はるによばれるねこ

 透明な青みを帯びた星夜、ひと仕事終えたねこたちは思い思いの格好でくつろいでいた。

 集会場としての建物は隣にあったけれど、晴れた日の春の宵、どんな毛布よりもまろやかな夜風にくるまらない理由はない。

 広場にて、一個小隊のねこたち、

 ごちそうに食らいつくもの、

 神経質にからだをなめるもの、

 うたたねを始めるもの、

 めいめいに解放的な気分を満喫していた。

 そもそもねこは集団行動に不適であって、この召集を喜ばないものも多かったけれども、

 天敵のかしこねずみの駆除となれば、個々のしらみ潰しもこころもとなく、

 仕方なくおのおのの住処を出て、集ったつわものども、

 の中、とりわけしなやかな黒ねこがある。

 歩く、腰を落とす、駆ける、その一挙手一投足に切れ味があり、身体能力の高さをうかがわせた。

 使い込まれた爪細工はぴかぴかと輝き、

 かしこねずみの血をしたたか浴びた毛皮はびろうどのようになめらかで、

 その金色の虹彩に射抜かれたものは、しばし緊張のために動きを止めねばならない。

 作戦隊長の命令下、一番の戦果をあげた彼女は、藤棚の下のテーブルに置かれた魚料理の皿のまん前に座り、味など問わぬという硬派な顔でがつがつと食らっている。

 やがてごちそうそっちのけで酒をなめていた赤白まだらと縞のおすが、彼女の周りでにゃがにゃがとおしゃべりを始めた。

「そろそろヨメさんのとこに帰らんでいいんか、おまえ」

「うるせえや」

「ちかごろは召集に出てこんようなおすもおるぞ。はよ帰らんと、ヨメさん取られとったらどうする」

「うちのヨメは強いもんが好きじゃ。軟弱野郎に手は出せん」

「逆にめすのほうがハバきかせとるの。どうする、めすに取られたら」

「めすにかい」

「留守番どうし暇があるし、よるみたいに強いめすがおったら……」

「そりゃあ……。コロリといくかもしれんな」

「ハッハッハ。情けない」

 すぐそばで自分の名前が呼ばれていることに、黒ねこは構わずにいた。

 トマトの汁がついたあごをぬぐうと、そのまま全身の身づくろいを始める。

「まあ、でも、取られたところで」

「そうじゃな」

「めす同士で子はなせん」

「そうじゃ、そうじゃ」

「むなしいことよ」

 満足いくまでからだをなめた黒ねこ――よるが、ゆっくりと顔をあげてみたところ、おしゃべり連中と目が合った。

 よるに聞かせるためにしゃべっていたのか、それとも彼らが無神経なだけなのかは、皆目見当もつかなかった、が、

 ひょろりと彼らのしっぽが尻の方に巻いたのを見て、よるは、ふんと侮蔑の鼻息を吐く。

 まったく、弱いくせに口ばかり達者なやつらだ。

「安心するんだな。わたしはヨメひとすじだから」

 突き放すようによるが言うと、赤白まだらと縞が、じめっとした目配せを交わした。

 おもてには出ないものの、ぴっちり不平不満が詰まった視線のやりとりにうんざりしたきもちになり、早く家に帰ろうと思う。

 ああ、やだやだ、うっとおしいやつらだよ。

 きびすを返そうとしたところで、よるはぞくっと身震いした。

 あまくてくさい、とびきりやかましい鳴き声が、辺り一面に響き渡る。


 ――アオォォォァォ……。

 ――ンガァゴォォォァ……。


 あ。さいあく。

 声のなまなましさに気を取られて、駆け出すタイミングが一瞬遅れた。

 とろけた顔で距離を詰めようとする縞から危うく離れ、よるは牽制のため、おすたちを睨みつける。

「……変な気を起こすなよ」

 ――ブミャゥ、ャウ……ヤウッ……。

 よるのつめたい声と、くさむらから溢れ出る嬌声が混ざり合う。

 猛り狂ったようなその声は、隊長のヨメのものだろう。

 待ち望んだ夫の帰還とはいえ、もう少し――せめてみんなが解散するまで待つことはできなかったのかと、多少恨みがましい気分になった。

 気狂いの季節、めすはおすを呼ばう。

 春、

 まじわりのパーティシーズン。

 その香はめすを狂わせ、狂っためすの鳴き声は、おすを共狂いに誘う。

 がさがさと落ち葉の上を揉み合うように転がる音。

 迷惑な話だと、よるは嘆息した。

 めすはこの広場に、よるしかいない。

「そう言うなよ。おまえがつらかろうと思って」

「そうそう。すっきりしようや、よる」

「おまえの子ならきっととびきり賢くて強い。産んどいて損はないぜえ」

 赤白まだらも縞も、普段ならよるに手出しするほど、あほではない。

 しかし、狂えば話は別。

 狂ったおすは、つっこみたくてつっこみたくて仕方がなくなるのだという。

 残念ながら、よるにはそういうきもちがまったく理解できない。

 同情するきもちもないし、一瞬とは言え痛みを耐えてやる義理もないから、

「――さっさとヨメのところに帰りな」

 多少手荒な方法も取らざるを得ない。

 爪細工を構え、攻撃姿勢を取ったよるに、それでも縞は名残惜しそうに、じりりと隙をうかがってきた。

 この手のトラブルでおすに怪我をさせたことは一度や二度ではないが――

 しかし、赤白まだらが何事か囁き、先輩らしく縞を止める。

 縞はしばらく本能の囁きとやらと戦った挙句、

「このキョセイが、いきがりやがって!」

 といちおう勢いのいいことばを言い捨てると、赤白まだらとがんくび揃えてきびすを返した。

 やれやれ、とよるは目を細める。

 ええ。ええ、わたしはキョセイでよかった。

 でもひとりだけまともでいるのは、たまに、とても疲れる。



「どうした。帰るのか」

 海辺の道を歩いていると、石段の上から呼びかけられた。

 だれのせいだと思いながら、よるは自分より一回り大きくりっぱな黒ぶちの体躯をあおぎ、言う。

「ほしが心配だから」

「はは。愛妻家だ」

 黒ぶちの隊長のおもてに、もう狂いの余韻は残っていない。

 よるの隣まで、すとりと跳び降りる。

 ざざん、と波が砕ける音にまぎれ、その足音は闇に溶けた。

「よる。あの話、考えといてくれ」

「あの話? 本州に行くってやつか?」

「ああ。にんげんから正式にオファーが出そうだ。彼らも、ねずみには相当手を焼かされているらしい」

「器用なんだから、罠張ればいいのに」

「まあそう言うな。ちゃんと《お返し》はもらう。ほしのことも頼んでみようと思う」

「……信用できるのか?」

「それは、まあ、おいおい見定めだな」

「…………」

 よるは曖昧な気分で地面を見る。

 よいニュースには、違いないのだろう。

 そもそもそのことをはじめに相談してみたのは、他ならぬよるの方だ。

 喜ぶべきなのかもしれないが――しかし、実行に移すとなれば、心配事も多い。

 自分のことならばどうにでもなるが、ほしのからだに危険が及ぶことなので、絶対に安直な行動を起こすわけにはいかなかった。

 ほしのいのちは、よるのいのちだ。

 彼女のことになると、よるは自分がひどく無力になった気にさせられる。

「おまえの目で見定めろ、よる。本州行きのあかつきには、おまえが俺の片腕だ」

「……それは」

「今回はよるのおかげで予定より早く終わった。度胸も素早さも、おまえに敵うものなどない」

 隊長は自信にあふれた口ぶりで言う。

 よるには、なんの理由もないのに、彼のその屈託のないさわやかさが憎くなることがあった。

 わざとひねた声で、

「キョセイの命令なんて、だれも聞きたくないだろう」

 自嘲を混ぜて呟くと、軽やかに返事がもどってくる。

「関係ないさ」

「あんたはそう言うけどな、おおぜいを率いるには、傷がないって大事だ」

「傷ではないだろう。おまえは春の毒にやられることもない。めすの色仕掛けにもゆるがない。奸計なんて通じない、最強の兵隊になれるってことだ」

 なるほど、流行りのポジティブ思考というやつだな、と思う。

「……そこどまりがさいわいだ」

「そう言うなよ」

 なんと言われようが、よるの考えが揺らぐことはない。

 よるの中で、自分のそれは、ポジティブでもネガティブでもなく、ただのフラットだった。

 強めに吹いた潮風に、さくらの花のかおりが溶けている。

 そういえば、今年はゆっくり花見もしていないな、と思った。

 それなのにもうかおりは、もう瑞々しさを失いかけている。

「迷っているのか」

 いまいち覇気の出ないよるが意外だったらしく、隊長が問いかけた。

「……そりゃあね」

 迷うのは当然だ。

 プラスになんか、とても考えられない――否、考えるべきでないとさえよるは思う。

 舞い上がり、ポジティブな考えを積み上げた後、高々とした喜びから転げ落ちる日の絶望は、いかほどだろう。

 むしろ、悪い方に悪い方に考えて、足を地から離さないようにしないと。

 そう言うと、隊長はおもしろいやつだなあ、と笑った。

「ほしとよく話してこい。とりあえず家に帰って、無事な顔を見せてやるんだ」

「わかった」

 さくらの好きなほし。

 満開のうちに、あの子はひとりでさくらを見れただろうか。

 淡紅のかんむりは、さぞかしほしに映えることだろう。

 彼女の元へ早く帰りたい、顔を見たいと思う、そのきもちに嘘はなかった。

 けれど少しだけ足が重たいのは、

 その理由は――



 四方を海に囲まれた、島の、傾斜のきつい山の上。

 木造の家の窓からあかりが洩れている。

 見慣れたその窓を目にした瞬間、感情がこみあげてきて、よるは深呼吸を二度してきもちを落ち着かせなければならなかった。

「ただい……」

 爪細工をしまって扉を開けた瞬間、待ち構えていたらしいほしが、よるの胸の中へ飛び込んでくる。

「おかえりなさい!」

「ほし」

「おかえりなさい……よる……。無事でよかった」

 お互いの首に手を回して、

 限界までくっついて、

 鼻をこすりあわせる、

 ほしのにおいに、よるは自分のからだが弛緩していくのを感じる。

 ふわふわとした白いからだはなによりもさわり心地がいい。

 少しだけ顔を離せば、柔らかく高貴なブルーアイズが、まっすぐ自分だけにあびせられているのを知る。

 頬を撫でれば、ほしはきもちよさげにうっとりと目を閉じた。

 ほしのすべてがいとしくて、よるはぺろぺろと彼女の頬をなめる。

「ほし……ほし、ほし……」

「……ん……。よ、る」

 少し味わえば、もっと、もっととなってしまうのがきもちの常、

 床に押し倒し、優美なからだ、毛なみの中に顔を埋めて、全身でほしを感じる。

 あたたかくてやさしい、極上のしあわせ――

 耳元でふわり、と、綿帽子のような声が響く。

「よる。血のにおい」

「――――!」

 慌ててからだを離そうとすると、やさしく背中を押さえられた。

「いいの。全部ねずみ? あなたの怪我はない?」

「うん。……ごめん。なめ取りきれなかった」

 からだを洗ってくるよ、

 そう告げると、ほしはよるの首筋につ、と舌を這わす。

「わたしが」

「…………」

 かっと、全身が火のついたように熱くなり、

 焦げた感情のにおいの錯覚が、よるの鼻腔を埋める。

 自分がなめるのは平気なのに、なめられると気が引けるのは、

 ほしはきれいでよるはきたない、という、

 意識に基づいて、こころがNOのサインを出しているのだと思う。

 におい消しの泥にまみれ、

 臓腑をさらしたねずみの汚らしい血を吸って、

 何日も満足に手入れができなかったからだと、

 殺戮に痛みもしないこころに、

 ほしのからだの深いところが触れるのは、申し訳なく、おそれるきもちが強い。


(それでは毎日からだの手入れをして

 なにも殺さないでいれば問題ないのかというと

 まったくそんなことはない気しかせず

 じゃあどうすればいいのという感じなのだが

 それはもう事実であって条件ではゆるがないのだ。

 ほしはきれい、よるはきたない。)


 ほしが自分を味わう、

 毛づくろいとは違う意味で舌を使う、

 においを嗅ぐ、

 共に汚れを分け合うような触れ合いの近さは、本当はよるが望んだものとは微妙に違うのだけれど――つがいというのはそこまでがひとつのセットだと、神話のように語り継がれているものだから、今更疑問に思うこともむずかしかった。

「よる。なにか食べたい?」

「……いや。ごちそうになってきた」

「そう」

「なにもいらない、ほししか……」

「わたしも。よるが、欲しい」

 あごの下から聞こえる湿った声に、

 手足がしびれる、

 あたまがぼうっとする、

 よるは自分がなにをしゃべっているのか、わからない。

「……ン……」

「鳴いて、いいの。よる」

 そう言われたが、よるは歯をくいしばって声をこらえ続けた。

 ほわん、とからだが宙に浮いてしまいそうなしあわせと、恥ずかしさを感じることはできるけれど、

 みんなのように狂いきることはできない。

 頭の隅のどこかには、冷静で居続ける自分、そしてそのことを恥じる自分を住まわせている。

 きっとほしは薄々それに気付いているだろう。

 気付かないふりをしてくれているだけで。

 よるはしばらくなめられることに耐えた後、

「もう……、いい、だろう?」

 タイミングを見計らって、くるりとからだの位置を入れ替えた。

 ほしは逆らわずに、うっとりとされるがままになる。

 かぶさって思い知る、ほしのからだの熱さ。

 彼女が溜め込んでいたものの苦しさが、

 体移しによるに呼びかける。

 うす桃の耳を甘噛みすると、彼女はいやがらず、もっと、と、うそぶいた。

 幼さを残した顔が、彼女の好きな場所をなめるたびに、そうっとときはなたれ、気狂い色に艶づく――。



「……すっきりした?」

「そういうことは、訊くものじゃないの」

 ちいさい子に言い聞かせるようにほしが囁く。

 喉を絞り上げるようにして喘鳴をあげるものだから、すっかり声が痩せていた。

「そう? そういうもの?」

「デリカシーがないって、いうのよ。よるったら」

 脱力したほしは、くたりと床にからだを投げ出している。

 たんぽぽの綿毛のようだ、と思う。

 風でちぎれて、飛んで行ってしまいそうな儚さ。

 だけど手足のひとつひとつ、愛らしく興味深いかたちをして、触れたい欲がむくむくと湧く。

 ――かつてよるはにんげんに、キョセイされた。

 なにが要るものでなにが要らないものか、

 わからない、

 残っているものとそうでないもので判断するしか、そう。

「……おすと、してない?」

「してない……ほら、そういうとこ」

「…………」

 だって大事なことじゃないか。

 よるはたわむれの延長のように、ちょいちょいとほしの脇腹をつついた。

「ほんとうよ、」

「わかってる。……信じる」

「でも、……でも、よる、わたし……」

 ほしの声が一段沈む。おそろしい予感を感じて、よるはからだを起こした。

 ほしの瞳が、みずたまりの色に変わりかけている。

「ほし」

「だいじょうぶ。……だいじょうぶ、だった。でもわたし、……本当のことを言うね。あと少しよるの帰りが遅かったら……わたし……」

「ほし!」

「ごめんなさい……! わかってる。よるがわたしのからだを心配してくれているのは、よくわかっているの。でも、つら……つらいの……春の歌声が、耳の中を覆い潰して……あと少しよるの帰りが遅かったら……わたし……」

「ただ耳をふさげばいい。わたしが何度でもせきとめてあげる」

「……よる、でも」

「あんたのからだはもう出産に耐えられない。医者がそう言ったんだ」

「……ええ」

「それでも春の歌なんか、聴かなきゃならないのか? わたしはほしさえいればいいって思っているのに、ほしはそうじゃない?」

「よるのことがだいすきなの……。きっと、生まれるこどもだって、あなた以上にいとしいものはないでしょう。でも……あれを聴かないふりはできない……聴こえる、ものだから」

 縮こまるみたいにして苦しいことばを吐くほしの眉間に、よるは頬をこすりつける。

 ずっと、一日中、

 召集がなければ一年中だって、こうして、

 こうしてふたりでじっと、

 美しいものを見て、美味しいものを食べて、

 そうしていつか、ほしより先に死ぬことさえできれば、

 それで、しあわせというものの体現だと、よるの方は信じているのに。

「散歩、行こうか」

「……うん」

 雨風をしのげる家屋というものはとても便利だけれど、

 閉じた箱の中でのおしゃべりは、時々とても、窮屈だ。



 遠くでもぐらが土を掻いた音さえ聞こえる気がするような夜は、しん、とよるのこころを燃え立たせる。

 ねこは本来夜行性で、外飼いの品種だったと聞いたことがある。

 その、本能の名残というやつなのだろうか。

「静かだね。ほし」

 お気に入りの丘の上についてから、よるは静寂をこじあけるように、そっとほしに囁いた。

「……うん」

「なにも聞こえない?」

「うん。今は」

 ほしはよるにぴったりとからだを寄せる。

 柔らかい空気に、こごった自分の殻が溶けだして、世界とからだとこころが同じひとつの液体になる。

 そんな感じがする、春が、よるは好きだった。

 冬のあと、うまれなおした木や草の芽が、深呼吸するように夜ごと成長し、

 春花のかおりは咲いた場所から波打つように広がって、他の花のほころびを誘う。

 花は、

 それをすると自らが枯れるからといって、種を作ることをやめはしない。

 風は、

 花を散らそうと思って吹くわけではない。

 自然に起こるなにもかもを捻じ曲げようとする、愛とやらは、にんげんの作りたもうた概念だというけれど、

 けれどだれにもなにも教わらないのに、そのことを、ほしに出会って、よるは知ってしまった。

 ふたり、草の上で横になり、すがすがしい夜風にあたって、

 時々見つめ合い、手足でちょっかいを出し合い、深く抱き合う。

 おかしな捻じ曲げのはずなのに、どうして、息をするように自然に、軽やかに、そうすることができるのかわからない。

 遠くで、だれかわからない、めすが鳴いた。

 怯えるようにからだを震わせたほしに絡み付いて、よるは歌を、

 なんのことばも意味もないメロディを歌いながら、

 にせものの行為で、彼女の気散じに努める。

「……よる」

 痛みに――痛くしないとだめなのだ――潤んだ声でほしが言う、

 そこに宿る感情が、たとえなんだとしても、構わないとよるは思う。

 別になんでも。

 彼女が生き続けてくれるのならば、恨まれたとしても、怒られたとしても、たとえ、総じてしあわせとは呼べなくても。

 歌の延長のように、よるは囁く。

「春が来るたび、ほしと出会った日のことを思い出すよ。あれは真冬のことだったけれど」

 極寒の夜を越えて、ああ、これで生きられると思った、

 よるを生かしてくれた春、

 の悪しき意図なんて、到底、信じることができない。

「……やさしさというこころは、全部あんたに注ぐために生まれてくるように思う」

 よるのことばに、ほしはとてもやさしい顔で、ことばを返す。

「……わたしは逆ね。春の歌が、あなたのくれる氷塊のように美しい愛を溶かして、洗い流そうとしてしまう。春はきらい。あなたの作る透明なきもちの中で、永遠に凍ってしまいたい」

「やだよ。そんなのは――」

 だからきっと堂々巡りで、

 この空気を割って、本州でキョセイ手術を受けようなどという話ができるわけもなく、

 草どうしのこすれ合う音を聴きながらふたり、寄り添ってうとうとと眠る、

 ひととき一夜の、賛歌のような生が続いていく。


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ほしとよる あずみ @azumi

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