悪鬼
どうか私の醜聞を聞いてくだされ。さすれば私の心も幾分軽くなるでしょう。
私は今年の夏に久方振りに田舎にある実家へと顔を出したのです。その頃は会社も忙しく、そして満足に休みも取れぬ日ばかりでしたから、そんな時期を乗り越えてその日を迎えられた事は大層嬉しかったのです。
私は自分の生まれ育ったはずの村に奇妙な違和感を感じました。
家は修理もされずボロ家になり、掃除用具には蜘蛛の巣が張っている。極めつけには元気に走り回る子供もいないと来たものだから、目に映る状況はとても記憶とは似つかない、尋常なこととは思えなかったのです。
私はさすがに怖くなり、場所を間違えたのかもと希望に縋るように地図を開きましたが、しかし道に間違えはありませんでした。
私が生まれ育った村の記憶とは似ても似つかない。数年の間に何があったのか、それが気になって仕方がない。
と、その時。
口周りに無精髭を生やし、しわくちゃで所々布が破れた汚らしい着物に身を包んだ老人が一人、覚束ない足取りで徘徊していたのです。
「あの、ここで何が起こったかご存知でしょうか」
私がそう聞くと老人は、
「鬼じゃ……」
と掠れるような声で答えた。
老人はそれから手招きして、私を山奥へと誘いました。私はそれに興味や怖いもの見たさで付いていきました。今思えば、ここで回れ右して潔く逃げ出していた方が良かったのでしょう。
「ここじゃ……」
そう言って老人が連れてきた場所は廃屋。しかし、村の家屋と違ったのはそこに取り付けられた怪しいものだった。
入口の周りには尖った葉を持つ木が育っており、更に――
「なんですかこれ、生臭い……」
私がそう言うと男は青白い顔をこちらに向けて鬼避けだと言い、そのまま戸を開けこちらが入るのを待った。
中に入るとそこは思ったよりも小綺麗でしてね、しっかり掃除されているという程ではありませんが、竃馬のような蟲が目につかない程度には掃除されていました。
「儂はもう十年とここで暮らしているが、お主はあの村で産まれたのか?」
老人は茶を用意し、
「ええ、そうです」
と答えました。
男は白髪で染まった頭をがしがしと掻き、そうかそうかと譫言のように呟いていたのを覚えています。
「あの村にはな、とんだ災難に見舞われたんじゃ……」
「災難、ですか」
私が同じ同じように返すと、そうだと頷きました。
「醜悪な悪鬼が一匹山を降りてきたのだ…」
「悪鬼、とは?」
「その名の通り悪さをする鬼だ……。奴等は恐ろしい程に凶暴でな、近隣にある村を襲ったりもする……」
「まさか……」
「そう、そのまさかだ。村人は一人残らず殺されたのだ。儂はその様子を物陰に身を潜め、傍観する他に手がなかった」
男は心底悍ましいという風に俯いて、身体を震わせていました。
そんな老人とは対照的に、この時の私の心は酷く冷めていたのです。まるで極寒の冬の如く。
私は最初は興味を持って男の話を聞いていましたが、そんなものがこの世に存在するものかと内心で思うようになっていました。そう、いつの間にか。
「申し訳ありませんが、私はそろそろ御暇させて頂きます。お茶、ありがとうございました」
私は少し早口になりながら、急いで荷物を纏めて下山しようと思い、直ぐに立ち上がりました。老人はその様子を見て、嗚呼なんと愚かなと口を震わせて言いましたが、当時の私はそれすらも老人の戯言のように思えて仕方がなかったのです。
それから村の入り口に着く頃にはもうすっかり夜でした。月は満月より少しばかり欠けているといった感じで、少し惜しいなと私はその時思いました。
ふと、裸足で土の上を歩くような乾いた音が耳に入り、少し先ほどの話を思い出して恐ろしく思いました。
当時の私は変な話を聞いたせいだ、と恐怖心を誤魔化しましたが違うのです。
それはまったくの見当違いというもの。
段々月明かりに照らされ、その姿が私の瞳に映し出されました。
その姿は——
「醜い……」
醜悪な顔に欲深い双眸、裂けるように広がった口と土や埃に塗れた汚らしい肌。一目見て今を平凡に生きている者ではありません。
私はその時悟ったのだ。
悪鬼。
そう、これがあの怪しげな老人の言っていた鬼というやつだと。
しかし、伝承や怪談やらで聞く鬼の見た目とは随分と違ったもので、私はその存在に対して悟るまで一瞬の間がありました。
「何が目的だ!」
聞くと鬼は裂けているような口を一杯に広げて歪ませ、猿のようにきゃっきゃと笑い始めました。
まるで解りきった事を聞く私のことを滑稽だと嘲笑うように。 そして笑いを止めた途端に包丁を片手に斬り掛かってきたのです。
私は咄嗟の出来事で不様にも尻餅をついて、ひいひい言いながら地を這いつくばって死にたくないと叫びながら迫りくる鬼の魔の手から逃れようとしたのですが、しかし焦りのあまり手が滑ってその場に倒れ伏してしまいました。当時の私の絶望感と来たら、働く先も着るものも住む場所も失い露頭に彷徨うのと同等だったかと思います。
私は死を覚悟して目を瞑り、今にも私の命を刈り取ろうとする凶器と狂気にびくびくと怯えながら頭を抱えて身体を丸めました――が、しかし驚いたことにいつまで経っても私の全身を伝って苦しめるだろう痛みが、私に降りかからないのです。
私は恐る恐る震える身体を制しながら顔を上げると、怯えた顔をしながら一歩二歩と退いていく鬼が視界に移りました。
「鬼め……。醜悪な鬼め……」
そう囁くような小さな声でがさがさと乾いた音と共にこちらへ歩いてくる影が一つ。
それはあの見窄らしい見た目をした男でした。
違うことがあるとするなら、男は綺麗な朱色の着物に身を包み柊の枝を左手に持っていたことだろう。
「怖かろう……。何せ貴様ら嫌いなものが多いからのう……」
鬼は一目散に逃げ出し、森の中へ消えていった。
「さあ、下まで送ろう」
そこまでが私の記憶していることです。
私はあそこで男の話を下らないとし、あまつさえ夜も深い頃に山を降りてしまいました。これは私の一生の恥辱であり、恐ろしい体験です。
怪談擬き集 鰩おろし @agodashimizore
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