第10話「I Am The Resurrection」
1
喧騒と熱気が渦巻いている。高らかに歌われる歌詞とメロディ。オーディエンスによる大合唱。これだ。これなのだ。ベイビーバレットのライブのハイライト。ウェンブリー・スタジアムが一つになる。ボーカルのサム・ビーディが満足そうな表情を観客に向けたあと、フィル・オースターの弾くピアノが、バックのストリングスと混ざり合い、切ないアルペジオを残して、曲が終わる。
鳥肌が立っていた。これは、ベイビーバレットの伝説のライブだ。ビデオテープが擦り切れるまで、何度も何度も見た、あの光景だ。でも、と思う。これはきっと夢だ。彼らの演奏に湧き上がる観客の熱気、スピーカーを通して伝わる音の振動、曲間の僅かなノイズ。それらが全て、確かに本物のように感じられる。きっと、僕も僕なりに場数を踏んだからだろう。小さなライブハウスから1000人キャパのホール、野外フェスのステージまで。それらの記憶が、この会場を再現しているのだろう。
いい夢だ、と思う。それと同時に、少しだけ苦笑してしまうのは、なんというか、残酷だな、と思うからで。
いまさらこんな光景を僕に見せて、何がしたいのだろう。いや、これを見せているのは僕自身か。僕自身の……、なんだろう? 願望だろうか。
ふと隣をみると、イギリス人たちに混じって、日本人の少年がいた。彼もまた、僕と同じように、目の前の光景に感動しているようで、茫然と立ち尽くしたまま、ステージを眺めていた。
観客たちは、必死にアンコールをしている。大丈夫、心配しなくてもアンコールはやるよ、と僕は可笑しくなってしまう。そう、このあとは、ニール・ヤングのカバーだ。
その少年も、ハッと我に帰り、熱い視線を送りながらアンコールを叫んでいた。しばらくその様子を眺めていたけれど、僕も声を上げる。予定調和でわざとらしいアンコールはいらないのだ。
カバー曲のあと、アルバム未収録曲の『ユーフォリア』が演奏され、この日のライブは終了する。順々に会場をあとにする観客たち。みなそれぞれに、満足げな表情を浮かべている。あの少年は、静かに泣いているようだった。いや、涙など流してはいない。彼は何かを決心したようだった。そう、覚えている。彼は、昔の僕だ。僕は、あの日、このライブをビデオで観て、そして、ギターを始めたのだ。
2
いつの間にか、真っ暗な空間に一人立っている。まだ夢か。いい加減、目覚めたいんだけれど。
『本当に?』
誰かが言う。
久しぶりだな。
『あなたが目覚めないのは、目覚めたくないからでしょ?』
いや、違う。
そうじゃない。
『じゃあ、なぜ?』
なぜだろう。
でも君も、その理由を知っているはずだよ。
『ここにいれば、ぼくとずっと一緒にいられるんだよ?』
今となっては、それも良いかもしれない。
少しだけ、そう思う。
それは本心だ。
君を残していくことに、未練のような感情は確かにある。
『でも、行くんだね』
そうだね。
僕にはまだやるべきことがあるし、
見たいものも沢山ある。
あっちには、
一緒にいたい人たち、
一緒に生きていきたい人たちが、
たくさんいるんだ。
『それならよかった』
本当にごめん。
君を残していくのは、
本当に心苦しい。
悲しいし、申し訳ない。
『あやまらないで』
そう。
君の言う通りなのかもしれない。
謝るべきじゃないのかもしれない。
『みんなをよろしくね』
うん。
ありがとう。
天井から光が射す。
水の中のように、僕はその方向へ手足をばたつかせながら向かう。
目が眩む。真っ白で何も見えない。
でも、早く早く、と僕は進む。
「やっと来ましたね、お義兄ちゃん」
光の先には、琴羽ちゃんがいた。
「あれ? こういうのって普通さ、久遠さんが現れるんじゃないの?」
「そんなこといわれても……」
「夢のくせに気が利かないなぁ」
「ちょっと、ひどくないですか、それ」
「いや、ごめん。でもさ、なんていうの? 大事な場面じゃない。自分で言うのもなんだけれど、困難を乗り越えて、自分を待ってくれている人のところに戻る! そういうシーンじゃん。そこにどうして自分の奥さんの妹がいるのさ」
「知りませんよ。これは、お義兄ちゃんの夢なんだから」
「あ、そうか」
「お姉ちゃんは今大変でしょう? もうすぐ子供が生まれるっていうのに、旦那さんが刺されて入院しちゃうし」
「いやぁ、面目ない」
「だから、代わりに私が出てきたの」琴羽ちゃんは、悪戯っぽく笑う。「それに、なんだか出番少なかったし」
「え、何?」よく聞こえなかった。
「浮気現場を目撃して、それで出番が終わりなんて……。『義妹は見た!』的な?」
「いや、浮気じゃないし」
「そうですね」
「うん」
うわぁ。なんか微妙な雰囲気。しーんとした。
夢の中でまで、こんな気まずい空気を味わうとは思わなんだ。
「もうすぐ朝です。さあ、目覚めましょう」
「判ってるよ」
「今日がなんの日か覚えていますか?」
「えっと……?」
「あれ、本当は目覚めたくない?」
「そんなことはないってば」
「今日は退院の日ですよ」
「そうだった。退屈な入院生活が、やっと終わるのか」
「退屈な日常生活に逆戻りですね」
「そんなことはないよ」
「本当に? 奥さんの家族と同居しているのに?」
「本当に。みんなで暮らすのは、楽しい。幸せだよ」
「なら良かったです。こんなこと、お姉ちゃんは聞きづらいでしょうね」
「そうだね。あ、だから琴羽ちゃんだったのかな」
「そうかもしれないですね。さぁ、朝です」
「うん。ありがとう」
さあ、夢は終わりだ。
他に何か、言い忘れたことはないかな。
まぁ、良いか。
僕は生まれ変わる、なんていうと大げさかな。
多分、あまり変わらないだろう。
変わる必要も感じない。
でも。
夢は終わりなのだ。
3
退院して八週間。リハビリを経て、なんとか松葉杖なしで歩けるようになった。僕は職場に復帰する。久しぶりに座る自分のデスク。あぁ、仕事ってどうするんだっけ?
「まぁ、復帰初日だ。焦らずに」と、扇田さんが声をかけてくれる。
「ありがとうございます」
さっとメールチェックを済ませた後、僕のいない間に行われていたことの引き継ぎを受ける。新人の穴野くんが、資料を片手に説明をしてくれる。
「……ですから、今回クライアントには……。あの、渡良木さん、聞いてます?」
「あ、ごめん。なんていうか、その……」
「なんです?」
「すごいね。たった二ヶ月なのに。頼もしいよ。って、偉そうでごめん」
「渡良木さんがいない間、結構大変だったんですよ?」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないですよぅ。僕、あの日以来、結構ヒヤヒヤしながら仕事してるんですから」
「ハハハ」そういえば入院前、彼のちょっとしたミスでそれはもう地獄のようなデスマーチが繰り広げられたのだった。「イテテ……」
「大丈夫ですか?」
「君が笑わせるから、傷口が開いちゃったかも……」
「え?」
オフィスが一瞬、しーんとなる。あ、やべ……。
「う、嘘だよ。もうちゃんと治ってるから……」
「ちょっと、驚かさないでくださいよ……」
「ごめんごめん」
そんな感じに、復帰初日は終わり、仕事自体が忙しくなってきたことも相まって、僕は僕の日常を取り戻していった。職場と家の往復の日々。休みの日には、久遠さんと近場を散歩する。緩やかな波の上を漂っていくような日々。
アイツは現れなくなった。余計なことを考えている暇がないほど、仕事が重かったこともあるかもしれない。
抱えていた案件がひと段落つき、久々に定時に上がれたある日、帰り道でKUWA=GATAのデカいポスターを見かけた。渋谷のタワレコが猛プッシュしている。朝は気がつかなかったな。アルバムのタイトルは『ファンシィ・ショートケイクス』で、そのポスターには、よくお笑い芸人の人たちがやるパイ投げのあとように、顔面がクリームまみれのメンバーたちが写っていた。おいおい、ワールドミュージックはどうなったんだよ、と苦笑しつつも、これはこれでなかなかセンスの良い写真で、僕はなんとなく、良かったな、と思う。何がだろう? 判らない。でも、聴いてみても良いかな、なんて思っている。
そういえば、新品のCDなんて、最近は全然買っていないな。いま何が流行っているのかも判らない。久々に、ちょっと覗いていくか、と店内に入りかけるけれど、やめる。
早く帰ろう。近頃の久遠さんは、お菓子ばっかり食べている。急にアレが食べたい、コレが食べたいと子供のようなワガママを言ったりしている。お腹もどんどん大きくなっている。いよいよだ、と僕でも思う。そう、いよいよなのだ。
4
夜中、目をさますと、久遠さんが泣いている。泣いているというより、泣き叫んでいる。
「益一郎くん! どうしよう! もう生まれるよ!」
「うん……。大丈夫だよ……」
最近たまにある。週数的には、もういつ産気づいてもおかしくはない。担当の先生と決めた予定日は今週末だ。
「どうしよう……! うわーん!」
「大丈夫。お義母さんたちもいるし。何も心配しなくても良いよ」
期待と不安が入り混じるからだろうか。こんな風に、夜中に突然起きるのだ。泣きだすことが多いけれど、上機嫌なときもある。男の僕には想像することしかできないけれど、自分の身の内に、新たな生命を抱えているというのは、きっとすごいことなのだろう。
いつも突然だから、正直眠すぎて、曖昧に相槌を打つだけのときもある。けれど、僕は、久遠さんの妊娠が、本当に涙が出るほど嬉しかったのだ。だから、こうやって夜中に彼女が起きたときは、付き合うことにした。いや、そうじゃない。こういうときにこそ、お互いが思っていることをきちんと伝え合うのだ。
どちらかといえば聞き役になることが多いけれど、僕も自分の話をする。そうすることで、僕の方にも少しずつ、親になる実感というのが湧いてくる。確かにこれはドキドキする。もう近いうちに、この家に、僕の家族に、もうひとり人間が増えるのだ。人間が、だ! 生活は一変するだろう。もちろん不安もある。けれど、期待の方が、その何万倍も大きい。
この日の久遠さんは、飛び起きたときこそ泣いて混乱していたけれど、次第に落ち着いていき、ぽつぽつと今の心情を話し始めた。僕は彼女の言葉を一言一句、確かめるように聞き、頷く。その話の中に、前の子供の話題が出てきた。あの事故で失った、僕らの子供。久遠さんは、その子のことを、男の子だと言った。
「ちょっと待って。どうして男の子だと思うの?」
「え? 判んない」
「あ、いや、ごめん。あまりにも自然に男の子だって言っていたから」
「そうだよね。あれ、なんでだろう?」
不意に、僕の目から涙が流れた。一粒、二粒と数えていたけれど、いつの間にか止めどなく流れてしまう。
「マスくん? 大丈夫?」
「うん……」そう、あの子は、きっと男の子だったんだ。
僕は以前に見た、夢の話をする。どこか長閑な丘の上に家族でピクニックへ行ったこと。そこで、息子に会ったこと。
久遠さんも涙を流して、僕のその話を聞く。途中から言葉にならなくて、ずっと抱き合いながら、ただ泣いていた。泣き疲れて落ち着いたころ、どういう経緯でそうなったかは僕にも判らないけれど、何故かコーラの話になった。コカ・コーラやペプシ以外にも、コーラと名の付く飲み物があって、そういえばヴァージン・コーラってあったね、などと言い、久遠さんは何それ知らない、と言う。
「なにその怪しいコーラ。ヴァージン?」
「いや、あれだよ。ヴァージンメガストアのヴァージン」
「あ、CD屋さん?」
「そうそう。あとさ、ダイドーのコーラもあったよね」
「あったあった」
「ダイドー・ドリンコのさ……」
「アッハッハッハー」
「え?」
「ドリンコ!」久遠さんはツボに入ったのか、ゲラゲラと笑う。
「えっと……」僕は僕で、突然の大爆笑に、何を話そうとしていたか忘れてしまう。
「はぁ〜、なんか元気出た。ありがとね」
「うん」
「おやすみ〜」
「え、あ、うん……」
久遠さんは二秒後に寝息を立てる。はぁ〜、なんつーか(笑)。
まぁ、いいや。僕も寝よう。
5
いつも通りに会社に着く。でも、そわそわしてしまう。
数日前から、前駆陣痛という予感(?)みたいな陣痛が来ていた。そして今朝もその痛みが出ていて、しかも周期的だったのだ。
「うーん、でもね、全然我慢できるんだよね、まだ。陣痛って、本っっっ当ぅに痛いらしいから」
「そうだよね。じゃあ、まだ大丈夫かな?」
「たぶん。予定日は明後日だし」
「でも、なにかあったら連絡してね」
「うん。ママもいるから」
「じゃあ、行ってきまーす」
などと、出てきたは良いものの、僕がいない間に急変したらどうしよう? もしすぐに病院に行かなくてはいけなくなったら? お義母さんの運転で大丈夫か? いや、タクシーがあるか。あ、でも渋滞していたら? そのときは救急車? うわー! と気になってしまい、マナーモードにしているiPhoneの振動に気づかなかったらどうしようという強迫観念に取りつかれてしまって、しょっちゅう画面を確認するから、午後には充電が50%を切っていた。これはこれでやばい……。
「渡良木さん、朝からそわそわしてますね」と、穴野くんにも心配される始末。
「あのさ、悪いんだけれど、iPhoneの充電器とか持ってる?」
「ありますけど……」
「貸してくれない?」
「良いですけど……」
彼から借りた充電器をデスクのコンセントに挿す。これで充電の心配はなくなった。と、そこで油断してしまう。案の定、夕方からの会議にiPhoneを忘れてしまう。
気が付いたのは、会議が始まってからで、あーどうしよう!?と嫌な汗をかいていた。今なにか緊急の連絡があったら、どうしよう? もう会議どころじゃない! というかさっきから話も全然頭に入ってこない。あぁ! どうしよう? トイレに行くふりをして、こっそり取りに行ってくるか? いやぁ、でもなぁ〜。
「おい、渡良木」
「え、はい」
「そういえば、例のあのクライアントの件はどうなった?」
「え、えっと、あの、その……」
やばい。まずい。なんの話だ……?
「それはですね……」
穴野くんが咄嗟にフォローしてくれる。助かった〜! 今度なんか奢るぜ〜!
無事に会議が終わり、早歩きで自分のデスクに戻る。画面を確認する。よかった、着信はない。はぁ〜、焦った〜! と思ったのもつかの間、ブィーン、と振動しSMSがくる。
『破水したかもしれないので、病院に向かってます』
お義母さんからだった。はぁ、そうですか……。あれ、破水ってなんだっけ? って破水!? マジでか!? と、僕はその場で電話をかけるが久遠さんは出ない。おいおいおいおい! どうなってるんだ?
「渡良木さん?」
「穴野くん、どうしよう? 奥さんが破水したってメールが来たんだけれど、電話に出ないんだよ!」
「誰がですか?」
「奥さんだよ!」
「奥さんが電話に出ないんですか?」
「そうだよ!」
「いや、出ないでしょう? あの、ちょっと冷静になってください」
「え、あ、そうか……」ぼ、僕としたことが……!
そんなわけでお義母さんに電話する。もし破水が確定だったらそのまま入院するとのことで、事前に準備をしていた道具一式を持って、タクシーで病院に向かっているという。
ひとまず安心。扇田さんに事情を話すと、今日はもう良いから帰れ、と言われた。僕はお礼を言い、穴野くんに引き継ぎをして、会社を後にし、タクシーに飛び乗る。
いよいよだ。
いよいよなのだ。
病院に着くと、久遠さんがベッドで寝ていた。点滴のチューブ、背中には麻酔のカテーテル、血圧計、お腹には心音パッドと分娩監視装置、ともうまさに準備万端! という感じ。
「益一郎くん……」
久遠さんが僕に手を伸ばす。不安だろう。僕も同じだ。僕はその手を握り返す。
「あのね、お願いがあるの……」久遠さんが僕を見上げる。
「なに? なんでも言って」僕はこの人のためなら、なんでもする。万難を排し、今日というこの日のためらなら、なんでもするのだ!
「この前話していた、ダイドーのコーラ、飲みたい」
「え?」
「だって、麻酔しちゃったら終わるまで、何も食べられないし飲めないんだって。でも、どうしてもダイドーコーラが飲みたいの」
「えぇ〜」いやいや、もう売っていないんじゃないかな。でも、久遠さんのためだ。「判った」
僕は勢いよく病室を出て、ダイドーコーラを探す。売店にはもちろんない。iPhoneで検索をする。やはり数年前に生産終了しているらしい。でも、類似品が見つかった。あとは、これがどこに売っているのかを突き止めれば! ネットで検索するも、通販ページしかない。チクショー、遂にお急ぎ便を申し込むときがきたのか? それとも駅前まで行けば自動販売機があるだろうか? いや、どうしよう? と、諦めようかと思ったけれど、それどころじゃなくなる。
陣痛が来たのだ。
お義母さんに電話で呼び出され、急いで病室に戻るが、すれ違いで久遠さんは分娩室へ。
「ごめん、ダイドーコーラ、やっぱり売ってなかったよ」
と僕が言うと、
「うん、もういい」と言われ、扉の奥へ。
えっー、てな感じだけれど、まぁ良い。
ベンチに腰掛ける。あとはもう、僕に出来るのは待つことだけだ。無事を祈ろう。
深く息を吸い、目を閉じる。祈りって、何に祈れば良いのだろうか。神様は信じていない。一体どうすれば……? それでも、強く願う。
そして、僕は僕のことを考える。僕のアイツのことを。
退院して以来、アイツは出てきていない。あの夢が最後だ。だから、今回だけは、僕の方から呼んでみようと思う。夢でもなんでもなく、いまここに。
アイツは僕自身で、きっと、あの事故で大切なものを失ってしまった僕の後悔だったのだ。幻覚でも精神異常でもない。僕が僕自身を騙して演じていた、空想の産物。潜在意識、なんていうのも烏滸がましい。
ただただ、グチグチと悩んでいただけなのだ。良い歳をして恥ずかしい。恥ずかしいけれど、もっと自分自身を許せないのが、それに失ったあの子のことを絡めてしまったことだ。自分の後悔に大義名分を与えて、悩むことに甘えてしまった。元木さんたちのことを恨みきれずに、自分で勝手に作った妄想に、その感情をぶつけてしまった。
だから、僕は考える。
とってつけたような、なんの根拠もない妄想にすぎないのかもしれないけれど、考える。僕たちの、僕と久遠さんの子供ということは、二人の遺伝子が組み合わさっているはずなのだ。そして、その遺伝子とは、僕ら二人がこの世に存在し続ける限り、あるのだ。だからこそ、時空を超えて、あの子はここに良いても良いはずだし、そう思うのは僕らの勝手だ。僕らの血と骨の中に、あの子の要素は染み付いていて、現実空間に存在はしていなくても、僕らの中に存在していても良いはずなのだ。
だから、だから、だから……。
君はここにいるよ、と僕は強く思う。もうすぐ妹が生まれようとしているよ、と彼に言ってあげる。君は確かに存在していて、残念なことに生まれてくるとは出来なかったけれど、今でも僕らの中に存在しているんだ。
そして同時に、僕の感情の捌け口となってしまったアイツにも謝る。ごめんね。君のことを嫌いになろうとしたけれど、そんなことは出来なかったよ。
目を開ける。涙が流れていた。とても長い時間、そうしていたようにも思うけれど、時計をみると、まだ三分も経っていない。それでも針は、ゆっくりと時を刻んでいる。
やがて、産声が聞こえてくる。生まれたのだ。あぁ、どうしよう、と僕は思ってしまう。世界は昨日も今日も、そして明日もきっとクソだ。一体どうすれば良い? 不安でいっぱいだった。これから、この子を守っていけるのだろうか。
久遠さんの妊娠を知ったとき、僕は嬉しかった。心からこの子に会いたいと思った。これは僕のエゴだろうか。そうだろう。それ以外の何物でもない。判っていてやっているんだから、始末に負えない。けれど……。
僕は、生まれてきた子と聴きたいアルバムのリストを思い浮かべる。自分の作品はまぁ、置いておくとして、ビートルズやストーンズ、フーにキンクス。まずはUKロックのクラシックは押さえておくべきだろう。それに、オアシス、ブラー、レディオヘッド、パルプらのブリットポップ。マッドチェスター・ムーブメントも忘れてはいけない。ローゼス、ニューオーダー、ハッピー・マンデーズ。アメリカのロックも捨てたもんじゃない。ペイヴメント、ソニックユース、それにニルヴァーナ。なんなら、選曲してプレイリストを作っても良い。僕たちのための、グレイテスト・ヒッツだ。
ベイビーバレットはどうしようかな。僕みたいに、ギターを始めたりなんかしたら大変だ。いや、それはそれで嬉しいけれど、大変は大変だ。この子がバンドマンの彼氏を連れてきたら、どうすれば良いのだろう? 僕は、そのまだ見ぬ彼に、何か言う資格があるのだろうか? 無いんだろうな、きっと。あ〜、どうしよう〜。
そんなことを考えていると、名前を呼ばれる。僕は部屋に入り、透明なプラスティックの寝床にいる、その子を見る。
思わず、背筋が伸びる。緊張している。僕なんかが父親で、ガッカリさせてしまうのではないだろうか。あぁ、でも、これは、あぁ、どうしよう……。
奇跡とか希望とか、そんな言葉では言い表せない。宝物だとか、そういうのとも違う。僕の目には、その子が少しだけ光っているようにも見えた。真っ白な光だ。色が無いのではなく、全ての色が合わさったような、そんな光。
「どう? 感想は?」ベッドに横たわる久遠さんが僕にきく。
「うん。すごい……」
「なにその薄いリアクションは? 頑張って生んだんだよ?」
「いや、うん」僕は赤ちゃんと久遠さんを交互にみる。
「なに? もっと他に言うことはないの?」彼女は苦笑する。
「えっと、そうだな」嬉しさと不安で頭の中がグルグルとしている。「無事に先行シングルがリリースできました。全てはパートナーの久遠さんのおかげです。これから、家族というアルバムを、一所懸命に作り上げていこうと思います」
「なにそれ?」
「いや、所信表明というか。あれ? 結構上手いこと言えたと思ったんだけれど」
「上手くないよ」彼女は笑う。「もう〜、その程度で、そんなドヤ顔されてもな〜」
「え〜、ひどくない?」
「こっちは子供生んだんだよ?」
「大変申し訳ありません」
それから写真を撮り、部屋を出る。いろいろな処置を終えた後、久遠さんは病室に戻り、赤ちゃんは新生児室へ。二人きりの病室で、面会時間が終わるまで、色々なことを話した。ほとんどが取り留めのないものだったけれど、なんとなく二人とも上機嫌というか、鼻先がツンと上を向いているというか、その先には未来がある、というか。
僕は病院を出て、家に帰る。
この日の帰り道のことを、僕はこの先、ときどき思い出す。
僕はこんなことを思っていたのだ。
僕は三十歳で、どう頑張ってもあと五十年くらいしか生きられないだろう。まぁ、それは別に良い。でも同時に、それはあの子と、あと五十年しか一緒にいられない、ということなんだな。長いようで、短い。きっと、あっという間だろう。その間にも、嬉しいことや楽しいこと、もちろん嫌なことも悔しいことも、ちょっとはあるだろう。けれど、僕たちにはもう嬉しいことしか起こらない。いつか、久遠さんが言っていたとおり。そうに違いない。僕らの日々は、そんな風にして、嬉しいことや楽しいことがたくさんあって、あっという間に過ぎていくだろう。
残り少ない日々を、大切に過ごしていかなくては。
そんなことを思ったのです。
6
三歳になった奏は好奇心旺盛で、見たもの聞いたもの、ほとんど全てを僕たちに質問してくる。僕らはそれになるべく真剣に答えてあげていた。幼い子供にも理解できるように、なるべくわかりやすく説明をするけれど、ときどき大人でも答えられないことをきいてくる。
「ねぇ、どうして、すいどうをまわすと、みずがでてくるの?」
「えっ」
どうしてなのだろう? 圧力がかかっていて……? って、こんなのどうやって子供に説明すればいいんだ!?
ちょっとした病気もしたけれど、ここまではすくすくと元気に育ってくれた。この子が生まれてから、まぁ、いろいろあったし、夫婦喧嘩もしたし、毎日ヘトヘトになることもあるけれど、それ以上に喜びの方が大きい。
ある晴れた日の午後、僕らはピクニックに出かけた。ちょうど、僕らが住んでいる街が見渡せる小高い丘で、新緑の季節の気持ちの良い風が吹いていた。ビニールシートを広げて、お昼ご飯を食べることにする。
久遠さんが作ってれたお弁当を食べながら、奏の顔を見る。不器用にサンドイッチを頬張る彼女の顔を眺めると、僕は思わず頬が緩む。
「ねぇ、あっこいきたい」昼食を食べ終えると、奏が指を差す。
「よし、じゃあ行ってみようか」
ふもとには小さな森林があって、小径を進んでいくと開けた場所に出た。そこには木製のベンチとテーブルがある。頭上には大きな木の葉が茂っていて、その隙間から太陽の光が無数に差している。
「きれー」と奏が声を上げる。風で葉っぱが揺れ、テーブルの上に光が踊っている。
「綺麗だね」僕は言う。そして、こんな光景をいつか見たな、と思い出す。
いつ見たのだろうか。僕はしばらく考えて、思い当たる。
揺れる光を手で掬おうとしている奏を抱いて、僕は彼女に話をする。
君が生まれてからの日々のこと。
そして、
僕らの大切な家族のこと。
君の知らない、
君のお兄さんのことを。
一瞬だけ、奏の手の中で、光が跳ねているように見えた。
それが、ふわふわと浮き上がって、僅かに見える空へと消えていく。
隣を見ると、久遠さんもそれを見上げていた。
僕たちは、お互いに目を見合って、笑う。
「はい、おとうさん。これあげる」
「え?」奏が手渡してくれたそれは、何かの木の実のようだった「ありがとう」
「そろそろ帰ろうか」久遠さんは奏を抱っこする。「重い……」
「代わるよ。おいで、奏。肩車の方が良いだろう?」僕はそう言って、左手で握りしめたその木の実をポケットにしまい、彼女を肩車する。
「ねー、かえったら、ほいくえんでならった、おうたうたう?」
「いいね。なんていう歌?」
僕がそうきくと、奏は歌い出す。
たどたどしいけれど、楽しそうに歌っている。
知らない歌だ。
でも良い曲だな。
帰ったら、ギターで弾いてあげようかな、と僕は思う。
うまく弾けるかな。
まぁ、どっちでもいいか。
おわり。
Our Numbered Days 王木亡一朗 @OUKI_Bouichirou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます