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結局、外が暗くなるまで粘っていろいろと調べてはみたけれど、なんの手がかりも得られないまま解散することになった。
とにかくも、大好きな作家の新たな作品が存在するかもしれないという事実に足取りも軽く帰宅した私は、元気に引き戸の玄関を押し開けた。ただいま、と声をかけるが答えはない。よくあることなので特には気にせず、靴を揃えて電気をつけ、廊下の奥に向かう。
庭に面した板敷の廊下を真っ直ぐ進み、突き当たりの部屋の前に立つ。摺りガラス越しに橙色の明かりがともる室内に呼びかけると、今度は応えがあった。少し軋む戸を開けると見慣れた顔が文机から視線をあげて、こちらに笑いかけた。眼鏡越しに細めた目は柔らかく、目じりの皺まで優しげな印象を与える、私の自慢のおじいちゃん。
「おかえり。今日は遅かったね。部活かい?」
ただいま、と答えて首を横に振る。
「今日は部活に行くのはやめて、旧図書館に行ってた」
「またか。物好きな子だねえ」
呆れたように言って、やれやれという風に嘆息する。さぼり申告したことへのお咎めはない。というか、する人がいない。
私が所属する美術部は顧問自らが「気分が乗らないなら無理に活動しなくてよし」と公言する非常に緩い活動方針なので、部員も気ままに活動したりしなかったり、部室に来ても作品を進めたりただお喋りしていたりといった様子なのだった。
生徒の自主性を尊ぶというよりは、顧問自身が気まぐれな芸術家肌なので、自分の創作活動を優先したいだけだろうという気はする。それでも年に一回以上の作品の提出は義務なので、熱心な者は熱心だし、私も夏休み明けに水彩画を提出し終えて次の創作計画を練っているところなのだ。怠惰なわけではない。と、榊に対してしたのと同じ弁解を頭の中で繰り返し、祖父の部屋の中に入る。
畳敷きの八畳間は薄暗く、年中カーテンは閉め切りだし文机の上のランプだけが煌々と明るいのが常だった。というのも、うかつに日光を取りこめない理由がある。
床から天井まで、壁を塞ぐように並ぶ本棚だ。収まっているのは年季の入った古い本ばかりで、使い込まれ綴じ紐が緩んだものもあるので、開くときには注意が必要である。天文関連の資料が多く、星にまつわる神話から天体観測に使用する機器や計算方法についてまとめられた専門的な文献まで、とにかく幅が広い。祖父は三年前まで郊外の天文台に勤める研究者だったのだ。
今でもイベントの手伝いに出かけたり、助言を受けに職員や天文関連の雑誌編集者が家に来たりすることも稀にある。専門的なことは何も知らないけれど、そうして祖父が慕われているのを見るのは嬉しい。
今も、何か依頼を受けた原稿を書いているらしい。先程玄関で呼びかけたのに返事がなかったのは、集中していたからだろう。祖父はパソコンを使わないので、達筆な文字が整然と並ぶ原稿用紙が文机の上に重なっていた。
よっこいせ、と祖父が立ち上がる。
「じゃあ、温め直すだけだが夕飯にしようか」
「うん。あ、ちょっと本借りてもいい?」
本棚の一角を指して訊くと、本当に物好きな子だ、と苦笑されてしまった。
「好きにしなさい」
頭を撫でて、背筋の伸びた若々しい背中が廊下に消える。それを見送って、本棚の前に立ち目当ての本を探した。
天文関連の本に混じって、そこだけがらりと雰囲気の変わる一角。そこには柔らかな印象のフォントが目を惹く灰条色の著作がすべて並んでいる。何度も借りて読んだので並びは頭に入っており、すぐに目当てのタイトルを見つけた。『星のよるの童話』。灰条の最後の作品とされているものの初版本だ。
森の奥深くに住まう老齢の魔女の物語で、賢く心優しい彼女は多くの人に慕われており、数々の相談事を請け負う。ときには遠い都の王様も彼女の助言を聴きに訪れるほどだ。
彼女の紡ぐ言葉は優しく、時に鋭く胸を打つ。冒険物語のように派手な魔法が使われるわけではないけれど、相手が貧しい木こりでもえらい王様でも関係なく、厳しい助言を送り、一方で惜しみなく力を貸す彼女の格好良さに憧れたものだ。私の大好きな作品の一つでもある。
裏表紙側からめくっていくが、榊の言った通りめぼしい情報は得られない。もう一度読み返してみようか、と思う。何か手がかりがあるかもしれないし、なくてもいい。そんな気分だった。
さて、夕食のついでに祖父に灰条のことを訊いてみよう。そう決めて本を閉じようとしたとき、するりとページの中ほどから何かが落ちた。慌てて床から拾い上げてみれば、飾り気のない白い封筒だ。宛名は「
少し混乱する。何度も繰り返し借りて読んだ本だ。その時は絶対に、こんな手紙は挟まっていなかった。悩んでいると、祖父が呼ばわる声がした。
「月白、制服くらい着替えてきなさい」
声が少し遠いのは、台所の方から呼んでいるからだろう。
返事をして、急いで本に封筒を挟み直しながら、どきどきする。これが手掛かりにつながるかもしれないという期待に、本を抱く手が震えた。
「灰条色の未完の遺作?」
困惑した声とともに、茄子の揚げびたしを持ち上げていた祖父の箸が止まる。テーブルに落としそうになったそれを危うく小皿で受け止めて、困ったように続けた。
「そんな話は初めて聞いたな。あの家が取り壊されるというのは、聞いてはいたが……」
遺作については初耳のようだが、やはり灰条との何らかの繋がりはあるらしい。勢い込んで身を乗り出す。
「ねえ、おじいちゃんはやっぱり灰条先生と親しかったんだよね? どういう関係だったの?」
「親しいというか……」
祖父の言葉は歯切れが悪い。誰に対してもはきはきと話す彼にしては珍しいことだったが、灰条の話を聞こうとするといつもそうなのだ。昔、彼の部屋で手紙の束を見つけて問いただした時には、ひどく悲しそうな顔をされてしまった。それからずっと気後れして、それ以上踏み込まずにいたけれど。今日は思い切ってそこを踏み越える。
「お願い。話しづらいことがあるなら、話せることだけでいいから」
手を合わせ懇願してみせると、深くため息をつく。
「……お前は昔から、
そう前置きして、話すと言ってくれた。しかし、まずは夕食を済ませるように窘められてしまったので、食事を再開する。
祖父の好物の茄子の揚げびたしのほか、ほっけの焼き物、大根とあおさの入った味噌汁が並ぶ。父母が忙しくしている人なのでこの家では祖父と私の二人だけで、食事は厳密には決まっていないものの交代制にしている。今日は祖父のお手製だ。
私に料理を仕込んだのは祖父だったので、レパートリーは似通ったものが多い。あまり友達に自慢したことはないが、自分で漬け物や甘酒だって作れる。私がどちらかといえば和食やさっぱりしたものを好むのも、きっと祖父の影響だろう。とはいえ、ふいにハンバーグやシチューなどの洋食が食べたくなるときはあるので、そのときは遠慮なくそうする。祖父も「たまにはいいな」と喜んで食べてくれるのでありがたい。
その祖父は、祖母に教わって料理を覚えたのだという。彼女は自分とは比べ物にならないほどの料理上手で、よそで一度きり食べたものでも精巧に再現できる程だったと、自分のことのように嬉しそうに話していたことがある。よほど仲の良い夫婦だったのだろうなと思う。祖母は私が生まれる前に亡くなっているが、もし生きていたら私の料理の先生は祖母だったかもしれない。一度くらいは、祖父が首ったけの手料理を食べてみたかったものだ。
食事を済ませて食器を流しに片付け、食後のお茶を淹れて祖父と自分の前に置いた。一息ついたところで、祖父が話し出す。
「色とは、確かに親しい方だっただろう。あいつはあまり人と関わろうとしない性格だったから。友人だった、と私は思っているが、向こうはどうなんだろうな。会ったのは私達が今の月白と同じ、蒼宮の一年生のとき。同級生だったんだ」
驚いた。もちろん、祖父の母校が蒼宮だったことは知っている。旧図書館の話を聞いたのはこの祖父からなのだ。しかし、灰条も卒業生であり、しかも祖父と同い年だったとは。
祖父が在籍した頃は今ほどの種類はなかったものの、当時から部活動は盛んで、その時代には珍しかった天文部があることから蒼宮を選んだのだと聞いたことがある。もちろん今もその天文部は健在で、高価な天体望遠鏡やプラネタリウムの設備を使った本格的な活動ができるとあって、豊富な文化部の中でもかなりの人気を誇っている。
「あの頃から、色は童話を書いていたな。細かい文字でノートに何十冊分も。図書館や中庭のベンチで、飽きずにずっと万年筆を走らせていた」
思い出すように眼鏡の奥の目を細める。
「どうにも目が離せない男でなあ。下手をすると授業どころか、飲まず食わずで過ごすんだ。夏の暑い日に、朝に見かけたときからずっと同じベンチに座っていて、夕方になってとうとう声を掛けてみたら真っ白い紙のような顔色をしていた。完全に熱中症になっていて、慌てて教師を呼びに行った。話すようになったのはそれ以降だな」
なんというか、インパクトのある話だ。そこまで集中できるのはさすがといったらいいのか。いや、やはり駄目だろう。あまりにも危険すぎる。
その後、灰条がずっと書き続けていたのが童話だと知り、読ませてもらったところ、そのずば抜けた文才に驚いたという。卒業後は別々の大学に進学したものの、手紙による交流は続いた。灰条が童話作家としてデビューした後は、必ず完成した作品の初版本を送ってきたのだそうだ。それで祖父の部屋にあった手紙の束と、初版本ばかりが揃った本棚の理由をやっと知る。
祖父はわからないというが、灰条の方も友人だと思っていたのに違いはないと思う。最初の読者で理解者だった祖父を、きっと気にかけていたはずだ。
「そういうわけで、色が亡くなるまでは折に触れて手紙のやりとりをしていたが、蒼宮を卒業した後は会うこともなかった。今となっては、会っておけばよかったと、後悔がないわけではない。同じ町の中にずっと暮らしていたのにな。その方があいつも気楽だろうと思っていたが……」
そうして、瞳を曇らせる。祖父が灰条の話になると暗い表情を見せていたのは、友人に二度と会うことがなかった後悔からだったのだと知る。
祖父が苦笑して、こちらに視線を向ける。
「面白い話ではなかっただろう。私のつまらない主観でしか話せないし、色がどう考えていたのかも知らない。どんな関係だったか、と聞かれても正しく答える自信がなかったんだ。ずっと気を遣わせて悪かったな、月白」
「そんなことない……」
首を振ったけれど、言葉に詰まる。なんと言っていいのかわからなかった。ごめんなさい、は違う気がした。それは祖父の後悔を煽るだけだ。自分の抱える後ろめたさを、祖父は率直に答えてくれた。
「話してくれて、ありがとう。おじいちゃん」
結局はそんなことしか言えなかった。祖父はいつも通りの優しい笑みを向けてくれたけれど、私は胸が痛んで仕方なかった。
夕食の片づけを済ませて風呂を沸かした後、自室に籠ってベッドの上に突っ伏す。祖父が隠していたことを無遠慮に暴き立てた罪悪感で、気が塞いだ。
身体を仰向けて、手にした白い封筒をかざす。表面に記された祖父の名を撫でて、どうしよう、と呟いた。これは、灰条が友人の祖父に宛てて書いたもので、私が勝手に読んでいいものではない。このまま本に挟んで、本棚に返すべきだ。そう解っているのに、知りたいという気持ちがどうしても消えない。
封筒を裏返して、糊付けをはがされた痕のある蓋部分を開ける。わずかに文字の透けて見える便箋を指で撫でて、躊躇った。
(こんなの、勝手にひとの心をこじ開けて覗くようなものだ)
読むのなら、祖父の許しを得てからにすべきだ。さっきあんな話をさせた後で伺いを立てに行くのは気後れするが、仕方ない。
そう決めて、封筒の蓋を閉じようとした。しかしそのとき、開いた窓から風が吹き込む。大きく揺れたカーテンが手をかすめ、封筒を取り落としてしまった。
慌てて身体を起こして、床に落ちた封筒を拾おうとして――ぎくりとした。床に落ちた封筒から、中の便箋が出てしまっている。
封筒と同じ真っ白な便箋とは別に、ノートの端を無造作に破り取ったような、不格好な紙片が落ちている。そこには封筒の表面と同じ筆跡で、短く書きつけてあった。
『灰の国を、君に託す』
心臓が、気分が悪くなりそうなほどに強く早く脈打つ。頭が真っ白になる一方で、ひどく冷静に直感が働く。気が付けば床に座り込んで紙片を拾い上げていた。
短い言葉の下にはカタカナと英数字の並びが何かの暗号のように並んでいる。しかし、図書館に慣れ親しんだ者にはそれは謎でも何でもない。図書分類記号だと、すぐにわかった。
「え……これ、本当に……?」
混乱のあまり、どうしたらいいかわからない。こんなに決定的なものが目の前に突きつけられるとは、思ってもみなかった。どうしよう、という言葉だけがぐるぐると頭の中を回る。ふと、榊との会話を思い出した。
「そ、そうだ榊に連絡!」
縋るような気分で鞄を探って携帯を取りだす。彼は数コールで出た。
『どうした』
潜めた声での挨拶も何もない単刀直入な物言いが、いきなり聞こえてきた。それが今は、いっそ心強い。
「さ、榊、あのね、おじいちゃんに話を聞いたんだけど、それどころじゃないものを今見つけて、ええと、とにかくどうしたらいいかわからないの!」
『は? こっちが何がなんだかわからないよ、落ち着け』
呆れた声音の後でちょっと待て、と断り、彼の声が遠くなる。誰かとのやりとりが断片的に聞こえた。『少し席を外しますね』『まだ話は途中よ、陽高さん』『母さん、すぐに戻りますから』というような会話のあとにドアを開けて閉める音。
『悪い、今両親といたから部屋の外に出た』
「……榊、お母さんに「さん」付けで呼ばれてるの?」
『どうでもいいだろそんなこと』
重要なことではないかもしれないが、衝撃的ではある。榊の家がいわゆる名家というやつだという噂は知っていたけれど、本当にそういう世界が身近にあったとは。
とりあえずびっくりしたおかげで動揺が薄らいだので、今はそれで良しということにする。頭の中を整理し直して、まず結論から話すことにした。
「ええと、おじいちゃんから借りた本の間に灰条先生からの手紙が挟まっていて、それと一緒に入っていたメモに遺作のタイトルらしきものと、図書整理番号が書かれていました」
なんとなく丁寧語で説明すると、しばし沈黙が降りた。
『……最初から順番に話してくれ』
衝撃的な事実を最初に持ってくるのは、いきなりすぎたらしい。彼も混乱しているようだ。私がかいつまんで祖父に聞いた話とメモを見つけた経緯を話すと、榊はとても深いため息をついた。
『そうか。……悪かったな、嫌な役目をさせて』
そう言われると、急に目の奥が熱くなる。傲岸不遜なようでいて、不意打ちで当たり前みたいに気遣いを見せるから弱い。涙声になるのは嫌で、なんとか明るい声を出した。
「いいよ。私にしかできない役目だもん。どう、役に立ったでしょう?」
見えないのを知りながら顎をあげて胸を張ってみる。彼も『猫の手よりはな』と軽口で返してくれた。
『それで、メモにはなんて書いてあったんだ?』
いつになく熱のこもった口調で尋ねられ、ええとね、とメモを改めて見る。
――しかし、すんでのところで直感が働いた。
「ねえ、榊。……今度は抜け駆けしたりしないよね?」
『、まさか』
ここで一瞬の間を見逃す私ではない。
「やっぱり! 教えたら、黙って今すぐ旧図書館に行くつもりでしょう!」
裏切り者、と声に非難を込める。
『……だって、明日は祝日だろう?』
「それはそうなんだけど、いま舌打ちしなかった?」
『気のせいだ』
とてもそうは思えなかったが、そんなことを追求していても仕方ないので話を戻す。
「とにかく。手掛かりを見つけたのは私なんだから、私だって探す権利がある」
それは確かに、と不承不承な答えが返ってくる。力を込めて続けた。
「だから、私もこれから旧図書館に行く」
『え? いや、お前は一応女なんだからやめとけって』
一応ってなんだ、一応って。
「まだ八時前だもん、この時間なら熱心な運動部は学校にいるはずだよ。まぎれられるうちに行かなきゃ」
『……ああもう、お前も言いだしたら聞かない奴だよな……』
お前も、ということは自分が頑固な自覚はあるらしい。少し笑って、待ち合わせ場所を決め校内で落ち合うことにする。二人並んで歩いているのを見られたら、それこそまずいことになってしまう。
通話を切るとすぐ、私はもう一度制服に着替えるべく準備を始めた。
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