第3話「She’s Thunderstorms」


 1



 その日は、雷雨だった。

 前日にやらかしたミスのせいで、僕は取引先がある町田に、上司である扇田さんと訪れていた。完全に僕の確認ミスで、新人とはいえ、こういった相手の信頼を失うようなことは許されないだろう。幸い、先方の好意でなんとか収まったが、僕はこっぴどく叱られた。

 駅までの道のりを、扇田さんの背中を追いながらトボトボと歩く。完全にしょげていた。

「おい」扇田さんが立ち止まり、僕の方を向く。「そう落ち込むな。ミスは誰にでもある」

「はい……」と、言われても、ついさっき先方の前で、叱られたばかりなのだ。ヘラヘラしているわけにもいかないだろう。

「あのなぁ、まぁ反省しても気にするなよ。それにさっきのは半分はパフォーマンスだ」

「はい。すみません」そう。扇田さんが鬼のように僕を叱ったのは、先方に対するパフォーマンス。僕の上司である扇田さんがあれだけ怒ってしまうと、先方もなにも言えなくなる。愛の鞭というか、社会人の駆け引きというか。それは重々理解しているつもりだ。でも、僕が凹んでいるのは、自分がこんな簡単なミスをしてしまったことについてなのだ。入社して早一年。正直、油断していたというか調子に乗っていたというか。これまでトントン拍子で仕事を進めてきたので、少しばかりナメていた節がある。そのツケが、今回のミスなのだろう。

「まぁ元気出せ。いいか? ミスをしたら、落ち込む前にリカバーしろ。これは仕事だ」

「はい」

 そうだ。その通りだ。僕は会社に戻ってからのToDoリストを頭の中に展開する。

「なんだか降りそうだな」扇田さんが言う。

 僕も空を見上げる。遠くの空に黒い雲が見える。確かに一雨来そうだ。

「傘持ってるか?」

「あ、折りたたみなら」

 とりあえず早歩きで町田の駅まで向かう。JR側のこちらにはラブホテルがいくつかある。カップルもチラホラ見かける。ったく! こっちがどんな思いで……。と思うけれど、ハッキリ行ってお門違いだろう。パラパラと降り出してくる。

「おい、急ぐぞ」

「はい」走り出した扇田さんを追う。「ん?」

 ラブホ街の方から、女子高生が出てくる。後ろから、黒い男物の傘をさした男も出てくる。なんだ? 援助交際か? まったくけしからんな。昼間というか夕方から。って、アレ? え? いや……、え?

「嘘だろ?」僕は思わず立ち止まる。雨が強くなっていく。

「おい、渡良木!」

 扇田さんに呼ばれて、僕は我に帰る。急いでカバンの中から折り畳み傘を出し、駅まで走る。

 駅に着く頃には、若干息が切れていた。歳かな、と思いながら息を整える。雨は土砂降りになり、雷の音も聞こえる。

「けっこう雨強いな。遅延するかもしれないから、さっさといくぞ」

「はい」

 やってきた急行に乗る。つり革につかまりながら、さっき見た光景を思い出す。


 アレは多分、莉乃ちゃんだ。

 莉乃ちゃんがラブホから出てきた。

 しかも一緒にいた男、明らかに同年代じゃない。


「雷雨だな」車窓の外を見ながら、扇田さんが言う。


 そう、その日は雷雨だった。



 2



 会社に戻ってからも、町田で見た光景を忘れられなかった。でも、仕事をミスるわけにはいかないので、一旦頭の片隅にやる。けれど、ちらちらと意識の真ん中に現れる。

 あれは本当に莉乃ちゃんだったのだろうか。同じ制服だっただけで、違う少女だったのかもしれない。僕ももう三十歳だ。若者が一緒くたに見えてしまっても不思議ではない。悲しいけれど。


 いや、しかし。


 そうはいっても、もう一ヶ月以上一緒に暮している家族なのだ。見間違えるはずがない。それに、莉乃ちゃんは、ここ最近帰りが遅い。ついこの前も、深夜に駅まで迎えに行ったばかりじゃないか。そういえばあのとき、誰かが一緒にいた。同年代の男の子に見えたけれど、違ったのだろうか。暗くてよく見えなかったから? いや、どうだろう。けれど、今日一緒にいたのは三十代か四十代くらいの男だ。しかも町田のラブホ街。うぅ、マジで援助交際か? っていうか今時そんなの本当にあるのかよ。リアルトーキョー。あぁ、如何わしい想像が膨らんでしまう。なんでだ? 多田羅家って、別に貧乏じゃないじゃん。なんなら金持ちじゃん。少なくとも、僕の高校時代よりは確実に裕福だ。あぁ! そういえば最近JKビジネスが問題になっているとかニュースでやっていたな。JKお散歩、JKリフレ、果ては折り鶴を折る所を観察するJK作業所! まさかとは思うけれど、そういったことに手を染めてしまっているのか? あっぁぁぁぁぁ! 僕はどうすればいいんだ!?

「おい、渡良木。顛末書、出来たか?」

「あ、はい。今、送ります」クッソ。今は仕事だ。仕事仕事仕事。


 ちょっと待て。


 僕、このこと誰に相談すればいいのだろう?

 お義母さん? いや、卒倒してしまうだろう。あの人は良くも悪くも世間知らずというか(お前が言うな感はあるが)、世間擦れしていない人だからな。お義父さん? いや、言いにくい。やっぱり久遠さんが順当なところだろうか。いきなり親だとマズいから、そこは長女にワンクッション入ってもらって……。いや、どうかな。大丈夫かな。あぁ!あぁ!あぁ! どうしようどうしようどうしよう!


 いや、そうだ。まずは……。


 本人に確認するしかない。もしかしたら、本当に見間違いかもしれないのだ。


「おい、渡良木! 顛末書!」扇田さんに怒鳴られる。

「あ、はい。すみません」ワードのファイルを添付して送る。

 雨は激しさを増していた。



 3



 家に帰り、莉乃ちゃんの帰宅を待つ。しかし、夕食の時間になっても帰ってこない。僕と久遠さん、お義母さんと琴羽ちゃんでトンカツを食べる。

「パパ、今日も仕事?」琴羽ちゃんがつぶやく。

「どうせ今日も呑んでくるんでしょ」お義母さんが呆れたように言う。

「パパ、本当にお酒好きだよね」久遠さんもお義母さんに同調する。

 お義父さんは、ほぼ毎日遅くに帰ってくる。残業というよりかは、付き合いが多いらしい。大手外資系の企業に勤めているらしいが、詳しい仕事内容を僕は知らない。前に一度、話してもらったことがあるが、よく判らなかった。

「それにしても、あの子ったら」お義母さんは乱暴に携帯電話をテーブルに置く。

「莉乃、また連絡つかないの」琴羽ちゃんが言う。

「まったく毎日毎日どこをほっつき歩いてるのやら」

 僕は一瞬ドキリとして、ご飯を喉に詰まらせる。

「大丈夫?」久遠さんが麦茶を手渡してくれる。

「……うん。ありがとう」僕はそれを一気に飲み干す。

「そういえばね……」久遠さんが誰にともなく言う。「この前、莉乃を迎えに行ったとき、男の子と一緒だったんだよね」

「え? 彼氏かな」

「どうだろう。すぐどこかに行っちゃったから」

「えぇ! どんな子だった? イケメン?」

「いや、暗かったから」

「まったく。恋愛なんてしてる場合じゃないでしょ。来年は受験だってあるんだから」お義母さんは言う。

「でも、あの子、大学行かないんでしょ」琴羽ちゃんはトンカツを頬張る。

「そんなことは許しません」

「別にいいじゃん行きたくないんなら」

「パパはなんて言ってるの?」

 女性三人のかしましい会話が続く。僕は黙って食べる。そのうちに、三人はテレビに夢中になり、他愛もない会話になる。でもお義母さんはときどき携帯電話を手にとって、莉乃ちゃんにメールをしているようだった。

 僕は夕食を食べ終え、食器を流しに出して、部屋に向かう。

 ベッドに横たわりながら、本を読もうとするけれど全然集中できない。というか、莉乃ちゃんが帰ってきたとして、どうやって話を切り出そうか。「莉乃ちゃん、今日ラブホにいた? 町田の」とか間違っても言えない。そもそもこの家のどこでそんな話をするべきなのだろうか。

「うわぁぁぁぁ」枕を抱えてのたうち回る。

「なにやってるの?」部屋に入ってきた久遠さんに、恥ずかしい姿を見られる。

「いや、別に」

「あのさ、なんか今日、益一郎くん変じゃない?」

「え?」

「帰ってきてから、ずっとそわそわしてるし」

「いや、そんなことは……」み、見抜かれている!?

「うーん? なんか怪しいな? こら! 隠し事は無しだよ」

「なんにも隠してなんかないよ……?」

「本当に〜?」久遠さんはベッドに横たわる僕に覆い被さってきて、脇をくすぐる。「こら! 言いなさい! 何を隠しているの?」

「いや、ちょ、やめ……、いや〜ん」思わず変な声が出てしまう。

 ひとしきりじゃれ合う。僕がマウントを取り返すと、目が合う。思わず僕はキスをした。

「まだ、みんな起きてるよ」久遠さんが言う。

「判ってるよ」

 もう一度、キスをする。確かにまだ時間は早い。でもこういうのは雰囲気が大事だし。久々に……。と、思ったところで、携帯電話がなる。コンニャロー! 誰だ!? いいところだったのに邪魔しやがって!!!

「もしもし?」久遠さんが電話に出る。「はぁ? また? あんた良い加減にしなよ」

 強い口調で話している。「とにかく判ったから!」そう言って電話を切る。

「誰だった?」

「莉乃。また迎えに来いってさ。もう一人で帰れないんなら、早く帰れば良いのに」

「僕が行こうか?」これは、チャンスかもしれない。

「え、いいよ」

「いや、僕が行くよ。やっぱ男が行ったほうが何かと安心でしょ」

「うん。でも……」

「あと、ほら、こっちに住んでから、僕、家事とか全然手伝ってないじゃん」

「だって、ママがやるし、私も家にいるから」

「そうだけどさ。一応、僕は住まわせてもらってる身だから。少しくらい役に立たせてよ」

「そう? じゃあ、お願いしようかな」

「了解しました〜」

 僕は靴を履き家を出る。

 ふう。どのみち家の中じゃ話は聞けない。ちょうど良かった。



 4



 駅に着くと、ケータイをいじっている莉乃ちゃんを見つけた。僕はゆっくりと近づいて声をかける。

「お待たせ」

「あれ、お姉ちゃんは?」

「夜だからね。僕が来たよ。ダメだったかな」

「ううん。ありがとう」

「じゃあ、帰ろうか」

「うん」

 微妙な距離感。僕が先行して歩く。ときどき、後ろを振り返りながら。

 駅前を抜けると、街灯の少ない暗い道になる。比較的、車が多い大通りはまだ良いけれど、確かに住宅街に入ると、女性一人では心細いだろう。

「莉乃ちゃん」僕は、半分だけ振り返る。「どうして、こんなに夜遅くなるの?」

「別に……」

「他人が聞いても良いかな」

「え、うん。あの……」莉乃ちゃんは立ち止まる。「この前はごめんなさい」

「いや、良いよ」

「益一郎さんって、バンドやってたんですよね」

「え、うん。まぁ」ん?

「私の彼氏も、その、バンドをやっていて」

「え? あ、そうなの?」

「ライブとか見に行ったり、彼、バイトもしてるから、終わるのを待っていると、遅くなっちゃって」

「あぁ、そういうこと。彼氏って、この前、駅で一緒にいた人?」

「はい。同級生なんですけど」

「なるほどねぇ」いや、待て。じゃあ、今日の昼間、僕が見たのはなんだったんだ?「あのさ、もしかしたら人違いかもしれないんだけれど……」

「はい」

「今日さ、その……、町田に、いた?」

「え?」

「僕、偶然仕事で町田にいて、莉乃ちゃんに似た人を見たんだ。その……」暗い夜道だから、彼女の表情はよく見えない。「ラブホテル街のあたりというか」

「え、いや、え、やだぁ」

「一緒にいた人、彼氏じゃないよね?」

「はい。あの、えっと、あの人は、学校の先生で……」

「え?」何? あれ? え? 進路指導的な? ラブホで? 生活指導?「あの、莉乃ちゃん、大学進学しないんだって?」

「はい?」

「あ、いや。久遠さんから、ちょっと聞いて……」

「あ、それはそうなんですけど」

「あ、え、あの……」やばい。会話がグダグダしている。えっと、なんの話だったっけ。「学校の先生と、その、そういうところにいたの?」

「いや、違います!!!」彼女の声が大きくなる。「それは違います。その、彼氏と一緒にいるところを呼び止められて。学校、サボっていたから」

「あ、え?」

「え? あの、変な想像してました?」

「いや、そういうんじゃないんだけれど……」

「あ、つまり……」

「彼が、いろいろ悩んでいて」

「あ、あぁ、そうか、なるほどなるほど」何がだ? でも、援助交際的なのは僕の勘違いだったか。「と、とにかく、彼氏の悩み相談に付き合っているから、最近帰りが遅いんだね?」

「えっと、まぁ、そうですね」


 沈黙。


 つまり整理すると、莉乃ちゃんに同級生のバンドマンの彼氏がいて、彼のライブやバイト終わりを待っているから、帰りが遅くなると。そんで、今日僕が見たのは、つまりは勘違いで、えっと……、それで、どうすりゃいいんだ?

「でもさ、その、事情は判ったけれど、高校生の女の子が、遅く帰るのは、あんまり良くないんじゃないかな。その、なんていうか、お義母さんも心配しているし」

「うん。それは判ってるんだけど。あの、益一郎さん」

「ん?」

「益一郎さんって、大学行ってないですよね」

「え、うん」

「どうして行かなかったんですか」

「うーん。まぁ、理由はいろいろとあるよ。まず、家にお金がなかった」

「経済的な理由?」

「そう。母子家庭だったからね。まぁ、その気になれば、奨学金とか、やりようはあったんだろうけど。まぁ、僕もさ、高校生のときからバンドやっていて。若気の至りというか、ちょっとトンガっていたっていうか。さっさと上京して、バイトしながらバンドやりたかったってのもあるかな」

「お母さんはなんて言ってたんですか?」

「進学しないことについて? うーん、なんて言っていたかな。特に何も言われなかったかな。だから、僕にとっても都合が良かったよ。家にお金が無くて進学できないってことが。気兼ね無くバンド活動できるからね。それにさ、ロックバンドやってるのに、大学行ってるとか、当時はカッコ悪いって思ってたしね」

「そうなんですか?」

「そう。僕が聴いてたイギリスのバンドはさ、大体がワーキングクラスっていって、労働者階級出身の人たちばかりだったんだ。ビートルズとかオアシスとか。その上の階級のバンドもいるにはいるけれど、ブラーみたいな中産階級のバンドは、ぼっちゃんバンドみたいな言われ方もしていたし」

「あ、それ、彼氏もなんか言ってました。大学出のおぼっちゃまとか、『ザ・専門学校出身!』みたいなバンドはダサいって」

「ハハハ。なるほどね」

「可笑しいですよね」

「いや、僕も似たようなこと思っていたときはあるよ。今となっては浅はかな考えだけどね」

「後悔はしている?」

「してるよ」

「え、そうなんですか」

「うん。まぁ、少しね。まぁでも、ないものねだりみたいなものかな。大人になってからは、大学で勉強できるって、良いことだなって思うよ」

「彼も、進学しないで、バンドをやるって言ってました」

「そうなんだ。まぁ、それはそれで良いんじゃないかな。でも……」僕は息を吸って、彼女の方を向く。「それで莉乃ちゃんが進学しないってのは、違うんじゃないかな」

「え?」

「だって、自分の人生でしょ。そんな風にして、誰かに合わせるのって、違うんじゃないかな」

「そうじゃないの」

「え、まぁ、その……」

 家の前に着く。玄関の明かりが点いていて、人影が見える。お義母さんだろうか。僕はドアを開けて、莉乃ちゃんを通す。



 5



「莉乃!!!」お義母さんだった。「あんた、ちょっとこっちに来なさい!!!」

「なに? お説教?」

 おっと、これはまずい。まぁまぁ、今日のところは……、と僕は間に入る。

「益一郎さん。迎えに行ってくれたことは感謝しますけれど、ちょっと黙っていて」

「はい……」

「莉乃。今日、学校サボったんですってね。先生から連絡があったわよ」

「それが?」

「あんた、来年は受験生なのよ」

「私、大学行かないし!」

「何を言っているの!? そんなこと許しません」

「行かないったら行かない!」

「もう。どうしてなの。久遠も琴羽もこんなことはなかったのに」

「お姉ちゃんたちみたいに、お利口さんじゃなくて悪かったね! もういいっ!!!」

「ちょっと待ちなさい」

 莉乃ちゃんは階段を駆け上がり、自分の部屋に入る。

「ちょっと、何騒いでるの?」琴羽ちゃんだ。「夜中にうるさいよ。おばあちゃん起きちゃうよ」

 玄関のすぐ隣は、千和さんの部屋だ。というか、もう起こしてしまっただろう。僕は、一言お詫びを入れるか迷うが、お義母さんに付いて二階へ向かう。

 リビングに入り、僕とお義母さんはソファに座る。

「はぁ。もう、あの子……」お義母さんはため息をつく。

「はい」久遠さんがコーヒーを淹れてくれる。「おかえりなさい」

「ただいま。ありがとう」僕はそれを一口飲む。ちょっとだけ落ち着いてくる。

 思春期の子供は難しい。僕は、昔を思い出していた。なんだか懐かしい。僕も、高校に入ってから、夜遊びや朝帰りを繰り返していた。まだバンドを始める前で、時間やパワーを持て余していた。それに、ジョン・レノンやノエル・ギャラガーが、地元では札付きのワルだったという逸話を知って、不良に憧れてもいた。

 高校一年生。誕生日が早い連中は原付の免許を取ったりしていた。東京と違って、新潟は田舎だから、店とかは全然ないんだけれど、あても無く原付や自転車で走り回ったり、お酒を飲んだり、タバコを吸ったり。よくある話だ。朝まで、ただただ駄弁っていたり。

 母親は、そんな僕を真剣に叱った。僕は、面白くなかったのだ。どうして自分は自由じゃないのだろう。どうして自分の思い通りにならないのだろう。どうして親の言うことを聞かなくてはならないのだろう。今思えば、他愛のない悩みだ。『子供だから』で、全ての説明がつく。けれど、そうじゃないのだ。あの頃の僕には、あの頃の僕なりの、切実な何かがあったのだ。言葉では説明できない、何か。それを若気の至りだとか、若さのバカさでパワーを持て余しているとか、そんな簡単に説明は出来ない。

 僕がいたその不良グループは、次第にやることがエスカレートしていった。自動販売機を壊してジュースを盗んだり、コンビニで万引きをしたり、などなど。ちょうど、僕はバンドを始めたから、そいつらとは疎遠になったけれど、そいつらの中には、ヤクザのパシリみたいなことをやらされて、服役までした奴もいる。母親が真剣に叱ってくれなかったら。バンドを始めていなかったら。僕も、そういう人間になってしまっていたかもしれない。


 僕は何かをしたくて、でも何も出来なくて。

 それで、ずっとずっと悔しかったのだ。

 それを、自分の親に八つ当たりしていた。

 酷いことも言ってしまったと思う。

 今思えば、絶対に自分を見捨てないであろう相手に対して、

 心ないことを言ってしまっていた。

 人間として、とても底が浅かったと思う。

 それを若さのせいにすることは、僕にはできない。


 ただ、今僕が思うのは、この家族の有りようが、少しだけ歪んでしまっているということだ。久遠さんや琴羽ちゃんは、問題無く育ったのだろう。けれど、みんな違う人間だ。莉乃ちゃんが出来損ないだとは僕は思わない。いや、思いたくない。ただ、これまでの経験とは違う出来事が起こって、みんな戸惑っているのだ。お義母さんも、どうして良いのか判らない。それだけなのだ。


「あの、出すぎた真似をするようで恐縮なんですけれど……」僕はお義母さんに言う。「莉乃ちゃんと、お話してきても良いですか」

「え、いや、あの……」

「帰り道にも、話をしていたんです。それで、なんていうかその……」上手く説明できるだろうか。「恥ずかしながら、僕の境遇と、少し似ている部分もありまして。だから、そういう立場から、ちょっと話をしてあげたいんです」

「いえ、でも、それは……」

「こんなことを言うのは、烏滸がましいと判ってはいるんですが、その……、お義母さんは、少し真面目過ぎるというか……」

「はい……?」あ、やべ。「それはどういう……?」

 う、どうすれば……。

「良いんじゃない」久遠さんが言う。「ママが話しても、ずっと平行線だよ。せっかくマスくんがいるんだし。そうしてもらおうよ」

「うーん……」お義母さんは何かを悩んでいる様子だったが、「じゃあ、お願い出来るかしら」と言った。

「はい。なんとか話してみます」


 僕は、莉乃ちゃんの部屋に向かい、ドアをノックする。

「僕です。ちょっと良いかな?」部屋の奥から、どうぞ、と声がする。

 ドアを明けて中に入ると、莉乃ちゃんはベッドで布団にくるまっていた。

「あの、ちょっと話せないかな」

「別にいいけど」

「ここ、座るね」僕は、机の前の椅子に座る。「拗ねてるの?」

「うるさいな」

「あ、いや、ごめん。からかうつもりはなかったんだ」

「私、この家もう嫌」布団の中から、くぐもった声が聞こえる。「全然自由がない」

「そうかもね」僕は言う。「じゃあ、どうするの? 出て行く?」

「意地悪。どうしようもないの、わかっているくせに」

「そうだね。ごめん」

「はぁーあ」莉乃ちゃんは布団から顔を出して僕を見る。「益一郎さん」

「なに?」

「私の方こそ、ごめんなさい」

「へ? 何急に?」

「この前言ったこと。他人って言ったこと。それに今日のことも」

「別に良いよ」

「益一郎さんがやってたバンド、結構有名だったんですね」

「いや、そうでもないよ」

「でも、彼氏、ユウジっていうんですけど、ユウジもCD持ってるって」

「あ、そうなの。ありがとうございます?」

「なんでしたっけ? インディアン・デッド……」

「そうそう。インディアン・デッド・スパングル。どマイナーなインディバンドだよ」

「音楽の世界って、やっぱり厳しいですか?」

「うん……。僕は、そこで負けた人間だから、なんとも言えないけれど、甘い世界ではないかな。才能があっても、ダメな人はダメだったりする」

「じゃあ、何が必要なの?」

「運かな。いや、判らない」

「でも、益一郎さんの場合は、あの事故がなければ……」莉乃ちゃんは、そう言いかけたところで、口をつぐむ。「あ、ごめんなさい」

「いや、良いんだよ」僕は笑う。「あれは、関係ないよ。きっかけの一つではあったけれど、早いか遅いかの違いだよ。一生やっていけるはずはなかった」

「そうなんですか」

「そうだね」

「じゃあ、ユウジが進もうとしている道も、やっぱりダメですか? 無謀ですか?」

「いや、それは僕には判らないし、きっと誰にも判らない。やらない後悔よりやって後悔するほうが良い、なんて言うけれど、無責任なことは言えない。人生を棒に振ることだってあるし、誰かを傷つけたり不幸に巻き込んだりしてしまうことだってあるかもしれない」

「じゃあ、やっぱり……」

「それでも、僕はやってみる価値はあると思う。真剣ならね。やめた人間が言うのも説得力がないかもしれないけれど、音楽を創るってことは、素晴らしいことだよ。いや、本来は、なんでもそうなのかもしれないね」

「なんでも……?」

「そう。僕は音楽をやめて、今の仕事をしているけれど、それだって捨てたもんじゃない。社会の役に立っている。もちろん、つまらないことや下らないことだってあるよ? 我慢したり、恥ずかしい思いもする。でも、なんていうか、職業に貴賎はないっていうか」

「私ね、本当は服飾の専門学校に行きたいの」

「そうなの?」

「うん。ユウジが大学行かないからってわけじゃないの」

「そうなんだ。それなら……」

「でも、きっとママはダメだって言う。ママは頭が固いから。お姉ちゃんが益一郎さんと付き合ってたときだって、ずっと反対してた。バンドをやっているような人なんてって。益一郎さんが認められたのだって、就職してからだよ」

「うん。まぁ、それは判ってるよ」

「じゃあ、やっぱり私も……」

「やりたかったら、やりなよ」

「え?」

「ずるい言い方かもしれないけれど、僕は責任は持てない。誰も持てないんだ。家族でもね。でも、君は家族のために生きているんじゃない。自分自身のために生きているんだ」

「でも、どうやって……」

「それは知らない。ごめん、本当に無責任だよね。でも、やりようはいくらだってある。親に反対されているんだったら、家を出れば良い。働いて、学校に通えば良い」

「そんなこと出来ないよ」

「なら、諦めるしかない」

「そんな……」

「一度、相談してみれば良い。もしかしたら、協力してもらえるかもしれない。諦める前に、出来ることは全部やってみたほうが良いと僕は思う。自分のやりたいことなんでしょう?」

「うん……」

 話を終えて、部屋を出る。些細なすれ違いだ。僕はそう思う。けれど、当人たちにとっては……。

『お前って最悪だな』またうるさい奴が話し出す。『無難に生きろって、言ってやればよかったのに。大学に行かせてもらえるだけ、幸せなんだぞ、って』

 黙れ黙れ。

『それともアレか? やっぱり自分の人生を否定したくはないか。“あの事故さえなければ今頃俺も”ってか。ククク……』

 黙れ黙れクソが。

『もっと人生の厳しさを教えてやれよ。お義兄ちゃん♡』


 血が滲むほど、拳を握りしめていたつもりなのに、左手だけはやっぱり力が入らなかった。


つづく

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