3

 祖父が自室に戻って再び原稿に集中しているのを確かめて、慎重に家を出た。夜になると外はすっかり肌寒いので、薄桃色のカーディガンを羽織ってきていた。

時間が惜しいので、普段は徒歩通学だが自転車を使うことにする。夜なら許可証明代わりのステッカーがなくても、見とがめられることはないだろう。


 蒼宮学園がある市の外れの小高い山を目指し、橋を渡り駅前の通りを突っ切って自転車を漕ぐこと十分足らずで到着する。予想通り、校門周辺には部活帰りだろうジャージ姿の生徒たちが賑やかに群れていた。彼らとは逆に校内に入っていく私を少々不思議そうに眺める者はいたけれど、大きく目立つことはなく侵入に成功した。

 自転車のスタンドを立てて、カーディガンの袖に手を引っ込めてさすりながら歩きだす。冷たい外気に晒されて、指先がかなり冷えていた。


 校舎に沿って歩き、教室棟と特別棟の間を抜けて昼間と同じく渡り廊下を横断する。こちらは体育館と逆方向なので、人目を気にする必要もない。ぽつぽつと灯る外灯を頼りに裏庭に出ると、礼拝堂の白い壁を覆い隠すように茂る木立の手前に設置されたベンチに目当ての人影を見つけた。


 古風なガス灯の下、琥珀色の淡い光の中でこちらに気が付いた彼が顔を上げ、不機嫌そうな表情になる。そんな様さえ絵になるのだから美形は羨ましい。もっとはっきり言えば、妬ましい。


「……遅い」


 そう文句を言う彼は詰襟の制服の上には何も着ておらず、肘を抱えている姿はいかにも肌寒そうだった。駆け寄りながら、遅れてしまったのは事実なので謝る。


「ごめん、これでも急いで来たんだけど。榊も自転車で?」

「おれは徒歩。家は御山町だから」

「うわ、近いなあ。羨ましい」


 そんな会話をしながら、立ち上がった榊とともに旧図書館に向かって歩く。


「ところで、門を閉められたら自転車はどうするんだ?」

「え……。そこまで考えてなかった」


 急がなければ、ということしか頭になかった。深々とため息をつかれて慌てる。


「えっと、今のうちに移動した方がいい?」

「やめておけ、不審に思われる。正面じゃなく裏の門に回れば人目にもつかないし、まあ何とかなるだろう」

「申し訳ないです……」


 恐縮しつつ、肩にかけた鞄を撫でる。


「うう、いろいろ準備してたら家出るの遅れちゃったからなあ。すぐに出てくればよかった」

「いろいろって、何を持ってきたんだよ」

「懐中電灯とメモ帳とペン、あとひざ掛けと緊急時のおやつ」


 指折り数えて見せると、正気を疑うようなものすごい視線を向けられた。


「お前はピクニックにでも行く気か?」

「だって、夜は冷え込むし長引いたら小腹もすきそうじゃない。腹が減っては何とやら、でしょ。あ、あったかいお茶も水筒に詰めてきたよ。飲む?」

「いらない。余計なものばかり持ってきて、肝心の手掛かりのメモを忘れてないだろうな……」

「いくらなんでもそんなヘマはしません!」


 むっとして、鞄から取り出した白い封筒をひらひらと見せつける。すると、それをひょいと奪われた。


「あー! 榊の卑怯者!」

「うるさい。誰かに見つかったらどうするんだ」


 そう言われてはわめきたてるわけにもいかず、口をつぐんで唸る。やっぱり卑怯だ。

 彼はメモを取り出し、微かに届く外灯の明かりにかざしてそれを読む。


「ふうん……。確かにこれは、図書分類記号だな」

「うん。それで、託すって書いてあるからには『灰の国』っていうのが作品のタイトルなのかなって思ったんだけど。……でも、なんだか変なんだよね」

「変って?」

「おじいちゃん、遺作の話は初耳だって言ってたの。でも、おじいちゃん宛ての手紙にはこのメモが入ってた。これを見ていたら、もしかしてって思うはずでしょう? 嘘をついたとも思えないんだけどなあ」


 うーん、と腕組みしてみても、考えて答えが出るものでもない。


「手紙にはなんて?」

「さすがに、申し訳ない気がして読んでない。本当は、おじいちゃんに手紙を見つけたことを正直に言って、読んでもいいか訊こうと思ってたんだ。でも、そのいかにもなメモが出てきたから慌てちゃって……」

「まあ、それはそうか」


 明日、改めて祖父に話してみようと決める。榊がメモを封筒に戻し、返して寄越すのを受け取る頃には、旧図書館へと続く石段の下に着いていた。

 黙々と登る間、周りを囲む木立がざわざわと風に音を立てる。不気味に感じても良いところだけれど、気分が高揚しているからかあまり気にならない。もしかしたら、怖がったりしたら馬鹿にしてくること間違いなしの、不遜な相棒が一緒のおかげでもあるかもしれなかった。


 夜に見ると、もともと要塞のような武骨な造りの旧図書館は余計に迫力ある佇まいに見える。念のために正面の扉に手をかけてみるが、やはり鍵がかかっていた。


「戸締りはされた後だな」

「じゃあ、この後ここに誰か来て見つかる心配はないね」

「ああ。向こうに回るか」


 壁に沿って正面扉から離れると、外灯からも離れることになるので足元はおぼつかなくなる。今日の月は半月よりは膨れているが真円には遠く、光源としては頼りない。何度か躓いて転びかけたあたりで、いかにも仕方なしに、という態度で榊が手を取ってくれた。


「懐中電灯使っちゃだめかな」

「誰かに見られたら困る。中に入ってからにしろ」

「だよねえ……。ところでさあ、榊」

「なんだよ」


 私の手を、というよりは手首を掴んでいる彼の手を見おろす。手を繋いでいるというよりは、連行されているかのようだ。


「暗闇で年頃の男女が二人、手を繋いでいるというのに欠片もときめきがないのは、由々しき事態だと思わない?」

「別に問題はないだろ。急にお前に襲われるよりましだ」

「私が襲う方なの?」

「おれにお前を襲う理由があると思うか」

「うーん、思わないねえ……」


 あらゆる女性からより取り見取りだろう榊に言われると、到底反論できない。

 そうして中身のない会話をしているうちに、長い壁の終わりが見えてきた。榊が一番端の窓の前に立つ。空の月が白く溶けたような形で、表面に歪みのあるガラスに映り込んでいる。彼が窓の木枠に指をかけて横に引くと、微かに軋む音を立てて窓は開いた。


 旧図書館の窓は古い引き戸で、鍵も木枠にくっついた鍵を穴に差し込んで固定するという旧式のものだ。この窓は随分前からその鍵が壊れて用を為さなくなっていたが、奥まった窓で目立たないためか修繕もされずに放置されている。少なくとも、私たちが入学したときには既にそうなっていた。そういうわけで、私たちのような小悪党に重宝される出入り口となっている。


 少し高さがあるので、枠に手をかけ身体を引きあげるようにして榊が先に窓をくぐる。私も続きたいところだが、一介の女子にはなかなかハードルが高い。肩に掛けた鞄も文字通りお荷物になるのに気づき、引き上げようと手を差し出してくれた榊に先にパスすると「重い」と文句を言われた。


「なんだこれ、鈍器として使えるんじゃないか?」

「うるさいなー。いいでしょ、これから役に立つんだから。それと、私にまでそれを言ったら絶っ対許さないからね?」

「はいはい」


 しっかり牽制しておいて、今度こそ彼の手をしっかり掴み、スカートの裾に気を付けつつ木製の窓枠によじ登る。下に運動着のハーフパンツを履いてきたので恥ずかしがる必要はないが、木枠が古いのでささくれにひっかけないよう注意しなければならない。

 何とか無事に中に着地し、礼を言って鞄を受け取る。榊が窓を閉めている間に、鞄を探って懐中電灯を取り出した。


「明かりはなるべく上に向けるなよ。窓に映る」

「了解、っと」


 言われた通り床に向けた状態で点けると、くすんだ赤絨毯が鈍い光で丸く照らし出された。床を辿って本棚の列の足元を照らす。なんだか、明かりがあった方がかえって不気味に感じてしまうのが不思議だ。切り取られた光の中に暗闇から何かが現れるのでは、という恐怖感があって、本棚と本棚の間を無闇に警戒してしまう。


「なんだ、今更怖くなったのか?」


 怖気づいているのに気づいたらしく、榊がからかうような声音で言う。しかし、重ねては何も言わず、懐中電灯を奪って促した。


「代わってやる。お前は無駄に大荷物だしな」

「無駄って言わないでよ…って、ちょっと待って、置いてかないで!」


 さっさと歩きだした榊に慌てて追いすがる。ちょっと見直すとすぐこれだ。これほど油断がならない奴もそうはいない、と内心で文句を言いながらも、ありがたく彼の後ろに張り付く。

 榊はさっき一瞥しただけのメモの内容をすっかり覚えているようで、確認することもなくすいすいと本棚の間を縫って歩く。時折本棚に付けられた分類の見出しを確認しながら、ぽつりと言った。


「他の著作がある場所とは全く違うみたいだな。どうりで見つからないわけだ」

「わざわざわかりにくい場所に置いてメモを残したってことは、灰条先生は遺作を隠したかったのかな……」

「少なくとも、誰にでも見せたいわけではなさそうだな」


 やがて、彼はある本棚の前で足を止めた。


「この辺りだ。分類記号は……」


 榊がすらすらと暗唱した記号に従って、ずらりと並んだ背表紙のシールを確認していく。しかし、何度確認してもメモにある分類記号も作品名も見つからない。念のためと封筒の中のメモを取りだしてみても変わらなかった。


「旧館じゃなくて、新館の分類記号だったのかな……?」


 灰条の遺したメモというだけですっかりそうだと思い込んでいたけれど、考えて見れば根拠もない。新館の方はセキュリティがしっかりしているので忍び込むのは不可能だし、祝日明けの明後日にならないと確認はできない。あるいは、全く別の場所の可能性だってある。

 無駄足だったのだろうかと肩を落とすと、榊は首を横に振った。


「いや。新館と旧館、それぞれに所蔵されている本に付けられた分類記号は違う。旧館のものは、現在日本で全国的に採用されている十進分類法が普及する以前の、各図書館が独自に導入していたものを引き継いでいるんだ。だからこの記号の並びは、この蒼宮学園の旧図書館以外に存在しない、決定的な手掛かりのはずなんだが」


 思わずぽかんとしてしまう。彼が当たり前のように語った内容は、高校生の一般常識なんだろうか。違うと信じたい。


「本当に、榊が味方で良かったと思うよ、私……」


 呆れ半分の呟きが全く耳に届かないかのように、彼は本棚を見つめたまま顎に手を当てて思考に沈んでいる。邪魔をする気にはなれなかったので、私も自分なりに考えてみる。が、数秒で諦めた。

 鞄の中をごそごそやっていると、榊が眉を寄せてこっちを見る。


「……なにやってるんだ」

「あ、榊も飴なめる?」


 自分の頬で転がしているのと同じ小分けの袋に入ったレモン味の飴を見せると、ますます眉間の皺を深くする。


「図書館は飲食厳禁だ」

「新館はそうだけど旧館にそんな規則はないよ。硬いこと言わない、考え事には甘いものでしょう。大丈夫、ゴミは持ち帰るし飴なら滓も落ちないもん」


 そう決めつけて、彼の懐中電灯を持っていない方の手に飴を押し付けた。手のひらのキャンディをしばし眺めた彼は、反論を諦めたようにそれを開けて口に放り込む。これで共犯成立、とこっそりほくそ笑んだ。

 人並み外れて整った彼の顔の中で、飴玉でぽこりと膨らんだ頬だけが妙に幼い。視線は本棚に固定したまま、ぶつぶつと独り言を漏らす。


「あれは、あのまま本の位置を示しているわけではないのか……? 入れ替えるか、前後にずらすのか、それとも……」


 口の中の飴玉が随分小さくなった頃、思考に没頭している彼をよそに、私は本棚に手を伸ばした。メモに記されていた分類記号があるはずの、一つ前の場所にある一冊だ。西洋の古い鏡を集めた図録のようだった。

 一拍遅れて気が付く。ここは、夕方に掃き掃除をした時に足を止めたのと同じ、芸術関連の書籍を集めた一角だったようだ。


 何か妙な縁を感じながら本の表紙を眺める。暗いので色はよくわからないが、濃い色の革張りの装丁に箔押しの文字がくっきりと印刷されている。その下の飾り枠の中には、花と獅子の形の衣装があしらわれた豪奢な枠を持つ姿見の絵が描かれていた。


 表紙をめくると、目次に始まり各国ごとに分けられた分類に従って、鏡の写真や図がモノクロで掲載されていた。表紙のものと同じような凝ったデザインの縁取りが付いた姿見や、シンプルながら珍しい八角形の手鏡など、まずデザイン性に目を奪われる。しかし、解説文の文体は古めかしい言い回しや漢字が多く、文字も小さくびっしりと並んでいるので読みこむのには相当の根気が要りそうだった。


 最後まで大ざっぱにめくったあたりで、ページの間に挟まっていたらしい何かの紙片が床に落ちた。今日はよく物を落とす日だ、と思いながらしゃがんで拾い上げ、そのまま動きを止めた。

 適当に破り取ったノートの切れ端のような紙片。見覚えがある。ひっくり返し文字を見て、何故だか背筋が粟立った。


『奥を見るように』


 やや右下がりの濃い筆跡は、かの作家のもの。彼の声を聞いたこともないのに、耳元で囁かれたような気がした。

 奥とは、なんのことか。戸惑いながら立ち上がろうとして、本を取りだした場所がちょうど目線の位置になった時、違和感を覚えた。


「……あ」


 直感に従って、棚の本を出し床に積む。怪訝そうな榊の手ごと懐中電灯を掴み、棚の背板を照らす。驚きの声が重なった。

 背板に同化するようにして、薄い冊子がそこに隠されていた。顔を見合わせると、視線で促されたので手を伸ばして冊子を手に取る。

 クリーム色の表紙のシンプルなノートだ。表紙には『No.70』とだけ書かれている。


「灰条色の新しい創作ノートだ……」


 思わずというように、感嘆の声音で榊が呟く。そうだ。全集で確認したばかりだ。収録されている創作ノートの最後の番号は『No.69』だった。


「ほ、本物……?」

「はやく開けてみろよ、じゃなきゃ何も確かめようがない」


 なんとなく小声になりながら動揺しつつ横を窺うと、同じく懐中電灯で照らしながらノートを覗き込んでいた榊に、焦れたように急かされる。

よし、と覚悟を決めて表紙をめくった。しかし。


「白紙?」


 めくってもめくっても、何も書かれていないページがあるばかり。最後までめくって、再び最初まで戻って、それでも何も変わらないのを確認し、がっかりする。

 ここまで期待させておいて何もないだなんて、ひどすぎる。そう愚痴ろうとしたとき。


「……なんだ、その染み」

「え」


 見れば、表紙をめくった最初のページの真ん中に黒いインクの染みのようなものがぽつりとある。こんなもの、あっただろうか? 疑問に思っている間に、その染みが広がった。

 種が芽吹くように、黒い点から唐草模様に似たものがざわりと横に伸びていく。唖然として見守っているうちにその動きは止まり、模様は文字を形成していた。

『灰の国』。そう書かれている。


 人間、思いがけないことが起こると本当に頭の中どころか目の前まで真っ白になるのだと、身をもって学んでしまった。


「み、見た……?」


 ようやく声が出せるようになってから隣りに問えば、固い声で「見た」と応えが返ってくる。自分がおかしくなったわけではないらしいが、とても安心はできない。手が驚きのあまり固まっていなかったら、ノートを放り出していたと思う。


 しかも、変化はそれだけに留まらなかった。

 『国』の字から再び唐草模様が這い出して、ページの端へと伸びていく。ノートを抑える親指にそれが触れそうになり、つい悲鳴を上げながら指を浮かせると、模様は端からページの下に潜り込んでいった。風もないのにページがめくれて、先ほどは白紙だった見開きのページにざわざわと黒い模様が広がっていく。


 それは幻想的というにはあまりに非現実的で、どちらかといえば不気味な光景だった。けれど、目が離せない。これが怖いもの見たさというものだろうか。


「ねえこれ、どういう仕掛けだと思う? 流行りのプロジェクションマッピングとか?」

「光源も機械もないのにこんなことできるかよ。そもそも今、勝手にページがめくれたよな?」

「じゃあ本物の怪奇現象!? 初めて見るけどあんまり嬉しくないねこれ!」

「確かにな」


 やけになって会話している間もノートの上で模様は広がり続け、やがて右のページの残り数行を残して動きが止まる。条件反射のように、文字の最初から目を通した。


 それは、物語の一場面を綴っていた。

 葉が枯れ落ち冬へと向かう森の中を、頼りない人影が彷徨っている。その人物は頭から足元までを古ぼけた外套で覆っており、その年齢も容貌も窺い知ることはできない。

 枯れ葉を舞いあげる強い風が吹き、気をとられた人影が転ぶ。白い手を突き、フードが取れた顔を上げるーー。


「これ、私、見た……」


 衝撃とともに思い出した。疑いようもない。私は、この場面を知っている。目が覚めるとともに薄れてぼやけ、思い出せなくなっていた夢の中で。『彼』と目が合った。


「見た?」

「う、うん。あのね……」


 うろたえながらも説明しようと榊の顔を仰いだとき、妙な音がした。音というよりは、声に近いかもしれない。何か、獣が唸るような。

 目を合わせた榊も目を見開きこわばった表情をしていて、彼にも聞こえたのだと知る。


「おい、今度は何だっていうんだ……?」


 勘弁してくれ、と言わんばかりにぼやきながら榊が振り返ったその背後、本棚に挟まれた通路の奥に、なにか大きな影がある。榊が持つ懐中電灯の丸い光が、絨毯を辿って通路の奥に動き、影を足元から徐々に照らす。

 まず、毛に覆われた巨大な脚が。次に灰色の立派な鬣が。そして、獰猛そうな顔つきの中で鈍い光を弾いて光る対の瞳が現れる。


 灰色の毛並みの、大きな獅子だった。じっとこちらを見つめる瞳は金。牙を剥いていなくても、その迫力は身の危険を感じさせるのには十分すぎる。息を呑んで、二人同時に後退った。榊の背中に張り付いて小声で言う。


「あ、あれって本物……っ!?」

「どこにも投影機材は見当たらないな……。それに、あれ」


 懐中電灯が獅子の足元を照らす。がっしりした脚が踏み出すと、ぎしりと床が音を立てる。しかも、絨毯にしっかり影を落としているのが見て取れた。これで、儚い希望は潰えたことになる。

 逃げるぞ、と榊が囁き、腕を取られて踵を返す。彼が走るのに合わせて前方で懐中電灯の光がぐらぐら揺れ、背後からは唸り声と床が軋む音が追ってくる。いい加減、パニックになりそうだ。


「どうして図書館の中にあんなのがいるのー!?」

「おれが知るか! いいから走れ!」

「走ってる、けど! 榊とは脚の長さが違いすぎるんだからさあ!」

「泣き言言ってると見捨てるぞ!」

「ばかっ、化けて出てやるからね!」


 恐怖と混乱でぎゃあぎゃあ言い合いながら本棚の迷路を走り抜ける。もう方向感覚も分からなくなっていたが、やがて壁のある壁際が見えた。ほっとしたのもつかの間、急に榊が足を止めた。止まりきれずに背中にぶつかり、顔を抑えながら前を覗き見ると、窓の前に獅子が塞いでいる。回りこまれてしまったのだ。

 再びじりじりと距離を詰めてきた獣に対峙したまま、榊が舌打ちする。


「あいつはおれ達がどこを逃げ道にするのかわかって先回りしてる。このまま追いかけっこしていたら分が悪いぞ」


 すでに息切れして肩で息をしている私にもそれは理解できた。窓は塞がれ、扉は外から施錠されている。逃げ道にはならない。しかし、だからといって諦めるわけにもいかない。ぐるぐると恐慌状態一歩手前の頭で考えて、はっとした。


「こっち!」


 榊の手の懐中電灯を奪って彼の腕を掴み、窓とは違う方向に向かって走る。榊が戸惑った声をあげるが説明している余裕はない。すぐに入り口の扉が見えるが、その前にすぐ、大きな獣が割り込んでくる。一体どんな脚力があればそんな素早い移動ができるのかわからない。が、躊躇はしなかった。もとより、目的の場所はそこではない。


 途中で進路を変えて通路を曲がった。榊の手を離して光で前方を示せば、彼からすぐにわかった、と返事が来る。元は貸し出しカウンターだった長い木製のテーブルを、走る勢いのまま飛び越える。すぐ背後に迫る獣の気配に焦りながらも、カウンター内のドアの中に二人で駆け込んだ。


 ドアを閉め、鍵をかけたところで外から唸り声が聴こえる。ようやく安堵して、揃ってその場にへたり込んだ。

 どちらからともなく手を上げ、手のひらを軽く打ち付ける。


「まったく、寿命が縮まった」

「同じく。うう、カウンターに脛ぶつけちゃった……」

「それでも離さなかったのか、それ」


 言われて、ずっと抱えたままだったノートに気づく。さっきの妙な現象を思い返せば気味が悪いけれど、うっかり放り出さなくてよかったと思う。表紙を撫でて、ため息をついた。


「結局、あれってどこから来たんだろう?」

「さあ。それより、これからどうするかだろう」


 榊は不思議の解明よりも、脱出方法の考察に意義を感じるらしい。さっさと立ち上がり、促されるまま手渡した懐中電灯で真っ暗な小部屋の奥を照らす。

 無造作に積まれた長テーブルや椅子、中身のわからない段ボール箱が無数にあり、壁を覆っている。入ってきたドアが使えない以上、他の出口を探してみるべきだろう。私も立ち上がり、スカートの埃を払う。あまり考えたくないが、明るいところで見たらとんでもなく薄汚れた格好になっていることだろう。


 二人がかりで雑然とした荷物を次々どかしていくと、奥の壁に何か光を反射するものが見えた。勢い込んでその前を重点的に片付けていったが、確認してみれば期待したものとは違っていた。


「窓じゃなくて鏡か……」

「期待させないでよもうー」


 すっかり意気消沈してしまう。その辺の椅子に腰かけて、力なくドアの方を見た。


「まだあいつ、いるのかな」

「どこかに行ってくれるといいが、そもそもどこから来たかもわからないしな……。大体あれは、現実のものなのか?」

「足音も影もあったじゃない」

「けど、本来ならあんなもの、ここにいるはずがない。あるはずがない出来事なら、もうひとつあっただろう」


 言って、私の抱えるノートを示す。なんだか、またあの模様がページの隙間からぞわりと這い出してきそうな気がして、膝の上から持ち上げる。


「これが原因ってこと?」

「可能性としては。本当ならこんな馬鹿げたことを、真剣に考えたくなんかないけどな」


 確かに、普段の榊は現実主義的で、いつもなら私を皮肉っぽくあしらうのは彼の役割だった。しかし、自分の目で見た現象となれば、無視もできないのだろう。私も同じだ。わけは分からないけれど、少なくともこれは夢ではない。


「あれがあのおかしな模様みたいにここから出てきたものだとして。なんのために出てきたのかな」

「訊いてみるか? あいつも日本語が話せるといいな」

「……調子が戻ってきたんじゃないの、榊」


 さっそくの皮肉に、顔をしかめてそっぽを向く。するとちょうど壁面の鏡が目に入り、改めてじっくりと見た。そして、何か不思議な感覚を覚える。


「あれ?」


 思わず疑問を口に出し、椅子を立って鏡の前に立つ。アンティークだろうか、鈍い金色の装飾が枠に施されており、重厚な雰囲気を感じる。丁寧に彫り込まれた細い唐草模様は、なんだかノートから現れたあの模様に似ている気がした。見たことがあるような、不思議な感覚がしたのはそのせいだろうか。


 ふと視線を上げて、思わず声を上げる。鏡面を覗き込むように身を乗り出す獅子と、その周りを彩る大きな牡丹の花の飾り。見覚えがあったのはこれだ。ついさっき、古い鏡の図録の表紙に描かれていた鏡そのものだった。


「ねえ榊、これ……」


 振り返って伝えようとしたが、声を失った。

 いつの間にか、すぐ後ろに彼が背を向けて立っている。そしてその背中越しに、あの灰色の獣の金色の瞳が見えた。おかしい。ドアが開く音も、壊される音もしなかったのに。しかし、狭い小部屋の中に圧倒的な存在感を持って立つ獣の気配が幻だとは、到底思えなかった。


「どうやって!?」

「わからない。ドアの方に目を向けたら、もうそこにいた」


 道理で、物音も立てずに先回りができたはずだ。相手には物理法則が通用しないらしい。

 そんなのは反則だ。最初から負けが決まっていただなんて。

 獣はじわりと踏み出して、距離を詰める。先程ああは言ったけれど、説得を試みてどうにかなるような雰囲気ではなかった。


「飴玉投げたら気をとられたりとか、ないかな……?」

黄泉平坂よもつひらさかか。これが餓鬼なら良策だったかもしれないが、どうも期待できそうにないな」


 軽口を交わしても、張りつめた緊張感はゆるぎもしない。相手が距離を詰めた分だけ、こちらも後退る。けれど狭い小部屋だ。あっという間に壁まで追いつめられる。


「ああもう、だったら実力行使あるのみじゃん……!」


 焦りのままに、肩に掛けていた鞄を下ろして握りしめ、榊の前に出ようとする。鈍器と称されたこれをぶつければ、多少はダメージになりはしないか。武器としては心もとないが、幸い周りには椅子やら机やら、ぶつけるものには事欠かない。そう思ったけれど、その前に榊に止められてしまう。


「ばか、引っ込んでろ!」

「離してよ榊! そりゃあ勝算はないけど、黙って食べられてやるわけにいかないんだか、ら……っ!?」


 威勢よく啖呵を切るつもりだったが、言葉の最後は悲鳴になった。後ろ脚に力をためた獣が、明らかにこちらに向かって飛びかかる姿勢になったのだ。今度こそ鞄を投げつけようとしたが、後ろから腕を取られて引っ張られ、倒れ込んで床に尻もちをつく。そのまま上から頭を抱え込まれた。


 このままでは、榊が襲われてしまう。自分の代わりに怪我をしてしまう。それだけは嫌だと焦った。もがいても力ではかなわず、振りほどくこともできない。

どうしてこんな時にかばうのだ。命の危険は同じなのに。普段は皮肉と憎まれ口ばかりのくせに。目の奥が熱くなり、振り回した手が背後の冷たい鏡面に当たる。

 獣の咆哮が聞こえ、頭の中は真っ白なまま、とっさに叫んだ。


「お願い、―――!」


 何を叫んだか、必死すぎて自分でも覚えていない。

 ただ、ガラスが割れる耳障りで身が竦むような音が降ってきて、そのまま何もわからなくなった。



   ❄❄❄



 しん、と無音のような静寂があった。どこかで重たい何かが滑り落ちる音、遠くを渡る風の低い音が時折微かに聞こえるだけだ。

 目を開けると、あたりは暗い。ぼんやりとした白っぽい光の中、灰色の何かが視界を覆っていた。邪魔だな、とぼんやり考えると、それは崩れるように落ちて視界の端に積もる。ちらちらと、光の中を舞う灰色の影も見えた。


 雪だ。雪が降っている。やはりぼんやりと、見たままのことを思った。

 鈍い光が届く範囲ぎりぎりに、誰かがいる。積もった雪に頬をつけ、目を閉じているようだった。頭にかぶった黒いフードの上にも雪が薄く積もっている。いかにも寒そうだ。自分も同じ状態のはずだが、少しも冷たさを感じないのを不思議に思った。


 遠くの風鳴りが獣の咆哮のようにひと際大きく聞こえた。その響きで、一気に記憶が蘇る。

 薄いノート。奇妙な模様。獣。鏡。自分をかばった彼。端正で憎たらしい笑みを見慣れた、その顔。


「榊……」


 最初に浮かんだ名前を呟く。すると急に不安が込み上げてきた。あの後どうなったのか。彼は無事なのか。重ねて何かを言おうとして、その前に目の前の誰かの瞼が開く。



 ――〝青″。



 意識を縫いとめ、息を奪う、底なしに深い青。恐ろしいまでに鮮烈なその色を、けれど私は知っていた。


 長く繊細な睫毛を震わせて瞬きした男は、若い。頬も鼻先も冷えて赤くなっているが、それでも顔立ちの端正な麗しさは窺える。

 目を惹く青い瞳に浮かんでいるのは、深い諦めに見えた。傷つき、疲れ、今にも凍り付いてしまいそうな孤独に、暗く沈んでいる。その様は意志のない糸の切れた人形のようで、妙な焦燥を覚えた。


「あなた、大丈夫……?」


 思わず問いかけると、彼は目をわずかに大きく見開き、きょとんとした表情になった。それはほんの少しの変化だったけれど、澄んだガラス玉のような瞳に人間らしい生気が宿ったようで、ほっとした。


「……いま、話しかけたのは君……?」


 ひどくしわがれた老人のような声で、男が問い返す。私は困惑して頷いた。なんだか身体の感覚が鈍かったけれど、頷いたつもりだった。


「私だよ。他に誰かいる?」


 彼は私よりもよほど混乱して困り果てたような顔をして、恐る恐るというように手を持ち上げてこちらに伸ばした。

 いや、手が震えているところを見ると、腕を持ち上げるのも億劫なほど疲弊しているのかもしれない。何故だか知らないが、彼は雪の上に倒れた状態なのだから。


 その分厚く丈夫そうな焦げ茶色の手袋に包まれた手が顔に触れる。触れたのだと思う。やはり感覚が遠くて、何重にも重ねた膜を通したような感触なのだ。今になってじわじわと、自分自身に対する不安が湧いてくる。


「……ねえ、私がどう見える? なんだかさっきから感覚が鈍いっていうか、身体も動かないし、変な感じ」


 もしや、動けないほど大きな怪我を負っているのか。こちらを睥睨する獣の双眸を思い出して、冷え冷えした気持ちになる。

 彼は、躊躇うような長い間の後で、ようやく色の抜けた唇を開いた。


「……ランタン」

「え?」


 意味が分からない。

 しかし、彼はそれを繰り返して、衝撃の事実を告げた。


「ランタン。私には、君がランタンに見えるのだけれど……」


 ランタン?


「それって、照明器具の?」

「うん」

「こう、ガラスか何か透明なもので出来てて、中に火種を入れて照らすやつだよね?」

「そう。……形は四角い。四方に厚いガラスが嵌め込まれていて、屋根と脚はおそらく鉄製。あまり大きくはないけど少し重たかったから。輪の形の持ち手が付いている。その付け根の部分に花に似た飾りが付いているけど、大きく欠けている。元の持ち主が落としたのかもしれない」


 すらすらと、かすれ声でとても丁寧に教えてくれるが、私の頭の中は疑問符だらけだった。

 彼が雪に頬を付けた格好のまま、両手を伸ばして私を抱え上げる。とても、恐ろしいほどに軽々と。顔の前に近づけて、当惑と好奇心を浮かべた表情で呟いた。


「君は、何者……?」


 問いかける彼の奇妙なまでに美しい青の瞳、その中に一点の光が灯っている。そこに映り込んでいるのは絶対に私の顔ではない。彼が丁寧に描写した通りの、小さな明かりをともした四角いランタン。

 それが、今の私のようだった。





「……………………ええ?」

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