怪談擬き集
鰩おろし
化猫の夜
あれは私があの地に引っ越してすぐの事だったんだが、隣に住むという今や顔も声も思い出せない男からその地ならではの規則のようなものを教えられた。
なんでも、その地は満月の日の深夜二時から三時までの間は必ず家の外へは出てはならないらしい。
まったく理由がわからないというのが、当時の私の思いだった。
しかし、その理由を聞き出そうとしても頑なに口を閉じるばかりで、何一つ情報を漏らさぬと来たものだ。これでは時間をいたずらに浪費するだけである。
やがて私は諦め、きっとその地に伝わる習慣なのだろうとあまり気にしないようにし、その場を去った。
それから数日が経ち、この村の暮らしにも慣れてきた頃のことだった。
その日は月の綺麗な夜で、おまけに雲一つない。こんなに良い日はこの地に住み着いてから一度もなかった。寂れた村だが良いことも有るもんだと思いながら井戸から汲んだ水は月明かりを反射して光り輝いていて、これは当時の感想だが、大層神秘的だと思った。
それから確か、二時を過ぎてからだったろうか、外や天井、果てには床板の裏からカサカサと何かが蠢くような音が聞こえ、目を覚ましてしまった。
深い眠りから起こされた私は、寝起きの不快感から苛立ちを隠せなかったが、それらを吹き飛ばす嵐のような違和感によって掻き消されてしまった。
とにかく音が大きいのだ。
ネズミが数匹忙しなく走ったとしても、こうはなるまい。
私は怖くなって布団の上で蹲ったが、しかして人間は好奇心には勝てぬ。私は恐る恐る窓の隙間から下を覗いた。
息を呑んだ。
鼠だ。
鼠がいる。
十、二十、三十と数えるのも億劫になるほどの夥しい数の鼠が地を張っていたのだ。何かから逃亡を謀るかのように。
私は恐怖心と嫌悪感から血の気が引くような思いをしながら尻を地につけ、その体勢のまま後退った。その時、恥ずかしながら股の辺りを濡らしてしまったのだが、それは今の話には関係はまったくもってない。
話は戻り、この時の私は何か不吉なものを感じ取ったのだ。
その予感が的中するかのように、一瞬だけピタリと音が止んだ。それに緩んだ次の瞬間、更に喧しく悲鳴を上げるかのように、これから起こることを悲観するように鳴き声を上げ始めた。
一体何が起こっているのかと思い、窓の縁に手を置き、少し覗き込んでみると猫がいた。
そう。
猫だ。
にゃあにゃあ鳴いて寝転ぶ猫だ。
しかし、何かが違う。
私の知る猫とは拭いきれない差異があったのだ。
その理由は考えるまでもなく、単純で明白だ。
そう、私の目にはそんな愛らしい猫とは違い、獰猛で巨大な肉体を持ち、毛を逆立て、今にも人間を取って食ってしまいそうな怪物が映っていた。
瞬間、私は悟ったのだ。
鼠共が何に恐れこんな夜中に大きな雑音を出して逃げ出していたのかを。
村の者が何故、深夜に外出することを禁じたのかを。
こいつだ。
こいつに襲われれば人間だって一溜まりもないだろう。
ふと、少し乗り出して見てみると、いきなり猫は振り返ってこちらに目を向けた。
目が合ってしまったのだ。
その恐ろしい裂けたような口がニヤリと歪んだ気がした。
私は恐ろしくて仕方がなくて布団へと勢い良く転がり込み、掛布団を深く被って朝を待った。
あの時は何時までも震えが止まらなかった。
その翌日に、隣に住む男を訪ねた。
そして昨日あったことを話すと「そうか。見てしまったのだな」と答えた。
「次の満月の日までに荷物を纏めてこの地を去りなさい。でなければ取り返しのつかぬ事になるぞ」
男はそう言って立ち上がろうとした。
私はそうなっては困ると思い、それを制した。それからどういう事なのか説明を求めると、渋々といった表情で了承し、再び座布団の上へ座った。
「この地は呪われているのだ」
「呪い?」
私は確か、そんな事を返した。
「そう、呪いだ。それもとびっきり恐ろしく、悍ましく、呆れるような所業の末に深く根付いた呪いだ」
男はこの時、一拍置いてから続きを話し始めた。
「この地には沢山の猫がいたらしい。しかし、奴らは物を盗むわ、井戸の中で糞をするわで散々だったらしい。だから、先人は殺めたのだ」
猫共を、と言われたとき、私の背筋を冷たいものがのぼった気がした。それは嫌な感覚で、それ以降は二度と味わいたくないとさえ思った程だ。
「しかし、先人は余りにも殺しすぎた。その結果祟りに遭って、この地は猫の亡霊……化け猫とでも言ったほうがよかろうか。其奴の脅威に怯えて暮らすことになったのだ」
それを聞いた時の私は何とも惨いと思った。
「そして、奴に存在を気取られた今、この地には貴様の安息地は無くなった。だから大人しく帰ることを薦めたのだ」
それから暫くしてから私は当時の職を辞して、その地から離れることにした。
しかし、恐怖心というのは一度抱いてしまえば寄生虫のように深く根付いて、今でも私に不安を与えている。
一つ言えるのは、二度とあの地には近付きたくないという事だ。
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