確かに一理あるよ。専門学校も、いうなればさピンキリだから。もちろん、ちゃんとしたというか、良い専門学校もあるだろうし、大学だからって良いとはいえない」

「うん」

「だから、そうだね。もうやっているけれど、自分で調べて、本当に学びたいことを教えてくれる学校を探せば良い」

「うん。でも、いざとなるとよく判らないんだよね。漠然としているというか」

「まぁ、そうだよね」

 キッチンからは、何か美味しそうな匂いがする。

「お寝坊さん。おはよう」久遠さんが顔を覗かせる。

「おはよう。寝坊って、今何時?」

「もうお昼だよ」

「え、もうそんな時間?」

「そう。さぁ、ご飯できたから、食べよ? マスくんは着替えてきなよ」

「はーい」

 僕は部屋で着替えをすませ、リビングに戻る。珍しくお義父さんもいる。ゴルフが中止になったらしい。琴羽ちゃんは仕事でトラブルがあったらしく、休日出勤だ。

 昼食のメニューはやきそば。懐かしいな。僕んちも、休日のお昼はやきそば率が高かった。テレビでは当たり障りのない、いかにも日曜の昼的な情報番組を映している。

 やきそばを食べ終え、久遠さんが淹れてくれた食後のコーヒーを飲んでいると、インターホンが鳴る。全員が顔を見合う。だ、誰が出るのが正解だ? 僕か!?

「私、出てくるね」と、久遠さんが立ち上がる。

「いや、僕が行くよ。久遠さんは妊……」おっと。まだみんなには言っていないのだった。今日、その話をする予定なのだ。

「莉乃、ちょっと行ってきなさい」お義母さんが言う。

「えー。はーい」莉乃ちゃんが立ち上がり、玄関へ向かう。

 やけに素直だな、と思ったけれどテーブルの下に置かれたパンフレットを見て納得する。

 お義父さんが、「ちょっとタバコ吸ってくる」と言い、ベランダへ。お義母さんは呆れた様子で「ハイハイ」みたいな態度。久遠さんはお義父さんの姿が見えなくなると、「パパにもタバコやめてもらわないとね」などと言う。

「お義兄さーん」玄関の方から、莉乃ちゃんの声がする。

「え、なんだろう?」

「益一郎さんのお客さんだよー」

「え?」僕にお客さん? 久遠さんを見る。

「誰かくる予定だった?」

「いや、ないない」は? 誰だ?「ちょっと行ってきますね」

 誰だ? バンドのやつらか? いや、でもこの家は知らないはずだ。会社の人も。まぁ、記録を見れば住所くらい判るとは思うけれど、連絡なしに来るか? そんなことを考えながら、階段を降りる。

「よぉ、益一郎。久しぶりだな」その男が言う。

「な、え……」

「大きくなったなぁ」

「なんで……?」

「ご挨拶だな」男は笑う。

「どちらさま?」莉乃ちゃんは不思議そうに僕の顔を見る。

「えっと……」なんなんだ? なんで今更、この人が僕の前に現れる?

「どうも初めまして。益一郎の父の、石野波蔵です」



 3



「いやぁ、立派ばお宅ですな」父さんは出されたお茶をすすりながら言う。

 なんだこの状況? リビングで僕と久遠さん、お義父さんとお義母さん、莉乃ちゃんで、テーブルを囲む。父さんは終始ニヤニヤしながら話している。

「益一郎とは、妻と別れてからあまり会えていなかったんですけどね……」そうだ。なんで今更。「人伝手に、結婚をしたと聞きましてね。会いに来たってわけです。コイツ、俺に連絡の一つも寄越さないで」

「いや、だって知らないだろ」僕は言う。

「それでも親戚や知人をあたるもんさ。赤の他人じゃないんだ。案外なんとかなるもんだ。現に俺は、こうやって会いに来れただろう?」

「連絡もなしにいきなりね」

「いやはや。それは大変申し訳ない」

「石野さんは、いまどちらに?」お義父さんが言う。

「えっと、厚木の方で暮らしています。私も再婚して。息子が一人おります」

「え、あ、そうなの」ってことは、僕の弟じゃないか。

「ちょうどこの前、中学校に上がりましてね」

 なんだ? 何が目的なんだ? いまさらのこのこと現れて……。

 それから、主にお義父さんが話し相手になっていた。時々気まずい沈黙がありながらも、当たり障りのない世間話をする。

「そうだ益一郎、結婚式は挙げたのか?」

「いや……」

「なんだ? まだなのか。そうか」

「父さん、仕事は何をやってるの?」

「居酒屋を経営してる」居酒屋だと? 経営?「家内のウチがやっておりましてね。そこを継いだというわけです」父さんは誰に言うでもなく、そう付け加える。

「父さん……」僕は思い切ってきく。「その……、何しに来たの?」

「おいおい……」父さんは呆れたように笑う。「お前が結婚したっていうから、こちらに挨拶に伺ったんじゃないか。聞けばもう一年近く経ってるんだろう? 本当にすみませんね、不出来な息子で。まったく誰に似たんだか」

 苦笑とともに沈黙が訪れる。

「おっと、もうこんな時間か」これ見よがしに父さんは時計を確認する。「いきなりお邪魔してしまって、大変申し訳ありませんでした。また、ご挨拶が遅れてしまったのも重ね重ね申し訳ありません」

「いえ、お気になさらず」お義父さんが言う。

「ありがとうございます。次はうちの家族も紹介させてください。そろそろお暇させていただきます」

「益一郎くん、駅まで送って行って差し上げたら?」久遠さんが言う。


 家を出て、駅まで歩く。

「いや、しかし驚いたよ」父さんが言う。「もうお前は結婚するような歳なんだなぁ」

「うん。もう三十歳だしね」

「そうか」

「うん」

 本当に挨拶に来ただけなのか。

「そういえば、あの家、結構大きいな。二世帯住宅か」

「え? うん。お祖母さんが下の階に住んでる」

「なるほど。いくつくらいなんだ?」

「うん? たしか七十歳くらいだと思ったけれど」

「そうか。じゃあ、最低でもあと十年もすれば、だな」

「はぁ? 縁起でもないこと言うなよ」

「しかも結構なお金持ちだな。前に止まってた車、あれGT-Rだろ」

「そうだよ」

「二世帯住宅かぁ。いいなぁ」

「何が?」

「いやぁ、別に」

 なんなんだ?

 駅に着き、改札の前で立ち止まる。

「父さん、何か企んでいる?」僕はきく。

「なんだ? 言っただろ、挨拶に来ただけだって」

「本当に?」

「お前は想像力が豊かだなぁ。相変わらず本ばかり読んでるんだろう。そういうところは母さん似だな」

「最近はそうでもないよ」

「お前、俺の借金のこと気にしているんだろう?」

「まぁね。それだけじゃないけど」

「それだけ?」

「離婚の原因は、それだけじゃないだろう」

「あぁ、そういうことか。あのな、益一郎……」父さんは僕の方に向きなおす。「あれは、父さんと母さんの恋愛の結果なんだ。残念な結果だったし、お前には辛い思いをさせた。それは謝るよ」

「いや、その……」恋愛? 今恋愛って言ったか?

「ただ、男と女には端から見てるだけじゃ判らない感情ってのがあるもんだ」

「なんだよそれ……」

「まぁ、お前にもそのうち判る。また来るよ」

「いや、あぁ、うん」

 父さんは改札を通って消えていく。こちらを振り向くこともない。その姿は、ハッキリとは思い出せないけれど、子供のころに見た光景と、ぼんやりと重なった。



 4



 翌週。父さんが言っていたことが気になり、仕事に手がつかない。ふとした瞬間に、父さんの言葉がよみがえり、いちいち集中力を削がれる。思い出されるたびに、こんなことに気を取られてたまるかという気持ちが働き、精神的に変な力み方をしてしまって、終業時間間際には、変な疲れ方をしてしまっていた。

 僕は、お先、という扇田さんを見送りながら、目の前の事務作業をする。うーん、このくらいのこと、もうとっくに終わらせていても不思議ではないのに。

 父さんが言っていたこと。僕は今更ながら、彼が母さんとのことを『恋愛』というワードを持ち出して語ったことに、言い表せない不快感を抱いていてた。嫌悪感と言っても良い。ただ、それよりも気になるのは、父さんが多田羅家に対して抱いた印象、視点だった。金持ちだな。二世帯住宅だ。お祖母さんはあと十年もすれば。何を企んでいたら、そういう発想になるのだろう。そう、僕は離婚の原因の一つである金銭問題が気になっていた。お金を要求してくるつもりだろうか。そうでなくても、保証人になってくれ、とか。そして、あわよくば、多田羅家で一緒に暮らせないのか、とか。

 それとも、ただの第一印象として、口にしただけだろうか。広い家。スポーツカー。確かに、判りやすくはある。だから、父さんが何か良からぬことを企んでいるのではないかという発想自体、僕の考えすぎだろうか。

 二重の意味で、僕は凹む。あぁ、クソ。こんなゲスな発想は遺伝なのかもしれない。僕はパソコンに向かい書類作成を進める。

 残業を終え、21時過ぎに会社を出た僕は、思い切って父さんのところへ行くことにした。連絡しようかとも考えたが、向こうも突然来たのだ。たしか、厚木のあたりに住んでいると言っていた。居酒屋をやっているとも。井の頭線に乗り、下北沢で小田急線に乗り換える。そして、電車の中で厚木の居酒屋を検索する。チェーン店を除き、個人経営っぽいところを順番に見る。すると、厚木駅の隣の本厚木駅に、それらしい居酒屋を見つける。多分、ここだろう。確証は持てないが、「従業員一同お待ちしてまーす」的な写真が載っていて、そこに父さんらしき人物が写っていた。


 本厚木駅に着く。グーグルマップを開いて、道順を確認して向かう。そのお店は、駅からは少し離れているけれど、人通りも多い場所でなかなか小綺麗なお店だった。

 戸を引いて、暖簾をくぐる。カウンター席とテーブル席が4セットくらいの小さなお店だ。僕は父さんの姿を探す。

「いらっしゃいませ」四十代くらいの女性がカウンター席に案内してくれる。「もうそろそろ終わりなんですけど、大丈夫ですか」

「え、はい」僕は時計を見る。22時過ぎ。「何時までですか」

「23時です」

「あぁ、全然大丈夫です」

 僕は瓶ビールを注文する。お腹も空いていたので、おつまみをいくつかと、最後にお茶漬けをお願いする。

 店内を見渡す。月曜だからか、あまりお客さんはいないようだ。店内には、さっきの女性と大学生くらいの男の子。アルバイトだろうか。

 父さんは現れなかった。お店を間違えただろうか。写真に写っていたといっても、とても小かった。自信がなくなってくる。

 僕の他にはもう、常連さんらしき男性しかいなかった。思い切って、さっきの女性にきいてみる。

「あの、このお店に、石野さんっていう人、働いていますか」

「え?」その女性は目を丸くして、僕を見る。「石野は、私ですけれど……」

「え……?」あぁ、そうか。「あの、えっと僕は、その……」

「もしかして、波蔵さんの息子さん」

「あ、はい」僕は驚く。「判ります?」

「ええ。だって似ているもの」その人は笑いながら、何か懐かしいものを見るような目で、僕を見る。「あのちょっと、待っていてもらえます? お時間大丈夫かしら」

「えぇ。僕は」

 残りのビールをグラスに注ぎ、待つ。常連さんらしき人が去り、バイトの男の子が「お先です」と言って帰る。もう閉店だ。

「おとなり、良いかしら」

「はい。もちろん」

 彼女はフナエさんというらしい。新しいビールの栓を開けて、僕のグラスに注いでくれる。

「突然お伺いして、すみません」僕は言う。

「いえ、いいの。でも、驚いた。ここの場所、よく判りましたね」

「えぇ。その、iPhoneで調べました」

「あぁ、今はそういう便利な時代なのね」

「突撃! となりの晩御飯!です」

「え?」

 しまった。渡辺篤史のモノマネをしたつもりだったのだけれど、通じなかったようだ。それもそうで、自分でもちょっと引くくらい似ていないというか、照れと遠慮が多分に入ってしまって、随分と控えめな感じになってしまった。

「ごめんなさい。渡辺篤史さんのつもりだったんですけれど……」

「渡辺篤史は、『建もの探訪』ですよ……」

「え?」

「アハハ。可笑しい」フナエさんは笑う。

「すみません……」僕はとても恥ずかしい。

「いえ、良いのよ。あの人も、波蔵さんも、突然意味の話からないギャグを言い出すの。よく似てるわね」

「いやぁ、お恥ずかしい」

 でも、このやりとりのおかげで、なんとなく、お互いの緊張が解けた気がする。フナエさんは僕がバンドをやっていたことも知っていた。

「波蔵さん、あなたのCD全部持ってるわよ」

「本当ですか」

「えぇ。でも、絶対に聴かせてくれないの。遠慮しているのかしらね、私に。それか、何か意地を張っているか」

「どうなんでしょう」これは意外だった。「そういえば、お子さんがいらっしゃるって……」

「ええ。もう中学生。前の夫の連れ子なの」

「あ、そうなんですね」

 そんな話をしていると、お店のドアが開く。

「あら。どうしたの?」フナエさんが言う。

「いや、お前が遅いから、見に来たんだよ。って、益一郎?」

「お邪魔しています」

「少し前に来てくれたの」フナエさんは立ち上がる。「はい、交代。私、片付けしちゃうから」

「あ、いえ。僕はもう帰ります」

「いいじゃない。少しだけでもお話していって」

「はい。ありがとうございます」

 父さんは僕の隣に座り、グラスにビールを注ぐ。

「どうしたんだ、突然」

「いや、なんか気になって」

「俺が何か企んでるってか。アレだろ? 借金の保証人かなにかを押し付けてくるんじゃねーかとか、そんなんだろ?」

「だって、いろいろと観察していたじゃないか。車とか家とか」

「あのなぁ。男だったらGT-Rには反応するだろう」

「いや、僕はあんまり判らないけれど」

「まぁ、俺の自業自得でもあるな。安心しろ。あのときの借金は全部返した」

「そうなの?」

「あぁ。まぁ、今は今でローンはあるが……。でも、ちゃんとしたやつだぞ」

「そう。それなら良いんだけど」

「言っただろう? 挨拶に行っただけだって」

「うん」

「お前、全然連絡寄越さないから」

「悪かったよ」

「お前のバンドが解散して、ネットでいろいろ噂になっていただろう? なんか極東なんちゃらとかいう半グレの女と……」

「父さんも知ってるのかよ!」ネットの広大さよ……!「あれは全部デマだよ」

「だから、向こうの家族に会って安心したよ。まさか自分の息子が、実話ナックルズみたいな話に巻き込まれたんじゃないかと心配したんだ」

「バカバカしい」僕は笑う。「あのさ……」

「なんだ?」

「どうして、母さんの葬式、来なかったの?」

「あぁ、それはな……」父さんはグラスを持ったまま、黙り込んでしまう。

「そもそも、母さんが死んだこと、知ってたの?」

「あぁ」

「そっか」僕は、息を吸う。

「あのな、益一郎……」

「いや、大丈夫。判ったよ」

「いや、違うんだ……」

「ううん。本当に大丈夫。薄々、気付いてはいたんだ。叔父さんでしょ?」

「あぁ」

「来てはくれていたんだね」

「あぁ。だけど、入れてもらえなかった。まぁ、それも俺が悪い」

「ありがとう」

「いや、その……」

「父さんさ……」僕はグラスを置く。「離婚は、父さんと母さんの恋愛の結果だって言っていたけれど……」

「あぁ」

「父さんは、母さんのこと、愛していた?」

「お前、それ、今の女房の前で言わせる気か?」父さんは気まずそうに、そっと笑う。

「どうなの?」

「んー、まぁ、それは……」父さんは店の奥のフナエさんを見やる。「あぁ。母さんのことも、お前のことも、ちゃんと愛していたよ」

「ちゃんと?」

「あぁ」

「……ありがとう」僕は言った。

「いや、まぁ、その……」

「父さん」

「なんだ?」

「僕も、父親になるんだ」

「そ、そうなのか」

「うん」

「そうか。それは、なんていうか、良かった。お前なら大丈夫だよ」

「何を根拠に……」

「俺の息子だからな」

「それ不安要素じゃんかよ」

「いや、ほら、父はなくとも子は育つ、って言うじゃないか」

「父さん……」僕はいろんな意味で驚く。「それ離婚して出て行った人が、偉そうに言う?」

「いや、その、えっと……」

「まぁ、間違っても父さんみたいな父親にはならないように気をつけるよ」

「おぃ……、そんな傷つくこと言うなよ〜」

「冗談だよ」僕は笑う。「僕も冗談が下手なんだ」

 奥で、フナエさんが笑っている。

「も? あぁ、まったく。誰に似たんだかな」


 僕らはお互いの目を見やって、苦笑する。


 飲み代は、父さんが奢ってくれた。僕は二人に挨拶をして、店を出る。

 夜空を見上げる。星が綺麗で、ちょっとだけセンチメンタルな気分だ。

 酔っている。少しだけ。

 なんだか嬉しくなってきてしまう。

 なんだかとても嬉しくなってきてしまう。


『おいおい。良い気なもんだな』


 奴が現れる。毎回毎回、飽きもせず。


『お前、本当にこれから幸せになれるとでも思ってんの?』


 時々現れるこの化け物は、僕の心の闇で、病みなんだと思う。10個の目で僕を捉え、デカい口には、ワザとらしい牙が生えている。

 我ながら普通だなー、と思う。事故に遭って、失って。こんな化け物に取り憑かれて。ありふれている。どこまでいっても普通だ。普通すぎて笑えてくる。


『なに余裕こいてんだよ?』


 うるせーよ。

 僕は心の中で、そっと誓う。

 祈るように。

 お前のその目、潰していってやるからな。

 これから、一つずつ、数えながら。

 そのニヤついた顔を、ギタギタにしてやるからな。

 僕は歩き出す。

 家に帰るのだ。

 左手に、力を込めて。


 僕は家に帰る。


 つづく。

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