悪意の絆
一
大いなる計略は、小人物の密告によって、実現を阻まれた。つまらぬ男によって運命を台無しにされたという見方が出来ないでもないが、やはりこれは韓信自身の失態なのであった。大を見るあまり小を見ず、天空を泳ぐ竜を眺めていたら蜂に刺され、それがはからずも致命傷になった、といったところだろう。しかし、この時点での韓信はまだ自分の失敗を知らない。
*
作戦決行を三日後に控えて彼が考えることは、実務的な不安がまず第一であった。もと親衛隊の連中は十分に信用に足る者たちであったが、実戦からしばらく離れている。心配してし過ぎるということはなかった。
――こんなとき、カムジンが……。
かえすがえすも惜しい。自ら手にかけたことを今さらながら後悔する韓信であった。
――しかし、あのときの自分の判断は間違いではなかった。
後悔することは自分の行為を否定することである。カムジンは、罪人であった。よって裁いたことは正しい。だが一方で自分は罪人どもを赦し、兵として迎えている。他に方法がなかったとはいえ、カムジンに顔向けできない、と考えてしまうのだった。
――いずれにしても、カムジンはもういない。考えても無駄なことだ。
そう思い、とりとめのない思考を打ち切ろうとしたが、そもそも自分の決断自体が正しいかどうかさえ、確信がない。思考はさらに深みにはまっていくのであった。
――蘭がいてくれたら……。
実際は彼女がいても韓信の言うことに無条件に従うだけのことだったに違いない。しかし、彼女が後押しをしてくれることで、自分が気分的に楽になれることは確かだった。一人で決断するのではなく、ともに悩み、励まし合いすることでこそ、人は実行力を発揮する。
――しかし、蘭ももういない。やはり、考えても無駄なことだ。
絆は断ち切られ、彼はたったひとりで行動を起こさねばならなかった。
謀反が謀反に終わった理由が、そこにあった。
*
「私が聞くところによりますと、淮陰侯韓信という男は、そもそも貴方が皇帝に推挙した人物だとか。大変な人物を推してくれたものですね」
命を狙われていることを密告によって知った呂后は、傍らに控える相国蕭何にとげとげしい口調で言った。
「は……。しかしまさかこのような事態になるとは……」
蕭何はしどろもどろしている。人質として項羽に捕らえられていた呂氏は、解放された後、性格が豹変して恐ろしくなった。蕭何は呂氏の目を直接見ることができない。
「淮陰侯は当代随一の知将と聞きます。私は戦時中一貫してとらわれの身でしたので詳しくは知りませぬが。本当にそうなのですか?」
蕭何は額に流れようとする冷や汗を呂后に悟られぬように拭いながら、答えた。
「……かつて臣は、淮陰侯のことを『無双の国士』として皇帝陛下に推挙いたしました。そのことは間違いございません。また、実際に彼はその異称のとおり、天下の大国を次々に制圧し、ついには仇敵である楚を滅ぼしました。今、こうやって皇妃様と臣が宮殿にいられるのは、半分以上彼の功績によるものなのです」
呂后はこの蕭何の言葉を聞き、不満げな表情をした。
「それでは皇帝陛下の功績は半分以下と、相国は言うのですか? なんとも不遜な発言ではありませぬか。……まあ、相国は嘘はつかないお方だと私は思っていますので、信じましょう。それで、相国はこの事態をどう解決しようとお考えですか? 密告者の話によると、淮陰侯の兵の正体は、囚人だとか。将が優秀でも兵が烏合の衆では、私としては対処は楽なように思えるのですが」
「とんでもございません」
蕭何は顔を上げて、反論した。宮中にも関わらず、叫ぼうとしたほどである。
「韓信と戦うには漢の総力をあげて戦うしか、勝つ見込みはございません。しかし今、国の兵の大半は陳豨の討伐に……。彼は勝つ戦いしかしない男です。彼が行動を起こすときには、必ず勝利の算段が出来ているのです。したがって、彼と戦ってはなりません」
「戦わずに、どう解決するというのです? 淮陰侯の武勇を褒めちぎるのはほどほどにして、早く策を示しなさい」
蕭何の額の冷や汗は、脂汗となった。実を言うと、策がないことはない。しかしそれを実行することは、ためらわれた。自分がいち早く認めた男を裏切るのは、国のためとはいえ、後味が悪すぎる。
しかし、蕭何に選択の余地はなかった。
「臣と……淮陰侯に共通して信頼できる者を使者として遣わしたいと思います。うまくいけば、彼は一人でここを訪れることになりましょう」
二
決行の前日、午後になってから韓信は朝廷から使者を迎えた。側近たちは心配し、もともと病気を称しているのだから会わない方がいいと勧めたが、韓信は逆に怪しまれることを嫌い、使者を通した。
しかし、韓信は使者の姿を見て、すぐに後悔した。やはり会わない方がよかった、と思ったのである。
使者は、灌嬰であった。
「淮陰侯……病気と聞いておりましたが、お加減はいかがですか」
灌嬰は嫌みともとれる口調で、そんな挨拶をする。
「灌嬰将軍……なぜ今時分にこんな所にいるのか。君は陛下の陳豨討伐に随行したはずではなかったのか」
韓信の心に一抹の不安がよぎる。彼はすべてを計算のうちにおいていたはずだった。ところが意外なところに、意外な男がいる。それだけで彼は気分が落ち着かなくなるのであった。
「正確なところは、少し違います。私は皇帝陛下に先行し、三日ばかり早く戦場に到達いたしました」
「ほう、そうか……。しかし、私が聞いているのはそのことではない。戦場に行ったはずの君がなぜここにいるのか、と聞いているのだ」
灌嬰は少し間を置いてから、いたずらっぽい笑いを含んで答えた。韓信は一瞬、それが彼の演技のように思えた。
「どうか、驚かれますなよ。私は戦勝報告にいち早く長安に舞い戻ったのです!」
「戦勝報告……? と、すると陳豨は……」
「討ちました。陳豨は、死にましたよ!」
韓信の心の中で、なにかが崩れる音がした。ほんの一瞬ではあるが、彼はなにも考えられなくなり、返す言葉を失った。予想外の事態。計算外の出来事。めまいがして、目の前の灌嬰の姿がよく見えなくなった。たまらず焦点を合わそうと努力をするが、それにも意識が集中しない。顔色は蒼白になり、視線は空を泳いだ。
「どうかなさいましたか」
灌嬰の声に一瞬の自失から解き放たれる。それでも言葉は流暢には出てこなかった。
「いや……それは……めでたい。慶事だ。……君が、討ち取ったのか?」
「そうです」
「……さすが、私の見込んだ男だ」
灌嬰はその言葉に微笑したが、韓信の目には、それがどことなく気まずそうで、かつぎこちないもののように見えた。照れているのだろうか。
それにしても皮肉とはこのことである。灌嬰が自分の見出した武将のひとりであったとしたら、陳豨もそうであったのである。彼のしたことは、自ら将来有望と見込んだ二人の武将を戦わせ、その一方を死に追いやることであったのだ。おまけに結果は彼自身の望まぬ形となった。決して灌嬰が死ぬことを望んだわけではないが、二人が戦った結果、生き残ったのが灌嬰の方であるということに、韓信は確かに失望を感じたのであった。
「して、君の使者としての用件は、私にも戦勝報告をすることなのか」
韓信は内心の動揺を灌嬰に悟られまいとして、やや毅然とした調子で話題を転じた。
「いえ、そうではありません。あやうく忘れるところでした。私は相国の使者として参ったのです。……つまり、陳豨討伐の成功を祝い、宮中にて呂后主催の祝賀が催される、と。淮陰侯はご病気で体調が優れないとは思うが、なんとか参内して祝賀を申されたい、と相国は申しておりました。諸侯は皆、参内することになるそうです。ゆえに淮陰侯も、是非にと……」
「蕭相国が……」
ひとしきり考えた韓信は、迷いつつも答えを出した。蕭何は自分を見出してくれた男であるし、自分が逃げ出したときは、後を追いかけてまで来てくれた男であった。その彼が、自分を陥れるようなことはしない、と。
「……伺おう。明日の昼には長楽宮に赴き、呂后の御前に参内する」
それは、自分自身に発せられた、呂后襲撃計画の中止宣言であった。
三
「心底、疲れましたよ」
長楽宮に赴いて呂后に復命し、与えられた居室で相国蕭何と二人きりになる機会を得た灌嬰は、そのように本音を漏らした。彼は蕭何によって戦場から呼び戻され、本来なら三日程度かかる距離を、わずか一日で走破したのだった。
「大丈夫なのだろうな。本当に……淮陰侯は、明日やって来るのだろうな?」
「間違いないと思いますよ。淮陰侯は、戦略以外で嘘をつくお方ではない」
「様子はどうだった? 言動などに密告は正しいと感じさせるなにかがあったか?」
「……陳豨が死んだと聞いたとき、淮陰侯は激しく動揺なさっているご様子でした。もともとあまり表情をあらわにしないお方なのですが……さすがに隠しきれない様子で……あのとき私は、密告の内容が正しいことを確信いたしました。……淮陰侯は確かに陰謀を巡らしております」
灌嬰はそう答えたが、韓信を誹謗している口調ではない。むしろ憐れんでいるようであった。
「そうか……よくわかった。将軍、君は急いで前線へ帰れ。今すぐ戻って、陳豨と戦うのだ」
蕭何の言葉には、疲れたと言っている灌嬰にさらに労働を強いる非情さが現れているが、その他にもうひとつ重要な意味が込められている。
この時点で陳豨は死んでいなかった。つまり、彼らは共謀して韓信を騙したのである。
「今すぐって……明日、淮陰侯がいらっしゃるんですよ! 私がいなければ怪しまれるじゃありませんか」
「後のことは私に任せておけ。君はいない方がいいのだ。君は淮陰侯に心服している。……だからきっと助命を請うに違いないのだ……だから君はいない方がいい。さあ、すぐ行け」
「助命って……まさか淮陰侯を殺すつもりですか? ねえ相国、落ち着きましょうよ。いったい何を考えているんです!」
蕭何は灌嬰の物言いにあきれ顔をした。
「私に向かって『ねえ』とはなんだ。よくもそんな言葉遣いであの律儀な韓信のもとで働いてきたものだな。彼は他人に対して峻厳な態度で臨むと聞いていたが、どうもそうではなかったらしい」
灌嬰は反省したが、うまく質問をはぐらかされたような気がして、腑に落ちない。
「すみません」
謝る態度にも、ふてくされた調子が残る。灌嬰は、まだ若者であった。
「冗談だよ。そんな顔をするな。しかし君は本当に韓信のことが好きなのだな」
蕭何はなだめるように言った。
「君の見た、韓信という男の印象を聞いておこうか」
「はい……」
灌嬰は、話し始めた。
「……人は、淮陰侯のことを高慢で、自分だけが正しいと信じている、と評します。そのため、人はあの方の軍功や高い見識を評価しながらも、必要以上に近づこうとはしません。淮陰侯もそのことは自覚しておられるようですが、自分から態度を改めたりはしないし、自ら交流を広めようと努力される方でもありませんので、孤立することが多いように思われます。しかし、実際にあの方と触れ合うと、その考えの深さ、謙虚な態度、相手に対する敬意を持った言動に驚かされます。……考えられますか? 淮陰侯は天下随一の軍功を持ちながら、常に自分の成してきた行為に疑問を持ち、与えられた任務とはいえ、人を殺してきたことを後悔ばかりしているのです」
灌嬰は話しながら感情が高ぶってきたのか、目に涙を浮かべているようであった。蕭何はそれを認めながら、つとめて冷静に振る舞おうとした。一緒になって韓信に同情していたら、これから成すべき任務が果たせなくなる。
「韓信は……将軍としては一流であったが、王としては、中途半端な存在であった。彼は性格的には物静かな男であるから、民衆に対しては慈悲を持った心で臨むだろう、と私は考えていたのだ。しかし、実際に彼のしたことは軍威を見せつけて、民衆の心に恐怖を植え付け、厳しく取り締まることであった。それが逆効果だったな。民衆はひそかに彼に反発するようになったのだ。相次いで彼を告発する密告が朝廷にもたらされたのも、自然な成り行きだろうて」
灌嬰は、目を伏せるようにして頷いた。
「認めます。しかし、それも淮陰侯がご自分の行為が絶対的に正しいものだと確信が持てなかったからこそなされた行為であり、それでいて民衆の小さな悪事が許せなかったことのあらわれでございます。つまり、淮陰侯は……悪事を見つけても、それを裁くことは自分に許さなかった。幾多の人間を血祭りに上げてきた罪多き自分が、人を裁くことなどできない、と考えたのです。だから民衆が罪を犯さないよう脅し、それでも罪をなす者には法や軍律で対処したのです」
「……要するに自覚が足りなかった、ということだ。王として強い意志をもって民衆と向かい合う気持ちが足りなかったのだ。人は……基本的に罪を犯すものだ。施政者たる王は、それを丸ごと抱きかかえる度量が必要なのだ。善も悪も、罪も……丸ごと、すべてだ」
「それは、なかなか難しいことでしょう。人は淮陰侯のことを、こう言います。感情がなく、人間味にかける、と。ですが、私に言わせれば、いま相国のおっしゃったことができる人こそ、人間らしくありません。相国だって……本心ではそう思うでしょう? そもそも淮陰侯の可能性を一番先に見出したのは貴方ではないですか! その貴方が、淮陰侯を謀殺しようとしているとは……。相国は平気なのですか?」
「私とて、心穏やかではいられない。……しかし、やらねばならんのだ。韓信が謀反に成功すれば、その意味するところは、陳豨や韓王信の叛乱どころではない。韓信は確かに人との交流が少ない男だが、その能力は天下に高く評価されている。よって彼が叛旗を翻せば、諸侯の中で彼に味方するものが出てくるだろう。黥布や彭越などが韓信と組めば、国土は燎原の火に焼き尽くされる。悲しいことだが、……彼は除かねばならない」
「……しかし、淮陰侯の叛乱は、決してあのお方の気まぐれから起きたものではない。それを導いたのは我々のあのお方に対する仕打ちであり、陛下のなさりようです! 今だからこそ申し上げますが、あのお方に謀反を勧める者は、何人となくいた。しかし淮陰侯は、その進言をすべて退け、陛下に対する臣従を示し続けました。人臣たる身である以上、臣従することが正しいと信じ続けたからです。しかし、あのお方が正しい行動をとろうと努力なさっていたのに、我々や陛下の淮陰侯に対する態度は、正しくなかった。今からでも遅くありません。彼に今までの無礼を謝し、待遇を改めることを約束するのです。淮陰侯は決して広大な領土を欲しているわけではありません。ただ、一人の男として尊厳を保つことを約束すれば、それで満足なさるはずです」
蕭何は考えた。灌嬰の言うことは、おそらく正しい。だが、やはりその通りに行動するわけにはいかなかった。
「……先ほど申したとおり、施政者は正・邪を丸ごと抱え込む必要がある。君の言うように、韓信が正で、我々や陛下が邪だとしても……国を保つためには邪が正を除くことも時には必要なことかもしれぬ。そしておそらく……今がその時なのだ」
「……相国の仰ることは、矛盾しています! どうして淮陰侯が正だと知っておきながら、それを抱え込もうとしないのですか!」
灌嬰はついに絶叫した。蕭何はしかし、それを咎めようとはせず、静かに答えた。
「天の導きだ。我々のような矮小な存在には、時代の流れを止めることはできない」
「……そのような物言いは、卑怯です」
「もう言うな。早く行け。行って陳豨の首をあげよ。陳豨の乱は、韓信の策略だ。陳豨の首をあげ、叛乱を鎮めることで、君は尊敬する韓信を超克できる」
「淮陰侯を超克することで、彼と同じ運命を辿ることはご免ですよ! ……しかし、もう行きます。……やはり、あのお方の殺される姿は見たくありません」
座を立った灌嬰の後ろ姿は、肩を落としているように蕭何の目に映った。
――灌嬰! 泣き言を言うな! お前はまだいい……見ないで済むのだからな。私は……。
蕭何は明日、韓信と対面しなければならない。そのときどんな顔をして彼に向かうべきか、よくわからなかった。
四
「伺おう」
そう言ったものの、謀殺される危険性を感じなかったわけではない。陳豨は、殺される寸前に二人の間の秘事を明かしたかもしれなかった。そう考えると、韓信は自分の死が徐々に近づきつつあることを運命として受け入れざるを得なかった。
明日の昼過ぎには自分はこの世に存在しないかもしれない。そんな風に殺される瞬間のことを考えると、確かに恐ろしかった。しかし一方で、その後は現世の苦しみから解放されることになる、と思うと、気分が楽になる。死に対する恐怖も「喉もと過ぎれば」という具合のものだろう、とも思えた。恐怖は感じるが、それは彼が想像していたより、たいしたものではなかった。
殺されるまでは生き続けようと考えていた韓信であったが、最近では以前より生に対する執着もなくなってきている。
以前の自分は、よく口にしたものだ。
「死んで出来ることは、何もない」
と。確かにそれは間違いではない。しかし、今の自分にはもうひとつ、確信を持って言えることがある。それは、生きていても出来ることはほとんどない、ということだ。
気・力ともに充実しているときは、個人の実力こそが、天下を動かす原動力になる、と考えたものであった。しかし、結局天下を得たのは自分より実力の劣る劉邦であった。思いがけないこの現実に力が抜けた。これが仮に項羽であったら、自分は即座に対抗しようとしたに違いない。実力者が、実力者に挑むのは当然のことだからだ。
――では、私は何を思って劉邦に味方したのだ。
――結局味方をしたのだから、劉邦が天下をとったのは当然のことだ。それとも私は、皇帝の座を狙っていたとでもいうのか。
――いや、そういうわけではない。私が望んだのは……自分の知勇をもって戦乱の世にけりをつけることであって、結果的に誰が皇帝になろうと知ったことではない。しかし、一連の戦乱が終わればすべて終わり、というわけではなく、私にもその後の人生があるのだ。考えてみれば当然のことではないか。我ながら、なんと浅き知恵……。
――なんのことはない。天下を動かすのは、運だけであった。これこそが、真理よ……。劉邦は運を味方に付けて、私を利用することに成功したのだ。
韓信の心の中に一種の諦念が浮かぶようになったのは、いつ頃からのことだろう。
「私は、出来ることなら将になりたい。将になって天下を動かすのだ」
少年時代、自分は栽荘先生に向かって、そんなことを言ったものだ。
ああ、先生……。私は間違っておりました。私は何にもなるべきではなかった。将どころか、王となっても天下を正しく導くことは出来なかった。市中にはびこるクズのような輩を一掃したいと思っていたのに! 男女を問わず、老若を問わず!
先生、どうして私を正しき道に導いてくださらなかったのですか。私は、学者にでもなればよかった。口下手な私ではありますが、世の中に対して思うところは多々あるのです。それを一巻の書物にでもすれば……。かえすがえす、お恨み申し上げます!
――しかし、少なくとも自分は、世に名を残すことになった。それは悪名であるかもしれないが、自分のような経験ができる者は少ないのではないだろうか。
韓信はそう考えもしたが、すぐにそれを否定した。
――馬鹿な! 自分の人生が満足できるものだった、とでもいうのか。よい経験をしたと? 私の一生は素晴らしかったと? そんなことはないさ! 私が死に追いやったのは、悪人ばかりではない。敵として死んだ者の中には、数多くの善男善女がいたに違いないのだ。それを知りながら殺さねばならない人生の、どこが素晴らしいのか!
――その酬いとして私は蘭や酈生を失うことになった……。それで十分だと思っていたのだが……どうやら私の罪は限りなく深く、私自身が死ななければ償うことができないほどらしい。
そう思いながら、目を閉じた。眠ったのではない。人生の中での数少ない良い思い出を反芻しようとしたのである。
――少年時代の眛。常に私の前に立ち、先に行動した。年は変わらないというのに、彼はいつも兄貴分を気取り、私を見下した態度をとった。当時は癪に障ったりもしたが、今となっては可愛いものよ。彼は幼き頃から、私を恐れていたのだ。だから健気にも虚勢を張り……。
――カムジン。ほとんど口をきかないお前と、心が通じたように感じたのはなぜだろう。あるいは私はお前を動物のように扱ってしまったのかもしれぬ。主人の命令に忠実に従う猟犬のように。もしくは戦うためだけに生まれてきた軍鶏のように。いずれにしろ私は、物言わぬお前が人と同じ心を持つことに思い至らなかった。もっと早く気付いてやれれば……。
――酈生、あなたはよくわからない老人だった。温和な表情。礼儀に満ちた所作。それでも若い頃のあなたは荒くれ者だったと聞いている。いったい、人はそんなにも変われるものなのか。もしそうだとしたら、やはり荀子の説は正しいと言わねばなるまい。善が悪に変わるのは一瞬のことだが、悪が善に変わるのにはとてつもない努力が要る。酈生、あなたはそれを見事やってのけた。できることなら、私も……どうせ死ぬのであれば、あなたのように美しく死にたいものだ。だが、私はひたすら人を殺し、最後には謀反を犯した。結局、最初から最後まで悪だ。善人となって死んだあなたのような最期は、私にはとうてい無理だ。
――蒯先生。君は何度も私に独立を使嗾したな! 当時視野の狭かった私は、君の言うことを理解できず、最後まで君の意見を取り入れなかった。しかし……私が今していることは、君の言ったとおりのことなのだから、やはり君の言うことは正しかったのかもしれぬ。今君がここにいて、私に助言してくれれば心強いことこの上ないが……。なぜ、私のもとを去ったのか! 君は私を見捨てたのか! もしどこかで生きているのなら、私の死後、人に伝えてほしい。韓信という奴は馬鹿であったが、それなりに忠義心を持った男であった、と。
――そして、蘭よ。君の凛とした立ち姿。大きい瞳に切れ長の目尻。きりりと一文字に結ばれた、男に媚びる様のない唇。恐れを抱きながらも、戦場に立とうとする勇ましさ。君は、私のそばにいさせてくれと言いながら、単に庇護される立場を嫌った。自立した女であった君は……ただ美しいだけの、人形のような女とは違う。私は、君のそんなところが……たまらなく好きであった。おそらく世の中には、君より美しい女は多数いることだろう。しかし、君ほど私の意にあった女はいまい。……しかし、それを失うとは……くそっ!
いいことを思い出そうと思っても、どうしても後悔がつきまとう。そして思い出されるのはすでに自分のそばにいない者ばかりのことであった。
気付いてみれば、彼には人との絆がなかった。自分の生き方がそうさせたのか、誰かの策略でそうなってしまったのかは、彼自身にもわからない。
わかるのは、確かに自分は孤独である、という事実だけであった。
五
朝、目覚めてみると、夢を見なかったことに気付く。ここ最近は、凶事の前日に必ずと言っていいほど、蘭が夢枕に立つ。今日、彼女が現れなかったということは、吉兆であるかもしれなかった。
それに、必ず自分が殺される運命にあると決まったわけではない。使者は灌嬰であったが、彼を自分のもとに差し向けたのは、他ならぬ蕭何であった。蕭何が自分を陥れるとは、考えにくい。
「もし日が落ちるまでに私が戻らなかったら……そのときは殺されたものと思え。君たちには、あるいは難が降りかかるかもしれぬが、そのときはすべて私に脅された、と弁解せよ。そうすれば、きっと皇帝は君たちを赦す」
一縷の望みを残してはいるものの、やはり最悪の事態を考慮して韓信は側近たちにそう言い残して出立した。
列侯に許されている専用の車に乗り、長楽宮への道を辿る。見えるのは、乾いた黄色い大地。その中に点在する緑の木々を眺めると、それがあるいは見納めになるかもしれないことに思い至る。彼は目を閉じ、それ以上なにも見ないことにした。
やがて壮大な門の前で車が止まり、韓信は外へ出た。宮殿の奥へ奥へと歩を進める。衛士に腰の剣を預け、非武装の状態で呂后の面前にまみえた。
しかし、その場には祝賀を述べるはずの諸侯は、誰もいなかった。
「淮陰侯……」
その声が、蕭何のものであったことに韓信は気付くのが遅れた。どうも目の前の事実が理解できなかったらしい。
「相国、灌嬰は……? 他の諸侯は、どこだ。黥布や彭越は……」
韓信は小声で蕭何に問いかける。だが、蕭何は直接その問いには答えず、韓信の目を見ずに言った。
「お妃様が、君に話があるそうだ」
その言葉に従い、韓信は呂后の前に歩み寄り、跪いて挨拶をした。しらじらしく時候の言葉でも並べようかと思ったが、結局ひと言も発せぬ間に、呂后の方から声がかかった。
「なるほど、謀反を企む者は、その心を読まれまいとして礼儀を正そうとする」
「は……?」
「あなたは、陳豨を唆して謀反人としましたね。そしてあなたはこの私と、私の息子を虜にしようとした。……こちらにはすべてわかっているのです!」
――そこまで知られていたのか。
あるいは陳豨の側近が捕虜として捕らえられ、その者がすべてを吐露したのかもしれない。もはや人生に諦念を抱いていた韓信は、申し開きをする気にはなれなかった。
「陳豨の手の者が、すべて白状したのですか」
「いいえ。白状したのは、あなたの手の者です。家令の一人を獄に繋いだでしょう。その者の弟が知らせてくれたのです!」
――あの兄弟め!
「ついでに知らせておきましょう。陳豨は生きています。いずれは死ぬことになりましょうが、今の時点で我が軍は彼を破るに至っていません。まだ、彼はぴんぴんしていますよ。あなたが死ぬことになり、計画が御破算になることも知らずに!」
――ちっ。そういうことだったのか。
韓信は内心で舌打ちをした。実に小さな嘘にまんまと騙されたものよ、と自分に興ざめしたのである。
自然、自暴自棄になった。
「灌嬰は常と変わらぬ飄々とした態度で、私を騙したわけだな。思えば奴は、陳で私が捕らえられたときも静観していた。奴とは付き合いが長いし、私はそれなりに友誼を感じていたのだが……とんだ思い違いよ!」
宮中に関わらず、床に唾を吐き捨てるような勢いであった。常に冷静な印象の韓信らしくない。人は死を目前にすると、本性があらわれるという。韓信の本性は、実は激情家であった。
「淮陰侯。灌嬰を責めるな。彼がすすんで君を騙したと思うのか。……このわしが相国という立場を利用して、彼に命じたのだ」
蕭何は、高ぶる韓信の態度を和らげようと、場を取りなそうとした。
「そうだろうよ! 相国、あんたも同罪だ」
依然、韓信の態度はおさまらない。
「相国を責めてはいけません。相国は私を救おうとして命令なさったのです。私を救うということは、陛下を救うということであり、同時にそれは国を救うことなのです。そんなこともわからないのですか」
呂后は冷ややかにそう言った。
「ふん……なるほど……君らはずいぶんと仲がいいことだな! 国を救うと称し、共謀して私を除こうと……悪意の絆! 今さらだが、その知恵と仲の良さを私が斉や趙の地で苦しんでいるときに発揮してほしかったぞ! そうすれば建国の苦労は、半分程度で済んだのだ」
痛烈な侮辱である。韓信は、この言動だけでも死罪を免れなかった。
「そのときは、私は虜囚の身で項羽のもとに捕われて……」
呂后はそれでも話を続けようとしたが、韓信の激情はこのとき頂点に達した。
「お前などに言っているのではない! いったいお前が国のために何をしたというのか! 愚鈍なためにむざむざ捕われたくせに。お前の愚鈍さが、漢軍全体の足枷となったことがわかっていて口をきいているのか!」
「やめろ、やめないか、淮陰侯」
蕭何は泡をくって制止しようとした。
「相国! もうその呼び名で私を呼ぶのはやめろ! 私はすでに謀反を犯し、もはや漢の職制の外にある身分だ。私を呼ぶなら、単に韓信と呼べ! 私は……罪人として死んだ父と、不貞を犯して死んだ母の間から生まれた、
この言を聞き、ついに呂后は、堪忍袋の緒を切った。
「話にならぬ。相国、別室に連行して獄吏に引き渡しなさい。そして、すぐに首をはねるのです! 三族すべて、殺しなさい」
三族とは、狭義では妻子と両親、広義では一族すべてのことをいう。韓信の両親はすでに死し、妻子がないことは明らかだったので、この場合は遠縁の者を探し出し、すべて殺し尽くせ、という意味であった。
「は、しかし……」
「考えてはなりません。迷いのもとです。余計な感情を持ってはいけません。すぐ、やるのです」
「……御意にございます……」
やむなく蕭何は、武士を呼び、韓信を取り押さえさせた。両腕に枷をはめられ、引き立てられながら、韓信は喚くように言葉を連発した。
「まったく、蒯通の言う通りだった! こんな国など、早いうちに滅ぼせばよかったのだ。それにしてもこの私が、あろうことかあんな女に騙されるとは! 天運、まさに天運としか言いようがない」
「もうよせ、信……」
連行される韓信の後を、蕭何が静かに追った。
六
宮中の鐘室に韓信は連行され、蕭何もその部屋に入った。
「……なぜ、あんな死に急ぐようなことを言ったのだ」
蕭何としては、やりきれない。彼は最後の瞬間まで韓信を助命することを諦めていなかったが、肝心の韓信が自分で自分の死刑を確定してしまったのである。
「すみません……相国には、ご迷惑を……お立場を悪くしてしまいました」
韓信の態度には、すでに狂乱した様子はない。落ち着きを取り戻した、いつもの彼の姿がそこにあった。
「私は……誰かに運命を左右されるのは嫌だ。たとえ死ぬことを免れないにしても、私は自分の責任でそれを迎え入れたいのです」
蕭何はため息をついた後、得心した。いかにも韓信らしいことだ、と。
「そもそも、叛乱を計画したのは……それを陛下が望んでいたからです」
「! ……どういうことだ」
「私のことを陛下が持て余していることは、わかっていました。建国の元勲も事が成就すれば、邪魔になる……そのような理屈がわからない自分ではありません。不遜な言い方ですが、陛下には私に正面から戦いを仕掛ける勇気がない。勝つ自信がないからです」
「だから……自分から挙兵しようとした、というのか?」
蕭何の問いに、韓信はこくりと頷いた。
「……戦いに勝って、自ら皇帝になろうとしたのか」
「いえ。それはありません。陛下が陛下であることに、私自身は異存がありません。ただ至尊の位を得た以上、正しき道を歩んでいただきたかった。私が挙兵することによって、今の独善的な国家運営を反省していただければ、と思った次第なのです。しかし、落とし穴が待っていました。まさかあのお妃様によってそれを阻止されるとは……」
韓信はこのとき、静かに笑った。その表情は、自嘲的であった。
「君は、自制的な男だと思っていたのだが……君ほどの功績のある男が自制してくれることで、天下の万民はそれを真似し、その結果、戦乱のない平和を享受できるのだ。そのことがわからなかったのか」
蕭何は残念そうな表情で、そう言った。しかしその言葉は、韓信の意思を理解していない証拠であった。
「そんなものは、おしつけの平和というものでしょう。平和の名のもとに人々に自制を強制するのは……。人ができる自制というものには限りがあり、それを越えると爆発します。そのとき、天下は際限なく乱れるでしょう。私は、それを抑えたかった」
「…………」
蕭何はとっさに言葉を返すことができなかった。ようやく口をついて出た言葉は、以下のひと言であった。
「……すまなかったな」
韓信はその言葉を受け、目を伏せた。そしてひと呼吸置き、言葉を継いだ。
「……さあ、お話はこれまでです。私は、自分で自分を斬る勇気はありません。部下の者にお命じください」
「なにを」
「なにをって……首をはねよ、と命じるのです」
「……簡単に言いおって……最後に言い残すことはないか」
韓信は少し考える素振りをした後、言い残した。
「……それでは。私の家臣の者には、あまり厳しい処分を科さないでいただきたい。彼らのなかには進んで私に仕えてくれた者もいますが、そうでない者もいるのです。それと……私には、家族はいません。妻としようと決めた者には先立たれ、弟同然のように接していた者にも、やはり先立たれました。天下をくまなく探せば、父や母に血のつながる者も見つかるかもしれませんが……私はその人たちを知りません。呂后は三族を殺せとお命じになりましたが、その辺は相国がうまくごまかしていただきたい」
「うむ。……ほかならぬ君の頼みだ。善処しよう」
「ありがとうございます。それと……陛下によろしく。陛下がご帰還あそばしたときには、伝えていただきたい。韓信は陛下の覇業を助けたのであり、決して邪魔するつもりはなかった、と」
「そんなこと、伝えなくても陛下はわかっておいでだ」
「そうでしょうか……そうかもしれません。ですが、伝えていただきたいのです」
「うむ」
「さあ、今度こそ、終わりです。お命じください。私が……心穏やかでいられるうちに」
「…………」
「……さあ!」
韓信は目を閉じ、その瞬間を待っている。蕭何は心を決めなければならなかった。難しいことはない。彼はたったひと言、語を発すればよいだけであった。蕭何がためらったのは実際にはほんの数刻だけであったが、彼自身にとってそれはとてつもなく長い時間に感じられた。
「……やれ」
剣を振るう音が聞こえ、やがて体が床に崩れる音が聞こえた。
蕭何はそれを見ることができなかった。
*
人の世は、清濁入り交じって流れる川のようであり、混沌としている。清流は清流のままでいることは難しく、その多くは周囲の濁流の影響を受け、自らも濁流と化すものだ。韓信は、自分が濁流と化すことを、頑として拒否した。しかし、結果として清流は流れをせき止められたのである。
また、汚らしい泥のなかに埋もれる宝石が、その輝きを主張することは難しい。泥の中ではせっかくの宝石もただの石ころと見分けがつかないものである。韓信は早くから自分が宝石であることに気付き、輝こうとした。あるいは石ころに生まれた方が幸せだったと考えながら。
鬱蒼とした林の中で、わずかな日光を得て可憐に咲く花を見つけることは困難である。林の中は雑草ばかりで、深く分け入らないとそれを見つけることはできず、せっかく見つけても価値がわからないものにとっては、花も雑草であると思われるものだ。韓信は種子を飛ばし、雑草の中に自分の仲間を増やそうとしたが、そのどれもが失敗に終わった。種子は芽を出した段階で風雨や害虫に晒されることとなり、ついに生き延びることができなかった。そして韓信自身も価値のわからない者によって、他の雑草と同じように踏みつけられ、最後には枯れ散ったのである。
韓信が死んだのは紀元前一九六年の春であった。一人の英才が衆愚によって亡き者にされたという事実。戦乱が終わりに近づき、それによって英雄は不要とされたという時流。新時代を築きながらも、自らはその時代に乗り遅れた男の悲しい末路であった。
韓信は死ぬ間際に、そんな社会に生きる人々のありかたを「悪意の絆」と称した。絆を失った者の魂の叫びだったと言えよう。
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