その後
陳豨は韓信の死後も奮戦し、その後約二年に渡って戦線を維持し続ける。やはり韓信が見込んだ男だけあって、秀でた能力を持っていたと言うべきであった。
これに自ら兵を率いて相対していた皇帝劉邦は、長引く戦局に見切りを付け、一時長安に帰還した。そして、思いがけず韓信の訃報に接することとなる。
「陛下のご留守中に、淮陰侯韓信を謀反人として誅しました」
皇帝の帰還を迎えた呂后の言は結果だけを述べており、なんの感情も込められていない。よって、劉邦はいちいち事実を確認しなければならなかったが、ひととおり説明を聞き終えると、嘆息したり、喜んでみせたりしたという。
「……死んだか……韓信が」
「ええ。死にました」
「簡単に言う。しかも簡単にお前は殺した。建国の元勲を! 苦楽をともにした好男子を!」
「怒っていらっしゃるのですか」
「いや……そういうわけではない。わしは……お前に感心しているのだ。よく決心できたものだと。わしは……いずれ韓信は除かねばならぬと思っていたのだが、結局今までそれが出来ずにいた。奴の功績や、これまでの付き合いのことを考えれば……わしにとって奴は殺してしまうには惜しい男だったのだ」
「いけないことだったのでしょうか」
劉邦はその言葉を受け、真剣に悩んだようだった。しかしやがて頭の中を整理すると、言葉を選ぶように、慎重に語を継いだ。呂后の気に触らないよう、意識したようだった。
「仮にわしに親類縁者が一切いなかったとしたら、韓信に跡を継がせてもよかったように思える。しかし、実際にはそんなことはないのだから、韓信は滅ぼさねばならなかった。これでよいのだ……だが、韓信はまだ若い。わしより先に逝くことになろうとは思ってもみなかっただろうて。……ところで、奴は死ぬ前になにか言葉を残さなかったか」
呂后は劉邦の感傷にさほど関心を示さない様子で、これに答えた。
「なんでも、蒯通という者の言うことに従わなかったのが残念だ、という内容のことを喚いておりました」
「蒯通だと……?」
劉邦の目が吊り上がった。
「……そいつは斉の弁論家だ!」
未だ狂人を装い、斉に潜伏していた蒯通は、勅令によって逮捕された。
*
「お前は淮陰侯に謀反を勧めたとか。間違いはないか」
皇帝劉邦は、覇者の権威を見せつけるように蒯通に対して詰問した。しかし、手枷をはめられた蒯通はそんな劉邦の偉そうな態度に動揺することもなく、鋭く言い放つ。
「無論!」
劉邦はそんな蒯通の態度に呆れながら、問う。口の聞き方を理由に蒯通を罰することはしない劉邦であった。
「では淮陰侯はお前の教えに従い、今回の謀反を計画したのか」
「違う。しかし淮陰侯が後からわしの教えを思い出し、計画に及んだことはあるかもしれぬ」
あるいは蒯通は責任を逃れようとしているのかもしれない。だとすれば劉邦はそれを許すわけにはいかなかった。
「ならば、遅ればせながら淮陰侯は、お前の計画を実践したわけだな。では、お前は大逆の罪人として死ぬべきではないか? 敬愛する淮陰侯が、お前の教えに従った結果として死んだのだから、教唆したお前も当然そうあるべきだろう。そう思わないか?」
追及した劉邦であったが、意外にも蒯通の態度は確信犯的なものであった。どうやら自分の過去の行為に自信を持っているらしい。
「韓信を敬愛していたと……? なんの、わしに言わせれば、韓信は馬鹿に過ぎぬ! 年も若く、それゆえ時流を読み切れなかった小僧に過ぎぬ! あの馬鹿は……さっさとわしの計画を実行しなかったから、滅んだのだ。そうだろう? あの小僧がわしの計画にのっとって行動したら、陛下はそれを防げたか」
劉邦はこの蒯通の言葉に激怒した。
「不遜なことを言う奴だ。わしに対しても、淮陰侯に対しても不遜きわまりない。大釜を用意せよ! こやつを煮殺すのだ!」
気の利く側近によって手早く大釜が用意され、すぐにそれに火がつけられた。
「何を言う! わしは無実じゃぞ! 煮殺すなどと!」
蒯通は反論した。しかし手枷をはめられていた彼は、両脇を劉邦の臣下たちに抱えられ、いとも簡単に釜へ放り込まれてしまった。
劉邦はその蒯通の顔に唾を吐きかけるような勢いで、言い放った。
「ぬけぬけと無責任なことを言う奴め! お前は信を悪の道に引き込もうとした。何が無実だと言うのか!」
しかし蒯通は決して悪びれる態度を見せず、その様子に劉邦は若干たじろいだ。もしかしたら目の前の男は本当に狂人なのかもしれない、と。
「なにを言う、悪の道だと! あの男は常に正しさを求めていた。わしはそれを知っていたから、彼が一人の人間として幸せに暮らせるよう、提言したのだ。それが結果的に陛下の利益を損じることになろうとも……そんなことはわしの知ったことではない! もとより臣下とは主君のためにのみ働くべき存在であるからだ」
煮られながら必死に抗弁する蒯通の姿に、劉邦の心は動かされつつあった。しかし論破されるわけにはいかない。劉邦は諭すように、蒯通に言い渡した。
「お前が韓信の臣下であると同様に、韓信はわしの臣下であったのだ」
その言葉には、言外になぜ正しく韓信を導かなかったのか、という意味が込められていた。蒯通にとっては失笑の種であったが、劉邦にとっては、それは間違いなく本心であった。
「その通りだが、当時わしはそれを知っていて、主君に韓信を選んだのだ。選んだ以上、わしは自分の主君のためだけに働いた。飼い犬というものは……飼い主以外の者には吠えつくものなのだ。当然のことではないか!」
「しかし、お前は見たところ犬ではない。人だ! 人の頭があるのなら、当然道理というものが理解できるはずだ! 違うか?」
ここにもこの時代の論理があった。人は人にのみ忠誠を尽くし、国や制度に尽くすものではない……蒯通の主張することはそのことで、劉邦はそれを否定しようとしているのであった。そんな生き方は、感情のままに生きるだけの、犬のようなものだと。
劉邦のその気持ちを理解しようとしない蒯通は、なおも喚き続ける。
「わしが言っているのは、たとえ話だ。わしは韓信の飼い犬として、陛下に吠えついた。しかし……あんたには想像できまい……飼い主の韓信は、わしを制したのだ! 『不忠であるからやめろ』などとと言ってな! それ以来、わしは吠えることをやめ、身を引いたのだ。韓信はわしの飼い主ではあったが、それと同時に陛下の飼い犬であった。彼はわし以上に……主人に忠実な犬であったよ!」
「…………」
劉邦は言葉を返せなかった。人に犬のような生き方をさせたのは他ならぬ自分であるというのに、それを今になって否定する権利はないことに気付いたのであった。
「なにも言えまい! 言い返せまい! それはそうだろう。韓信もわしも無実なのだからな! 陛下! あんたは理由もなく韓信を殺した! そしてこのわしも殺そうとしているのだ! 韓信が自ら兵を挙げてまであんたに訴えたのは、このような行為を許さぬためだということが、わからんのか!」
「……もういい。それ以上言うな……赦してやる。どこへなりと行け」
長年にわたって結果が保留されてきた韓信と蒯通の賭けは、劉邦が韓信の忠義を認めたことで、韓信の勝ちに終わった。
*
一連の出来事を終え、蕭何は韓信について語ったという。
「思えば、韓信という男は、常に中庸を意識していた人物であった。武に偏り過ぎず、智に傾き過ぎず……これは裏を返せばどちらの能力も兼ね備えているということで、彼は経験を積めば、きっと統治者としても頭角を現したに違いない。だが、残念なことに時代がそれを許さなかった。それに彼は人の行為の正しさを考えるに、中庸ではなかった。正しいことと悪しきことを区別しようと意識し過ぎたのだ。結果的に正しさを求め過ぎる彼に、我々をはじめとする周囲の人間たちは……誰もついていけなかった。そして彼自身も……自分自身が正しいと認める生き方を実行できずにいることに悩み……捨て鉢になった。時代だ。時代が彼にそうさせたのだ。我々は彼に感謝すべきだろう……はじめて出会ったころの彼は、私に言ったことがある。曰く、乱世にけりをつける男になりたいと……彼は確かにその思いを実現した。最後には自分自身が舞台から消え去ることで、彼は戦乱の世にけりをつけたのだ」
もし灌嬰がこの言葉を聞いたとすれば、卑怯だと評することだろう。しかし、彼の言葉は事実の一面を正しく突いている。
*
臨淄の宮中で報告を受けた曹参は、しばし目をつむり、押し出すように言葉を紡いだ。
「淮陰侯が謀反……そしてそれに失敗……彼らしくないことだ。しかし……彼としてはそうせざるを得なかったのだろう」
「彼らしくないとは……謀反したことがですか? それとも失敗したことがですか?」
周囲の者の問いに曹参は断言するように答えたという。
「無論、失敗したことが、だ。ほぼ成功する可能性がない計画を、彼はわかっていてたてなければならなかった。謀反という行為を肯定する気はないが、誰かがそれをやらなければ、国は人々の意志を無視して暴走しようとする。彼は、その役を自ら買って出たのだ」
「あえて敗れる戦いを挑んだ、ということですか」
「私が知る淮陰侯は、常に勝つ戦いをする男であった。無謀な賭けに人々を巻き込むことをしなかった男だ。だが彼は……今回は負けるための戦いをした。陛下が自分を持て余しているということに彼自身が気付いていたからだろう。かえすがえす、私がおそばにいられなかったことが残念でならない」
「では淮陰侯は……自暴自棄になった、ということですか」
「そうかもしれない。しかし、残念だ……いい男であったのに……。いつの世も正直者は馬鹿を見る。彼の死がそれを変えてくれることを祈るばかりだ」
曹参はそう言い、深くため息をついた。
*
自身の吐き出した炎が燎原の火となる前に鎮火したことを劉邦は安堵しつつ、二度とその炎が吐き出せないことに気付いた。炎は炎である以上、吐き出された後は、自分の手に負えない。しかし存在する以上、たとえ小さくなっても夜陰を照らすともしびとなり、人々が暖をとるための熱源となる可能性を秘めていた。
だが消火された今となっては、その可能性はない。そして自分自身にももうそのような炎を吐き出す源がなかったのだった。それを知った劉邦は、過去の自分の行為を思い出すたびに後悔するようになっていった。
やがて彼は年老い、覇気を失っていった。
韓信の死後、漢の建国の元勲である異姓諸侯王は次々と滅ぼされ、呂后を中心とした外戚が跋扈する時代となっていく。彼の死は、歴史上のひとつの危機の終わりであり、新たな危機の始まりでもあった。
(第四部・完)
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