第7話「Spit On A Stranger」
1
目を覚ますと、もうトンネルを抜けていた。心地よい揺れの中で微睡んでいたけれど、耳の奥に残る微かな違和感。微妙な気圧の変化。流しっぱなしにしていた音楽を止めるために、僕はポケットからiPhoneを取り出す。
隣のシートを見る。久遠さんが東京駅で買った雑誌をパラパラと捲っていた。
「おはよう」僕は言う。「ごめん、寝ちゃってた」
「おはよう。お疲れだね」彼女は笑う。「いいよ。っていうか先に寝たの私だし」
夏のこの時期の新幹線は満席だった。前の方の席で、赤ちゃんが泣いていた。それはもう大変なぐずり方で、まるでこの世の終わりだとでも言わんばかり。通路を挟んだ向こうの中年男性が露骨に嫌な顔をしていて、ぶつぶつと文句を言っている。車内全体が、重苦しい雰囲気になり、それを察してか、そのお母さんはデッキへあやしに行った。
「きっと、怖いんだろうね」久遠さんが言う。
「あぁ、なるほど」僕は、彼女のその言葉に、そうだよな、と思う。
赤ちゃんにとって、この空間というか、乗り物って、ある意味恐怖だろう。なんせ時速200キロ以上で走るのだ。僕らはなんとなくの理屈は判るし、そういうもんだって納得というか、安心できるけれど、生まれてからそう時間の経っていない赤ん坊にとってみれば、わけの判らない状況だろうし、周りは見知らぬ他人ばかり。そりゃ、パニックになってもしかたがないだろう。それとなく、そんなことを僕は彼女に話す。ちょっと大きめの声で。となりの中年男性に聞こえたかどうかは判らないけれど。
「田んぼばっかりだね」久遠さんが窓の外を見ながらしみじみと言う。
「そんな地の果てに来た、みたいな言い方しないでよ」
「ホント田舎って感じ」
「ひどいなぁ。そんなに変わらないでしょ」
僕らが暮している場所だって、首都圏とはいえ長閑なところだ。小田急線だって、伊勢原の方まで行けば、似たような風景が広がっている。
「でも、なんかこう、範囲が違うっていうか。もう容赦なく田舎っていうか」
「確かにね」僕は言う。新幹線はまた、トンネルに入る。
久々に新潟へ帰る。帰ると言っても、僕の実家はもうない。三年前に母が亡くなったからだ。いろいろと話しあって、お墓は叔父さんが管理している。
「お義母さんって、どんな人だったの?」久遠さんが言う。
「普通の人だよ。でも、本はよく読んでいたかな。小説ばかりだったけれど」
「そうなんだ」
「ずっと働いてたしね。他に趣味らいし趣味も無かったんじゃないかな」
母が亡くなって以降、あまり帰省はしていなかった。まあ、バンドをやっていたし、お金が無かったというのもあるのだけれど、上京して好き勝手やっていた僕は、母の葬式のときに、叔父さんと、ちょっとばかり揉めてしまったのだ。
「叔父さんとは、気まずくないの?」
「気まずいだろうね……。まぁ、でも三年も経っているし」
今回、帰省したのは、久遠さんが僕の母に、結婚と妊娠を報告したいと言ったからだ。いろいろとあったし、バタバタもしていたので、結局このタイミングになった。あまり気が乗らなかったけれど、お義父さんたちに背中を押されたこともあって、向かうことになった。
「でも、迎えに来てくれるんでしょ?」
「うん……」
久しぶりに叔父に連絡をした。案外あっさりとしていて、拍子抜けしたけれど。
「ちょっと緊張してきたかも」久遠さんは、そう言いながら背伸びをする。
「多分、大丈夫だよ」僕は言う。けれど、あまり自信はない。
叔父は、少しだけ気難しいのだ。ちょっと変わっているというか。まぁ、慣れれば問題はないのだろうけれど。でも、どうだろう。
新潟駅に着き、僕らは電車を降りる。二時間ぶりに吸う外の空気は清々しかった。そして、ここの空気は、やっぱり東京とは少し違う。なんとなく湿っぽい。
エスカレーターへ向う途中、さっきの赤ちゃんを抱いた母親とすれ違った。赤ちゃんは笑顔で母親の顔を触っていた。もう泣いてはいない。僕は、良かった、と思った。そして、その光景を眺める久遠さんの表情を、そっと覗き見た。
2
南口に出ると、ロータリィに叔父の車が停まっていた。
「よう、来たな。親不孝者」車を降りて、叔父さんが言う。
「ご無沙汰しております。お世話になります」
「あぁ。そっちがお嫁さんか」
「はい」
「久遠です。初めまして」
「どうも。叔父の初雄です。荷物、積みますね」
「あぁ、僕がやります」
トランクに荷物を積む。助手席にはバケツや箒などが置いてあったので、僕たちは後部座席に座る。
「まっすぐ墓地行くんで良いんか?」
「はい」
「じゃあ、その後にメシでも食おう」
「あの、お花とかは……」
「用意してある」
「ありがとうございます」
バイパスは割と空いていた。三十分ほどで、お寺に着く。
車の中ではほとんど無言だった。交わした会話といえば、仕事のことくらい。
叔父は独身で、家業の園芸屋を継いだ。でも今は、それを廃業して、花木総合センターというところで働いているらしい。
「水汲んでくるから、先に行っていていくれ」
「はい」
叔父から箒を受け取り、僕らは母のお墓へ向かう。
「結構きれいだね」久遠さんが言う。
「うん。ちょくちょく来てくれているみたい」
「あ、私やるよ?」
「ううん。大丈夫」
掃き掃除を終えたあと、叔父さんが汲んできてくれた水で、簡単にお墓の掃除をすませる。手を合わせ、お参りをする。正直、僕はこういった行為にあまり意味を感じない。そっと目を開けて、隣の久遠さんを盗み見る。
唐突に、僕はこの人と結婚したんだな、と思う。
結婚をして、今、僕の子供を妊娠している。
なんだかとても不思議だ。
人は死ぬ。
目の前に、それがある。
けれど、生まれてもくるのだ。
今度こそ。
胸を張りなさい、と言われているような気がした。
前を見て、上を向いて。
彼女は、何を思っているのだろう。
僕は再び目を閉じる。
そして、ただ優しさのことだけを想う。
「益一郎くん?」
彼女の声に我に帰り、目を開ける。
「え? 何?」
「何って。もう行くよ?」
「あぁ、そうだね。行こう」
3
それから、叔父さんの家に上がり、お茶を頂く。
「今夜はどこに泊まるんだ」
「駅前のホテルを取りました」
「そうか。じゃあ、アレか。車貸そうか?」
「いえ、電車使いますよ。叔父さん、車ないと不便でしょう?」
「いや、大丈夫だ。仕事用の軽トラがあるしな。遠慮するな、使えよ。油だけ入れて返してくれればそれで良い」
「いや、でも……」
「こんな田舎でアシがないと、それこそ不便だろう。俺は構わんから使え」
「はい。ありがとうございます」
築五十年は経っているであろう母の実家は、リフォームはされているものの、その古さを払拭するには至っていないような感じがする。園芸屋をやっていた頃の事務所兼応接室は、まだこの部屋の隣に残されていた。
「そういえば、この前、石野さんから連絡があったぞ」
「あぁ、はい。先日、会いました」
「そうか。今はだいぶマトモになったらしいな」
「ええ。おかげさまで」
「姉さんの葬式の時は、悪いことをした。いや、俺はまだ、あいつのことを許したつもりはないんだが」
「いえ。ご迷惑をおかけしました」
「いや、別に良い。それに、お前らは親子だからな」叔父さんはそう言うと、腕時計を見て、立ち上がる。「じゃあ、俺もう出るから」
「仕事ですか?」
「いや、新聞の集金だ」
「あぁ、なるほど」
「ほら、これ」僕は鍵を受け取る。「事故だけは起こすなよ」
「大丈夫ですよ」僕は笑う。
叔父さんが軽トラで出かけていくのを見送ってから、僕たちも車に乗る。
「ねぇ」久遠さんがシートベルトを締めながら言う。「新聞の集金って? 仕事は園芸関係って言ってなかった?」
「うーんと、そういう新聞じゃなくて、機関紙だよ」
「なにそれ?」
「赤旗っていうんだけれど、付き合いみたいなものだって、言っていたかな」
「そうなんだ」
「それよりどうする? もうホテルへ行く?」
「どこか案内してよ」
「うーん……、正直、観光できるようなところはないよ」
「えー」
「あ、そうだ」思い出した。
「なに?」
「一個だけ、ちょっと行きたい場所がある」
「どこ?」
「大した場所じゃないんだけれど」
僕は車を走らせて、その場所へ向かう。
まず、叔父さんの家のある蕨曽根から山谷の方角へ。
「益一郎くんは、この町で育ったんだね」
「寂れたところでしょ。パチンコ屋ばっかりだし」
そんなことないよ、という彼女のことを僕は、優しいな、と思う。
「僕さ、久遠さんのことを好きになったのは、なんていうか、優しいなって、思ったからなんだ」
「なに? 急に」
「いや、なんていうのかな、円満な家庭で育ったんだろうなっていう。人間が好き、というかさ」
「円満な家庭ね~。ウチだって、いろいろあったんだよ?」
「うん。それは判ってるんだけれど。なんかこう、優しさの純度が高いというか」
「なにそれ」彼女は笑う。
「ほら、僕はひねくれてるからさ。ジョークも下手だし」
「そうだね」
「ちょっとは否定してよ~」
「うーん、否定は出来ませんな。でも……」久遠さんは僕を見る。「益一郎くんだって、優しいよ。ほら、出会ったばかりの頃、クリスマスのときにちょっとだけ喧嘩したの、憶えている?」
「あぁ、僕がクリスマスなんてやらないって、言ったときでしょ」
「そう。あのときは、こんな人いるんだぁ、って思ったけどさ」
「本当に、そういう習慣がなかっただけなんだ」
「でも恋人ができたら、やっても良いんじゃない?」
「それはそうだけど。若かったからさ。はしゃいでいるヤツらがバカみたいに見えてたんだ」
「ううん。そうじゃなくて。マスくんがクリスマスとかお正月とか、そういうイベントごとやりたがらないのってさ、お義母さんを思ってのことでしょ。そういう世間がお休みのときも、ずっと働いていたから。なんていうの? 義理立て?」
「それでも、ケーキとかは買ってきてくれたし、プレゼントも貰っていたよ。お年玉も。でも、上京して一人暮らしをして、そういうのをやらなくなったら、もう別に良いじゃんって思ったんだ」
「うん。だから、付き合っていくうちに、そういうのも判るじゃない。今ではちゃんとやってくれるしね。だから、さっきお義母さんにも心の中で報告したの。益一郎くん、サブカル気取りのひねくれてスカしたヤローだったけど、今では私の良き夫です、って」
「ひどい言い草だな」僕は笑う。「でも、ありがとう」
「ううん。前から親の顔が見てみたいって思ってたから」
「久遠さんの方がよっぽど口が悪いじゃないか」
「君のせいだよ?」久遠さんは、悪戯っぽく笑う。
赤信号の交差点で、車を止める。
僕らは短くキスをした。
「やっぱり、言い直す」
「え?」
「益一郎くんの、おかげだよ」
4
県道を抜けて、バイパスに乗る。片側二車線のこの道は、相変わらずほとんどの車が飛ばしている。
「ここって、高速道路?」
「違うよ」
「みんな結構スピード出すんだね」
「うん。慣れている人たちはね」合流してくる車に前を譲るように、スピードを落とす。「アピタだ。新潟にもあるんだね」
「うん。もうすぐあれが見えるよ」
「何?」
「ほら」僕は左側を指す。「亀田製菓~♫」
「かっぱえびせんの? 本社?」
「多分」
「あ、イオンだ。えー、すごーい!」久遠さんは、窓に顔を寄せる。「広い駐車場だね! これ、何台くらい停められるの?」
「いや、知らないけど」
「すごいね」
「うん。あとで、寄ってみる?」
「うーん、いいかな」
「そう」
桜木ICで降り、信濃川を渡る。
「ねえ、どこに行くの?」
「あぁ、言ってなかったね。海だよ」
「海? どうして?」
「日本海側だよ? 海に沈む夕日、見たくない?」
駐車場に車を置いて、海岸まで歩く。空は次第に色を変え始める。
「なんで急にこんなロマンチックなことをしようと思ったの?」
「いや、いつかはさ。ここに連れてきてあげたいと思って」
「ふーん。でも、いいね、こういうの」
「うん。有名な画家の絵にもなった景色なんだよ」
「そうなんだ」
「篠田濫雪っていう画家、知らない?」
「名前は聞いたことある」
「僕と同世代で、新潟出身なんだ」
「前に、言っていたね。そんなこと……」
「そうそう」
傾きかけた太陽の光が、海面に反射している。波が揺れるたびに、キラキラと輝いている。
「ねえ、益一郎くん……」
「なに?」
「音楽辞めたこと、後悔していないの?」
「ハハッ。なんで?」
彼女は黙ったまま、俯いてしまう。傾いた日の光が、彼女の顔を差す。
「高校生の時にさ……」僕はゆっくりと記憶を整理する。「初めて、バンドでライブハウスに出演したんだ。ベイビーバレットっていうバンドのコピーバンドでね。自分で作った曲もあったんだけれど、なんだか恥ずかしくてさ。当時のメンバーにも聞かせていなかったんだ」
「そうなんだ」
「普通のブッキングのライブだったから、僕らの他にも何組かバンドがいたんだけど、全部、当時流行っていた青春優しさパンクみたいなバンドばっかりでさ。ダセーな、とか思ってたんだ。自分たちはコピーバンドのくせしてさ。でも、僕たちの方がロックだって思っていたし、実際演奏とかも、僕らの方が上手かったんだ。練習だけはしていたからね。そこらの大学サークルのお遊びバンドなんかとは違うんだぜ、って。まぁ、今にして思えば、かなりイキがっていたんだけど」
「うん」
「だから、そんな感じに他のバンドのリハを見て、メンバー同士で今日のライブ、俺たちが絶対一番上手いし最高だよな、ってなってさ。楽屋なんかでも、カッコつけて、こう、なんていうの? シラけた感じというかスカした感じでいたんだ。ろくに挨拶もしないでね。それで、そういう大学生たちに混じって一人、40代くらいだったのかな、おじさんが楽屋に入ってきて、挨拶してきたの。ヨレヨレの服を着て、銀縁の野暮ったいメガネをかけてね。僕らはまた、気のない挨拶を返してさ。僕らはてっきり、関係者というか、なにかの雑用係みたいな人だと思ってたんだ」
「出演者だったの?」
「そう。トリの人だった。その日のリハーサルは逆リハだったから、僕らがライブハウスに入る前にはもう、リハを済ませてあったんだ」
「うん」久遠さんは、僕の話がどこへ向かっているのか、困惑しているように見えた。
「ライブ会場でさ、音楽を聴いていると、たまに意識がふっと体を離れるっていうか、確かにその場にいて、目の前の演奏を聴いているんだけれど、なぜか関係ないことを考えているっていうか、集中力が研ぎ澄まされていく感じというか、ライブ会場にいたはずが、いつの間にか思い出みたいな、自分でも忘れていた記憶の中にいるっていうか」
「それ、ちょっとわかるかも」
「でもね、その人のライブは、そういうのじゃなくて、もっと凄かった。楽屋でみた人と同じ人とは思えないくらい、アコースティックギターを掻き鳴らして、歌っていたんだ。歌もギターも、あまり上手いとは言えなかったんだけれど、それでも、まっすぐに言葉が入ってくるっていうか。メロディと詞が、僕の真ん中にある芯みたいなものを、掴んで離さなかった」
「どんな曲だったの?」
「凄くパーソナルな情景についての歌だった。曲名も覚えているよ。『夕方の匂い』っていう歌で、その人、大学に進学するために、山形から新潟に来たんだって。それで、一人暮らしを始めて。夕方、買い物に出かけようとした時に、ポツポツと雨が降ってきて、アスファルトに雨が落ちた時の、あの匂いを、歌にしたんだって言っていた」
「そうなんだ」
「本当に、あの時のことは今でも覚えているよ。そのとき僕は、どうしてこの人の歌を、そういう風に感じるのかって、考えていた。どうしてこんなに、まっすぐに歌を歌えるのかって」
「うん」
「それはきっとさ、その人が、自分の言葉で歌っていたからだったんだと思う。ショボいものを誤魔化すために過剰に飾ったり、どこかから借りてきた言葉じゃなく、自分が感じたこと、思ったことを、そのまま歌にしたからだって。自分で作ってみると判るんだけれど、何かをそのまま作品にすることって、案外難しいんだ。技術もいる。自分に自信がなかったり未熟だったりすると、つい格好の良いものを借りてきたり、いろいろと飾りつけたりしがちなんだけれど。ヨレヨレの服を着た、その冴えないおじさんがさ、凄くカッコよかったんだよね。その日以来さ、僕は自分の曲を作り直して、バンドでやるようになったんだ」
「うん……」
「後悔していない、って言ったら、嘘になる。真剣にやっていたし、今でも音楽は好きだよ」
「益一郎くん……」
「あのとき、新しいアルバムを作るって話があった。実際に、市ヶ谷のとあるレコード会社でさ、よく判らない人たちの前でスタジオライブをやったりね。あとから、結構有名なプロデューサーたちだって知って、ちょっとビビったんだけれど。事務所とかも紹介されて。コンセプトというか方針というか、そういうことを話し合う会議とかもしていたし、そういうところから出たアイディアを取り入れながら曲を作ったりもしてた。でも、だんだん自分たちが何をしているのか、何をやらされているのか、よく判らなくなっていたんだ。そんなとき、あの人のことを思い出したんだ。高校生のときに観た、ライブのこと」
太陽が、水面に差し掛かる。長い影をつくる、ブラッドオレンジの光。
「プロとして、やっていくんなら、そういうのを捨てないにしても、脇に置く必要があるかもしれない、って思ったんだ。自分のやりたいこととか、やりがいとか、そういう自己満足的なことは、一旦ね。そうやって、売れるのもの……、厭らしい話、お金になるものを作らないといけない。もちろん、リスナーがお金を払ってくれるってのは、それを音楽として認めてくれたからであって、そこを目指すのは間違ってはいなんだよ。むしろ正しい。それに、そんなことをグチグチ考えなくても、納得のいくかたちで売れる作品を作れる才能のある人だっている。でも、僕はそうじゃなかった。それに……」
「私のせいなのかな……?」
「ううん。それは違うよ、久遠さん。そうじゃないんだ。僕が言いたいのは……」僕は何が言いたいのだろう。長々と話してきたけれど、これは言い訳だ。惨めったらしく、未練がましい、ただの言い訳。でも、言い訳の何がいけないのだろう。「今の生活が、好きなんだ。子供だって生まれる。僕は幸せだよ」
「ごめんね」
「本当だよ」言葉は、ただただ空虚だ。少しだけ空気を震わせて、消えていく。
いままでも、音楽を辞めていった人たちを、僕は見てきた。その度に、どうして辞めてしまうのだろうと、不思議だった。技術も才能もセンスも、申し分ないような人たちに思えた。でも、今になって思う。それだけじゃないのだ。
太陽はもう、水平線の彼方へ消えようとしていた。空の高いところは暗くなっていて、僕らの目の高さの空だけが、燃えるように赤い。
「ねえ、知ってる?」僕は言う。「太陽が沈む瞬間に、緑色の光がみえることがあるんだって。滅多に見ることはできないんだけれど、それを見ると、幸せになれるんだって」
「そうなの?」
「うん。子供の頃、そんな話をテレビで見たことがあるよ」
「そうなんだ」
「自分の人生を、そのまま受け入れることも、そうなのかもしれない。僕にはまだ、難しいのかもしれない。でも、いや、だからこそ、借り物の人生なんて、まっぴらごめんだし、必要以上に飾りたくもない」僕はゆっくりと息を吸う。そして、隣にいる人の手を握りしめる。「だから、これからもずっと、僕と一緒にいていほしい」
俯いていた彼女は、そっと顔を上げて、水平線の向こうを見ていた。
太陽が沈む。
僕は、彼女の表情を、ずっと眺めていた。
「益一郎くん」
「ん?」
「やっぱり、言い直すね」
「え?」
「ありがとう」彼女は笑う。「幸せだって言ってくれて、ありがとう」
「うん」
あの光を、彼女は見ただろうか。
幸せになれるという、あの緑色の光。
あたりは、すっかり暗くなってしまった。
関係ないか、と僕は思った。
そんな光、見なくたって。
きっと、僕らは……。
5
「せっかく来たのに、一泊だけで帰るのか。新幹線だって、安くはないのに」叔父さんは、ぶっきらぼうにそういうと、遅れて少しだけ笑う。
「お世話になりました」
「気にすんな。別に他人同士ってわけじゃない」
「ええ。でも……」
Uターンラッシュの新幹線ホームは、人で溢れている。
「お前の母親は、お前の母親だ。でも、囚われる必要はない。お前はお前で、しっかり自分の生活を築けよ」
「すみません。なにもかも、任せっきりで……」
「だから、気にするな。独身の俺には、姉さんは唯一の家族なんだから。でも、たまには顔を出せ。子供の顔も見せに来てやってくれ。姉さんにな。俺はついででも良い」
「はい、必ず」
「じゃあな。元気で」
「はい」
アナウンスのあと、ホームに新幹線がやってくる。巨大な車体分の空気が入れ替わり、人々が順番に乗り込んでいく。
「益一郎。その、なんていうか、判っているとは思うが、人生、思い通りにならないこともある。だから、その、なんていうか……」
「判ってます。大丈夫ですよ」
「そうか。なら良いんだ。お前、危なっかしいからな」
「え?」僕は笑う。まぁ、でもその通りかもしれない。「ありがとうございます」
出発の時間が迫る。僕らは車内へ。指定席につき、窓の外を見る。叔父さんはもういなかった。
「良い人だったね」隣に座る久遠さんが言う。
「うん。歳をとって丸くなったのかな」
「それもあるかもしれないけれど、それだけじゃないでしょ」
「うん」
「心残りがあるとすれば、全然遊びがなかったことくらいかな~」
「いや、でも妊婦をあちこち連れ回すってのも……」
「判ってるよ。でも、あの夕陽、本当に綺麗だった」
「そっか。それなら良かった」
新幹線が動きだす。家族連れが多く、小さな子供たちの話し声がたくさん聞こえる。どれも、楽しかった思い出についての声だ。外は明るく、建物の影を通り過ぎるたびに、点滅しているようだった。トンネルに入り、その光が落ち着く頃には、疲れたのか、子供たちの声もなりを潜めた。
僕らも取り留めのない話をしていたけれど、いつの間にか久遠さんは目を閉じて眠ってしまう。僕は彼女を起こさないように、そっとポケットから自分のiPhoneを取り出す。イヤフォンを挿し、何を聴こうかと画面を眺めるけれど、なんとなくもったいなくて、そのまま新幹線の走行音に耳を傾ける。
ヤツは現れない。でも、今度は僕の方から話しかける。
あの夕陽、綺麗だっただろう。
お前に見せたかったんだ。
どうだった?
でも、返事はない。
まぁ、それも良いか、と僕も目を閉じ、心地良い揺れの中で微睡んでいく。
東京駅で新幹線を降りた僕たちに、次女の琴羽ちゃんから電話がかかってくる。それは、あまりにも突然で、そして、悲しい知らせだった。
つづく。
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