第一章

1

   ✵✵✵


 美しいものは心の中にむ。

 心のどこかを大切にとっておきなさい。まだからっぽのきれいな硝子瓶みたいに。

 いつかその場所を埋めるなにかに出会ったとき。それがあなたのいっとう美しいものになる。

 ――灰条かいじょう しき『星のよるの童話』


   ✵✵✵


 ここ、私立蒼宮あおいのみや学園高校は少し特殊な学校である。

 まず、部活動の中でも異様に文化部の種類が多い。吹奏楽部、演劇部といったメジャーなものに加えて、速記部、温室園芸部、陶芸部、和太鼓部、長唄部、教会音楽部、と試しに挙げてみるだけでも一般には耳慣れない名前がどんどん出てくる。友人のひとりは、着物の着付けや礼儀作法を学ぶという装道そうどう部に所属している。『装道』という言葉も入学時の説明会で初めて知った私には、おそらく縁のない世界だ。


 次に、やたらと豊富な施設設備。部活動の豊富さに負けず劣らず、高校の設備としては首を傾げたくなるようなものまで幅広い。例を挙げると、温室、礼拝堂、陶芸窯に庭付きの茶室。ちょっとした演奏会もできる講堂や、小規模とはいえプラネタリウムまである。ここまで来ると少し唖然としてしまうレベルだ。おかげで興味を持つ受験生が多いため、この学校の倍率は他と比べて図抜けている。


 最後に、私にとっては最大といえる、この学校の特別な事情。このためだけに、熾烈な受験戦争を乗り切ってここに進学したといっても過言ではない。





「シロ、部活行く?」

「今日はやめとく。用事あるから」


 声をかけてきた同じ部活の子に手を振って、鞄を肩にかけ教室を出る。他にも近くを通った数人のクラスメートに声をかけられた。「シロ、帰るの?」「またね、シロ」。そんなやりとりを繰り返して廊下に出て一人になると、ついため息をついてしまう。


 シロ。ずっと昔から、それが私のあだ名だ。いい加減諦めもついているのだけれど、やっぱりときどき不満はくすぶる。犬や猫じゃないんだから。

 しかし、きちんと名前で読んでほしいかといえば、微妙なところだ。


 神住かすみ 月白つきしろ。やけに大仰で、全然今っぽくない名前。クラス替えの度に読みを訊かれ、物珍しさからすぐに名前を覚えられるのは良いのか悪いのか。

 どっちが名前で苗字かわかりづらく、ちゃんづけもしっくりこない。そういうわけで、いつの間にか「シロ」が定着する。呼びやすいだろうし、親しみをもってもらえるのは悪いことではない。だからとりあえず良しとしている。

 我ながら面倒だけれど、自分の名前にはそんな風にいろいろと複雑な思いがあるのだった。


 多くの生徒がにぎやかに行き交う廊下には、おしゃれなカフェか古い洋館にあるような大きな飾り窓が並ぶ。窓辺にもたれて話す女生徒たちの姿がそれだけで様になってしまうのも、この学校ならではの光景かもしれない。

 女子は濃紺のセーラー服に胸元で結ばれた臙脂えんじ色のスカーフ。男子も同じく濃紺の詰襟に襟と前身ごろのファスナー部分に臙脂色のラインが入っている。シンプルなそれが、古風でいっそ前時代的な雰囲気漂う煉瓦造りの校舎にはしっくりとなじむのだ。


 押し開けられた飾り窓からは秋の風が吹き込み、早速校庭で走り込みを始めた運動部の掛け声も聞こえてくる。昇降口で靴を履き替えた私は、そのまま門に向かうことなく校舎に沿って歩き出す。

 渡り廊下をこっそり土足で横断して特別棟の前を通ると、上階の窓からは箏曲部の琴の澄んだ音色や吹奏楽部の音合わせが響き、廊下にも私には中身のわからない長い筒を持った生徒や数人がかりで大きな油絵のキャンバスを運ぶ生徒たちが見えた。


 さらに歩けば、聞き覚えのあるメロディのオルガンの音色が漏れ聞こえてくる。音源は、木立の向こうの礼拝堂だ。一応、週に一回礼拝も行われきちんと神職者も常駐している白い壁の建物のまわりには、やはりどこか静謐な特別な空間の空気が流れている。


 ……この通り、放課後は少し混沌とした、この学校の特殊さを体感できる不思議な時間なのだ。


 礼拝堂の裏を通り、建ち並ぶ温室と名前も知らないハーブの畝の間を抜けて、傾斜に設けられた簡素な石段を昇る。やがて校舎が眼下に見えるようになったころ、ようやくたどり着く。

 晴れた秋空の下、鬱蒼とした木々に埋もれるようにして建つ、蔦這う灰色の石造りの壁。嵌め込まれた窓ガラスは分厚く、武骨な見た目はまるで要塞のような建物だ。けれど、それが私の目には白亜の城やテーマパークもかくやというほどに、きらきらと輝いて見える。

 この建物こそが学校の中でも特殊で、私にとっては一番特別な場所。旧図書館だ。


 旧と付いているのは、今現在は校舎に繋がった形で便利に行き来でき、十分な設備・蔵書を誇る図書館が別にあるからだ。そちらは地下一階に地上二階建てで冷暖房完備、検索端末が設置され、もちろん学習スペースも豊富。司書教員が常に居り、そして何より靴を履き替えての大移動が必要ない。そういうわけで、そちらが生徒たちにとっての『図書館』と位置付けられている。

 対して旧館は不便で古く、最新の図書も便利な機器も一切なかった。司書教員たちからも書庫のような扱いをされていて、掃除も行き届かず照明も少なくて薄暗い。まず生徒は寄り付かない場所だった。


 私はなんてもったいない、と思ってしまう。この場所の素晴らしさを説いて回りたいくらいだが、力説したところで友人たちには呆れられただけだったので、それ以降は自重している。

 真鍮の冷たいドアノブに手をかけ、押し開く。重い音を立てて年経た木製の扉が動くと、爪先で床から薄く埃が舞い上がる。また掃除をしなければと少し眉を寄せるけれど、すぐに重厚な古い紙の匂いに心が浮き立った。


 ずらりと、薄暗い館内の見えないくらい奥の方まで並ぶ書架。ぎっしりと隙間なく並んだ本。この光景が見られるだけで、生きていてよかったと大げさな感慨が沸いてくる。いそいそと扉を閉め、本棚の間を歩いて並ぶ背表紙を撫でるだけでこの上なく幸せな気持ちになる。思わず、鼻歌が口をついた。


「カンタータ第147番、『主よ人の望みの喜びよ』」


 頭上から、突然声が降ってきた。吹き抜けの天井に僅かに反響して届いた声を追って仰ぐと、二階の手すりに半身を預けてこちらを見下ろす男子生徒を見つけた。片手には深い赤の表紙の本。薄いカーテン越しの陽の光にさらさらの髪が茶色く透けて見える。


「お前に、かの音楽の父が手掛けた讃美歌を口ずさむ教養があったとは知らなかった」


 手すりに頬杖をつき意地の悪い笑みを浮かべる顔は、同年代の少年少女を合わせて比べてみても、格段に飛び抜けて整っている。普段から当然のごとく学内で女子生徒に黄色い声を挙げられている男を見上げて、私は素直に首を傾げた。


「へえ、そういうタイトルなんだ、この曲。聞き覚えはあるんだけど曲名は知らなくて。よく卒業式でかかるよね」

「なんだ。見直してやったのにお粗末な奴だな」

「残念ながら、さっき礼拝堂から聞こえてきたのが耳に残ってただけなんだよねえ」


 そういうオチかよ、とため息をつく男は放っておいて、棚から気になった本を数冊抜き取る。入り口側から見て左右対称の位置に備え付けられた階段の右側を昇り二階に上がると、手すりの傍の椅子に腰かけて本に目を落とす男子生徒がいた。


 二階はぐるりと一階を見下ろすような形の吹き抜け構造で、椅子やソファがあちこちに設えられた読書スペースになっている。ランプがついた机もあるので、もちろん元は学習のためにも使われていたのだろう。

 彼の斜め右にある二人掛けのソファに座って傍らに本を置くと、カーテン越しの陽差しの中で舞い上がった埃がちらちらと光った。それを見て思い出す。


「ねえ、そろそろ掃除しないといけないよね。さっき床も埃が舞ってた」

「ああ、おれも思った。……仕方ない、やるか」


 本を閉じた彼が立ち上がり、私もそれに倣う。昇ったばかりの階段を降りながら、『音楽の父』って誰だったっけ、と疑問をぶつけてみる。


「ヨハン・セバスティアン・バッハ。お前でも知ってる偉大な音楽家だろう」

「ああ、バッハかあ。……それにしても、さかき。いちいちそんな突っかかる言い方をしなくてもいいと思うの」

「一般教養だろう。ぼけぼけしてるお前が悪いよ、神住」


 ぼけぼけ、と渋面になる私の鼻先に、隅の掃除用具入れを漁った彼が箒の柄を突き付けた。受け取ると、同じく箒を手にした彼が入り口を示す。


「じゃ、俺はあっちから。お前はここから。窓を開けてくから、列ごとに掃きおわったら閉めていけ。長く開けっぱなしにするなよ」

「わかってるってば」


 肩を軽くどつこうとした手をすり抜けて舌を出した小憎らしい男は、そのまま背を向けて窓を順に開けていく。吹き込んだ風になびく髪は妬ましいくらいにさらさらだ。見慣れていても見惚れそうになるきれいな顔立ちは、羨ましいことこの上ない。


 彼はさかき陽高 ひだか。自他ともに認める学園の王子様だ。品行方正、文武両道、才色兼備を地で行く男で、物腰柔らかでおごらず気取らず、男女・学年の上下問わずに友人が多い。女子の一部ではファンクラブまであるとかないとか。

 体育祭や球技大会では注目と期待に応える活躍を見せ、試験では常に学年トップを維持。本当にこんな人間が実在するのか、と目を疑うくらいの生粋の王子様。


 ……だと、私も思っていた。この春に旧図書館で顔を合わせ、彼の無愛想で皮肉屋の本性を知るまでは。


 板敷の床を掃きながら横目で書棚を眺めていると、つい手を伸ばしそうになる。ここは芸術関連の一角のようだ。『名曲解説全集』『世界の仮面』『源氏物語画帖』と、ジャンルも多岐にわたる。『古鏡 図録』とあるのは古い鏡を集めたものだろうか。見たこともない心惹かれるタイトルの本の並びに、ついうきうきとしてしまう。


「さぼるなよ、神住」


 書架のずっと向こうから、見透かしたような榊の声が飛んできてびくりとする。背表紙にかかっていた手を慌てて下ろして、「何のこと?」と知らぬふりで返事をした。我ながら苦しい。

 そういえば、彼だけは珍しく私を苗字で呼び捨てにする。同じ作家のファンだということで意気投合したときに、なんとなく自分のあだ名への不満を述べたことがあるのだ。「なるほど、犬だな」と常の意地悪そうな顔で笑った彼は、以降そのことには触れずに苗字呼びをするようになった。

 そんなところが、どうにも敵わないなあと思わせる男なのだった。


 そうして数えきれない本の誘惑に耐えながら一心に床を掃き、窓を閉め、を繰り返して中央近くで榊と合流する。


「棚にはたきもかけたいところだけど……」


 と、言いかけた彼がこっちを見てじと目になる。


「どう考えてもお前はさぼるし、掃き掃除の後にやるのもなんだし。今日は二階な」

「うん、私もそうした方がいいと思う」


 今度は神妙に認めた。

 ずらりと並んだ書架のひとつひとつにはたきをかけていくというのは、なかなか難しい作業だ。労力ではなく自制心の問題で。魅惑の世界を目の前にしながら、手に取らずにいる自信は持てそうにない。

 本棚の掃除と整理というものは、総じて多大な時間を要するものなのだ。たぶん。


 そういうわけで、次は校舎から掃除用具を持ち込むことにして、二階の掃き掃除が終わったところで切りあげる。さすがにいつから用具入れに入れっぱなしなのかわからない、恐ろしく真っ黒な雑巾等々を使う気にはなれなかった。新館の司書教員あたりに申請して新しい用具を入れてもらう方がいいかもしれない、と話しつつ二階のソファに戻る。

 そしてようやく読書に浸れる、と思ったのだが。自分で選んできた本に目を落とす前に、気になることを訊いてみることにした。


「ねえ、榊。今日はずいぶん張り切って読むんだね……?」


 彼の前のローテーブルには、分厚い本が所狭しと積まれていた。さっきもずいぶん多いとは思ったけれど、今また彼が腕いっぱいに抱えてきた分も含めると、ちょっと尋常ではない。

 文字通り壁のように私と榊の間を分断している本の隙間からじっと疑問のまなざしを向けると、こっちに目も向けずに視線をページに落としたままで簡潔な答えが返ってきた。


「まあ、調べもの」

「調べもの? って、これ全部、灰条かいじょうしきの全集じゃない」


 手近な一冊を取りあげて表紙を見てみる。蔦模様の枠の中に、色のかすれた金文字で『灰条色 著作全集 童話・七』とあった。首をひねっている間にも、榊はぱらぱらとページをめくっては閉じて本を置き、次の一冊に手を伸ばしてそれを開き、という作業を繰り返している。確かに読んでいるのではなく確認している、といった様子だった。

 焦れた私は本の壁を押しのけ、身を乗り出す。


「何を調べてるの? 手伝うから教えてよ」

「混ざるから動かすなよ。……なに、気になるんだ?」

「そりゃあそうでしょう。灰条先生に関わることなら気になるに決まってる。知ってるくせに」

「まあね」


 にっと人の悪い笑みを浮かべた榊は、手にしていた一冊を閉じて確認済みの山に重ねる。その上に手を置いて、重厚な装丁の表紙を撫でた。


「神住も、灰条色の作品は全部把握してるよな?」

「もちろん」


 成績はいいところで中の中だし、同級生の男にぼけぼけしてると言われても碌に反論できないような私ではあるけれど、これだけは自信をもって即答できる。


 灰条色は、童話を中心に子ども向けの作品を数多く手掛けた夭折ようせつの作家である。学生である十代の頃から執筆活動を始め、その後二十八歳の若さでこの世を去るまでの十年足らずの間に、驚異的な速筆で多くの作品を世に送り出した。シリーズものの長編が三本に、読み切りの童話が二十二本、短編やショートショート形式に至っては百を下らない。

 子ども向けの痛快な冒険物語や典型的な教訓話のみならず、風刺や皮肉を織り込んだ読み応えのある作品が多いことから、年齢や性別を問わずに一定の愛読者がいたようだ。


 私の祖父もその一人だったようで、家には彼の著作がすべて揃っていた。そして当然のように私は灰条色の物語を読んで育ち、その作品世界に魅了された。他の作家の本も積極的に読むようになり、すっかり本の虫となるのにそう時間はかからなかった。彼の作品は私の本好きの原点であり、最も敬愛する作家なのだ。


 そして私と同じような人間が、この榊である。彼とこの旧図書館で会ったときには驚いたし、彼の方も驚いていた。灰条は五十年近く前に没した作家であり、その著作を読んだことはあっても熱心な若いファンというのは珍しい。その少数派の私たちがこの場所で出会ったのは、必然であったかもしれない。


 私たちが示し合わせたようにこの場所に入り浸る理由は、多くの希少本が保管されているからというだけではない。

 ここには、今ここにうず高く積まれている全集はもちろんのこと、灰条色の著作が初版本からのちに装丁が一新された新装版まで網羅されているのだ。ちょっとした記念館状態で、私たちファンにとってはまさに夢のような場所だった。


 ここまで徹底的に作品が集められているのは、もちろんただの偶然ではなかった。

 灰条は急死するまでの数年間、この蒼宮学園の学園長を務めていた時期があったのだという。その当時在学できなかったのは残念なことこの上ないが、今更どうなるものでもない。この場所が残っていただけでも十分だと思っている。


 古い紙の匂いが支配する知の城の中、榊はくっきりした長い睫毛を瞬かせて、重大な秘密を明かすように声を潜めた。


「実は、噂を聞いた。この学園のどこかに、灰条色が死の間際まで手掛けていた、未完の遺作が眠っているらしいと」

「未完、の……?」


 それは、今まで世に出ていないかの作家の新作がどこかにある、と。理解した私は思わずソファから立ち上がって声を大きくした。


「なっ、何それ本当っ!?」

「信憑性は高いと思ってる。学内にいる灰条色の血縁がぽろっと話したことだし」


 そんな人物がいるという話も初めて聞いた。しかし、まず疑問が浮かぶ。


「でもそんな話、今までどこからも出てこなかったよね? どうして今になって……」

「どうも、灰条邸が老朽化して取り壊される話が出ているらしいんだよな」

「ええっ、どうしてよもったいない!」

「そんなこと言ったって、今は家族が住んでるんだしおれ達にどうにかできることじゃないだろう……」


 うるさそうに顔をしかめられ、座るように促されて渋々従う。気を取り直して彼は話を続けた。


「とにかく、そのために家財や遺品の整理をしていたら、灰条先生の日記が出てきたらしい。そのなかにそれらしいことが書いてあったという話だった」

「灰条先生の日記……」


 ごくりと唾を飲み込む。ついうっとりと手を組み合わせて頬を緩めた。


「日記の中で、今までの作品の内容にも触れているかもしれないよねえ。残っている創作ノートは簡単なメモばかりだったし、可能性はありそう」

「それに、彼はまるで表に出てこなくて取材の記録もなく、私生活も謎だらけだった。その日記の価値は計り知れないな」

「ああ、読みたい。その日記どうにかして読ませてもらえないかな。というか、まさかその日記まで処分しようとしてないよね!?」

「おれが『それは重要な文化財になりうる貴重な資料だから厳重に保存しておくべきです』と進言しておいた。まあ、あの人なら高校生の言葉でも無碍むげにしないで対応してくれるはずだ」

「よくやった、榊!」


 ぐっと彼の手を掴んで強引に握手する。持つべきものは盟友である。彼も「当然」と力強くうなずき、私たちの結束の固さを再確認した。この見本のような王子様に真顔で詰め寄られただろうその相手は、気の毒な気がしないでもないけれど。

 手を離した私は、でも、と再び眉を寄せた。


「おじいちゃん、そんな話はしてなかったけどなあ。おじいちゃんも知らない作品てことかな……」

「いちファンの一人じゃ知りようもないと思うけど?」


 怪訝そうな榊に、首を振って見せる。


「なんだかおじいちゃん、先生と面識があって、しかも結構親しかったみたいなんだ」

「へえ?」

「自分では気づいてないみたいだけど、たまに『あいつ』とか、呼び捨てで呼んでたこともあるし、それに先生からの手紙の束をおじいちゃんの部屋で見つけたことがあるの」

「灰条色からの手紙か。それは羨ましい」

「だよねえ」


 揃って羨望のため息をつく。さすがに私信を覗くことはしたことがないけれど、祖父と灰条に何らかの関係があったことは確かだと思う。


「それで、調べものの成果はどうなの?」

「正直、さっぱりだな。遺品の中にそれらしいものは見つからなかったようだし、自宅の他に先生に関わりある場所といえばここかと思ったんだけど。なにしろ、ここには著作がすべて集まっているし」


 それで灰条の全集を調べていたのか。個人全集なので、著作はもちろん公的に見つかった手紙や作品創作上のメモ書きまで収録されているので、調べものにこれほど適した媒体もない。が、成果は芳しくないらしい。


「年代順に載っている手紙、創作ノートやメモ、作品を逆に辿っているが、今のところ収穫はなし。これ以上遡ったところで同じだろうな」


 言いながら、疲れたようにソファの背もたれに寄りかかる。私は顎に手を当てながら眉間にしわを寄せた。


「今のところ最後の作品になってるのは、『星のよるの童話』だよね。それに手掛かりは?」

「一番最初に調べたさ。初版、再版、新装版すべての後書きや解説、奥付にそれらしい記載はなし」


 え?と顎から手を離し彼の顔をまじまじと見た。


「待って。同じチャイムで授業終了してここに来てるはずなのに、どうしてそこまで調べ終えてるの」


 今テーブルに積まれているのは全集のみ。確認したという『星のよるの童話』は見当たらない。全四十五巻に及ぶ壮麗な装丁の個人全集はそれだけで重量感がある。童話、短編、ノートやメモ、書簡の順に年代に従って収録されており、厚さにそれぞれ違いはあるものの、これを二階に運ぶだけでも一苦労だろう。だというのに、ほとんど調べ終わった後だという。

 この男の優秀さも要領の良さもよく承知しているけれど、改めて考えてみれば異常な仕事の速さだ。放課後の短時間では絶対に調べ終えることのできる量ではなかった。そして予想通り、榊はにんまり笑う。


「それはもちろん、昼休みにもここでこうして調べていたからだけど?」


 それはつまり。


「抜け駆け……っ!」


 行儀悪く彼の綺麗な顔を指さして、口をぱくぱくさせた。


「いや、残念だった。本当なら今頃、お前に決定的な手掛かりを突き付けてやるつもりだったのになあ」

「性格悪っ! そんなの私が絶対嫌がるってわかってるくせに!」

「だからだが?」

「もう、昼に知ってたなら教えてくれたら良かったのに」


 そしたらもちろん、私も昼休みを返上してここに籠城していたのは間違いない。

 けれど、彼は心底嫌そうに顔を歪める。


「おれが? わざわざクラスの違うお前のところに行って、呼び出してやるのか? 実際にそうしたらどうなると思う?」


 今度はう、と言葉に詰まる。あっという間にその答えは出た。


「……学園の王子様に親しげに声をかけられた私は全校女子生徒の反感を買い、袋叩きにあいます、ね……」

「そして注目され、貴重な昼休み時間が無駄になるわけだ。絶対にごめんだね」


 そっちこそ重要だというように切り捨てられ、ぐうの音も出ない。想像しただけで精神的ダメージを負った私は、がっくり項垂れて唸る。


「だから、メッセージ送り合えるようにすればすぐ連絡とれるよって言ってるのに……」

「あんな手軽さと引き換えに個人情報を安易に垂れ流すような危険なツールを使用する必要性を感じない」


 榊はあの手の無料通話やメッセージ交換アプリの個人情報管理能力を疑ってかかっているので、えらく冷ややかな視線を向けられてしまった。目を泳がせて、だったらメールとか、と小声で言ってみたが。


「メールアドレスを神住に教えて、おれに何のメリットが?」


 足を組み、わざとらしく小首を傾げてこの言いぐさである。


「榊のそういうところ、どうかと思うの……」

「慎重なんだよ、お前と違って」


 むっとしてもいいところだったけれど、声音に何か暗いものが混じっていた気がしてじっと彼を見てしまう。それを察してか不機嫌そうに目を逸らされてしまったが、それでますます確信する。過去に、連絡先を教えたことでなにか不快な思いをしたことがあるのだろう。

 もとより外面が良すぎるせいで、望まなくても人から好意を寄せられることの多い榊だ。そういう揉め事があってもおかしくないのかもしれない。ちょっと無神経だったか、と肩を落としていると、彼が咳払いした。


「まあでも、神住のじいさんと灰条色に何らかの関係があるというなら、情報源としては有力だな。そっちが適切に連絡を寄越すなら、教えてやらなくもない」


 偉そうで持って回った言い方にぽかんとしてしまう。じわじわと理解して、ふき出した。

 笑うな、と睨んでくる頬が少し赤いのはたぶん気のせいではない。


「た、たまに可愛いよね榊って」

「はあ!? ふざけんな、もう教えないからな!」

「まあまあ。解りました。適切に迅速な情報提供を約束するからアドレスを教えてください、榊くん」

「……誓うか?」

「誓う誓う。あ、記念すべき初メールは友情の証に絵文字満載で送るから、楽しみにしといて」

「寒気がするからやめてくれ。必要のない連絡は拒否する」


 げんなりした顔の榊を急かして、無事にアドレスを交換する。ついでだからと電話番号まで。教えてもいいと思うくらいには彼に信用してもらえたことが嬉しい。口にはとても出せないけれど、懐かない猫を手懐けたような気分だ。


 ふと、『榊 陽高』の画面表示を見て考える。もし、万が一にも誰かにアドレス帳を覗かれたときにこの名前があるのを見られたら、非常にまずいだろう。少し考えて、指先で画面を操作する。これでよし、と登録し直した名前を見て頬を緩めたら、「不気味」と呟く声がぼそりと聞こえてきた。

 口の悪い『盟友』には足先で蹴りをお見舞いしておいて、憤然と手近な全集を引き寄せた。

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