Our Numbered Days
王木亡一朗
第1話「Smells Like Teen Spirit」
1
1985年7月21日、ロンドン郊外にあるウェンブリースタジアムで行なわれたベイビーバレットのツアーファイナルは、ファンの間では伝説のライブになった。サードアルバム発表後にバンドを襲った悲劇を思えば、この日のパフォーマンスは最高で、特にバーで撃たれてから奇跡の復活を遂げたフィル・オースターの演奏は神懸かっていた。
僕は当然その場にはいなかったけれど、この日のライブはVHS化されていて、中二の冬に中古レコード屋で見つけて以来、文字通り擦り切れるまで何度も観ている。SEのインストナンバー、『スワン・ミュージック』が鳴り止み、一曲目の『アフター・アワーズ』になだれ込む。サム・ビーディのアルペジオに、フィルのリフが絡みつく十六小節のイントロ。サムが気だるくヴァースのメロディを歌い上げる。歓声を切り裂く漆黒のAm。続く二曲目『アンリトゥン』、デビューシングルの『ヘリコプター』、ファーストアルバムからの隠れた名曲『オートプシー』と、オリジナルメンバーの不在を感じさせない堂々たる演奏。『ラヴ・イズ・ブラインド』『ラスト・ブラッド』『インフォームド・コンセント』と、粘りつく熱気を振り払うかのように、サムがガナり、フィルがギターソロを紡ぐ。セカンドアルバムのタイトルナンバーである『モルヒネ』に観客が湧いた後、『グッドバイ・ムーン』『ナイト・フォール』と、しっとりとした雰囲気に会場全体が酔う。突き刺すようなシンセサイザーの音色が特徴的な『フローズン』から、陰鬱ながらも目が離せない『エヴリバディ・ダイズ』、ホーンセクションが加わった大曲『タイラント』へ。バックスクリーンには、歴史上の独裁者たちが映し出される。しばしの静寂のあと、サードアルバム『ハート・アンド・ブレイン』から、名曲中の名曲『ブエノスアイレス』が演奏される。一つ一つのメロディを噛み締めるように、サムが歌い上げる。僕が一番好きな曲だ。二回めのヴァースからストリングスが加わる。
『I wanna say “Don’t you know?”』サムはそう歌った後、カメラのほうを向き、少し笑う。この瞬間がたまらなく好きだ。この曲は、サムが一人でアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスを訪れたときに書かれたらしい。アメリカツアーが失敗に終わり、険悪なムードが当時のバンドを覆っていたという。ベーシストとドラマーは、この後脱退してしまうのだ。
フィルが演奏するピアノの音色が、悲しくも力強く響く。ラストの大サビは、観客を巻き込んだ大合唱になる。『多分、夢だったのかもしれない』という歌詞から始まるこの曲で、本編は終了だ。
アンコールでは、ニール・ヤングの『ハート・オブ・ゴールド』がカバーされた。サムはニコニコしながら、「これ、彼とお揃いなんだ」とビグズビーのトレモロ・アームが追加されたギブソン・レスポールカスタムを弾く。
アンコール二曲目は、今現在においてもアルバム未収録の『ユーフォリア』。後の、サムのソロアルバムのテイストに近い。部分的にポリリズムになったりと、実験的な要素が多分にあるが、メロディの良さが光る佳曲だ。
曲が終わり、笑顔で観客に手を振るフィルとは対照的に、どこか悲しげな表情のサムが袖へはけて、このライブは終わる。
もう何回目だろう。中学生のときに買って以来、おそらく百回以上は観ている。観すぎて、途中トラッキングをいじってやらないと画面が乱れてしまう。ボロボロの紙パッケージは、かろうじて『Endless Numbered Days』という、このVHSのタイトルが読める。
控えめに言っても、このバンド、ベイビーバレットが僕の人生を変えた。僕は彼らに触発されて、ギターを手に取り、バンドを組んだのだ。
高校卒業後、就職はせずに上京してバンド活動を続けた。完全自主制作で発表したファーストアルバムがネットメディアに取り上げられて、結構売れた。渋谷サイクロンでワンマンライブも出来たし、セカンドアルバムは大手インディレーベルから全国流通してもらった。メジャーデビューこそ出来なかったけれど、結構いい線までいったと思う。願わくば、ベイビーバレットと同じ、ウェンブリーのステージに立ちたかったけれど、まぁ、それはいい。音楽にかけた青春は終り、僕のバンドは解散した。
それから、約一年。運良く就職も決まり、今は奥さんと一緒に暮している。とても幸せだと思う。事情があって、結婚式などはしていないけれど、向こうの家族とも関係は良好だ。僕は第二の人生を歩もうと思う。後悔がないといえば、少しばかり嘘になるかもしれない。けれど、僕は僕の人生を歩もう。
そんなことを、もう数え切れないくらい観た、このライブを聴き終えて思った。
2
朝目覚めると、久遠さんが朝食と僕のお弁当を用意してくれている。洗面所へ行って顔を洗い、ダイニングのテーブルに着く。
「おはよう」久遠さんは味噌汁を温めながら言う。
「おはよ〜」僕はぼーっとしながら、すでにテーブルの上に置いてあるコーヒーに口をつける。毎朝目覚めると、うっすらと頭が痛い。でも、カフェインを摂ると自然と引いていく。よくないよな、と思いつつもやめられない。
二人で向かい合って、朝食を食べる。朝のニュースでは、また親が幼い子供を虐待してるというニュースが流れている。僕は、そっとリモコンに手を伸ばす。ちょうど、天気予報を見たいと思ったからだ。
「今日、雨降るのかな」僕は言う。
「さっき見たときは晴れだって言っていたよ」
「そっか」僕は適当にザッピングする。
洗濯機が終了の電子音を鳴らす。久遠さんは足早に洗面所へ。僕はテレビの左上に表示された時刻を確認して、残りのご飯をかきこむ。ぬるくなったコーヒーを飲み干して、スーツに着替える。
「今日は遅くならない?」洗い終わった洗濯物が入ったカゴを抱えて、久遠さんが戻ってくる。
「うん、多分」
「そう。あのね、もしかしたら私、今日、実家に戻るかもしれないの」
「あ、そうなの? 別に良いけど、なんで?」
「同窓会があるの」
「あぁ、そういえば、そんなこと言ってたね」
「良いかな? 今日の晩御飯、作っておくから、悪いんだけれど、それを温めて食べて」
「全然構わないよ」
「ありがとう。明後日、午前中には帰るから」
「うん」僕は時計を見る。「あ、行かないと」
「いってらっしゃい」彼女が笑う。
僕は家を出る。駅までは、徒歩で約十分。アイフォンにイヤフォンをつないで、音楽を聴く。ベイビーバレットのセカンド『モルヒネ』だ。
このアルバムは11曲で57分。家から会社まで、ちょうどそのくらいの時間だ。中央林間で田園都市線に乗り換えて、渋谷まで。つり革につかまって、目を閉じる。
渋谷に着くと、相変わらず人が多くて気が滅入る。こんなにも多くの人が、朝早くから働いているのに不況なのが信じられない。そう思うとともに、こんなご時世に元バンドマンが就職できたのは奇跡だな、とも思う。
バンドが解散してから三ヶ月経った頃、ライブにもよく来てくれていた梅沢さんという人が、今の会社を紹介してくれたのだ。俗に言うコネ入社。恥ずかしいような気もするけれど、背に腹は変えられない。とにかく、今の僕には久遠さんという守るべき家族がいるのだ。嫌なことを我慢して、その代わりにお金をもらう。仕事とはそういうものだ、とよく母が言っていた。若かったときは、その言葉に違和感があったし反発もした。けれど、今ならその意味が少しは判る。そして、そうやって働くのも、意外と悪いもんじゃない。そんな風にして働くのは、屈辱というか不自由な気もしたけれど、そうではないのだ。働いたお金で、僕は久遠さんと暮らしていく。彼女に美味しいものを食べさせたり、楽な思いをさせてあげたい。そのために働くのだ。これは僕の自由意志なのだ。
駅を出て歩く。通り道にあるタワーレコードの前には最近話題の新人バンドの広告があった。ちょうど、一年前にメジャーデビューした『KUWA=GATA』というバンドだ。二十歳そこそこの男の子と女の子の四人組。バックにいるのは新進気鋭の若手プロデューサー、岩松エイジ。そうか今日は水曜日。シングルの発売日だ。彼らの新しいシングルはアニメの主題歌になっているらしく、そのキャラクターの絵も描かれている。あんなことさえなければ僕も今頃……、と思わないでもない。でも、それは所詮戯言だ。インディでそこそこいい線までいったバンド。それが、僕がやっていたバンドなのだ。CDが売れない昨今のシーンのなかで、僕らが活躍できたとも思えない。解散するべくして解散したのだ。それでいいのだ。
3
仕事を終えて、会社を出る。予想に反して、今週はすんなりと仕事が終わった。定時間際の連絡もなし。ただ、若干ハードな週ではあったため、疲労感はそれなりにある。ふと、帰っても久遠さんはいないということを思いだして、どこか寄り道でもしていこうか、と考える。ただ一人で酒を飲みに行けるほどの度胸もない。とりあえず、会社近くのドトールに入ってコーヒーを飲む。
誰か飲みに誘うか。いや、久遠さんはご飯を作り置きしてくれている。でも、明日は土曜日だから朝ごはんにしてもいいはずだ。誰を誘う? 会社は既に出てしまったし、今から飲みに誘うのも億劫だ。それに、ここのところ残業続きだった。久しぶりに定時で帰れたのだ。わざわざ戻ってまで誘うのはよそう。とすると、友達か……。これは難しいぞ。少なくとも、急に飲みに誘えるような間柄のヤツはいない。バンドメンバーとも解散以来、あまり会っていない。そういえば、あいつら元気かな。ちょっと前までは練習やらなんやらで週に四日は会っていたのだけれど。いっそのこと誘ってみるか?
とりあえず下北沢に移動する。電車の中で久しぶりにバンドのグループLINEで連絡をする。
『久しぶり〜♪( ´▽`) 今、下北にいるんだけど、誰か飲みに行かない〜?』
我ながら、なんとも間抜けだ。というか、他のメンバーも解散後は違うバンドを組んだり、地下アイドルのプロデューサーをやったりと忙しくしているはずだ。ダメ元というよりは、半分は誰も来ないことを期待しているような……。
しかし、予想に反して全員から『行く』と返信があった。一人は偶然下北にいて、すぐ合流できるという。南口で待ち合わせをする。
「益一郎さん、お久し振りです」十分後に現れたのは、ドラムの羽鳥で、僕を見るなり「会社員のコスプレみたいっすね」と笑った。羽鳥は年下で、今でも僕に律儀に敬語を使う。けれど、態度は不遜で基本的に僕をバカにしてくる。
「ジャーヴィス・コッカーみたいだろ?」
「あぁ、まぁ、メガネとかは。すっかり良い旦那さんですか」
「まぁ、一応ね。お前は最近どうなの?」
「今度、ダブダブで3マンやりますよ」
「マジか。すごいな」
ダブダブとは、渋谷にある『WWW』というライブハウスで、昔は映画館だったところだ。独特の作りになっていて、音響も良く、東京のインディバンドやアイドルなんかがよくイベントを行っている。
「近藤さんと柏木さんは?」
「あいつらは、ちょっと遅れるって」
「じゃあ、とりあえず行きますか」
坂を下って、『ぴあぴあ』という居酒屋に入る。この近くには『QUE』というライブハウスがあり、僕らも何回か出たことがある。この店も打ち上げで何度か使った。
一杯目のビールで乾杯したあと、適当につまむ。
「いや〜、どうなの最近は〜?」僕はジョッキを半分ほど飲み干して、羽鳥にきく。
「まぁ、ぼちぼちっすね。三つ掛け持ちしてて、サポートとかもぼちぼち」
「売れっ子じゃん」
「どうなんすかね〜」
ドラマーというのは、そもそも人口が少ないから、掛け持ちしているヤツは珍しくない。羽鳥は、僕が言うのもなんだけれど、結構上手いので、解散後もすぐ他のバンドに加入した。一般的に、ドラムは地味なパートだが、意外と潰しは効くのだ。
「そのライブって、いつ?」
「再来週の土曜です。来ます?」
「うん。行けたら行くよ」
「ハハハ。行けたら行くっていう人は、絶対に来ないの法則じゃないですか」
「いや、本当に仕事次第でさ」
「まぁ、良いですけど」
いつの間にか、二人ともジョッキを二つ空にしていた。久しぶりな感じはあまりしない。懐かしい、という感情も湧かない。羽鳥はメインのバンドの他にも、売り出し中のシンガーソングライターのレコーディングに参加したり、アニソン関連の仕事もちらほら貰っているようだ。高くはないけれどギャラも出ていて、最近ではバイトもそこまで入れてないという。
すごいな、と思う。音楽で金を稼いでいるのだ。僕らがやっていたバンドだって、アルバムを出してからは、一応赤字にはならない程度には収入があった。けれど、とても食ってけるレベルではない。だから、本当にすごいと思う。
三杯目に口をつけていると、近藤と柏木がやってきた。口では、久しぶり、と言いながらも、すぐにあの頃のようにくだらない話をする。
「そういやさ」近藤が口を開く。「来月出る、『スロウリィジャップ』に俺の記事載るから。読んでくれよな」
「マジで?」僕は驚く。『スロウリィジャップ』は、大手出版社から出ている隔月発行のサブカル系雑誌だ。
「ディスクレビューの、小さい記事だけどな」
「へぇ、すごいじゃん」
近藤はバンド時代から、ブログに新旧いろいろなCDのレビューを書いていて、結構評判も良かった。
「柏木さんなんか、すごいですよ」と、顔を赤くした羽鳥が言う。「今度、また新しい地下アイドルをプロデュースするんですよね」
「いや、まぁ……」柏木は相変わらずチビチビと飲んでいる。前から寡黙なヤツだったが。
「良いなぁ、アイドル。枕営業とかって、やっぱりあるんですか?」羽鳥がデカイ声で言う。
「話は聞くけど、俺はやってない」
「あ、やっぱあるんだ」
「お前、やってないとか言って絶対やってるだろ!?」近藤がガハハと笑う。
あぁ、僕らは本当に幸せなバンドだったんだな、とつくづく思う。仲も良いし、音楽性もそこまで違うということはない。僕は申し訳なさでいっぱいだった。僕のワガママみたいなもので、このバンドは解散したのだ。
4
唐突だが、近藤はお好み焼きが好きだ。好き、というより愛している。子供の頃に広島に住んでいたらしく、『広島焼き』と言うと怒る。
バンドの練習のあとも、よくお好み焼き屋で食事をした。絶対に僕らには焼かせてくれない。全てを取り仕切る。お好んで焼かせろ!とも思うが、一番美味い焼き方、食べ方があるのだ。だから、近藤といえばお好み焼き。そういう認識を、僕らは持っている。
さて、そのお好み焼きだが、なぜか今僕の目の前にある。まだ焼く前の生地の状態のようだ。でも、鉄板はどこだ? なぜ、フローリングの上に? あれ? ここ、僕の家?
いつの間に帰ってきたんだ? 僕の左手には、バドワイザーの瓶が握られている。うーん? おかしいな。確か、みんなで下北で飲んでいたはず……。三軒くらいハシゴして……、終電がなくなって……、あ、そうだ。それでタクシーに乗って……、って、下北からか!!! 一体いくらかかったんだ? まぁ、でも四人ならそこまでかからないか。って、え、四人? みんなで僕の家に来たのか!? あぁ、頭が痛い。クッソ。
音楽が大音量で流れている。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』だ。って、今何時だ!? 僕は腕時計を見る。深夜の三時。これはまずい……。
「あ、益一郎さん起きました〜?」声の方に視線を向けると、上半身裸の羽鳥が踊っている。「そこ、気をつけてくださ〜い」とニヤニヤしている。
気をつけろったって、ここにあるのはお好み焼きだろ。というかなんで床にお好み焼きをぶちまけるんだよ……、ってこれお好み焼きじゃない! ゲロだ! うわ、くせー!!!
「おい、これどうなってるんだよ!!!」僕は叫ぶ。
「バチュラパーリーじゃぁぁぁぁぁああ!!!!!」と柏木が叫んでいる。おいおい、このモードの柏木さんはヤバイ。過去の打ち上げでも何度かあった。
「バチュラ……、何?」意味が判らない。とりあえず、柏木の手にあるジャック・ダニエルズを奪わなければ。
僕は、曲に合わせてエアベースを弾く柏木に大外刈りをかけて、酒瓶を回収する。裸足だったので大外刈りがかけやすい。裸足というか、下半身には何も身につけていなかった。というか、なんだこの地獄絵図は……。空き缶、空き瓶、食い散らかされた食べ物たち。というか、この大音量の音楽を止めなくては……! しかし、近藤はどこだ? リビングからキッチンに移動する。扉を開けて、まず目に飛び込んできたのは二本のポール。ポール? 棒だ。銀の棒。それらが天井と床を貫いている。なんだこれ?
ダイニングテーブルはひっくり返され、そこには露出度高めの二人の女性と近藤が寝ていた。
「おい、近藤! なんだこれ!?」
「ふぁっ?」僕の大声で彼は飛び起きる。「おう、マス。起きたか。主役が寝ちまうなんて、白けるにもほどがあるだろ」
「主役……? っていうか、なんなんだこれ?」
「は? 何が?」
「この状況だよ!」
「何って、バチュラパーティじゃないか」
「バチュラ……?」
「結婚前夜にさ、独身最後の夜を楽しむパーティだよ。ハングオーバーって映画観たことないか? あんときはいといろとバタバタして、結局できなかっただろ?」
「はぁ………」思い出してきた。確か三軒目の終わりごろにそんな話をしていたような。しかし、記憶がハッキリしない。
「というか、臭くね?」なんだこの臭い。
「あ、わりぃ」近藤は苦笑する。
「は?」僕は臭いのする方を見る。そこには我が家の炊飯器がある。「って、おい! 脱糞してんじゃん〜!」
「ばちかぶり!」
「うるせー!」さすがにありえないので僕は近藤を殴る!「田口トモロヲかよっ!!!」
「痛って! ちょ、やめてやめて!」
「うるせー! このこのこのこの!」 僕はマウントをとって、殴り続ける。
隣で寝ていたポールダンサーが起きて、僕らの殴り合いを笑いながら見ている。けれど、近藤の口から血が吹き出るを見て、笑い声が悲鳴に変わる。
「ちょっと、益一郎さん! やりすぎですって!」羽鳥が僕を羽交い締めにする。クソ、離せよ!
羽鳥と柏木、二人がかりで近藤から僕を引き剥がす。自分の心臓が鳴っているのが聞こえる。なんだこれ!? なんなんだこの状況は!?
「クソがぁ!」
「べふっ」
今度は起き上がった近藤が、僕を殴る。何度も殴る。何発かは外れて、後ろの柏木に当たる。柏木は何語か判らない言葉をわめき散らし、誰彼構わず殴りつける。羽鳥も巻き込まれる。もう何がなんだかよく判らない。早い話が乱闘だ。大乱闘だ。スマッシュ!
もう誰が誰を殴っているのかも、誰が誰に何を言っているのかも判らない。ただ拳を突き出し、喚き散らし、暴れていた。
「このっ!」「オアラァ!」「クソが!」「痛って!」「コンチクショー!」「おりゃー!」「テポドン!」「うぉぉぉおぉ!」「ガガーリン!」「おいおいおいおい!」
「マス!!!!」「近藤!!!」「オラオラオラオラ!!!」「なんでだよ!」「うりゃー!」「クッソ!」「……バンドやめたんだよ!」「ウオラァァァァア!!」「ドリャァァァア!!!!」
「悲しいじゃんかよぅ!!!!!」
叫んだのは、近藤だった。
「なんでだよぅ……。なんで俺たち、解散しなくちゃならなかったんだよーッ!」
気がつくと、僕らは全員泣いていた。あのときは、解散を決めたときは、誰一人、なんの文句も言わなかった。むしろ、僕のことを応援してくれていた。
「近藤さん! もうしょうがないじゃないですか。あのとき、そう決めたんですから」羽鳥がいう。鼻水が垂れて糸を引いている。
「でもよぉ! 寂しいんだよぉ! 俺はもっともっと、お前らと音楽やりたかったんだよぉぉ」近藤は子供のように泣き崩れる。柏木がそばに寄って肩を抱く。その柏木も、近藤以上に、涙を流していた。
「うわっーん。はぁぅふぅっはぁぅふぅっ」ジュゴーっと近藤が鼻水を啜る。
僕は嬉しかった。いうなれば、バンドの解散は僕のせいだった。僕の事情でそうせざるを得なかったのだ。あっけらかんと受けれ入れてくれて、僕は気が楽だったけれど、同時に一抹の寂しさも覚えた。だから、今、酒に酔って出た近藤や他のメンバーの本音が、とても嬉しい。僕も同じ気持ちなのだ。
いろいろあって、ばたばたと結婚した僕だったが、こんな風にバンドのメンバーにバチュラパーティ(?)をやってもらえた。こんな風に、一年越しではあったけれど、みんなの本音も聞けたのだ。嬉しい。
僕らはそのまま、朝まで泣いた。大の大人が肩を寄せ合って。ものすごく恥ずかしいけれど、別に良い。僕はやっぱり幸せ者だ。こいつらと出会えて、本当に良かった。
5
翌朝は、地獄だった。
大の大人四人で朝まで泣き、疲れて眠ってしまった。午前十時に久遠さんからの着信で起きた僕は、他の三人を叩き起こし、部屋の片付けを始めた。二日酔いで頭も痛かったが、目の前の惨状をどうにかしなくては、という思いだけを胸に、ゴミを捨て、床を拭き、風呂に入った。約一時間後に久遠さんが帰ってくるまでには、なんとか事なきを得た。
しかし。
僕らは、アパートを出て行かなくてはならなくなった。
この日のドンチャン騒ぎが原因で、大家さんに全住民から苦情が来たらしい。
大家さんとは何度か直接話し、たった一回のことで追い出す事は出来ないけれど、ご近所との関係を考えたら、引っ越したほうが良いだろう、と言われた。何人かの住人は、本当に怒っているらしい。
当然だ。あれだけの騒音と異臭を僕らはまき散らしたのだ。今後住み続けたとしても、何かしらのトラブルが起こってしまうかもしれない。それに、久遠さんが住み続ける事をとても嫌がった。僕らは大家さんに丁重にお詫びをし、一ヶ月後に出て行く事にした。
しかし、だ。
なぜか、新しい部屋が決まらなかった。
探しても探しても見つからない。ブラックリストにでも載ってしまったのだろうか。
どんな条件で探しても、僕らが名前を明かすと、ダメになってしまうのだ。
これには完全に参った。期日は迫ってくる。
「どうしようか」十一件目の不動産屋さんを出て、僕は久遠さん言う。
「どうしようかって。マスくんのせいじゃん!」
「いや、ごめん」
「ごめんじゃないよ! あと二週間だよ? 本当にどうするの? 私たち、どこで暮らせばいいの?」
「ごめん……」
もしかしたら、遠くの街に行けば見つかるのかもしれない。けれど、通勤やその他諸々を考えると、範囲は決まってくる。沿線を渡り歩いたけれど、見つからない。一体どうすれば……。
そんなこんなで、新居が見つからないまま、約束の日を迎えてしまう。僕らは、最後に他の住民に改めて謝罪をして周り、車に乗り込んだ。
一時的に、大きな荷物は久遠さんの実家に預かってもらっている。正直助かった。けれど、久遠さんは、この二週間まともに口をきいてくれない。
無言のまま、とりあえず久遠さんの実家に向かう。
夕食の席。お義父さんは仕事で遅くなるらしく、他の家族と鍋をつつく。ふぐ鍋だ。久遠さんは僕とは目も合わせない。その雰囲気を察してか、お義母さんと久遠さんの妹二人も何も話さない。
そんな、どんよりとした夕食が終わり、久遠さんは無言のまま、お風呂に向かった。
「ねぇねぇ、益一郎さん」話しかけてきたのは、次女の琴羽ちゃんだ。「お姉ちゃんと喧嘩してるの?」
「うーん。まぁ」
「今回の事で?」
「そう。まだ解決してないからね」
「あちゃ〜。あのね、お姉ちゃん、ああいうモードになったら結構長引くよ? 静かに怒るタイプだから」
「うん」
「フフフ。頑張ってね、お義兄ちゃん♡」
「ハハハ……」僕は頭を抱える。
テレビには、嫁姑トラブルをテーマにしたバラエティ番組が流れていた。再現ドラマで、姑に揖斐られるお嫁さん。クッソ、こんなときに……。
僕が、こっそりとテレビのリモコンに手を伸ばしかけたそのとき、背後から久遠さんが僕の名前を呼ぶ。
「益一郎くん!!!」
「はいっ!!!」僕は思わず立ち上がり、気をつけの姿勢になる。
「私、決めた」
「な、なにをでしょう!?」もうちょっとで、女王陛下!と言ってしまいそうだった。
「家を買う!」
「え!?」
「益一郎くんは、頑張って働いて、家を買うの!」
「はい?」
「だって、そのうち買うものでしょう?」
「いや、そうですがしかし、その、急すぎます!」いやいや、僕、去年までバンドマンだったんですよ? 急にそんな……。
「だから、それまで、この家で暮らしましょう。そうすれば家賃分も貯金に回せるでしょう?」
「いや、しかし女王陛下!」あ、言っちゃった。「それは我々だけでは決められません」
「良いでしょ、ママ。食費と光熱費は入れるから」
「へ?」お義母さんは目が点になっている。「そういうことはお父さんに聞かないと……」
「えー! せっかくお姉ちゃんの部屋使える思ったのにぃ」と言ったのは三女の莉乃ちゃんだ。
「あんた、自分の部屋あるでしょう? なに贅沢しようとしてるの」
「だって洋服もうクローゼットに収まりきらないんだもん」
「あんたは服買いすぎ」琴羽ちゃんが言う。
「とにかく!」女王陛下の演説は続く。「どこも借りられないなら、家を買う。これしかないの」
と、いうわけで。
僕らは、久遠さんの実家で暮らすことになった。
久遠さんが、酔っ払って帰ってきたお義父さんの言質を半ば強引に取り、久遠さんの個室だった部屋を、僕らの寝室にすることになった。
ただ、正直に言おう。
僕は、ちょっと嬉しかった。いや、強がりとかじゃなくて。
なぜなら、僕は小学生のときに親が離婚して以来、ずっと母と二人暮らしだった。
その母も三年前、亡くなってしまった。
こんな大勢の家族と一緒に暮らせるなんて、新鮮なのだ。憧れてもいた。
だから、正直なところ、結構嬉しいのだ。
と、言ってみたものの、僕の受難は、ここから始まる。
普通の家族に見えていたけれど、やっぱり一筋縄ではいかないのだ。
ハッキリ言おう。
この家族、ちょっと変だ(笑)。
でも、良いのだ。
家族でワイワイ暮らせるのは、やっぱり嬉しいし、楽しいのだ。
つづく。
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