第6話「Killer Cars」
1
首都高速都心環状線、通称C1。江戸橋JCTの急カーブを抜け、吹き上がるエンジンとエキゾーストノート。ビルの明かりが、ボンネットと窓ガラスに反射して流れていく。スピードメーターは、助手席からはよく見えない。けれど、GT-Rの力強いトラクションを感じることができる。地面に吸い寄せられるように、車は加速していく。
運転席にいるのは、お義父さんだ。心なしか、笑っているように見える。僕はシートに深く座って、平静を装っている。けれど、カーブや加速のたびにかかるGに、心臓の鼓動は早まる。
「こんな時間に来るのは、久しぶりだな」お義父さんが言う。
「そうなんですか?」僕は口の中がカラカラなのを悟られまいと、声のピッチを下げる。
深夜の首都高。週末でもないのに、なぜこんな時間に、こんな場所を走っているのかといえば、話は数時間前に遡る。
仕事を終えて帰宅した僕は、いつものように部屋で着替えてからリビングに向かった。今晩のおかずは鳥の唐揚げ。ふと見たときに、いつもより量が多くて、僕はお義母さんに、そのことを訊ねた。
「なんかね、珍しくパパが家でご飯食べるって」
「あ、そうなんですか」
なんだ? 何が始まるんだ? 僕はそう思っていた。実は数日前に、久遠さんが妊娠したことを報告したのだ。二人ともとても喜んでくれた。もちろん琴羽ちゃんと莉乃ちゃんも。
それにしてもこのタイミングである。な、何か重要な会合が行われるのではないか。僕は胸がドキドキしていた。
お義父さんが帰ってきた後、夕食が始まる。残念ながら琴羽ちゃんは残業でいなかったが、僕と久遠さん、お義父さんお義母さん、莉乃ちゃんと食卓を囲む。他愛のない話題ばかりで、僕は緊張しすぎたかな、と胸を撫で下ろした。テレビを見ながら、なんてことのない時間が過ぎる。
昔のロックスターが手放し運転をする日産のCMが流れたとき、ふとお義父さんが口を開いた。
「そういえば、あの車、どうする?」あの車とは、多田羅家が10年以上乗っていたワゴンRで、先日故障してしまったのだ。「修理するより、買い換えようか」
「買い換えるって言ったって」お義母さんは興味なさげだ。
「でも、共用の車は要るだろう?」
「なんでも良いんじゃない。パパ、好きなの買えば?」莉乃ちゃんが言う。
「うーん……」お義父さんは、そのまま黙ってしまう。
僕はこのとき、すごいな〜車ってそんな軽い感じで買えるんだ〜、と内心思っていた。ちょっと前までバンドマンだった僕には遠い話だ。いや、もちろんメンバーとお金を出し合って機材車は持っていた。でも、中古のハイエースだ。今の口ぶりだと、新車で買うってことでしょ。いや〜、凄いな〜。僕の給料じゃ……、と情けなくて涙がちょちょぎれそうだった。
「ねぇ、パパ」久遠さんが口を開く。
「なんだ?」
「あのね、これから私たちも、車が必要になると思うの」
「ん、まぁ、そうだな」
「だからね、私たち、車買おうかなって」
「あ、それもそうだな」
ん? え? 私たちって誰だ?
「ね、益一郎くん」
「え、あ、うん……?」
おいおいおいおい。いや、そりゃ必要だろうけども。え、僕車買うの? え、ローンで?
「だからね」久遠さんが続ける。「今空いてる駐車スペースは……」
「あぁ、それならそれでいい」お義父さんが言う。「じゃあ、そうしようか」
「あ、あの、ちょっと……!」僕はおもわず立ち上がる。
「どうしたの……?」久遠さんが、ぽかんとした顔で僕を見ている。
「いや、あの、すみません」とりあえず座る。
僕はちょっと、いや、完全に気後れしていた。いや、ビビっていた。僕もついに車買うのか〜、ローン組むのか〜、と。お義父さんちょっと援助してくれねーかなー、と甘い期待もしていた。
「で、何買うんだ?」お義父さんが前のめり気味になってくる。
「まだ、詳しくは決めてないんだけれど。やっぱりミニバンが良いかなって」
「ミニバン……」フッと、お義父さんの目から輝きが消えたのを、僕は見逃さなかった。
「広いほうが良いし、荷物とか積めたほうが良いでしょ。それに……」と久遠さんの演説は続く。僕は鳥の皮を箸で剥がして食べる。美味しい。
「ね? 益一郎くん」え? 全然聞いていなかった。「益一郎くん、父、益一郎くんだよ」
「う、うん……」あぁ、アレか……。
「まぁ、まずは二人で相談しなさい」お義父さんがそう言って、この会話はひとまず終了した。
その後、女性陣がお風呂に入ったり食器の片付けをしているときに、お義父さんに声をかけられる。
「ドライブに行かないか。その辺をちょっと流すだけさ」
ということで、今にいたる。お義父さんの言う『その辺』とは、一体どのあたりまでを言うのか。あれよあれよと言う間に首都高を走っていた。
「益一郎くん、車、あんまり興味ないんだっけか」中央のパネルを操作しながら、お義父さんが言う。
「いえ、そんなことはないんですけれど。でも、あまり詳しくはないですね」
「でも、運転は嫌いじゃないだろう」
「そうですね」
「乗り方を見れば、大体判るんだ。基本的な車の構造を理解しているというか。免許はマニュアルだろう」
「ええ。田舎は、僕くらいの世代でもAT限定って、なんかダサいみたいな風潮がありまして」
「そりゃそうだ」お義父さんは笑う。「まぁ、でも今やマニュアルの車もほとんどないからな。この車だってDCTだ」
「物足りなくないんですか。ランエボとかなら、今でもMT車ありますよね?」
「いやそれはほら、やっぱりGT-Rが好きだからさ」
「はぁ……」
車は有明JCTを抜けて、さらに加速する。
「アメリカの車評論家だったかがさ、言っていたよ。『ミニバンは人生を諦めた人間が乗る車』だって」
「アメリカンジョークですか」
「ハハハ。そうかもしれないね」
車はさらに加速する。ギアが一つ下がったようだ。強烈なGだ。僕にとっては。
「別になんでも良いんだよ。ヴォクシィでもさ」
「いや、あの、スピード出しすぎじゃないですか」
「俺はね、まだ君を許したわけじゃないんだよ」
「え?」
「大切な娘を傷つけられた」
お義父さんはまっすぐ前を向いている。
「あの……」
「もちろん、あの事故は君のせいじゃない。君も怪我をしたし、被害者だ」
「すみません……」
「謝ってもらいたいんじゃない」他の車を、どんどん追い越していく。ノーマルといえど、500馬力。僕は手に汗をかいている。「後悔していないのかい」
「後悔……?」
「俺も伊達に車好きってワケじゃない。さっきも言っただろ? 乗り方を見れば、大体判るんだ」車はスピードを緩める。「ちょっと休憩しよう」
2
辰巳第一PA。自動販売機で、コーヒーを買う。
「あの、お義父さん。その……」
「いや、俺の方こそ悪かったね。やっぱりまだ恐かったりするのかい?」
「どうなんでしょう。でも、そうですね」
「まぁ、あんな事故に遭ったんだ。それは仕方がない。前から気になっていたんだ。車を丁寧に乗りすぎるってね。いや、いるんだよ? 車に、機械になるべく負荷をかけないように全てが丁寧な乗り手が。車好きにはね。でも、君の場合はそうじゃない。なんていうのかな。全ての動作がワンテンポ遅いんだ。何かを確かめるように。アクセルを踏む、その一つの動作にしても。遅い、っていうのとはまた違うのかな。まるで、自分の中で何かを確認しているような」
「ええ。自分でもそこまで意識しているわけではないんですけれど。特に、久遠さんを乗せているときは、そうですね。やっぱりまだ、ちょっと緊張します」
「そうか」お義父さんは腕組みをする。「あの子はね、ああ見えて、子供のころは結構車が好きだったんだ」
「そうなんですか」
「中学校に上がる前くらいまでかな。でもそれ以来パッタリだ。スピードを出すと、助手席で喜んでくれたよ。家でいじっているときもずっと隣にいたな。まぁ、年相応な変化だと思っていたけど」
「はい……」
「さっきも言ったけど、何もミニバンを買うなって言ってるわけじゃないんだ」
「ええ」
「ただ、君はそれで良いのかい。車は動けばなんでも良いのかい?」
「いえ、そういうわけでは……」
「まぁ、俺も子供が出来てからは、必要に迫られて広い車を持ったよ。やっぱりあると便利だからね。それでも、ショボい車には乗りたくなかったから、ステージアとかも試したけれど、燃費が悪くてね。何かと大変だよ。だからそういう車も良い。でも、子育てが終わったら、ねえ? 偉そうなことを言うつもりはないけど、俺は好きな車に乗り直した」
「あの、そもそもなんですけど、僕、そんなに稼いでいなくて……」義理の父親にこんなことを言うのは情けないが、仕方がない。
「そんなことは気にする必要はないよ」
「いや、でも……」
「俺が言いたいのはね、君が自分の人生を諦めているんじゃないかってことなんだ。あの事故以来、君は本当によくやってくれていると思う。久遠の妊娠だって、俺はとても嬉しい。でも、それだけじゃないんだ。本当にこのままで良いのかい? 誰だって、何かを諦めるときはくる。けれど……」
「ええ。判っています」そう、判っているのだ。
このまま、何かに流されるように、埋もれていくように、生きていくのか。家族、会社、仕事、ローン、いろいろなものに少しずつ縛られ、どんどん自分の自由はなくなっていくのだろう。お義父さんが言っているのは、車好きの余計なお節介ではない。ただ、車一つとってみても、そこに自分の意思があるのかどうか。それを気にかけてくれているのだ。
3
帰りは安全運転だった。お義父さんの運転は上手だ。うまく説明できないけれど、全ての動作がスマートで、隣に乗っていて疲れない。スピードを出すときは出し、緩めるところは緩める。緩急をきちんとつける。また、無駄な動きがないというのは、乗り手のテクニックにプラスして、車自体の性能もそうさせるのだろう。いざというとき、いわゆるスポーツカーの方が安全なんだろうな、と嫌が応にも感じさせられる。きちんとパワーが出る。それを制御するためのブレーキがある。そして、頑丈ながらもしなやかなボディを持っているということ。物理に疎くても判るだろう。走る、止まる、曲がる、という基本のスペックが高いのだ。
しかし。僕はどうしたらいいのだろう。さっきお義父さんが言った言葉。そう、僕はまだ許してもらっていないのだ。いや、永遠に許されないのだろう。
「この前……」僕は点滅するように通り過ぎる街灯を数えながら、運転席のお義父さんに言う。「偶然なんですけれど、元木さんに会いました」
「あぁ、あのバスの運転手か」
「服もヨレヨレで、なんていうか、みすぼらしくて」
「そうか」
「ひどく酔っ払ってました」少しだけ、息が乱れる。「哀れだな、と思いました。憎い、とも思いました。お前のせいで、僕は……、僕たちは大切なものを失ったんだぞ、って」
「あぁ。俺も同じ気持ちさ」
「殺してやりたいって、思いませんか」
「どうなんだろうな。でも、そんなことをしても意味はないって、判るだろう。バカじゃなければ。いや、バカでも判る」
「そうなんです。だから……、僕は、彼の不幸を、願ってしまうんです。いや、願うというよりかは、喜んでしまうんです」
「判るよ」
「判りますか?」
「あぁ。人間は弱いからな。そもそも、人間の脳は、他人の不幸を快感に感じるらしい。卑しい生き物だ」
「そうですね」
「でも、快感や喜びは、それ以外でも感じることが出来る。味わうことが出来る。そうだろう」
「ええ」
高速を降りて、ランプを回る。
「カーブを曲がるときはさ、アウト・イン・アウトといって、外側から侵入して、カーブの真ん中でインに寄って、出るときにはまた外側に行くのが基本なんだ」
「はぁ」
「それが一番スピードを失わずに済む。だけど、クラッシュするのは、たいていカーブなんだ」
「どうしてですか?」
「理由はいろいろさ。アンダーステア、オーバーステア。腕が半端だから、突っ込みすぎる。でも、スピードを出さないと負けてしまう」
「なんとなく、判ります」
家に着く。みんなもう眠ってしまっているようだ。お義父さんはお風呂場へ。僕は明日の朝、シャワーを浴びることにする。
部屋に入り、久遠さんの寝顔を見る。もう、いるのだ。新しい命が。
『お前は、カーブを曲がりきれなかったんじゃない。曲がりたくなかったんだ』
僕は静かに服を脱いで、パジャマに着替える。
『穏やかな暮らしは、緩やかな自殺だろ。小さな家に、小さな庭。何に驚くこともなく暮らして。太い根だと思っていたものは、当たり前という名の鎖だと、気付く日がくるぜ』
歯磨きだけはしよう。寝起きの口ネバほど最悪なものはない。
洗面所で、歯ブラシを咥える。洗面台の鏡に映る自分を見つめる。
『おい、よく見ろよ』
そいつが言う。十の目玉で、僕を捉える。
『ほら、どうした? 早くやれよ。俺はお前の心の闇なんだろ? この目を一つずつ、潰していくんだろ?』
僕は手を動かす。きちんと裏側まで磨くのだ。歯磨きというのは慣れてしまうと、同じところしか磨けないらしいので、全体を意識して、手を動かす。
『ほら、早くやれよ。潰せよ。早く刺せ。やってみろ、ほら。早くやれ。おい、どうした? やれよ。刺せ、おら』
うるさいうるさいうるさいうるさい。
顔に亀裂が入る。
鏡の中の顔。
固く握り締めた拳から、
血が流れる。
殴る。
何度も何度も。
鏡を殴る。
粉々になるまで。
というのは想像で、実際の僕はコップに水を注いで口をゆすぐ。誰がそんな安いドラマみたいなマネをするか。そもそもここは、久遠さんの実家なのだ。人んちのものを勝手に壊すほど非常識な人間ではないのだ。
『俺はお前だけど、お前じゃないよ』
まだいたのか。
『判ってんだろう?』
部屋に戻り、静かにベッドに入る。なんだか疲れた。今夜はスッと寝られそうだな。
「おかえり」僕の方に寝返りを打って、久遠さんが言う。
「ただいま。ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。大丈夫。どこに行っていたの?」
「その辺を軽くドライブ」
「首都高?」
「そう」
「また、スピード出して遊んでたんでしょ、パパ」
「いやいや。安全運転だったよ」
「ふーん。で、車何買うか決めた?」
「ううん」
「いろいろ言われたでしょ? パパ、車好きだから」
「うーん、まあね。でも、僕たちのことを心配してくれていたよ」
「そう。ご高説を宣っていなければ、良いんだけど」
「その言い方」僕は笑う。「自分の父親でしょ」
「だって。本当に凄かったんだから、昔は。小さいときは、しょっちゅう連れまわされてた」
「喜んでたって言ってたよ?」
「え〜? 心外だなぁ」と言いつつも、久遠さんはクスクスと笑う。「ねぇ、益一郎くん」
「ん?」
「別になんでも良いよ、車。マスくんが良いと思った車にしようよ」
「え、うん」
「あ、でも、2シーターはダメだよ。車の意味ないし。音が煩いのもダメ。あと、もちろん改造もダメ。ノーマルで乗ること」
「大丈夫だよ。そこまで車に思い入れはないよ。ほら、若者の車離れってヤツ?」
「頑丈じゃなきゃいけないとか、そういうこともいいからね」
「え?」
「あんなことは、もう起こらないよ。起こってたまるか!って感じ。だから、大丈夫」
「うん……」
「私たちには、もう嬉しいことしか起こらないよ。だって、頑張ってきたし、頑張ってるもん。もちろん、ちょっとくらいは嫌な事もあるだろうけどさ。でも、トータルでは絶対嬉しいことの方が多くなるよ」
「うん。僕も、そう思う」
ふと、呼吸が深くなる。何かが緩んでいくような。脳に新鮮な酸素が行き渡っているような。緩んでみて初めて、強張っていたことに気付いたような。
根拠も何もない。言うなればただの願望だ。でも、僕は安心する。いや、安心とは少しちがう。胸がスッとする、というか。あんなことはもう二度を起こらない。僕もそう思いたいのだ。祈り、というほど大げさなものではない。ただ、この世界を、現実を、今よりは少しだけ、信頼したいのだ。
「ねぇ」久遠さんが囁くように言う。
「なに?」
「新しい子供は、失くした子供の代わりになると思う?」
「え?」あ、早く言わなきゃ。これ多分、考えちゃいけないヤツだ。「ならないよ」
「うん……」
「月並みな言葉だけれど、多分……」いや、考えろ。「誰かが誰かの代わりになれることなんて、きっとないよ」
「うん……。ごめん、私……、なんでこんな酷いこと言っちゃんたんだろう」
「大丈夫だよ」
「ごめんなさい……」
「大丈夫。謝らなくても大丈夫」
彼女もずっと悲しんでいたのだ。
当たり前だ。
いろいろなことを考えただろう。
何かを憎み、
そして、そんな自分に、
失望したりもしたのだろう。
泣いている彼女を抱きながら、僕もちょっとだけ泣き、そのまま眠った。
4
夢を見た。どこかの草原でピクニックをしている。よく晴れた日で、僕たちはとてもリラックスしながら、彼女の作ったランチを食べている。僕は、寝転がって空を見上げ、こんなに真剣なピクニックをしていることを、ちょっとだけ可笑しく思い、笑う。
暖かな光の中で、僕は一緒に来ている人を眺める。
久遠さん。お腹が大きいから、今よりはちょっとだけ未来の設定なんだな、と思う。
夢だと完全に自覚しているわけではないのに、突拍子もない描写にも納得出来る理由を見つけているのが可笑しい。
「おとうさん」子供の声が僕を呼ぶ。「ぼく、あそこにいきたい」
声の方を見ると、3歳くらいの男の子がいる。僕は一瞬ワケが判らないけれど、自分の息子だと理解する。そっか。僕にはもう息子がいるのだ。ということは、久遠さんのお腹の中にいるのは、二人目か……?
彼が指差す方向には、小さな丘がある。
「ねぇ、あれはなーに?」
丘の上には、なぜかロッキンチェアがあった。僕は彼を肩車して、そこを目指す。
そのロッキンチェアは、外に放置してあるにしては小綺麗だった。少しだけ揺れている。風のせいだろうか。
「さっきまで、だれか、すわっていたよ」息子が言う。
「え、誰だろう?」
「ずっと、ひとりで、すわっていたみたい」そう言いながら、彼はそれに座る。前後に揺らしながら、子どもらしい無邪気な声をあげている。「ねえ、どうしてこの椅子はひとりしかすわれないの?」
「え? いや、そういうものだから……」
「そうなんだ」彼は残念そうに、ロッキンチェアから降りて僕の手を取った。
丘を降りて、草原を歩く。息子はどこかを目指しているようで、走っていく。
「ねぇ、おとうさん。森にいって、木の実をとろうよ」
「いいよ」僕は言う。「でもどうして?」
「おかあさんたちに、おみやげを持って帰る」
「うん。いいね」
「ぼく、妹が産まれるの、すごく楽しみ」
「そうだね」僕は言う。言ってから、そうか、久遠さんのお腹の中にいるのは、女の子なのか、と思い至る。あれ、そうだっけ?
小径を進み、次第に木の影が多くなってくる。
「電話がなっているよ」息子が言う。
「え?」
そういえば、いつからかベルの音が聞こえる。昔懐かしの黒電話の音だ。
「おとうさん、ほら、あそこ」息子は森の奥を指差す。「あの電話がなってる」
「あぁ、本当だ」森の奥に、ぽつんと電話が置いてある。
「ぼくが出るね」息子は、森の奥に向かって走っていく。
「あ、ちょっと待って」呼び止めようとするけれど、名前が判らない。
息子は走っていく。
あぁ、名前。なんだっけ。
知っているはずなのだ。
えーっと。
「おとうさん」彼は僕に受話器を差し出す。「おとうさんにって」
「あ、あぁ」僕はそれを受け取り、耳にあてる。
『ハロー』
目が覚める。寒気と嫌な感触。あの声……。
あぁ……。僕は必死に思い出そうとしている。夢の内容を。僕は息子に会ったのだ。
名前……。そうだ、名前……。
思い出せるはずもない。
知らないのだ。
僕に、息子はいない。
まだ、いないのだ。
まだ……?
僕は時計を見る。朝の五時だった。
もう一度、目を閉じる。
でも、とても寒くて、気分も優れなかった。
多分、夢の続きは見れそうにもない。
5
「益一郎くん、大丈夫?」久遠さんの冷たくて、ちょっとだけ湿っている手が、僕の額にあてられる。「熱、あるんじゃない? ちょっと待ってて」
熱? あぁ、そういえば体が怠い。これは、風邪だろうか。だとしたら久々だ。年中ある程度ダルいから、体調不良とか自分ではよく判らないよな、なんて思っていたけれど、やっぱり別物だ。上気道感染っぽい。伝染しても悪いので、会社に連絡をする。
「はい、体温計。熱計って」差し出されたそれを受け取る。「え、なに?」
「手が冷たくて気持ちが良い」僕は久遠さんの手を握ったまま言う。
「何言ってんの。早く熱計ってよっ」
「いいじゃん。こんなときくらい甘えさせてよぅ」
「もう。軽口たたく元気あるなら、看病しないよ?」
「え〜、酷い。具合は悪いよ? ほら」熱を測り終える。37.9℃。
「薬と食べ物、用意するね」
「え〜。もうちょっとここにいてよ」
「はいはい〜。甘えん坊さんは、おとなしくしててね〜」と、彼女は部屋を出て行ってしまう。
それから、作ってもらったおかゆを食べて薬を飲み、何度か眠る。病院に行こうかとも思ったけれど、大丈夫そうだったので、そのまま家で休むことにする。
夕食の時間くらいには、もうほとんど全快に近かったので、普通に晩御飯を食べた。食欲もあり、多分明日は出勤できそうだ。
夜、久遠さんがリビングで寝るというので、僕はごねる。
「仕方ないでしょ」
「やだよ〜」
「もうマスくん、30歳なんだから、そういうの通用しないからねっ!」
「はい〜」僕は不承不承のフリをして、了承する。万が一にも、妊婦に風邪を移すわけにはいかないのだ。
その夜、また夢をみた。映画館のような真っ暗な空間で、何かの映像を見ている。ただ、椅子はなく、床に直接座っている。大画面に映し出されているのは……、あの日の光景だ。あの事故の光景。斜め上から、備え付けのカメラで撮ったような、そんな映像。
ギターケースを抱えた僕と、久遠さんがいる。
その他にも、乗客が多数。
なんてことなのない光景。
特別のことなんて何一つない、つまらないバス内の映像。
交差点に差し掛かる手前で、映像は途切れる。
真っ暗な空間。ふと横を見ると、小さな子供が座っている。
「どうして、さいごまでみないの?」
え?
「なんで、ちゃんとさいごまで、たしかめないの?」
目が覚める。ひどく汗をかいている。口の中がカラカラだ。
キッチンで水を飲み、部屋に戻る。しかし、ベッドに横になっても、眠れる気がしなかった。なんせ一日中寝ていたのだ。
カーテンの隙間から、光が漏れている。柔らかな月明かり。覗いてみると、満月よりは少しかけた月が、光っていた。
僕はカーディガンを羽織って、外に出る。
午前三時。
とても静かで、風も穏やかだ。
「なにやってるんだい?」
僕は驚いて振り向く。千和さんだ。
「こんばんわ……。あ、おはようございます……?」
「年寄りは早起きだってかい?」
「いえ、そういうわけでは……」
「まぁ、いいわ。よっこいしょ、と……」
二人で家の前の段差に座る。お尻にコンクリートの冷たさを感じる。
「体調はもう良いのかい?」
「はい。昼間はずっと寝てましたから。おかげで、眠れませんけど」
「そうかい」
「いつもこの時間、起きているんですか」
「いいや」
僕は夜空を見上げる。星々のきらめきは、大気の揺らぎらしい。でも、指で弾いたら、オルゴールのように、音が鳴りそうだ。
「あの、ひとつきいても良いですか」
「なんだい?」
「どうして一階で暮らしているんですか」
「どうしてって……。二世帯住宅なんだ。もともとは、じいさんと私が二人で暮らしていた。二階は息子夫婦」
「えぇ。でも……」
「お互いに干渉しないのが美徳ってもんだろう? そりゃ、今だけの状況を見れば歪かもしれないね」
「いえ、その……、すみません」
「いいや。まぁ、色々あったのさ。じいさんが死んだときにね」
「色々……?」これ以上きいても良いだろうか。「あの、差し出がましいようで恐縮なんですけれど……」
「うん? よくある話だよ。お金の話さね。まぁ、昔のことさ」
「そうですか」
「星の音を、聴いたことがあるかい?」
「え? いえ……」
「そうかい」
「でも……、雪が積もる、しんしん、っていう音なら知っています」
「雪にも音があるのかい?」
「ええ。何かが鳴っているわけではないんですけれど。雪って、音を吸うので。雪の予報が出た夜とか、急に静かになったと思ったら、聞こえてくるんです。余計な音を全部吸っているから、まわりの空気だけが、少しだけ震えているみたいに」
「そうかい。あんた、雪国の出身だったねぇ」
「はい。新潟です。星にも音があるんですか?」
「雪の音とはだいぶ違うね。ラジオみたいな音だよ」
「電波ってことですか?」
「詳しいことは私には判らないよ。ただたまに聞こえるんだ」
今も、それは聞こえているのだろうか。星が瞬くたびに、光が揺らぐたびに。
「夢を見るんです」僕は言った。「バンドをやっていた頃の光景とか、まだ生まれていない子供たちとのピクニックとか……」一瞬迷ったけれど、僕は言う。「変な怪物みたいなやつが出てきたり」
「よくある話だね」
「そうなんですか?」
「そうだろう? 過去や未来の光景を夢に見る。ただの思考の残滓さね」
「怪物は、なんでしょう?」
「さあね。私は知らんよ」千和さんは少しだけ笑う。「それって、本当に怪物かい?」
「え? 多分。そう見えます。あの事故の日以来、ずっと僕に取り付いているようで」
「そうかい」千和さんはそう言うと、一瞬だけ目を閉じて僕を見る。「じいさんが大切にしていた懐中時計があってね。子供の頃に、アメリカ兵から盗んだだとか、軍人だった遠い親戚から貰ったとか、塹壕で拾ったとか、聞くたびに話が違ったけれど」
「童謡で、そんなのがありましたね。でも、あれは置時計か」
「あれは、一緒に止まるだろう。じいさんの時計はね、まだ動いてるんだ。軍用の物らしく、頑丈で良い品でね。時々手入れはしていたようだけれど。あるとき、部屋の整理をしていたら、それが出てきてね。それが、まだ日を数えてんだ。じいさんが死んだ後もね」千和さんは、そっと息をつく。「色々あったし、息子夫婦にも迷惑をかけたよ。特に、信子さんにはね……」
僕は曖昧に、相槌を打つ。
何があったのかは知らないし、正直あまり興味もない。
ただ、きっと……。
あの日以来、僕の時間もまた、止まってなどはいないのだ。
時計の針が、時を刻む。
日々は過ぎ去っていく。
何かを置き忘れたかのように。
それ自体も、忘れていくように。
「やっぱり、まだ夜は冷えるね。年寄りには酷だわ。あんたも家に入んなさい。風邪がぶり返すよ」
「はい」
家に入っていく千和さんの後ろ姿を、僕は追う。
何かに見られているような気がして、僕は振り返る。また奴か、と。
でも、そこにはなにもいなかった。
つづく。
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