ベンチの冬服の人

福小紋

 (越後高校 男子B)

 日曜の昼下がり。

 まだクーラー無しじゃ過ごせない残暑の真っ最中、冬服で公園のベンチに座り本を読んでいる人物がいた。黒のチューリップハットをかぶり口には白いマスク、上は厚手のウールセーターで下はジーンズ。周囲は日傘を差して歩いている人もいる中、その姿は異様に浮いて見えた。

 夏休み明けの課題テストの勉強につかれて、ちょっと隣の町内のコンビニまで足を伸ばしていた俺は思わず足を止めた。

 暑苦しさより先に「なぜ?」という疑問が生まれる。


 それからというもの、俺は日曜ごとに公園へ足を運ぶようになった。いや、正確に言えば、その人を確認しに通うようになった。散歩のついでなんかじゃない。最初の違和感が、どんどん胸の奥にこびりついて離れなくなっていたから。


 ──なぜ、同じ格好のまま、同じ場所に?


 最初に見かけた黒いチューリップハットに厚手のセーターで文庫本を読む姿は、まるで写真でも貼り付けられているみたいに変わらない。9月とはいえ、昼間の陽射しはまだ刺すように暑い。子どもが半袖で走り回り、学生カップルがアイスを分け合う横で、一人だけ「冬」に閉じ込められているみたいな佇まい。


 周囲の人も当然気付いている。

 通りがかるたびにちらちらと目線を向け、ひそひそと声を潜めるのが聞こえる。


「ねぇ、あの人、暑くないのかな」

「先週もいたよな。ずっと本読んでるよ」

「待ち合わせかな?」

「変質者じゃない?」


 噂がひとり歩きしているらしく、中には子供を抱えた母親が「見ちゃだめ」と小声で制したのを耳にしたこともあった。まるで怖いものに触れてはいけないと言うみたいに。

 俺だって最初は同じだった。気味が悪い、関わらない方がいいと。けれど、毎週目にしているうちに、不思議とその気持ちは変わってきた。怖さよりも、むしろ興味が勝ってしまったのだ。


 だっておかしいだろう。

 季節外れの厚着をしているだけなら、変わり者で済む。でも、その人は毎週、同じ時間、同じ場所に、同じ姿勢で座っている。手元の文庫本がまで同じであることに気がつたときは、びっくりした。それは、白っぽいカバーのよくある文庫本。よくよく観察したら、しおりの位置までまったく変わっていないようだった。


 ――読むふりをしている?


 考えれば考えるほど、答えが見つからない。

 ただひとつ確かなのは、本人に直接聞いてみない限り分からない、ということだけだった。


 4回目に見かけた日。

 俺はベンチから少し離れた木陰に腰を下ろし、しばらくその人を観察していた。無表情な横顔。ほんの少しも崩れない姿勢。ページをめくるリズムも不気味なほど規則的だった。もしも俺の見間違いじゃなくて、読むふりなら、それは読書なんて呼べない。じゃあなんなんだ。


 ――儀式?


 この人は何かか起こるのを「待って」いるの? それとも何かを「起こそう」としているのか? 想像すればするほど、答えが知りたくなる。



 5回目の日曜日。

 カレンダーは10月に入った。その日は朝から雲ひとつない青空。まだ秋には遠く、気温も30℃近くある。にもかかわらず同じ冬服。セーターの袖口から覗く指先は白く、ただただ文庫本に向き合っている。


 俺は決心した。声をかけよう。


 足を進めるたび、緊張が高まる。もし無視されたら? 逆に切りかかられたら? 最悪、ここに座っているのが人間じゃなかったら? そんなくだらない妄想を頭から振り払おうとしても、汗ばむ手のひらが俺の恐怖心を物語っていた。それでも好奇心がそれを上回った。


 俺はベンチの前に立ち止まり、思わず声を絞り出す。


「……その格好、暑くないんですか?」


 自分でも驚くほど、掠れた声だった。

 その人物は、ゆっくりと顔を上げた。黒い帽子の影の奥で、二つの瞳がわずかに揺れた。女の人だとそのとき気づいた。年齢は五十代前後だろうか。マスクのせいで表情はほとんど読み取れない。

 彼女は指先でセーターの袖をつまみ、返事をした。


「亡くなった夫が、この服を好んでいました。暑い日でも平気で着て、変わった人でした。だから、私もその人と同じように着ているだけなんです」


 ――喪に服していた?


 俺は、今までの疑問を少し納得させかけた。だが視線が自然と彼女の膝の上へ移る。白いカバーの文庫本。


「じゃあ、その本は?」


 問いかけに、彼女は一瞬だけためらい、視線を外した。


「本じゃありません」

「え?」

 思わず口をついた俺の声に、彼女は肩を震わせた。本を抱える腕に力がこもる。俺が覗き込もうと一歩踏み出すと、彼女は反射的に胸に押し当て、帽子のつばを深く下げた。


 ――なぜ隠す?


 見せられない理由があるのか。それとも、俺に見せたくないだけなのか。疑念が、むしろ強くなる。俺が見つめていると、しばらくして彼女は小さく息を吐き出し、押し殺した声で言った。


「……十数年前、この公園で事件があったこと、ご存じですか」


 その言葉に、空気の色ががらりと変わったように思えた。彼女は本を閉じ、俺のほうへ差し出した。

 受け取って表紙を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。文庫本だと思っていたのは、手帳だった。ぱらぱらとめくると、そこには、この町でかつて起きた殺人事件の内容が記されていた。


「……これ」

「そう、この公園で起きた事件です」


 彼女の声は低く、押し殺したようだった。ページの端々には赤ペンや鉛筆で書き込みがぎっしり残されている。


「……昔、この近くで殺人があったって、噂だと思ってました」


 彼女は帽子を少し持ち上げ、俺を正面から見た。その瞳には、強い光と深い影が同居していた。


「警察は早くに容疑者を逮捕しました。決め手とされたのは目撃証言。事件のあった日曜日、真夏なのに冬服を着ていた人物を見た、と」


 冬服――俺は思わず彼女の格好を見下ろした。ウールセーターにジーンズ。夏にはあまりにも不自然なその姿。


「……まさか」

「そうです。私の夫が、この服を着ていました」

 淡々とした口調に、俺の胸は強く締めつけられた。


「夫は否認しました。何度も、何度も、『自分はやっていない』と。でも有罪判決が出て……。私も、社会からは殺人犯の家族と呼ばれ、後ろ指をさされました」

 彼女の声は震えていたが、涙は見せなかった。


「死刑になったんですか」

 恐る恐る尋ねると、彼女は小さく首を振った。

「いいえ。判決後、自ら命を絶ちました」


 頭の中で何かが崩れる気がした。「俺はやっていない」と訴え続けたまま死を選んだ人間。そして、その妻が、事件の決め手とされた服を着て、公園に座り続けている。


「夫が最後に残した言葉も『俺はやっていない』でした」


 俺が手帳を返すと、彼女はうつむいた。公園を走り回る子どもたちの声や、ベビーカーを押す母親たちの笑い声が遠くで交じり合い、現実はにぎやかに進んでいる。けれど、ベンチの周囲だけは切り取られたように別の空間に思えた。

 俺は言葉を探した。だが、適切な言葉は見つからなかった。彼女の沈黙が、悲しみや孤独を訴えているようだったからだ。


 しばらくして俺は問いを絞り出した。

「……なんで今もここに?」


 彼女は本を閉じ、両手で表紙を撫でた。長く使い込まれたページの角が指に引っかかるたび、まるで記憶を撫でているかのようだった。


「私は、夫を信じたいんです。本当に。あの人は、不器用で、頑固で、嘘がつけない人でしたから。『やってない』と繰り返した言葉を、私は信じ続けたい」


 そこで言葉は切られ、マスクの奥で苦笑する気配がした。


「けれど……信じきれない自分もいるんです」


 俺は息をのんだ。彼女は小さく首を振る。


「真夏に、どうして冬服なんか着ていたのか。どうして夫はあの日曜日、家を出たのか。聞きたいことはいくらでもあったのに、拘留されてからは話もできなかった。いえ、しなかった。心のどこかで疑っていたから」


 彼女の瞳が遠くを見つめた。

「報道は連日、夫のことを冷酷な犯人と書き立てました。私の家に投げつけられた罵声も石も、いまでも思い出せます」

 その言葉は途中で途切れたが、十分すぎるほど重みを持って胸に沈んだ。


「だから私は、ここに来るんです。あの人が犯人とされたこの場所。冤罪だったなら、いつか真犯人が、あるいは新しい証拠が現れるかもしれない。そう信じたい。でも、もし夫が本当に……そうなら、この場所で時を止めていれば、せめて私が罰を受け続けられる」


 彼女は立ち上がり、ぎこちなく本をベンチに置いた。


「また来週来ます。読んでください」


 背を向けたとき、黒いチューリップハットが夕陽に照らされ、輪郭だけが鮮やかに浮かんだ。その姿は数歩で人混みに溶け、まるで最初から存在しなかったかのように消えていった。残されたベンチには、書き込みだらけの本。一枚だけ貼られた付箋には、滲んだ文字が一言。


『なぜ』


 俺は、手帳を持って呆然と立ち尽くした。

 本当に、冤罪だったのか。もし冤罪だったのだとしたら、なぜ誰も救えなかったのか。その問いが、心に刻まれたまま離れなかった。


 ◇


 そして、俺は検察官を目指すようになった。


(終)



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この生徒の通う学校の校長先生のお話です。よろしければお読みください。

「挨拶おじさん」

https://kakuyomu.jp/works/16818792440263986172

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