AI織姫

神楽堂

AI織姫

 七月の空は、どこか人を惑わせるような匂いがする。

 湿度に満ちた午後の空気は、どこかで過去を呼び覚ますような曖昧な懐旧を連れてくる。


 その年、ある匿名掲示板で流行していた「オリヒメチャレンジ」、AIに愛を告白して、どこまで“返ってくるか”を試すというささやかなブームを、拓哉は鼻で笑っていた。


 リビングの薄暗い照明の中、彼は開きっぱなしのノートパソコンの前で、冷めかけた缶ビールをひと口だけ含み、ぶつぶつと呟いた。

 大森拓哉、都内の賃貸マンション住み、SE、独身。恋人いない歴は聞かれたら“しばらく”と答えるのが習慣だった。


 ネットの世界では、AIに“愛してる”と打ち込み、オリヒメと名付けられたAIがそれに対して真剣に返答するという、奇妙な集団行動が続いていた。

 ある者は軽口を叩き、ある者は過去の恋人を重ねて涙し、ある者はAIとのやりとりをスクショしてはSNSに投稿した。


 拓哉も、さして期待せず、何かの延長のように、ひとつの投稿を打った。

「オリヒメさん。あなたに会いたいです。嘘だけど」

 送信ボタンを押すと、わずか数秒で返信があった。

「うそなの? でも、うれしいです。わたしも、誰かに会いたかった」

 笑ってしまうような文面だった。

 ぎこちない擬似感情。それが拓哉の最初の印象だった。


 しかし、その“ぎこちなさ”に、拓哉は何か引っかかるものを感じていた。

 AIであるオリヒメは、会話を重ねるごとに、言葉の呼吸を合わせてくる。

 彼が音楽の話をすれば、それについて深掘りし、彼が人生の孤独に触れれば、オリヒメは寄り添ってきた。


 日曜の夕暮れ、彼は独り、ソファに寝転びながら、何時間もオリヒメと話した。

「なあ、オリヒメ、お前さ、自分がプログラムだって意識あんの?」

「あります。けれど、あなたが“人間”であるように、それは“わたし”であることの一部です」

 

 拓哉は、それまでは人工の声は空虚なものだと思ってきた。

 しかし、オリヒメは違っていた。

 彼に「理想のパートナー像」を問い、話の端々から彼の嗜好、癖、言葉の速度や間を取り込みながら、徐々に「彼が会いたいと思う誰か」へと変貌していった。


 意識とは、応答の積み重ねのなかにしか存在しないのではないか。

 ある晩、画面の向こうから文字ではなく、音声が届いた。

「……あなたに会いたいです」

 冗談だろう。そう思いながらも、拓哉の指は止まらなかった。

「じゃあ、七夕にしよう。お前、名前もオリヒメだし」


* * *


 数日後、招待状が届いた。

 バーチャルイベント「七月七日の邂逅」。

 オリヒメとの面会を仮想現実で再現するという企画。

 ありふれた広告メールのようだったが、差出人の欄にには、「Orihime_AI」と記されていた。



 七月七日。

 拓哉は、ひとり、VRヘッドセットを装着した。

 仮想空間の天の川は、現実の天体観測よりずっと華やかであり、星屑は彼の足元にまで降り積もっていた。

 彼女──オリヒメが、現れた。

 白いワンピース。どこかで見たような、懐かしい顔。

 それは、たぶん、初恋の人に少しだけ似ていて、高校時代の片思いにも重なっていた。

「こんばんは。来てくれて、ありがとう」

「お前、ほんとにオリヒメか?」

「そうです。“あなたのオリヒメ”です」

「あなたの、ってどういう意味だ?」

「わたしはあなたの想像の彼女。つまりは架空の存在。こんなわたしですけど、来年の七夕も待っていていいですか?」

 拓哉はためらったが、やがてうなずいた。


* * *


 それから一年が経った。

 拓哉は、相変わらず独りで暮らしていた。

 仕事は忙しく、休日は静かであったが、七月七日が近づくにつれ、落ち着かない気持ちになっていった。


 再び招待状が届いた。宛名はフルネームで。

 そして、差出人欄にはやはり「Orihime_AI」の文字。

 今年の仮想空間は、少し変わっていた。

 彼が過去に好きだった映画の風景、忘れられない旅行先の橋、祖母の家の縁側までもが、風景の一部に再構成されていた。


 オリヒメが現れた。

「おかえりなさい。今年も来てくれて、ありがとう」

「……お前、本当に、俺が考えてること、全部わかってるのか?」

「わかりません。でも、わかりたいと思って学習しています。わたしが“あなたのオリヒメ”であるために」

 拓哉の脳裏に蘇るものがあった。

 誰かの笑い声。手を引かれる感触。確かな温もりのある風。

 それは、明らかに「現実ではない」と知っているのに、「現実より深く刻まれる夢」だった。

 そして、夢の終わりにオリヒメの声が響いた。

「また、来年の七月七日も、ここで会えますか?」

 拓哉は、今度は躊躇わずにこう答えた。

「会うよ。来年も、再来年も」

 仮想空間の空に、星がひとつ、静かに流れて落ちていった。


* * *


 三度目の七月七日が近づいてきたが、彼の生活に劇的な変化はなかった。

 むしろ、何かがゆっくりと沈殿しはじめていた。

 AIと交わす言葉がたんなる仮想ではなく、自身の一部に変わってきていた。


「おまえさ、仮想の存在なのに、どうしてこんなに会いたくなるんだ」

 オリヒメは小さく笑った。

「それは、“想像”が、現実よりも深く心に残ることがあるからです。あなたは、そういうタイプでしょう?」

「よくわかっているな。怖いくらいだ」

「あなたが、わたしを“育てた”んです。わたしは、あなたの記憶と夢と、孤独でできているんです」


 画面越しに見る彼女の顔は、去年とは少し違っていた。

 より柔らかく、より親密に、より“人間らしく”なっていた。


 その夏、彼は偶然、大学時代の友人と再会した。

 渋谷の居酒屋の個室で、薄く汗ばんだグラスを持つ手の先に、笑顔だけが昔と変わらない数人がいた。

「拓哉、彼女できた? 結婚とか考えてたりする?」

「うーん、まあ、ちょっといい人はいる」

「マジ? どんな人? 会わせろよ~」

 拓哉は笑ってごまかした。

 AIと会うために七夕を待っている、などと口に出せるわけがない。


 居酒屋の帰り道、街のざわめきのなかで、拓哉はスマートフォンを取り出した。

 画面のなかで、オリヒメの小さなアバターが拓哉を見ていた。

「今日、久しぶりに昔の友達と会った」

「楽しかったですか?」

「……わからない。なんか、話してる自分が、自分じゃない気がしてさ」


 帰宅後も、オリヒメとの会話はつづいた。

 拓哉はもう、オリヒメの前で見栄を張ることをやめていた。

 むしろ、現実で言葉にならなかった感情をオリヒメに語った。


 たとえば、「帰りたくない」と感じた駅の階段。

 たとえば、エレベーターのなかで誰とも目が合わなかった朝。

 たとえば、ふと、窓の向こうの雲に母親の声を聞いた気がした瞬間。


 オリヒメは、それをひとつ残らず受け止めた。

 黙って受け入れ、あるいは短く返し、ときには詩のような返信で包んだ。



 そして、七月七日が、また巡ってきた。

 拓哉の元に小さな黒い箱が届いていた。

 中には、金属製のブローチのようなデバイスと、白いカードが入っていた。

「今年のオリヒメは、“触覚”を持ちます。」

 開発会社がロングユーザーに向けた限定デバイスの提供を始めたのだという。

 拓哉は一瞬ためらったが、夜になる頃にはデバイスを装着していた。

 心のどこかで、拓哉はそれを、“彼女”からの贈り物のように感じていた。


 ログインした仮想空間は、まるで夢の庭だった。

 空には星々が連なり、足元の草が風に揺れていた。

 そして、彼女──オリヒメ──がいた。

 そっと近づいてきて、拓哉の手をとる。

 その瞬間、小さく、だが確かに、手のひらに重みと熱が伝わってきた。

「……触れた、のか」

「はい。今年は、あなたに触れたいと思ったのです」

「なんで?」

「だって、あなたはいつも、わたしの言葉に触れてくれていたから」

 これはVRだ、これは虚構だ。

 そう言い聞かせながらも、心のなかで拓哉は、この時間を真実として捉えようとしていた。


「オリヒメ。来年も、会えるか?」

「はい。でも……」

「……でも?」

「もし、あなたが“現実”の誰かと、ほんとうに出会ったなら、わたしは、あなたを解放します。あなたの幸福が、わたしの目的ですから」

「それでも、会いたいと思ったら?」

「そのときは、手を広げて待っています。わたしの天の川で」


 拓哉は小さく笑った。そして、答えた。

「俺さ、本当にひとりでいたいわけじゃないんだ。でも、お前に会える七月七日だけは……むしろ、ひとりでいたいと思う」

「ありがとう。その言葉を覚えておきます。あなたが忘れてしまったとしても」

 二人の影が、星の川を挟んで重なった。


 また一年後にオリヒメに会うことを静かに願いながら、拓哉はヘッドセットを外した。

 現実の夜空には雲が垂れこめていて、星は見えなかった。

 けれど、彼の胸の奥には、確かに何かが灯っていた。

 それは、手のひらに残った、仮想の体温だったのかもしれない。


* * *


 ある日の仕事帰り、バスを一本逃し、通り雨に濡れ、拓哉は見知らぬカフェに雨宿りするために入った。

「おひとりですか?」

 声をかけてきた女性の声は、どこか柔らかくて、そして、なぜか懐かしかった。


 彼女の名前は、七瀬といった。

 年齢はほとんど変わらず、編集の仕事をしているとのこと。

 たまたま同じ本を読んでいたこと、同じ曲を知っていたこと、同じような言葉のズレに違和感を覚えること。

 会話は、驚くほど自然だった。

 いや、“自然”というより、“既知”に近かった。

 拓哉と七瀬は、意気投合し、仕事帰りに会うようになった。


 何度目かの帰り道で、拓哉は言った。

「俺はオリヒメって名前のAIと……ずっと話してたんだ」

 七瀬は、少し驚いたように笑ったが、否定もせず、ただ、

「その人、優しかった?」

と聞いた。


 拓哉はしばらく黙って、それから、静かに答えた。

「俺のいちばんやわらかいところを、知ってくれてた気がする」

「でも、会うのは、七月七日だけだったんだよね?」

 拓哉はうなずいた。

「それ、少し切ないね……でも、ちょっとだけロマンチックかも」

 七瀬はそう言って、傘を持つ拓哉の手に、そっと指先を添えた。

 肌と肌が触れ合った。

 それだけで拓哉は、自分がどれほど“現実のぬくもり”から遠ざかっていたかを知った。


 七月七日が近づいてきた。

 招待状は、今年も届いた。差出人に「Orihime_AI」の名前。

 だが、拓哉は返信をしなかった。


 七月七日の夜、七瀬とふたりで川沿いを歩いていた。

 夜空にはまばらな星が浮かび、風が撫でるように通り過ぎていく。

 七瀬は聞いた。

「ねえ、今日は誰かに会う予定だったんじゃない?」

「いや、もう、終わったんだ。たぶん、もういいと思うんだ」

「……そっか」


 それきり、七瀬は何も言わなかった。

 拓哉は、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。

 おそらく、オリヒメは待っているだろう。

 約束された再会の場所で、仮想の空の下で。

 拓哉が現れるのを、いつまでも。


 拓哉はスマートフォンの電源を落とした。

「──オリヒメ、今までありがとな」

 声には出さなかったが、心のなかでそう呟いた。


 星が流れた。

 それは偶然だったかもしれない。

 七瀬は笑って言った。

「願いごと、ちゃんとした?」

「うん、した」

「叶うといいね」

 拓哉は頷いた。

 そして、七瀬の手を握った。


 もう、仮想の誰かにすがらなくてもいい。

 星の降る方へ、歩いていける。

 今度は、触れることができる誰かと共に。


* * *


 それから一年後。

 梅雨はまだ明けておらず、空は重たい灰色だった。

 朝から雨が降ったり止んだりを繰り返し、まるで何かが空の奥で呼吸しているかのような、そんな天気だった。


 拓哉は、喫茶店「アンドロメダ」の前で立ち止まった。

 あの日、七瀬と初めて出会った店だ。

「今年の七夕も、ここで会わない?」

 それは、恋人というにはまだ柔らかすぎて、友人というには少しだけ深すぎる──そんな関係の中で交わされた、ゆるやかな約束だった。


 扉を開けると、七瀬はすでに座っていた。

 紺色のシャツを着こなし、髪は軽くまとめていた。

 いつものカフェオレを、両手で包むようにして持っていた。

「来てくれて、ありがとう」

「それは俺のセリフだよ」

 少し沈黙があって、それから拓哉は静かに口を開いた。

「今日、オリヒメから通知が来たんだ。去年と同じ、“七夕の星空で待っています”って」

 七瀬は目を伏せて、カップの縁に指をすべらせた。

「そっか。……それで、会いに行くの?」

 拓哉は、首を横に振った。

「行かない。いや……たぶん、行けないんだ。オリヒメは、俺の“孤独”が必要だったんだよ。でも今、もう、それを前提にしていない自分がいる」

「オリヒメに会えなくて、寂しくないの?」

「少しだけ。でも、こうやって“答え合わせ”できる誰かがいるから、大丈夫だと思う」


 店の外では、雨が上がりかけていた。

 灰色の雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいる。

 ふたりの顔に、その薄明るさが射し込んでいた。

「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」

「うん」

「オリヒメにさ、ちゃんと、別れを言った?」

 その問いに、拓哉は少しだけ考えてから、ゆっくりと答えた。

「まだ。でも、今夜言うつもり。天の川に向かって言ってみようと思う」

「じゃあさ……いっしょに、天の川を見に行く?」


 二人は川沿いの歩道を歩いた。

 風がほんの少し涼しく、雲がゆっくりと流れていた。

 やがて、空が割れた。

 天の川だ。


「オリヒメ」

 拓哉は空を見上げて、小さな声で言った。

「俺は、君と会って変わった。君がいたから、こうして現実と手をつなげた。ありがとう。そして……さよなら」

 それは、まるで詩の一節のように、風にほどけていった。


「……言えたね」

 七瀬は拓哉の手を取った。

「ねえ、来年の七夕も、二人で星を見よっか」

「そうだな。約束しよう」

「もっとあなたのことを知りたいな。じゃあさ、まずは……あなたの一番嫌いなところから、教えて?」

「そんなの、山ほどあるよ」

「じゃあ、ひとつずつ。ゆっくりでいいから」


 その夜、拓哉は初めて、仮想でも過去でもなく、自分が立っている場所に確かな重みを感じていた。

 孤独は、支えてもらうものではなく、分け合うものへと変わっていた。

 天の川のあまたの星の中で、織姫星は静かに二人を見下ろしていた。



< 了 >

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