魂は語る

 韓信が生きた時代は典型的な戦乱の時代であり、人類社会の黎明期ともいえる時期であった。人口は着実に増えつつあり、社会は膨張の兆しを見せ始めていたが、それを統御する方法は、武力や暴力しかない、という未発達な社会である。現代に生きる人々からすれば、実に殺伐とした、地獄のような社会だと感じるかもしれないが、当時の人々にとっては、それが普通なのであった。いや、意識もしていなかったと言った方がいいかもしれない。

 しかし知恵のある者たちは、そのような社会に疑問を感じた。そこで儒家や法家を始めとする多くの思想がこの時代に生み出されていくこととなったわけだが、韓信は武人であるにもかかわらず、そのような思想に通じていた数少ない人物のひとりであったといえよう。

 もちろん韓信は学者などではなく、生粋の武人に過ぎない。彼の師であった栽荘先生(鞠武)は彼にある程度の学問を授けたが、それは主に文字の読み方や兵法に関するものに限られていた。つまり彼は当時の学問の主題であった「義」や「礼」の概念を、誰からも教えられることもなく、自然に身に付けていた人物であった。それは、彼に備わった素養というべきものなのである。私は、たった一度しかなかった彼との会見の際に、そのことを痛切に感じた。

 生前の酈生は、そのような彼を見て「こういう男は、生きていくのが辛いだろう」と評したが、それはまったくその通りである、と言わざるを得ない。「正直者は馬鹿を見る」……韓信の死の報を受けた曹参はそう呟いたが、戦乱の世というものは真にそのような社会であったからだ。


 彼は、武人という自分の立場を、誰よりも正確に認識していた。自分の一挙手一投足で世の中が変わり得る、その責任を誰よりも痛感していた男であった。よって彼は自分の失敗を他人のせいにせず、ましてや天運のせいにすることをよしとしなかったのである。

 そして彼の持つその誠実さが、彼自身の首を絞めていった。

 韓信が王として行なった統治手法は、それを象徴するかのようでもある。彼は市中に軍隊を置き、一種の恐怖政治を行った。当時の民衆はそのことに反感を抱いて、その結果彼は讒言されることになったわけだが、頭のよい彼がそのことを想像できなかったとは、私には思えない。おそらく、わかっていながら彼はそうせざる得なかったのであろう。最初から人々に自分の思いが通じないことを知りながら、彼は正しいと思った手法をとったのである。なぜなら、それはこの時代において、唯一正しい手法であったからだ。

 栽荘先生との会話の中で、彼は「国民を教化するつもりはない」などと否定していたが、実を言うと統治者として民衆と向き合うには、これは不可欠な要素なのである。なおかつ千差万別の価値観を持つ人々が密集したこの大陸にあっては、極めて実現が難しい問題でもあった。この問題を解決する手段として彼がとった方法は、当時としては唯一無二の手段であった。他の者は権力闘争にとらわれ、そのことをおざなりにしただけなのである。

 彼は結局、そのような民衆によって処刑台に送られたのである。そのことが正しかったのかどうか、人々は客観的に考えてみるべきなのだ。


 生前の彼は楚の使者である武渉に対し、社会の中で人というものは体内に宿る菌のような存在である、と述べたことがある。つまり、体内の病原を絶つために菌同士が戦いあうのと同じように、病んだ社会の中では人同士が戦いあって、善が悪を駆逐するのだ、というのが彼の説であった。

 しかし、つい最近まで私はこの彼の言に疑問を抱いていた。韓信が言うように社会が一種の自浄作用のようなものを持っているとすれば、彼の死後二二〇〇年を経過した今ごろはとっくに天下泰平の世であるはずではないか、と思っていたのである。

 しかし実際のところ、そうではない。

 私は、あるいはこれは韓信の思い違いなのではないか、と感じていたのだ。彼のような深慮遠謀を旨とする人物が、安易にそのような楽観的な展望を抱くはずがない、と思うのである。だが、こうして彼の思考を逐一検証してみると、次第に彼の言わんとするところが理解できるようになってきた。

 要するに韓信の言いたいことは、結局世の中は常に病んでいるということなのである。善が衰えると悪がはびこり、それを駆逐した善がまた衰え、自ら悪と化す、人の世はその繰り返しだということなのである。まさに彼がことあるごとに「移ろいやすい人の心」を批判するのはこのことにあった。それこそが人類社会を乱す諸悪の根源なのである。私は今さらながら、そのことを理解できた。

 しかし聡明な韓信は早くからそのことに気付き、自ら行動に出た。


 ああ、残念なことだ! 彼も完璧な人物ではなかった! 鋼のように堅固であった彼の心もついには移ろい、自らがもっとも嫌うはずの変節を示してしまったのである。彼は人々の心が恣意的に自分を導いていると知りながら、それに抗うことができずに謀反の道へ足を踏み入れてしまった。おそらく彼にはその結末がほぼ見えていたに違いないというのに。やはり、彼は自暴自棄になったのであろうか。


 いや、そのようなことはない。なぜなら、彼のたてた計画はほぼ完璧で、限りなく成功の可能性を秘めていたからだ。単に捨て鉢になった人物が、ただ自殺するためだけにあのような計画をたてるはずがない。また、私だけが知る彼の思考には、一切そのような痕跡は残っていないのだ。

 韓信にとっての最後の戦いは、彼の信じる正しき王朝のあり方を追及した結果であり、皇帝を戒める意味合いが込められていた。長い歴史の中で、自らの命を賭してまでそのような行為に及ぶ気概と能力を併せ持った人物を、私は他に知らない。彼は、国の永続的な存続のために決起しようとしたのだ。このような人物を逆臣というひと言で軽々しく評価してよいものだろうか。決してそのようなことはない。


 ただ、韓信にとって自分の死が青天の霹靂であったとは言えまい。彼は計画の段階で、何らかの原因で失敗する可能性を既に考慮に入れており、それを受け入れる覚悟ができたときに行動を起こしたのだ。よって彼の叛逆は自暴自棄とは言えないまでも、生命への執着が薄れていた証であると言えるだろう。では、何が彼にそうさせたのか。


 言うまでもなく、魏蘭の死がそうさせたのだ。彼女の死後の韓信の人生は義務を遂行するためのものでしかなく、そこに鮮やかな色彩は見受けられない。韓信の政治観は確かに民衆に自律を求め、それを教化していくというものであったが、もし楚王として玉座に座る彼の横に魏蘭がいたとしたら、彼が執った政策はもっと愛に満ちたものであっただろう。さらにはこの大陸に住む者達に特有の過激な自尊心を持つ鍾離眛に対しても、より柔軟に応じていたことに違いない。鍾離眛を匿うことを、韓信が魏蘭に相談しないはずがないのだ。

 しかも魏蘭は韓信にとって、将軍として自ら開いた府に招いた幕臣であった。その身分は単なる愛妾ではない。彼らの関係は、単なる異性間の愛情のみならず、人間同士の信頼関係に基づいたものであった。よって、この世の中は愛こそがすべてだ、などと簡単に言うつもりは私には毛頭ない。愛し合いさえすればそれですべてよし、というわけでは決してない。

 移ろいやすい人の心は、時には自らの愛さえも否定し、また愛に溺れるあまり正しき道を踏み外す例は幾多もある。愛が争いを生むことも、ままあるのだ。


 そのことを思うと、人が自分の心を制御できないでいるうちには、争いのない社会など生まれようはずもない。韓信は、気の遠くなるような時間をかけて進化する花を見習うべきだと言ったが、おそらくそれでも急ぎ過ぎだろう。あるいは、人類がそのような進化を遂げるためには、あと一万年も二万年もの時間が必要なのではなかろうか。


 しかし魂に過ぎぬ私には、それを待つことしかできない。誰がなにを言おうと、この世は生者のものであるからだ。

 死者にできることは何もない。死者に何ができよう。


(『韓信』・完結)

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韓信 野沢直樹 @nozawa-naoki

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