第二章

1

 まぬけな声が、静寂に広がって消えたころ。どこか遠くで、どさどさと派手に雪の落ちる音がした。はっとして我に返ると、見れば目の前の男は目を閉じている。

 まさか、寝ている? そんなバカなと思いつつも呼びかけた。


「あの……?」


 すると再び青い瞳が現れたが、半開きだ。


「眠いの?」

「うん……。ずっと何も食べてないし、まともなところで寝ていない……。とても疲れた……」


 これは、もしかしなくても「寝るな!死ぬぞ!」的なあれなのでは?

 まさか本当に行き倒れだったとは、と焦りながら叫ぶ。


「ちょっと! こんなところで寝たら死んじゃうよ!」

「……なんだ、君は死の使いではないのか?」


 なんと、死神か何かと勘違いされている!

 我が身に降りかかった不可解な事象を考えると、自分の存在と夢現の境に疑問を感じなくはないが、断じて目の前で誰かに死んでほしくはない。それに、現状で一人にされたら怖いではないか。周りは見知らぬ夜の冬の森だ。しかも、結構な勢いで雪が降っている。


「私はそんなのじゃないってば! ほら、どこかに小屋とか何か、雪と風をしのげる場所はないの?」


 男は両手で私を抱えたままでふっと笑う。その表情にどきりとした。彼は、控えめに言ってもかなりの美青年なのだ。


「……私に、生きよと言う。確かに君は、死の使いではないな。……では、何者だろう?」


 先程と同じ問いを繰り返されるが、適切な答えを返せるとは思えなかった。


「何者かとか、私も頭がごちゃごちゃしていてよくわからないよ。それよりも今大事なのは、あなたのことでしょう?」


 私の現状も不安なことこの上ないが、今切実に逼迫しているのは彼の方だ。このままの状態でいれば間違いなく凍傷になってしまう。もう、なっているかもしれない。それがひどくすれば命に関わることは、呑気な女子高生にもわかる。


 だというのに、彼は意外な言葉を聞いたように瞬くのだ。そして、青い瞳を細める。何故かその表情を見て、泣くのだろうか、と思った。

 男は緩慢にランタンの私を引き寄せ、外套の胸あたりに押し付ける。


「そうか。君は、月光の女神なのだな。私を哀れみ、天からここに降りてきてくれた」


 ……なぜそうなるのかわからなかった。

 抱きしめられていると言ってもいい状況だけれど、私はとても複雑な気分で、ともすれば甘い睦言のようなそんな言葉を聞く。なにせ、今はランタンである。甘い気分も何もない。


「残念ながら、そんな大層なものじゃないよ。普通の一般人で、高校生」

「コウコウセイ?」

「ああもう、こんなこと話してる場合じゃないんだってば! あなたがこのまま死んじゃったら私、とても困るよ! 正直に言うと、このランタン状態のまま一人で放り出されるとかなり怖い! 感覚がないし身動きできないし、あなたを引きずって移動するわけにもいかないんだから、あなたを頼るしかないのー!」


 しまいには癇癪を起こしたようなものだ。私だって混乱している。自分の身に何が起こったか一つも分からない。それは信じていた足場がぼろぼろと崩れていくような恐怖だ。今は足なんかないけど。


 自虐的に考えつつ、ぐずぐずと唸る。実際には涙も鼻水も出ないけれど、鼻声にはなるらしい。嬉しくない発見だ。

 彼はなにが面白かったのか、笑っているらしい。小さく振動が伝わってきた。


「わかった。私の女神が灯をもたらしてくれたのだ。君のために、もう少し先へ進もう……」


 そう言って、雪に手を突き身体を起こす。それだけでもひどく消耗するようで、立ち上がった時には膝に手を当て、それでもふらついていた。

 彼の身体に積もっていた雪が落ち、左手に提げた私にかかる。それを払ってくれる彼を見上げて、あまりの顔色の悪さに不安が募る。


「……大丈夫?」

「頭痛と眩暈はあるが、君の声は聞こえてる。大丈夫だ」


 それは、かなりぎりぎりだということなのでは。


「どこか、行く当てはあるの……?」

「近くの岩肌に、ちょうど良い洞窟があったはずなんだ。……ただ、夜になったし、見通しが悪いから見つけられるかどうか」

「弱気になってもいいことないよ。一緒に探そう」


 当てがあると知って、希望が沸いてきた。しかし、岩肌と言っても、あたりは一面雪に覆われたほとんど平らな森が広がるばかりだ。木々の幹の向こうに何か見えないかと目を凝らした――つもりになった。


 すると、青年の足元を照らすのがやっとだった光の範囲が徐々に広がり、木立の影をくっきりと落として闇を照らした。例えるなら、車のヘッドライトで先を照らしたような明るさ。明らかにランタンの光量で可能なことではない。思わず怯むと、光は明度を落として元の範囲を照らす程度に戻る。


「……いまの、私が?」

「……だと思うけど」


 だよね。

 こんなところで、自分が立派なランタンになってしまったことを思い知らされるとは。呆然と黙り込んでいると、青年がくつくつと笑いだした。


「おかげで、洞窟を見つけられる可能性は高くなった。さあ、頼むよ女神殿」

「女神じゃないし!」


 むくれながら、再び意識を凝らして光の範囲を広げる。助かるけれど、やっぱり複雑だ。こんな特技、面接でも使えやしない。自慢もできない。

 悶々と悩みながらも、ふらつく足取りの彼を気にかけつつ光の先に目を凝らす。その間もしんしんと雪は降り続いたけれど、幸いにして、肉食獣に襲われることはなかった。あるいは、夜の森にあって異様なほどの輝きを放つ正体不明のこちらを警戒したのかもしれない。

 それはそうだろうと思う。私だったら絶対、不気味すぎて近づきたくない。





 時間としてはそれほどかからず、しかし見落とすわけにはいかないと神経をすり減らしていたこともあって、青年が目当ての洞窟を見つけた時にはすっかり疲れ果てていた。実際、洞窟の入り口が雪に半ば埋もれかけていたので、危ういところだった。

 この意識を凝らす作業、何か細かい作業を集中して続けることに似ていて、精神力をやたらと消費するのだ。むやみに使うことは避けようと肝に銘じて、洞窟の前に立ったところで光量を絞る。


 青年は這うようにして狭い岩の割れ目のような入り口をくぐり、少し開けた奥の空間に辿り着くと、とうとう力尽きたようにその場に突っ伏した。息は荒いが浅く、顔色も紙のように白いまま。暖を取らなければ、熱を奪われこのまま凍えてしまう危険に変わりはない。


「ねえ、火種を何か持っていないの?」


 洞窟の隅には枯れ葉が積もっているし、火をつければたき火くらいはできないか。

 しかし、彼は顔を伏せたままで弱く首を振る。


「ない。この急な大雪で湿気て、使い物にならなくなった……。そのうえ、日が暮れてランタンの火種も尽きて、往生して。そしたらあの通り……」


 この洞窟に辿り着く前に行き倒れた、というわけか。そして、その火の消えたランタンに入り込んだのが私。どういう因果なのか、ため息も出ない。


「私……は、たぶん火種にならないよね……」


 自分の今の状態がどうなっているのかさっぱり理解できないが、炎の形態ではなさそうな気がする。光量を調節できても、熱は感じない。地面に頬をつけてこちらを見た青年も、それを肯定した。


「無理だろうな。火というよりも、光を集めてランタンの中に入れたみたいだ。こうして、近づいても熱くない」


 言って、端正な顔の前に私を引き寄せ、ガラスに白い額を当てる。私にしてみれば額をつき合わせたような至近距離なので、少なからず動揺した。彼にはランタンにしか見えないのだからと、自分に言い聞かせる。


 彼の言葉から想像するに、私の状態はやはり炎には見えないらしい。表現通りなら、蛍の群れかウィル・オ・ウィスプか。幻想的なような、少し怖いような。

 しかし、火種になり得ないとすれば今は悪い知らせでしかない。


「ごめんね。役に立てなくて……」


 本来のランタンだったなら、火種を分けて彼を温めることができたのに。明るく照らすことはできても、熱を与えることはできない。私の本分はランタンではないけれど、気落ちした。

 目を開けた青年は、とても怪訝そうな顔をする。


「なぜ、謝るの? 君がいたからここまで来られたのに」

「それはそうなんだろうけど……」


 弱った彼に手を貸すこともできない不甲斐なさは、いかんともしがたいのだ。


「それに、君はランタンではなく、私の女神だろう?」


 彼がどうしてか、とても嬉しそうな表情で笑うので困ってしまった。しかも今はとても距離が近い。元の身体だったら、絶対顔が真っ赤だ。


「あれ、なんだか光がぐるぐるしてる」


 そうやって動揺が表れるのか! もう、自分の状態が自分で分からないのが、もどかしくて恥ずかしい。


「あのね! 私はランタンじゃないけど、女神様でもない。名前は月白。普通の人間だったの」


 思わず過去形で言ってしまい、我ながらぞっとする。本当に、この状況はどういうわけなんだろう。

 考えれば考えるほど恐怖にとらわれそうで、今はその問題は脇に避けておくことにする。青年は口の中でツキシロ、と呟いて青い瞳を細めた。


「不思議な響きの名だ。どういう意味を持つんだ?」

「え? ええと、月は空の月、白は色の白。月が綺麗な夜に生まれたからって、おじいちゃん、が……」


 問われるまま説明するうちに、まずい、と気が付いた。恐れた通り、彼は「我が意を得たり」とでもいうように満足げに頷いている。


「なるほど。女神にふさわしい名だ」

「ああもう、違うのに……!」


 またこの浮世離れした名前のせいでおかしなことになるのか。尊敬しているし大好きだが、それでも天体好きの名付け親が恨めしくなってくる。


「それで、あなたの名前は?」


 話題をそらすために話を振るが、急に重い沈黙が落ちた。当然の質問のつもりだった私は驚く。


「どうしたの?」


 問いかけても、こちらを見つめる彼の表情はこわばり、瞬きもしない目はガラス

玉に似て、また人形に逆戻りしてしまったかのようだった。


 いや、よく見れば瞳は動揺に揺れて、唇もわずかに震えている気がする。――何かに怯えるみたいに。

 急な変わりようにどうしていいかわからず、ただじっと彼を見つめ返す。


 やがて、彼がぽつりと呟いた。しわがれかすれた、初めよりもずっとひどい声で。


「……名前は、ない」

「ない?」


 鸚鵡返しに訊くと、ますます怯えたように視線を伏せて、唇を震わせる。


「ないよ。あってはならない、そういう名だから……」


 意味が分からない。けれど、彼の様子を見ていたら追及する気には到底なれなかった。幼い子どものように震えて、縋りつくようにランタンの私を抱き寄せる。


「……あの、事情があるなら無理には訊かないから、そんな顔しないで」


 宥めるようにそう声をかけると、苦しそうな吐息が聞こえた。


「君は、怖くなるほどに優しいな。……それに、温かい」


 優しくないと言われるよりは嬉しいけれど、怖くなるほど、と言われるとちょっとぎょっとする。そんなにおかしなことを言ったつもりはないのだけれど。

 それに、彼が暖を取るには私では心もとないはずだ。


「……たき火くらいには、あなたを温められるとよかったのにね」


 言っても仕方ないことを口にしてしまったが、彼は首を振る。抱え込まれていて見えなくても、振動で伝わってきた。


「たき火よりずっといい。ひとの温度とはこんなものだったかと、懐かしくなる。……おかしな言い方だろうけど、身体の内側まで温まるような、そんな温度なんだ」


 それは、覚えのある感覚だった。誰かの体温というのはほっとするものだ。

ということは、今の私も人肌程度の温度はあるということか。思いついたまま、彼に提案する。


「だったら、外套の上からじゃなくて内側で温めた方がいいかも」


 雪山なんかで遭難したときに熱を奪われないようにするため、肌を寄せ合って眠るといい、みたいな場面を何かで見た。人の体温程度なら、肌に当てても低温火傷をおこすことはないだろうし。


 というようなことを説明してみたが、青年はさっきとは別の意味で固まっている。緩んだ腕の中から仰いだ顔は心なしか赤い……ような気がした。


 考えて見れば、かなり際どい提案だったかもしれない。私自身、見た目はともかく中身はうら若き乙女である。そして相手は若い男。それを失念してしまうあたり、榊に「一応女」などと表現されても仕方ないのかもしれない。


「ご、ごめん。どうかなと思ったけど、嫌ならいいの……」


 さすがに顔から火が出る気分でもごもごと謝った。彼には動揺しきりでぐるぐるまわる光の群れが見えていることだろう。


「決して嫌ではないんだが……。君に無体を強いるようで気が咎める」


 む、無体ときたか。彼はどうも生真面目なところがあるようで、真剣に悩んでいる。そしてやがて、妥協案を出した。


「では、君が嫌でなければ、こうして抱えて眠ってもいいだろうか」

「いいけど、それじゃ寒くない?」

「これでも十分温かい。それに、君のおかげでこの洞窟に辿り着くことができた。もう凍え死ぬ心配もないだろう」

「本当?」


 それなら、第一関門突破と思ってもいいのだろうか。

 とにかく、彼に回復してもらわなければ身動きが取れないし、先の見通しも立てようがない。そんな打算ありきの自分が憂鬱だが、それを別にしても、彼には生き延びてほしい。この綺麗な青い瞳が損なわれて欲しくない。そう思っている。

 冷えた手袋を外し、外套を脱いで頭から被った彼に、光を最低限まで絞ってから囁いた。


「じゃあ、ゆっくり休んで。おやすみなさい」


 青年は小さく微笑み、挨拶を返す。


「……おやすみ、ツキシロ。私の小さな女神殿」


 そして、瞳を瞼に隠してすぐ、穏やかな寝息が聞こえてきた。この分なら彼の言う通り、命の危険は遠ざかったのだろうと安堵する。

 

 ぼんやりした仄かな明かりに照らされる、彼の冷えて真っ白な指先をわずかでも温めたいと願いながら見つめるうち、私もいつしか眠りに落ちていた。



   ❄❄❄



 気づけば真っ白な場所にいた。

 今度は一面の雪原とか、そういうものではない。足元も、視線の先も、なんの濃淡も変化もない混じりけのない白。その異様さから、すとんと納得する。これは夢なのだ。


 そうとわかれば、怖いものはない。上下左右の区別もつかない空間で、とりあえず気の向く方向へ歩いてみる。景色は変わらず白一色で、進んでいるのかいないのかもわからないが、とりあえず歩いている感覚はある。


 おかしなものだ。現実ではランタンの姿で、夢の中ではちゃんと歩くことができるだなんて。

 そういえば、あんなにはっきりと異常とわかる体験をしておきながら、一度も現実かどうか疑うことをしなかった。ただ事実に驚いて、混乱はしたけれど、それ以上に目の前で明らかに命の危険にさらされている妙な青年の方を気にかけないわけにはいかなかった。


 あれも夢、と言われたら納得してしまう。というか、そのほうが自然だ。自分がランタンになってしまうなど、どう考えてもあり得ない。

 それでも、あの見ていると息の止まりそうなほど綺麗な青い瞳を持つ青年と出会ったのが夢だと思うと、とても惜しい気持ちになってしまう。


 孤独で寂しそうな瞳を晴らしたいと思う。冷たい指先を温めたいと願う。ただのランタンには到底叶えられないことだとしても。


 物思いにふけりながら歩くうち、周りに変化が起きていたことに気づく。一面の白が前方に行くにつれ色を変えて、濃い灰色に変わっていく。その先にいるのは、なにか小山のような大きなもの。――いや。


 よく見ればそれは、とても見覚えのある灰色の毛並みを持つ、大きな獅子の背中だった。

 思わず足を止めると、気配を察したのか獣が振り向く。金色の双眸を眇めて、なにかとても迷惑そうにため息をついた。


『どうやってここに来た? まったく、予定にないことをしでかしてくれる』


 喋った。獣が。恐ろしげな牙を剥く口元は動いていないけれど、低い声は確かにそちらから聞こえた。


「あなた、私たちを襲ったのと同じ獣、だよね?」

『……ふん。小娘のくせに、肝は座っていると見える』


 長い尾を揺らして、肩越しにこちらを睨みながら小憎らしいことを言ってくれる。

 夢なのだから獣が喋るくらいはありうるだろう、と余裕な気分だった。いちいち驚いていても仕方ない。


「あなたには言ってやりたいことがいくらでもあるの。よくも私たちを脅かして、ひどい目に合わせてくれたね? おかげでなんだかとても変な夢を見たんだから」


 腕組みして文句を言うが、獣はますます嫌そうに、呆れたような口調で言う。


『どこまで呑気で頭の悪い娘なのだ。こんな者に役目を与えるのは非常に不快だが……。長く待たされたのだ、これ以上予定を狂わせるわけにはいくまいな』

「……何言ってるんだかわからないけど、聞こえよがしの悪口ははっきり聞こえた。ケンカなら買うよ?」


 何にしろ夢だと思えば気が大きくなる。加えて昔、家では猫を飼っていたので、獅子だって同じ猫科だと思えばなんとかなりそうな気がしてきた。都合よくエノコログサでもどこかに生えていないかときょろきょろして、はっとする。こんなことをしている場合ではなかった。


「ねえ、あなた榊に怪我させていないでしょうね? 困るよ、あいつが私をかばって大怪我だなんて。学校中を敵に回すし、絶対あいつに恩に着せられるんだから」

『やれ、落ち着きのない娘だ。お前の戯言になど付き合ってはいられぬ』


 牙を剥いて威嚇される。さすがに怯んで口をつぐむが、不安はありありと顔に出した。いかにも頭が痛いというような半眼で、こちらに身体ごと向き直った灰色の獣は尾で足元を叩き、開口一番に告げた。


『よいか。まず、これは夢などではない』

「……はあ?」


 素っ頓狂な声が漏れたが、相手はもう意に介すつもりはないらしく淡々と続ける。


『お前が夢だと思っているあの世界のことも同じこと。お前は今、元の世界との狭間にいる。ここは本来私の領域だが、どういうわけかお前が入りこんで来おった。まあ、出向く手間が省けたのだから良しとしよう』


 そうして自分の中だけで納得して、話を進めていってしまう。慌てて口を挟もうとするが、強く睨まれ制されてしまう。


『親切に説明してやるつもりはない。あとはお前の役目だ。物語を進めるも終わらせるもお前次第』

「なにそれ、ひとつもわからないよ。そんなことで納得できるわけないでしょう」

『知らぬ。もう決められたことだ』


 獣はつんとそっぽを向いて、そのまま背を向ける。


『何を言ったところで、どうせこの場所でのことはお前の記憶には残らぬ』

「えー! なにそれ横暴!」

『……まこと、気にくわぬ娘』


 金の瞳がじろりとこちらを射抜き、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


『よかろう。喧嘩ならば買うといったな? ならば、これは私とお前の勝負だ。お前は物語を進め、私のもとまで辿り着いて見せるがいい。それが叶えばすべて、訊きたいことを説明してやろう』

「なんか妥協してやるみたいな言い方だけど、そもそもこっちが巻き込まれた側だよね? なんでそんなにエラソウにされなきゃいけないの」

『私とて物語に捕らわれた身。そうそう自由が利くものか』


 頬を引きつらせて不満を述べると、苛立ったような答えが返る。

 『物語』とこの獣は何度も口にする。それは、つまり――。


「待って。じゃああの森は、あの世界は」

『戯れの時はしまいだ。さっさと行け』


 長い尾が手で払うような仕草で振られれば、急速に目の前の灰色の獣は靄で霞むようにかき消されて白い世界に戻っていく。

 叫んでも詰っても獣が再び現れることはなく、いつしか自分自身の境さえ分からなくなって、意識も白に溶けていった。

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