第8話「The Queen is Dead」
1
その日は朝から晴れていて、それはもう眩しくて空を見上げられないほどで、一夜にして世界が丸ごと変わってしまったかのようだった。それとも、変わったのは僕の方だろうか。
いつもこうだ。仕方のないこととはいえ、この世に存在する、ありとあらゆるものが、世界を構成しているのだとすれば、些細ではあるけれども、それは変化なのだろう。たとえ神様の所持品リストの項目が、右から左に移っただけだとしても。
喪主は、お義父さんが務めることになっていた。そういう年齢だ、と言ってしまえばそれまでだ。覚悟していたのだろうか。色々な手続きを淡々と済ませるお義父さんを、僕は遠くから眺めていた。母が亡くなったとき、僕は恥ずかしながら何も出来なかった。悲しみや後悔、それ自体は実体を持たない。ただ、突然訪れる空白は、失った何かが、大切な支えであったということを気付かせ、バランスを崩す。とっ散らかってしまって、どこから片付けていいのか、判らなくなってしまう。
斎場には、親戚の人たちや、近所のお友達など、たくさんの人が訪れていた。突然のことに、みな驚いている。虚血性心疾患。医者の話によると、苦しまずに最後を迎えたらしい。
千和さんの遺影は、数年前に旅行に行ったときのものだそうだ。凛々しくも、柔和な笑顔の写真で、人柄がよく現れている。
葬儀社の人が司会を務め、恙無く執り行われる。静黙とした雰囲気のなか、お坊さんが読経を始める。波打つ水面が治まるのを待つような、そんな空気を乱すように、幼い子供が声をあげ、母親がそれをそっと諌める。まぁ、僕も、お経って何拍子だろう、なんて考えていたから、他人のことは言えない。
あと三人、あと二人……、と順番を数えながら、僕の番が来る。家族や親戚よりはあとだけれど、その他の人たちよりは先。お焼香って、どうするんだっけ? 事前に思い浮かべていたはずなのに、一瞬判らなくなってしまう。あ、お経は、1/1拍子かな……。
通夜が終わり、参列者を見送る。お義父さんたちは、これからまた葬儀社の人たちと打ち合わせだ。お義母さんと琴羽ちゃんはお供え物や弔電、心づけの確認をするという。久遠さんは具合が悪いから、先に帰って休む。やはりショックなのだろう。当然だ。
なんとなく恐縮だけれど、僕も先に帰る。色々と準備をしている人たちには申し訳ないけれど、グダグダしていても何も進まないのだ。湯船に浸かり、乱れた思考を少しずつ整理していく。
お風呂から上がり、リビングに入ると、莉乃ちゃんがテーブルに突っ伏していた。きっと疲れたのだろう。
「お風呂、先にいただいたよ」僕は声をかける。「まだ温かいから、入っちゃいなよ」
「……ん、うーん……」莉乃ちゃんは起き上がり、背伸びをする。「なんか疲れちゃった」
「無理もないよ」
「人が亡くなると、やることがいっぱいあるんだね。って、私はなんもしてないけど」
「いや、そんなことないよ」
「なんだか不思議。今でも下に行けば、普通におばあちゃんいそう。でも、いないんだよね」
「そうだね」
「なんかね、思い出しちゃった。子供の頃にね、死んだら自分はどうなるんだろうって、考えて怖くなったことがあるの。眠る前とか。痛いのかな、苦しいのかな、って。忘れてたんだけど」
「どうなんだろうね。僕もいまだに判らないよ」
「おばあちゃんはどうだったと思う?」
「さあ。判らない。でも、千和さんらしいといえば、らしいかな」
「らしいって?」
「うーん、何ていうのかな。こうやってお通夜を終えても、まだ実感がない感じというか。凄く不謹慎なことを言うようだけれど、まだあんまり悲しくはないんだ」
「あ、それ判るかも。突然だったってのもあるけれど、そうなんだよね。生きているときのイメージの方が強いっていうか」
「うん、そうなんだよ。なんだか不思議だね」
「でも、これからちょっとずつ悲しくなっていくのかな?」
「多分ね」
「そっか。なんだか少し安心した。私、人が死ぬのって初めてだから。おじいちゃんのとき、小さかったから、あんまり憶えてないの」
「そうなんだ」
「なんかさ、おばあちゃん亡くなっちゃったのに、悲しめないから、おかしな人間なのかなって、心配だったんだ」
「判るよ。僕もそうだった」
「そうなの?」
「そう。そのときはもう離れて暮らしていたからね。生活に変化がないから、なかなか肌で感じることが出来なかったかな。その分、ふと思い出したときは、ちょっとキツかったけれど」
「なんか、ごめんなさい。こんなときに、こんな話……」
「いや、構わないよ」
「ありがとう。お風呂、入ってくるね」
「はい、どうぞ」
リビングを出て行く莉乃ちゃんを見送り、僕はソファに座る。テレビをつけ、適当にチャンネルを回すけれど、やっぱり気分じゃない。音量を一番小さくして、目を閉じると、遠くの笑い声が、薄っすらとしたノイズのように部屋の中に少しだけ溶け込んだ。
2
少し眠ったらしい。目を覚ますと、当たり障りのないAORが流れていた。深夜の通販番組だ。いつの間にかブランケットが掛けられていた。久遠さんだろうか。あぁ、と思い立ち僕はテレビを消して、下に降りる。
千和さんの部屋に、明かりが点いている。まさか、と思いノックをして、戸を開ける。
「あら、益一郎さん」お義母さんだ。「どうかしたの?」
「いえ、リビングで寝てしまって。すみません。もしかして、ブランケット、お義母さんですか」
「えぇ。また風邪ひくといけないし」
「ありがとうございます」何時だろう。部屋に時計は無いが、さっきのテレビを見る限り、もうかなり遅い時間だ。
「本当はね、寝ずの番をやらなきゃいけないのだけれど」お義母さんは寂しそうに笑う。
「そういえば、そうですね。でも……」
「そう。斎場ですからね。九時半で完全消灯ですって。なんだか申し訳ないわ」
「仕方ありません」
僕の田舎では、大体が家でお通夜をする。親戚たちが集まって、夜中、お線香の番をしながら、語り明かす。けれど、こちらではお通夜もお葬式も斎場で行うのが一般的だ。
「せめてね、私だけでも。パパはさすがに休んでもらったわ」
「えぇ。それが良いと思います。明日もありますし」
「突然だったから、まだ心の整理がつかないわ」
「僕もです」
夜のしずけさが、耳につく。蛍光灯の微かなノイズが、この部屋をゆっくりと満たしていく。そんな気がした。
お義母さんは、千和さんの部屋で、昔のアルバムを眺めていた。僕も隣に座らせてもらい、それを眺める。
「これ、久遠がまだ三歳のころよ」写真には、小さな家庭用のブランコに乗る久遠さんの姿があった。
「可愛いですね。でも、これ、どこですか?」
「まだ、この家に住む前ね。初めは、大宮で暮らしていたの。ちょうど、この後くらいね。パパが勤めていた会社が倒産しちゃって。それで、今の会社に転職して。それで、お義父さんが資金を援助してくれて、この家を建てたの」
「そうなんですね」
「二世帯で住むなんて、気が重かったけれど。益一郎さんもそうかしら?」
「いえいえ。僕は……」えーっと、どう答えるべきか……。
「変な質問ね。ごめんなさい」
「いえ……」
アルバムを捲る。この家の、この家族の歴史が詰まっている。小学生の頃の久遠さん、中学生、高校生の頃も。
「こっちのアルバムはなんですか?」僕は、千和さんの机の上に置かれた、ひときわ古いアルバムを見つける。
「そっちは、お義母さんのアルバムね。見てみる? びっくりするわよ」
「え?」意味が判らなかったけれど、僕はそれを開く。「あっ」
白黒の写真は、確かに古びていて、昔の写真だと判る。けれど、そこに写っているのは、どこからどう見ても、久遠さんだった。
「ねぇ? 私も始めは驚いたの。隔世遺伝ってやつなのかしらね」
「それにしても……」
「でも、よく見ると全然別人よ?」
「それはそうですけれど」
「お義父さんが亡くなった時、ちょっとした揉め事があってね……」
「あ、はい。何があったんですか」
「お義父さんが、生前に集めていたものに、とても高価なものがあって。古いピアノなんだけれど。どこから聞きつけてきたのか、いろんな人が、それを狙って……、なんていうと言葉が悪いけれど……。連日連夜、何人もの人が家に来たり、電話をかけてきたり。だから、お義母さんは、当時かなり参っていたみたい」
「そうなんですね……。お金のことだって、なんとなく聞いていたんですけれど」
「だから、そうね、お互いにちょっと、ヒステリックというか、そういう感じになって。それ以来、なんとなく気まずくはなってしまったわね」
「結局、どうなったんですか」
「詳しくは判らないけれど、パパの会社の人から、美術品鑑定士のような、探偵のような人を紹介してもらって、その人にお任せしたわ」
「そんなことが……」
「今になって思えば、そんなもの、適当に誰かに譲っても良かったのかもしれないわね。でも、お義母さんが中々譲らなくってね……」
「何か、思い出があったんですかね」
「おそらくね。そのとき以来、少しずつ気まずくなったというか。距離が出来てしまったの。後悔、とは少し違うのだけれど、もうちょっと違う接し方も出来たのかしらね」
「僕の母が亡くなったとき、僕は東京にいました。叔父から連絡を受けて、急いで戻ったんですけれど、間に合わなくて」あぁ、なんでこんな話を……。「何もしてやれなかった。自分のことで精一杯でした」
「そう、みんなそうね」
「えぇ。だから、後悔しないように生きようって、そう思ったはずなのに、いつもいつも。学習しないんですよね。本当に情けない」
「そんなことはないわ。その思いを、繋げれば良いのよ。だって……」
夜に訪れた静寂の中に、時計の音だけが、弱々しく響く。
それは、僕の胸の中で、確かに時を数えていく。
「私たちは、これからも生きていくんだから」
「はい」
「フフフ。なんだか、ドラマみたいな台詞ね。あぁ、恥ずかしい」お義母さんは笑う。「さあ、明日もあるんだから、益一郎さんは、もうお休みなさい。私も、もうちょっとしたら、少し眠るわ」
「ありがとうございます。どうか、ご無理なさらず」
「えぇ、ありがとう」
3
翌日は曇り空だった。今にも降り出しそうなところを、なんとか堪えているような。湿度が高く、ひどく蒸す。
葬儀社の人の挨拶が終わると、読経が始まり、弔辞、弔電、焼香と淡々と進む。
お坊さんが退場し、いよいよお別れだ。順番に、棺に花を入れながら語りかける。
久遠さんのあと、僕も花を手向ける。そして、心の中で、ありがとうございます、と言った。後ろにいた莉乃ちゃんが、子供のように泣き崩れてしまう。多分、ようやく実感が湧いたのだろう。僕は改めて千和さんに、ありがとうございました、と言った。今度は口に出して。
喪主であるお義父さんが、参列者の方々に挨拶をし、火葬場に向かう。親戚の人たちはマイクロバスに、僕は多田羅家の人たちを乗せて、ワゴンRを運転することになった。それ以外の人たちは、帰宅していく。
運転席でエンジンをかけようとした時、お義父さんに呼び止められる。
「益一郎くん!」
「はい」僕は車を降りる。「どうしたんですか?」
「いや……、その、見間違いかもしれないんだが……」お義父さんは乱れた息を整えながら、参列者たちの方を指差す。「あの人が来てるぞ」
「え?」僕は、その方向を見る。「あっ……」
一瞬だけ、心臓が鳴る。なんで、あの人が……?
「ちょっと、行ってきます」
僕は、走る。
人を掻き分け、進む。
「元木さん!」
僕の声に、彼が振り向く。
少しだけ驚いたような顔をして。
そして、僕に頭を下げる。
深々と。
隣の人は奥さんだろうか。
「どうも、ご無沙汰しております」元木さんは頭を下げたまま言う。
「あの……、どうして?」
「いえ、偶然、渡良木さんの奥様の、お祖母さんが亡くなられたと伺ったものですから。どのツラ下げて、とも思いましたが、参列させて頂きました。ご迷惑でしたでしょうか。大変申し訳ありません」
「いや……」
顔を上げた元木さんは、以前にあった時よりも、少しだけ顔色が良かった。
「あの、ニュース見ましたよ。その、他にも色々と聞きました」僕は言う。
「えぇ、お陰様で。ですが、私がしでかしたことには、なんの変わりもありません」
当初、事故原因は運転手である元木さんの居眠り運転とされていた。会社側の労務管理も杜撰だった。調査委員会が組織され、詳しい事故原因が探られた。
元木さんは、病院で検査を受け、脊髄下部のクモ膜嚢胞だと診断された。長時間労働によるストレスと座りっぱなしが元で髄液圧が上がり、それが原因で意識を失った。クモ膜嚢胞は、一般的に自覚症状がなく、他の検査で偶然発見されることが多い。元木さんの場合は、それまでに意識障害などの症状もなく、予見可能性も低かったことから、今後の裁判では無罪になる可能性が高いという。
「この度は、まことにご愁傷さまでございました」元木さんと奥さんは、深々と頭を下げる。「失礼します」
「はい。ありがとうございました」
聞くところによると、元木さんは、遺族の方々や被害者たちと、事故後も会っているという。自分のしたことに向き合っているのだろう。もちろん、偽善だ、という人もいる。無罪の可能性が出てきたから余裕をみせている、という人もいる。
正直に言って、僕は顔も見たくない。それが本心だ。けれど、一方で、そんな元木さんを、どこか敬うような気持ちもある。
いつまで、続けるのだろうか。いつまで、続けられるのだろうか。
もう充分ですよ、と誰かが言ってあげなければ、張り詰めたその気持ちを、緩めることができないのではないだろうか。
「元木さん……」僕は彼を呼び止める。
元木さんは、奥さんを先に歩かせ、僕の方を向く。
「あの……」僕はゆっくりと息を吸う。緊張、だろうか。これを言うことは、なんだか勇気がいる。変な話だけれど。「もうすぐ、子供が生まれます」
「あぁ、それは……」元木さんは、そう言うと、表情を崩し、涙を流す。「それは……、本当に……、おめでとうございます……。私がこんなことを言う資格があるとも思えませんが……、本当に……」
「いえ。ありがとうございます」
許すことは、多分出来ない。
これからもずっと。
僕たちはどちらも被害者だ、なんてことも思えないだろう。
でも。
それでも。
僕は、この人と向き合っていこうと思う。
そうすることで、僕も何かを乗り越えられるかもしれないのだ。
「本当に……、本当に……」元木さんは涙を流しながら、頭を下げる。
「いえ」
彼は、そのまま奥さんの元へ戻っていった。
僕はそれを見送り、家族が待つ車へと戻る。
雨が降りそうで降らない、そんな空だった。
4
火葬場で、本当に最後のお別れをする。敷き詰められた花の香りが漂う。みなそれぞれ、千和さんの顔を見ている。
「なんだか、やっぱりちょっと不思議」久遠さんが言う。「これから、火で焼かれちゃうんだね」
「うん」
「……嫌だよ」
「大丈夫……」
僕は彼女の手を握る。
お義父さんが、最後に棺の蓋を閉める。その直前、何かを語りかけているようだった。
火葬が始まると、それまで気丈に振る舞っていたお義父さんが、堰を切ったように 涙を流す。火葬炉の扉が閉められ、これが最後です、と誰かが言った。
台座には、多くの骨が残っていた。年配の方にしては珍しい、と火葬場の職員が言った。これは太ももの骨です、これは腰の骨ですね、と骨壺にそれらを収める。僕たちも順番に、骨を拾う。手が震えていた。でも、しっかりしなくては、と思い、拾い上げる。
斎場へと戻るころには、雨が降り出していた。これから、繰上初七日法要と精進落としだ。運転席に座り、僕は思わず息をつく。
「お疲れ様」助手席の久遠さんが言う。
「え?」
「マスくん、ありがとね」
「いやいや、これくらい当たり前だよ」
「ううん。疲れるでしょう?」
「大丈夫だよ」
と言いつつも、全てが終わり家に帰った頃には、もうクタクタだった。でもそれは、他のみんなも同じで、お義父さんは早々に寝室へ。琴羽ちゃんと莉乃ちゃんはリビングのソファでグッタリしている。
お義母さんが簡単な食事を作ってくれた。食べ終わる頃には、ウトウトしてしまって、ダイニングで意識を失いかける。久遠さんに促されて、僕も入浴を済ませる。あぁ、明日からはまた仕事だ。
お風呂から上がると、リビングから少しだけ賑やかな声が聞こえる。いつも通り、というわけにはいかないけれど、本来の多田羅家の雰囲気は、遠からず戻ってくるだろう。
廊下をウロウロしていると、お義父さんに話しかける。
「ちょっと出ないか?」
「また、首都高ですか?」
「いやいや」お義父さんは笑う。「ベランダにでも出よう」
蒸し暑さもなく、夜のひんやりとした空気が漂っている。
「ちょっと冷えるかもな」
「カーディガン着てきました」
「それが良い」
お義父さんは柵に背中を預け、空を見ている。
「まだ曇ってるな」
「そうですね。音は聞こえなさそうですね」
「音?」
「星の音です」
「あぁ、お袋か。そんなこと、俺にも言っていたよ」
「あの……、なんていうか、この度は……」
「あー、そういうのもう良いよ。さすがに俺も疲れたわ。それより、どうだ、これ」お義父さんはポケットから、封の切られたハイライトを取り出す。「ずっとやめてたんだけどな。吸うかい?」
「はい。いただきます」
火をつけてもらい、一口吸う。
「なんでか判らないけれど、帰り道に買っちまった」
「いつ吸っていたんですか?」
「もう十年以上前だよ。君は?」
「高校生のころ、少しだけ」
「不良だなぁ」
「若気の至りってやつです」
「そうか」
二本の煙が、夜に消えていく。灰になって、こぼれていく。
「親父がさ、音楽が好きでね」お義父さんは、二本目のタバコに火をつける。「暇さえあれば、部屋でレコードを聴いていた。昔の洋楽やらジャズやら。俺は全然興味が湧かなかったけど」
「そういえば、千和さんの部屋に、まだ少しありますね」
「あぁ。お袋も、昔はそんな感じはなかったんだけど、親父が死んでからはたまに聞いていたみたいだな」
「はい」
「俺、知らなかったんだよ。親父が若い頃、ジャズのピアニストやってこと」
「え、そうなんですか?」
「そう。出会いも、どっかのジャズバーだったらしい」
「なんかピアノのことで昔、揉めたって」
「そうそう。あんときは参ったよ」
「そのピアノ、どこにあるんですか?」
「一階にあるよ」
「え?」
「奥の部屋だ。そこに隠してある。灯台下暗しってやつだな」
「あぁ~、なるほど」
「そうだ、君、弾けるだろう?」
「あ、いや……、まぁ……、少しなら」
「ちょっと弾いてみてくれよ」
「良いんですか?」
「あぁ、頼むよ」
その部屋の奥にあったのは、一台のアップライトピアノだった。こげ茶の木目が綺麗で、古さを感じさせない。蓋を開け、鍵盤に指を置く。適当に鳴らし、意外にも調律が整っていることに驚く。さて、何を弾こうかと、考える。でも、自然と指が動く。
ベイビーバレットの『ナイトフォール』。左手でコードを押さえ、右手でメロディを弾く。音を紡ぐうちに、勘が戻ってくる。もともとピアノは、あまり得意じゃない。左手も、思うようには動かない。けれど、このピアノのおかげで、なんとか弾けるような気になってくる。
『濡れた睫毛を
少しずつ開いたら
僕の願いを聞いてくれないか
日が暮れる前に
絡まった孤独が
今日も包まっているよ
お願いだから最後にしてくれないか
夜が落ちてきてしまう前に
もしかしたら
来週か再来週には、
僕の名前を忘れてしまっているかもね
でもきっと、どうせ戻ってくるんだよ
そこは水浸しだから
だから、神様 神様 神様
僕の願いを聞いてくれないか
この夜が、落ちてきてしまう前に』
振り返ると、家族全員がそこにいた。
僕の家族たち。
ピアノの蓋を、そっと閉じて、僕は彼らのもとに向かった。
5
あれから一週間。普段の生活が戻り始めている。いつも通りの日々だ。と、言いたいところだけれど、僕の職場は大混乱だった。新人のちょっとした確認ミスというか、連絡の行き違いから始まり、それをリカバーするための対応に追われていた。終電の時間を過ぎても、それは終わらず、責任者の扇田さんの指示のもと、僕ともう三人の社員が会社に泊りがけで対応する。
明け方くらいに、ようやく落ち着き、僕らはラウンジで徹夜明けのコーヒーを飲んでいた。
「本当にすみません……」ミスをした新人が頭を下げる。
「まぁ、良い。気にするな」扇田さんは、ネクタイを緩めて言う。「あれは仕方がないよ。そもそも、企画部がさ、良い加減なんだよ……」
それから扇田さんは、三年くらい前にもあった修羅場の話をする。今回の件に負けずとも劣らずなその内容に、僕らは背筋が凍りつく。本当に、なにはともあれ、事なきを得て良かった、と僕らは胸をなでおろした。
簡単に片付けを終えて、帰路につく。今日はこのまま休みにして良いらしい。やったー、と僕らは喜ぶが、扇田さんは、夕方また出勤するという。うぅ、申し訳ありません。
会社を出て、駅に向かうと、続々と出勤する人々が歩いてくる。その流れに逆らうように、僕は歩いていく。何人もの人とすれ違う。時折、肩がぶつかりそうになりながら。
ジャケットの内ポケットから時計を取り出して、時間を見る。まだ、いや、もう午前八時だ。死ぬほど眠い。帰ったら、有無を言わさず寝まくってやる!
——お葬式の一週間前。僕と久遠さんが新潟に行く、前の日。
「ちょっと、あんた手伝っておくれ」
散歩に出かけようとした僕は、千和さんに呼び止められる。
「はい。どうしました?」
「レコードを聴こうと思ったんだけれどね、随分と奥に仕舞い込んじまったみたいでね」
「了解です。お取りしましょう」
「悪いねぇ」
「いえいえ」
押入れの上の棚の、そのまた奥に何枚もレコードが入ったダンボール箱があった。けっこうな重量だ。レコードって何十枚もあると、やはり重い。そういえば、某シティポップの大御所も、溜め込んだレコードの重みで床が抜けて、奥さんに叱られたらしい。まぁ、その奥さんもミュージシャンなんだけれど。
「おぉ、これは……」そのダンボール箱に入っていたのはジャスのレコードだった。ロックが専門の僕には判らないものも多いが、有名なものもある。チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズ。「ジャズも聴くんですね」
「もともとはジャズファンだったんだよ」千和さんは、一枚のレコードを抜き取る。「これをかけておくれ」
「はい」
手渡されたのは、ビル・エヴァンスの『アンダーカレント』だ。水面に漂う白いワンピースを着た女性が、ジャケットには描かれている。跳ねるピアノのビートに、粘っこいギターが絡まる。
「これ、貰ってくれないか」千和さんがそう言って取り出したのは、古びた懐中時計だった。
「これって……」
「あぁ。まだ動いている。じいさんの時計だよ」
「いえ、そんな……。頂けません」
「良いんだよ。そもそも男物だしね」
「でも……」
「私の代わりに、メンテナンスをしろって言ってんだ。たまには年寄りのわがままに付き合ったって、罰当たりゃしないよ」
「はぁ……」
「時計屋を探せば、まだ診てくれるところもあるだろう」
「はい。ありがとうございます」
「手入れをすれば、まだちゃんと動くよ」
千和さんは僕にそれを手渡すと、座椅子にもたれ掛かって目を閉じた。一曲目のスリリングな演奏とは打って変わって、落ち着いた雰囲気のバラードが流れている。タイトル通り、低いところを流れる、水のようだ。
——その時計は、今も僕の胸の中で、止まることなく、時を数えている。
流れくる人々の波に逆流しながら歩く。赤信号の交差点で立ち止まり、ポケットに時計をしまうと、ふと視線に気づく。
反対側の歩道。
誰かが立っている。
僕を見ている。
信号が変わり、歩き出す。
誰だ。
見覚えがある。
五十代手前くらいの、女性。
そうだ、思い出した。
元木さんの奥さんだ。
偶然だろうか。少しだけ気味が悪い。僕は軽く会釈をして通り過ぎる事にする。
「あの……、渡良木さん」
「え、はい……」
すれ違いざまに呼び止められる。彼女の声は、心なしか震えている。
「主人は病気でした……」彼女が言う。街の喧騒に消え入りそうな細い声なのに、トレブルをブーストしたような、突き刺すような高音が、耳に届く。
「……はい」僕は、そう答える。
「なのに……」彼女の視線は、僕を見ているようで見ていない。僕を通り過ぎて、遥か遠くを見ているような、虚ろな目だ。「どうしてなのですか?」
何がだろう? 言っている意味が判らない。
会話の焦点が合わないまま、彼女が近づいてくる。
「あの人を、もうこれ以上苦しめないでください」
「え?」
膝に力が入らなくなり、仰向けに倒れる。アレ? これ、なんだっけ? えっと? なんだっけ? なんだっけ? なんだっけ?
『痛みだよ』
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
痛い!
「これ以上、主人を、追い詰めないで、ください……」
「いや、何を……」
だめだ。痛い。痛すぎる。
「あの日! あのお葬式の日ィ! 主人は泣きながら! 私のところに戻ってきました!」
そうか、こんな風に血が出るのだな。体が重い。元インディミュージシャンは、今やブラッディ会社員だ。笑えない。ダサすぎる。
薄れていく意識の中で見上げた彼女の顔は、逆光だ。
けれど、悲しげでもあり無表情な、その鬼のような形相が、僕にはよく見える。
彼女が、ゆっくりと息を吸うのが判る。
僕は、刺されたお腹を抑えることしかできない。
視線が合う。
きっと、目を刺される。
そう思った。
彼女は、僕の目を刺すだろう。
クソ、こんなところで……。
あぁ……。
ごめんね、久遠さん。
ごめんね。
つづく
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