ほしとよる

あずみ

ねこのはじまり


 はじめのはじまりのことを思い出す。

 氷のようにつめたい夜、ちいさく黒い彼女には宝物があった。ひとりで暮らす漁師小屋、その棲家のことだ。

 海風にさらされて劣化が激しく、網や舟の残骸が散らばるために足の踏み場もない状態だったが、そのおかげか他のねこやねずみに目をつけられることもなく、打ち棄てられていたのだ。

 隅の方にはぼろ布さえ転がっていて、柔らかく薄っぺらい彼女の毛皮のかわりに、外気からからだを守ってくれた。

 家出ねことして、なんの縁もないこの島で迎えた初めての冬、元々島に住んでいた同類たちとの折り合いも悪く、不安もあったが、棲家を確保できたおかげでなんとか乗り越えられる自信が生まれつつある。

 彼女はその日も、埃くさい布の中でうずくまり、浅い眠りについていた。

 その自我の薄い時のはざまですら、どうにもこうにも世界は過ごしづらい。

 寒さと空腹が身をさいなみ、争いと理不尽がこころを揺らす。

 剥き出しの爪は、とてつもなく大きな世界というものに対して、あまりに無力だった。

 無力、とは、死と隣り合わせの、憎むべき敵だ。

 にんげんが見切りをつけて出て行った、痩せた山と少しの畑だけを有するこの島には、元々めし場が少なかった。

 同類は、冬に入ってばたばたと死んでいっている。

 死体というのは惨めなものだ。

 それは弱さのあらわしでしかない。

 虫にたかられ、腐臭を放つ、かみさまに見放された、あわれな姿。

 彼女はあんなものには絶対になりたくない、と思う。だから地面に、めしに、家に、布に、爪を立て、それらを守り抜く誓いを立てていた。

 負けない、と、一日に何十回も、こころの中で繰り返す。

 はじめの記憶、母の腹の下の感触だけが、きもちの底に残った唯一甘やかな味だったけれど、たくさんの憎しみに上書きされて、普段はそのことを思い出しもしなかった。

 とかく、この世には、憎しみの材料が溢れ過ぎている。

 けちなボスに喧嘩っ早い取り巻き、弱いものいじめの一匹やくざ、いやらしい娼婦。

 同類の間でもうまくいかないのだ、天敵のかしこねずみとの関係ときたら、殺伐以外のなにものでもなかった。

 ああ、そして、なによりこの寒さだ。

 夏の暑さもつらかったが、これほどではなかった。きっと寝ている間も、鼻先に皺が寄っているに違いない。

 漁師小屋はひっきりなしに波の音に洗われている。

 あわれ、あわれ、とその音は言っているように思われた。

 うるさい、うるさい、と思いながら、彼女は寝ていたが、ふいにぱちり、と目があいた。

 とくべつなにおいを、感じたような気がした。

 とてもこころ惹かれる、あたたかく神秘的なかおりを。

 破れたカーテンから窓の外を見ると、藍色の夜闇の中に、白い同類が浮かび上がって見える。

 信じられないくらい美しい姿かたちの、若いめすが、そこにいた。

 一度も泥に汚れたことがないような長くてふかふかの毛皮、うす桃色の耳、瞳は春空のような柔らかいブルーで、舟着き場に心許なげに腰を落とした姿は、無防備にも愛らしい。

 こんな鄙びた場所にはふさわしくないくらいのお嬢さんだと、一目でわかる。

 白い彼女の存在は、黒い彼女の価値観を、その一瞬で染め替えた。

 これまで黒い彼女は、強いもの、したたかなもの、生き抜ける者がえらいのだと思っていた。

 しかし目の前の彼女はあまりにも儚く、弱々しい。

 それでいて、侮蔑の感情はふしぎと湧いて出なかった。

 まだ一歳にもならない、よると同じ年頃の彼女は、単身ではこの島で十日も生きられはしないだろう。

 ――ほら、だって、もう震えている。

 それも命運、死んでしまえ、と、思うことはできなかった。


 ……みゃぁ、ん。


 白い彼女は突然ひとりごとのように、さびしい声で鳴く。

 それは氷が割れる時の音のように、澄んだ、こころせつなく尖らせる響きをもって、黒い彼女の耳に響いた。

 冬はなんと寒くて、

 生はなんとつらいのか。

 黒い彼女がいつも漠然と思っていたことを、今、白い彼女が歌ったように思えた。

 黒い彼女が汚れた爪で刻み付ける呪いを、白い彼女は初雪のように弱々しい嘆きでもって、世界に訴えかける。

 その無力を、その無駄を、黒い彼女は知っているはずだった。

 淡い声など、やがて消え失せるだけ。

 ――消えてしまえ、とは、どうしても思うことができなかった。

 寒さへの忌避に抗って、黒い彼女は気合いを入れてぼろ布から抜け出す。

 ここに自分があることを、白い彼女もとうに、においで気付いているだろう。

 しかし白い彼女は、だれかが置き忘れた人形のように、舟着き場から一歩も動かなかった。

 小屋に乗り込んでこないのは、彼女が慎み深いからか、喧嘩になることをおそれているのか、様子見をしているのか。

 黒い彼女はふうっ、と白い息を吐いてから、散らかったものを飛び越えながら玄関に向かい、木戸を開ける。

 ぎぃっ、と古めかしい音が響いたが、白い彼女の毛は驚きに逆立つこともなく、ふんわりと凪いだままだった。

 黒い彼女は相手の様子を見ながら、ほてほてと歩いて行った。

 からだの大きさは、少しだけ白い彼女の方が上だ。

 だが黒い彼女の方が引き締まった体躯をしており、駆けっこをしたなら勝てそうだった。

 近づいて、すれ違いざま、胴を軽くこすりあわせる。

 鷹揚なのか、それともトロいだけなのか、白い彼女は闘争心も嫌悪感も浮かび上がらせることなく、かといってしなだれかかってくるでもなく、ただ黒い彼女に身を任せていた。

 いつでも喉元を掻ける。

 と、警戒心のない白い彼女に本能的な攻撃衝動を刺激されながら、黒い彼女はその衝動を殺すことに全力で注力した。

 なぜだったのだろう。

 白い彼女のにおい、佇まい、声、ひとつひとつが水を吸った綿のように、ぼわりと黒い彼女の中で膨れ上がっていく。

 一体自分はどうしてしまったのだろう。

 なにか、この幻惑めいた感覚を説明することばがあるならば教えてほしいと、黒い彼女は思いながら口を開いた。

「初めて見る顔。あんた、どこから来たんだ」

「…………」

 白い彼女の青い瞳が、ゆっくりと、黒い彼女に向けられる。

 相手の瞳に映り込む自身を見て、ああ、なんて自分はみすぼらしいのだろう、と黒い彼女はやりきれない気分になった。

 ところどころダマのできた毛皮、欠けた耳。疑い深げな顔の相は家なし老人ねこのそれに早くも似てきた気がする。

 醜い自分を見て、彼女はどう思っているのだろうか。

 知りたいような、知りたくないような、ふしぎな気分だ。

「しゃべれないのか?」

 焦れつつ訊くと、白い彼女は目を伏せて、かすかな声で返す。

「……さむく、て」

 鳴き声と同じ、壊れやすく透き通った話し声だった。

 他愛なく消えてしまう響きを、もっと聞きたい、と黒い彼女は思ってしまう。

 自分だって先ほどまで凍えていたのに、もう寒さをほとんど感じていなかった。

「……寒い。そう。寒い季節なんだから当たり前だ」

「つらくて、かなしい。わたし、気付いたら舟に乗って、海の上にいたの。話せばなみだがこぼれて、顔が凍ってしまいそう。だから今、詳しい話をするのは……」

「わたしの家においで」

 勝手に口が動いていた。

 自分の言ったことに、黒い彼女は驚く。

 しかしよくよく考えると、別に悪いことでもなかった。

 白い彼女の運動神経では、爪ひとかけも自分に引っ掛けられはしないだろう。危険はないと言える。

 とは言え、とくべつなにかに役立ちそうには思えない。

 野生には見えないので、自分と同じ、元飼いねこか――。

 これから先、彼女のめし分まで面倒を見なくてはならないと思うと気が重かったが、しかしもう寒くて寒くて仕方がなかったのも事実だ。

 彼女の声で寒さが吹き飛ぶのだったら、手に入れるのも悪いことではない。

 言い訳が必要なくらい、黒い彼女の本心はぴたりと結論を出していた。

 これが、欲しい。

 黒い彼女は先導するように漁師小屋の前まで行くと、大きく木戸を開け放した。

「……あんまりきれいじゃないから、いやかもしれないけど」

 どうやら図星だったようで、白い彼女はためらいをおもてに浮かべている。

 黒い彼女は鼻を動かし、まぁ確かにひどい、と思いながらも、少し不機嫌になった声で重ねた。

「でも、外にいたんじゃ早晩凍える。ここなら風はしのげるし、朝まであたためてあげるから……」

 しばらく様子を見守るものの、白い彼女に動きはなかった。

 諦めは、いい方だ。

 まあ、それならそれでしょうがないな。

 そう思って、黒い彼女は自分だけ室内に入って戸を閉め、ぼろ布にくるまる。

 外にいたのは少しの間なのに、すっかり冷え切っていた。

 黒い彼女はかたかたと震えながら、しばらく体温を戻すことに注力していたが、ふいにからだを起こし、窓の外を見る。 

 白い彼女は相変わらず先ほどの場所で、ぽつんと、降り始めの雪のように、夜の中に浮かんでいた。

 思わず、叫んでいた。

「この、いじっぱり!」

 カッとからだが燃えるように熱くなって、黒い彼女はぼろ布を跳ね上げ、大股に歩を進めて外に出る。

 再び現れた黒い彼女の姿に、白い彼女のひげは頬にくっつき、戸惑いあらわだったが、もうそんなことに構ってはいられなかった。

「なんなんだ、あんた! 家を追い出されたなら別の飼い主を探せ。ひとりでやってくつもりならさっさとねぐらを見つけるか、ボスに相談するなり……、とにかく、なんでもいいから動け! 死にたいのか!」

 怒鳴りつけると、ぴゃっ、と白い彼女は委縮する。

「……さむくて、わからなくて」

「だから、寒さを解決する努力をしろ!」

「……どうしていいか、わからないの」

「だからうちに来いって言っただろう。落ち着くまでの間だけでも利用してやろうって、なんで思えない? 家がボロいから?」

 乱暴なことばに怯えてか、白い彼女は、すっかりしょげてしまったようだった。

 元々遅いことばの返りが、ますます沈黙にざらつき始めて、黒い彼女の方もいらいらが募っていく。

 めんどくさい。

 汚れるのがいやというなら、きれいな毛皮を大事にさらして、凍ってしまえばいいじゃないか、こんなやつ。

 憎々しく思いながら、それでも放ってはおけず、寒い中に立ち続け、彼女のことばを待った。

 白い彼女の瞳は、雨でしおれた花のような色になっている。

「知らないひとについて行ったらだめって、言われ……」

 最後は掠れて消えてしまう。

 もう、と、黒い彼女はあきれた。

 なんて――なんて――弱い生き物だ。自分を捨てたにんげんを、まだそんなふうに、慕えるなんて。

「……それはこどもの話だ。ひとりになったら、子ねこでもおとな扱いだ。知らないねことうまく渡り合っていかないと、生きていけない」

「そんなの……わたしには、無理……」

「ああ、無理だ、だれにだって」

 そっけなく言うと、驚いたように見返される。

 そのことに黒い彼女は驚く。

 どうして。

 つまり、そういうことだ、驚くことなど、ないのに。

「多分無理、わたしだって、そう長くは生きられないよ」

 言ってしまえば、そうだ。

 強がりを看破してしまえば、無駄なあがきだと醒めた目で見てしまえば、そういうことでしかない。

「それなのに……あなた、わたしと同じくらいでしょ? どうしてそんなに堂々としていられるの……?」

「開き直ってるだけ。やれるだけやるしかないって。失敗したらそこで終わる。かんたんな話だ」

 めしがよくない、ぬくみも足りない、

 敵はほどほどに多く、味方なんてだれもいない、

 野生とはそういうものだ。

「でも――おいで。諦めてしまうには、あんたはきれい過ぎる。死んでしまうにはもったいない」

 首筋をなめ、ぴたりとからだを寄せる。

 明日の保証なんてどこにもないけれど、

 あんたを、死なせない、

 そう言い切るための自信が、今初めて、欲しいと思った。

 不安に揺れる彼女のおそれを、取り去れる強さが欲しい。

 大事なものには、爪を引っ掛けるのではない。

 磨き抜いた爪で、それを守るのだ。

 その決心を伝えるすべもなく、

 ただ暗闇の中でぞろりと白いからだをなめ、体温を分け合って、

 いっそう濃くなった彼女のにおいを、自らに溶かすようにしていると、酔ってしまいそうだった。

 その感覚の正体を、まだ、黒い彼女は知らない。



 そして、

 ――初めての気狂いの季節を、ふたりは迎えることになる。




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