2
なんだかとても腹の立つ夢を見たと思うのだけれど、覚醒した瞬間にはもう思い出せなくなっていた。理不尽だ。誰に文句を言ったらいいのかもわからない。
そういうわけで寝起きから機嫌が悪かった私は、目を開けてきょとんとした。目の前には見知らぬ壁と、見知らぬ暖炉。ぱちぱちと小枝がはぜて、橙色の炎が踊る様がいかにも暖かそうだ。
実際、暖炉の脇にある煤けた窓は曇っているので、そうとう室内は温もっているのだと思う。確信が持てないのは、どうにも感覚が鈍いからで。
「ということは、やっぱり私、ランタンのままなのかあ……」
はあ、とため息をつく。それはガラスを曇らせもしないし、実際に吐息が出てくるわけでもない。その虚しさにはもう、なんとなく諦めがついている。
目線の下に木目が見えるので、木製のテーブルか何かに乗せられているのだろう。興味の向くまま、周りを観察してみた。
テーブルの上には他に、籠に入った卵と何かしなびた野菜っぽいもの、それに用途のわからないごつい大工道具みたいなものが散乱している。お世辞にも整理整頓されて清潔だとは言い難い。
室内の有様も似たようなもので、丸太を組んだログハウスのような壁には所狭しとくたびれた衣服や大きな斧、何かの毛皮や中身不明の麻袋なんかがひっかけてある。床に敷物が敷かれた一角は何かの作業中らしく、いくつかの工具と削られた細い枝、それと何故か鳥の羽根がこんもりと盛ってある。
総じて雑然としているが、人の気配はない。一体ここはどこなのか、どういう状況なのか、さっぱり見当がつかない。大体、あの青年はどこに行ったのか。
悶々としていると、足音が聞こえてきた。音からして、窓の外で誰かが雪を踏んで歩いているらしい。こちらも丸太を組んで作られたドアを見つめていると、ぎい、と重そうな音を立ててそれが動いた。そしてそこをくぐって現れたのは、あの青年ではなかった。そして、人間ですらない。
だらん、と首を落とした獣。大きな角は大木の枝のように複雑にうねり、それは立派なものだが、その瞳は黒く濁り生気がない。一歩踏み出すとその首があらぬ方向にねじれ、がらんどうの洞穴のような瞳と目が合った。ぞわっと怖気が走る。
「いや――――っ! なにっ、なんなのこの化け物――――!!!」
思わず大絶叫するが、そういえば私は今ランタンなのである。逃げようがないし、助けを求めようにも他に誰もいない。万事休す。絶望的な思いでさらに相手の鼓膜を破かんばかりの大声を張り上げようとしたが、その前にずるりと化け物が床に倒れた。
いや、化け物の首の下から人間が現れた。
「な、なんだ今の。女の声……!? でもこんな場所に女なんて……」
目の覚めるような赤毛の少年だが、人間であることに違いはなさそうだ。その足元に落ちた塊はよく見れば、死んだ大きな牡鹿のようだった。
少年の年の頃は十歳前後だろうか。まだ声は高く、幼げな顔立ちに反して焦げ茶色の目は今警戒を宿して鋭く油断なく、室内を窺う。やがてその目がこちらを捉え、不審そうに眉根を寄せた。
「まさか、これ、が……?」
少年は警戒も露わに、腰に差したナイフを取りだしながらこちらに近づいてくる。
――さて、困った。
化け物じゃなかったのはいいが、状況は良くない。喋るランタンなど不気味でしかないはず。ここで説明したところで理解してもらえるかどうか。
ここは、知らんぷりしてただのランタンを装い、彼が勘違いだったと思ってくれることに望みを託すべきだろう。
「おい、何か言えよ。火種も入れてないのに、妙な光がぐるぐるしてやがる。しらばっくれる気なら叩き割ってやろうか?」
(……ああもう、そうだった! この状態、無駄に動揺が筒抜けなんだった……!)
単純極まりない構造が恨めしいが、今更どうにかなるものでもない。それだけはご勘弁を、と降参する他なかった。
「……確かに今の声は私だよ」
観念して答えると、こちらに顔を近づけていた少年がびくりと後退った。ナイフを構え直して上ずった声を上げる。
「げ、本当に喋った……」
「何よ、こっちだって怖かったんだから。鹿の頭の化け物でも出たのかと思った!」
八つ当たり気味に文句を言うと、少年は困惑したようにナイフの刃先を少し下げる。
「化け物とか、喋るランタンに言われたかねえんだけど……」
なんだこいつ、と焦げ茶色の目を怪訝そうに眇めた。
恐る恐るといったように再び寄ってきて、首を傾けじろじろとこっちを観察する。
「悪さをする精霊とか、魔法生物の類か……?」
「うーん。説明には困るんだけど、怪しい者ではないから安心して!」
「出来るか。どう考えても怪しい」
思いっきり疑わしそうな顔つきで、ナイフの刃先をつんつん当ててくるので大いに焦った。
「ちょ、ちょっと! やめてよ危ない!」
「なんだ。ランタンでも痛覚はあるのか?」
「いや、正直この状態だと感覚がかなり鈍いみたいで、痛みも寒さも何なら温かさもほとんど感じないんだけど」
「なら騒ぐなよ」
「あのねえ、刃物を向けられて良い気分がするわけないでしょう? 大体、本当に悪さをするつもりがあったら、とっくにやり返してるよ。相手はあなたみたいな子どもなんだもの、なおさら」
子どもって言うな、と不満げに睨まれたけれど、ナイフは鞘に戻してくれた。近くの椅子を引っ張ってきて私と暖炉の間に陣取り、やはり不審そうではあるものの、とりあえず受け入れてくれたようだった。
「まあ、害がないならいいけどさ。火種がなくても光るんなら助かるくらいだ」
ずいぶんと合理的で子どもらしからぬ冷静さだが、今はありがたい。
「それは良かった、お互いに。ところでさっき魔法生物って言ってたけど、この世界には魔法があるの?」
「セカイだのなんだのはよくわかんねーけど、おれも話には聞いたことがあるって程度。裕福なお貴族様や遠い都の王様なんかは、希少な魔法使いを侍らせてるって話だ。そいつらに魔法で便利な道具や生き物なんかを作らせて、天上の国みたいなすげえ生活をしてるんだとさ。おれには想像もつかないけど」
どうも限られた階層の人間に独占された技術のようだが、魔法が現実のものとして存在しているのは確からしい。なるほど、ファンタジーだ。ランタンになった私も大概だけど。
テーブルに頬杖をついた少年のまん丸い目がこちらを覗き込む。
「お前もそうやって作られたんじゃねえの?」
「少なくとも魔法で作られたわけではないねえ。こうなったことに魔法が関わっている可能性はありそうだけど……」
「なんだかよくわかんねーな」
「私も」
はあ、と二人分のため息が重なる。本当に、わからないことだらけで途方に暮れてしまう。
とりあえず彼は、おかしなランタンのことは保留にすることに決めたようだ。
「悪さしないんなら、とりあえずこっちもお前をどうこうはしない。何しろ、ランタンは高価だし。あとのことは、親父が帰ってきてから決める」
「親父? お父さんと住んでるんだ?」
「本当の父親じゃないけどな。それでも親父は親父だ」
なんだか、とても苦労しているお子さんだったようだ。それでも瞳が明るいので、そのひとをとても慕っていることは伝わってくる。信頼できる大人が傍にいるならよかった。
どうやらその「親父」さんは遠出しているようで、数日は帰らないらしい。離れた集落で狼が出たため、その駆除に向かったのだという。
「狼もいるんだ……」
なじみはないけれど、恐ろしい獣だという知識はある。被害者が出ていないといいのだが。
「最近、数が増えた。山で獲物が取れずに里に下りてくる。……この忌々しい冬のせいだ」
はっとするほど憎々しげに、少年は呟く。『冬』になにかあるのか。訊こうとしたが、その前に手を伸ばした彼に取っ手を持ち上げられ、急に視点が変わったので戸惑ってしまう。
「うわ、なにっ?」
「なにって、お前ランタンだろ。納屋に行くのに明かりが必要なんだよ」
椅子を立った彼は、先程床に落とした牡鹿の身体の前にしゃがみ込んだ。もう化け物には見えないが、光を失った虚ろな黒い瞳が痛々しく、意外に硬そうな毛並みに視線を落とす。すると、脇腹のあたりに木を削った手作り感満載の矢が刺さり、血が凝っているのを見つけた。
「この鹿、もしかしてあなたが仕留めたの?」
「そりゃそうだろ。このあたりに猟師は親父と、親父が仕込んだおれしかいない」
当たり前みたいに言うが、自分の体躯より大きいいかにも俊敏そうな牡鹿を矢で射止め、それを担いで来たというのはちょっと信じがたい。
「へえー……。すごいねえ」
そんな感想しか言えなかったが、称賛の気持ちは伝わったらしい。少し得意げに少年の声が弾んだ。
「親父が留守でもちゃんとやれるってとこ見せて、安心させてやらないとな。でも、仕留めて終わりじゃないぞ。血抜きはしといたけど、このままじゃどんどん肉が悪くなる。早く解体して吊るしておかないと」
「えっ、さばくの?」
「そう言ってるだろ。そのために納屋に行くんだ。血が飛ぶから、道具を取ってきて外でやる」
「スプラッタは得意じゃないんだけどなあ……」
「意味わかんねーこと言ってないで、行くぞ」
少年が立ち上がり、私を目の高さに掲げて呆れたように言う。
「まったく。盗まれたランタンを取り返したはいいけど、女の声でへんてこなこと話すようになったって言ったら、親父のやつどんな顔するかなあ」
へんてことはなんだ。
――いや。
今、なんて言った?
「……盗まれた?」
「ん? お前、話したんじゃないのか。青い目の男だよ」
青。とても鮮やかなその色。冷えた指。女神、と呼んだ声。思い出して、血の気が引く心地がした。
どうして今までおかしいと思わなかったのだろう。どこにも、あの青年の姿がないということを。
「ね、ねえ! あの人は? どこにいるの?」
突然取り乱した私に、少年は面食らった顔をする。
「はあ? どこって、知らねーよ。あのまま動けないでいるんなら、あの洞窟じゃないのか。随分弱ってたからな。おかげで抵抗されなくて済んだ。……いや、女神がどうとかって言って、すごい目で睨んできたけど。本調子だったら危なかったかもな」
どうでもいいことのように語るその内容が、信じられない。焦りと怒りで、目が眩んだ。
「あ、あなた、あの人をそのまま置いてきたの? 弱ってるってわかっていたのに」
「……何言ってんだ? あの男に関わる奴なんていない。あれは『いない者』だ。そう扱うように決められてる」
自分の耳が、頭が、おかしくなったのかと疑う。少年の言葉がひとつも理解できなかった。惨いことを言っていると思うのに、彼の表情に悪意は欠片も見えない。それが余計に、胸をえぐる。
「あなたの言ってること、ひとつもわからないよ。盗んだとか、決まりとか、事情は何一つ知らないけど、それでも。あの人はいる。生きてる。それなのに見捨てるのなら、そんなの――っ!」
人殺しと何が違うの。強すぎる言葉を飲み込んで、それでもありもしない喉が苦い。例えであっても、あの青年の死を連想させる言葉を使うのは嫌だった。
もどかしくてくらくらする。今、振り払う腕がない。彼のもとに走っていく足がない。それが悔しくて仕方なかった。
少年は呆然としていた。目を見開き、思わぬことで叱られた子どものような顔をしている。
「お前……」
何を言おうとしていても、聞く余裕はなかった。早くあの洞窟に行って彼を助けてと、懇願しようとした。しかし。
どん、となにか重いものがドアにぶつかる音がして、二人ではっとそちらに目を向けた。何かを引きずるような音と、荒い息遣いが微かに聞こえる。とっさに頭に浮かんだのは、先程話に聞いたばかりの狼のことだった。
でもまさか、こんな昼間に。
少年が一気に緊張を身にまとってナイフを取りだしたのと同時に、重い音を立ててドアが開く。その隙間から現れたのは、獣ではなかった。そのことにまず安堵する。
全身をボロボロの外套で包み、フードの上には薄く雪を積もらせている。荒い息遣いのその人物は腕をとても億劫そうに持ち上げ、フードを背に落とした。
現れたのは、獣の毛並みのような銀灰色の伸び放題の髪。その隙間から覗く白皙の
「あなた……」
無事だったの、と訊こうとして、その前に彼がその場にへたり込んだ。
「ちょっと、大丈夫!?」
弱っていると言った少年の見立ては本当のようだ。慌てるこちらを尻目に、彼は肩で大きく息をして、目を閉じ呟いた。
「……良かった、ツキシロ。無事、だった……」
そこにはただ、純粋な安堵だけが表れていて。彼がどれほど気にかけていたのかがわかって、どうしようもなく動揺した。またも全身雪まみれで、床についた腕さえぶるぶると震えていて彼の疲労の濃さを物語る。彼の方こそ満身創痍なのに、これほど真剣に、心配してくれていたのだ。
「な、なんで……」
どうしてそこまでするのかと、泣きたい気分になった。しかし、少年の硬い声で再会の空気は破られる。
「おい、何しに来た。掟を破る気なら容赦しないぞ。名無しの亡霊め」
子どもだとは思えないほどに鋭利な雰囲気をまとって、赤毛の少年は蒼い瞳の青年と対峙した。当然のように、その手には剥き身のナイフがある。妙な行動をすれば傷つけることも辞さないと、その態度が示していた。
蒼白の顔を上げ少年に視線を向けた青年は、かすれた声で途切れ途切れに答える。
「……不可侵の掟は、理解している。それゆえ、これまであなた方の領域で、見逃されてきたことも。……だが、今回はそれに背いても、頼みたい」
そして、その場に跪く勢いで頭を下げる。
「彼女を、返してほしい」
さすがに少年もこの行動は予想していなかったらしく、口を開けて唖然としている。信じがたいものを見るように、私と青年とを見比べた。
「……どうかしてるんじゃないか。この妙なランタンひとつのためにわざわざここに戻ってきたのかよ」
「私にとって彼女は替えがきかない。唯一の光であり、女神だ」
「いや、ランタンだろ」
真面目な顔での押収がなんとなく間抜けだ。口を挟みたいが挟めないまま、私は頭上でのやりとりを見守るしかない。
「大体、返すも何もこれはもともとおれのものだ。それをお前が盗んで持ち出した。おれはそれを取り返しただけで、どうこう言われる筋合いはないね」
「……それは」
「まさか喋るランタンになって戻ってくるとは思わなかったけどな。……ああ、そうか。これでただのぼろいランタンに付加価値が付いたってことになるのか。好事家に売りつければいい値が付くかもな?」
少年は目の高さに持ち上げた私をちらりと見て、口の端を上げて笑う。その瞬間、青年の纏う空気が変わった。
「彼女を売り飛ばす、と?」
「不満か? けど、お前から得るものがないんなら、おれとしてはそっちの方がマシだね」
なぜわざわざ彼を煽るようなことを言うのかと、気が気ではない。青年は全身から目に見えそうなほどの怒気を顕わにして、色を濃くした瞳の青にゆらりと炎のような感情を宿している。今にも少年に掴みかかりそうで、私ははらはらした。体格差はあっても少年は刃物を持っている。どちらにも怪我をしてほしくはない。
「待って待って、ケンカしないで! 大丈夫、売るっていうのは冗談だから!」
たぶん、と心の中で付け加えつつ、冷や汗ものの気分で割って入る。
睨み合っていた二人は、やや置いてようやく緊張を緩めた。不機嫌そうに少年が息を吐く。
「売り払うって言うのは冗談にしても、おれに得がないのは事実だろ。古くてぼろでも妙な何かに憑りつかれてても、ランタンは貴重なんだよ。この家にはこれきり。くれてやったら大損だ。親父にもどやされる」
少年としても、譲れない理由があるのだ。なんだか私が悪霊か何かみたいな物言いは気にくわないけれど。
一体どうすればいいのかと悩んでいると、何やら黙って考え込んでいた青年が呟いた。
「……なら、対価を支払えば、交渉の余地はあるということだろうか?」
「まあ、そうとも言えるけどよ。『お前』に支払える対価があると? そのへんから盗んできたのを代わりにしようなんていうのは受け入れないからな」
面倒ごとになるのは目に見えている、と少年は眉間にしわを寄せた。しかし、青年は首を振る。
「確かに『私』に対価の持ちあわせはない。だが、価値のある情報なら貨幣や物の代わりにはなるだろう」
「情報?」
少し目を大きくした少年は、興味を持ったようだ。何を言いだすつもりなのかと、私も固唾をのんで見守る。
青年は圧し掛かる疲労をやり過ごすように深呼吸をして、色のない唇を開く。
「……私が倒れていた洞窟だ。あの奥に希少鉱石の鉱脈がある」
「希少鉱石?」
それを聞いた途端、少年の声が尖る。不審に冷えたまなざしに、軽蔑の色があからさまに浮かんだ。
「お前、ずいぶんと馬鹿にしてくれるな。騙そうったってそうはいかない。あの洞窟の奥のことはおれだってよく知ってるんだよ。この森全体がおれの庭みたいなもんなんだからな」
鼻で笑い、失望も露わに吐き捨てた。
「あの奥には、確かに採り放題の立派な鉱脈がある。だがな、あれは碌に価値もつかない屑水晶だ。濁って色も悪い。あんなものが対価になるもんか」
残念だったな、と手のナイフを青年の白い頬に突きつける。
「間抜けな詐欺師と交渉なんかしない。出ていけ。話は終わりだ」
「……いや、まだ終わりじゃない」
「往生際が悪いな。その気にさせてやろうか?」
苛立った少年の手に力が入り、刃先が青年の白い頬に薄く傷をつける。滲んだ赤を見て、私はとうとう悲鳴を上げた。
「やめて! もういいから、はやく……」
ここを離れて、と言いたかった。けれど、こちらに向けられた青い瞳は、どこまでも深く凪いで穏やかだった。彼は少しも恐れていない。
「もう少し、話を聞いてくれないか」
「だから聞かないと言って……、おい、動くな!」
青年が懐に手を入れたため、その動きを警戒した少年が鋭く警告したが、意に介さない青年が無防備に動いたために刃先がさらに深く頬をえぐった。怯んだ少年が思わずナイフを引っ込めるくらい、それはあまりに自衛の本能を欠いた動きだった。
鮮血が頬を伝うのも構わず、彼は懐から取り出した手を少年に向かって差し出した。
「これを。よくみればわかるはずだ」
あちこちほつれた皮手袋の上には、親指の爪ほどの大きさの、黄色っぽく濁った半透明の石の欠片が乗っている。先程の話に出てきた鉱石だとわかった。
「……それがなんだよ。だから、あの鉱脈は屑水晶だって言ってるだろ」
理解不能の彼の行動に腰が引けている少年は、距離を取ったまま青年を睨みつける。青年は頬の傷を拭いもしないどころか、むしろ小さく笑みまで浮かべて続けた。
「いや。あれは全部、希少鉱石――
少年は聞くうちに半信半疑な表情になり、ためらいつつも頷いた。
「……ある。親父の知り合いに工房を持っている人がいて、作業を近くで見た」
「なら、話が早い。……そこの道具、少し借りるよ」
床に置かれたままだった道具から小型のハンマーに似たものを取り上げ、敷物の端に石を置いて軽く叩く。二つに割れた石を拾い上げる青年のすぐ横に近づいて、少年はその手元に熱心に見入った。
「鉱物には
そう言って手袋の親指と人差し指で挟んで掲げた石の欠片は、確かにナイフか何かで真っ二つに切ったかのような、とても平らな断面になっていた。それを少年の手のひらに落として、矯めつ眇めつする彼に説明を続ける。
「石の表面にできる筋が一番分かりやすい特徴だと思う。その石は結晶の縦方向にいくつも筋が入っているだろう。それは黄玉の特徴で、水晶の場合は横方向に筋が入る。結晶の形成過程の違いで、そうなる、らしい」
長々と説明して疲れたのか、青年の呼吸がますます荒く、怪しくなっている。それでも少年の真剣そのものの表情を見て、弱々しく唇だけで笑った。
「……どう、だろう。今度は信用してもらえた……?」
少年は苦々しげに彼を見て、手にした欠片に視線を落とし、ついに頷く。
「……ああ。これが水晶じゃないのはわかった。本当に黄玉かどうかはおれにはわかんねーけど」
「それは、大丈夫。実は少しずつ削りだして、採掘場所は伏せて商人に売ってみたことがある。毎回、それなりに良い値を付けてくれた」
「だーもう! それを早く言えよ!」
憤る少年は、それでもまだ動揺している。
「うっそだろ、あれが全部黄玉……!?」
大して価値もないと思っていたものが宝の山だと知らされて、まだ現実を受け止めきれていないようだ。その気持ちはわかるが、私としては刻々と悪くなる一方の青年の顔色と息遣いが心配で仕方ない。
「あの、和解できたならとりあえず、この人を暖炉の前にでも行かせてあげてくれない? すごく具合が悪そうなんだけど」
「え? あ、ああ、そうか……」
ようやく我に返った少年が、青年に手を貸そうとする。しかし、彼は伸ばされた手ではなく、少年が私を持つ方の手の袖を掴む。その切実な表情を見て、少年は心底呆れた声を出した。
「おい、そこまで執着するって尋常じゃないぞ……? ああもう、わかった。情報料としてこいつはやるから、その呪われそうな目でこっちを見るのはやめろ」
辟易したように言って、私を差し出す。青年はまごつく私をまるで繊細な宝物を受け取るかのように丁寧に両手で掬い取って、水中から顔を出してやっと空気を得たひとのように、深く深く息を吸った。
そしてその時見せた彼の表情を、私はこの先、決して忘れることはできないと思う。
晴れた空よりもまだ青い綺麗な瞳からこぼれた涙が、頬の傷に沁みるのにも気づかない様子で、一心に、恋するみたいに私を見て。一筋の傷以外は作り物みたいに白く滑らかな頬を、子どものような純粋な喜びで染めて、笑うのだ。無償の感情で、人生すべてを差し出されたような気がした。
――ああもう、そんなのはずるい。こんな顔をされたら、心を奪われずにいられるはずがない。
その気持ちを、『落ちる』ものだといったのは誰だったろう?
「おかえり」
あんまり嬉しそうにそんなことを言うから、私も思わず、安堵とともに応える。
「ただいま」
彼は眩しそうに目を細めて、その青を瞼の裏に隠して、そして。私を胸に抱えたかと思うと、横ざまに倒れた。床に当たった頭がかなり派手な音を立てたので、私はぽかんとした後大いに慌てた。
「え? なに? だ、大丈夫なの!?」
青年の答えがなく焦っていると、少年が伸び放題の彼の前髪を分けてその顔を覗き込み、呆れた声で言う。
「……寝てる」
「え、寝て……?」
「安心したんじゃねえの」
言って、彼から手を離した少年は抱えられたままの私を見下ろし、不可解なものを見る目で眉を寄せた。
「ほんと、気味悪いほど執着されてるのな、お前。こいつに何したわけ?」
「……わからない」
何か特別なことをした覚えもないので、それが正直な気持ちだ。困惑と新たに抱えた感情を持て余したまま、私は青白い瞼を落とした青年の顔をじっと見つめた。
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