それは、本当に熊なのですか?

苦虫うさる

第1話

「それは、本当に熊なのですか?」


 男の言葉に私は面喰らった。

 こんな得体の知れない男の言葉に耳を貸す必要はない。

 そう思いながらも、つい聞いてしまう。


「熊ではないならば、伯母は何に殺されたのですか?」

 

 ※※※


 つい先日、山奥に一人で住んでいた伯母が死んだ。

 かつて集落だったその場所からは、人が一人去り、二人去り、伯母の夫……私の母親の兄が死んだ後、その地に残ったのは伯母一人になった。

 付近には今でも、空き家となった家や放置された畑が残っている。

「高齢者の一人住まいで何かあったらどうするのか」

 私は伯母を訪ねるたびにそう言った。

 伯母の家から車で一時間ばかりのところにある私が住む町に越してくるよう勧めたが、伯母は頑として聞き入れなかった。

 今は緊急用の連絡機も設置されており、役場の職員が毎朝連絡してくる。半月に一回、訪問もしてくる。十日に一度、契約している総合スーパーの配達員も来る。

 むしろ来訪者が多くてわずらわしいくらいだ、というのが伯母の言い分だった。

 体が動くうちは、この家から動かない。

 鋼鉄の意思を前にして、私はため息と共に引き下がるしかなかった。


 伯母が行方不明になった時、連絡してきたのは町役場の職員だった。

 毎朝の定時の確認コールが押されていないことに気付き、連絡した。不審に思い駆けつけると、家の中には誰もいなかった。

 玄関の鍵は開いていたが、家の中は荒らされた形跡がない。

 すぐに緊急連絡先に登録されている私のところに連絡がきた。

 私にも心当たりはない。

 伯母は車を持っていないし、そんな朝早くに誰にも何も告げずにどこかへ出かけるなど考えられない。

 念のため、私は数少ない伯母が行きそうな場所に連絡してみた。町役場の職員は家の周辺を探してくれた。

 だが伯母の行方は掴めなかったため、昼近くに警察に連絡した。


「熊じゃないかな」


「警察に連絡した」という報告の後、ふと役場の職員がそう言った。


「熊?」

「今年は特に多いんですよ、目撃情報が」


 職員は付け加えた。


「※野さんの家の裏も畑ですよね。今朝見たら、荒らされた形跡があったんです。もちろんまだ、熊かどうかはわかりませんけれど」

「熊は本来は臆病な生き物で、人を襲うことはない、と聞きましたが」

「熊は頭がいいですからね。人を怖がる必要がない、と学習した奴ならわからない。積極的に襲った、というよりは出会い頭に驚いた拍子に……という話はありますし」


 ふと思いついたことがあり、私は思いきって言った。


「そう言えば、少し前に伯母が言っていたんです。畑が荒らされているって。その時はイタチか何かじゃないか、って言って済ませてしまったんですけれど」

「そうですか。もしかしたら、熊に『餌がある場所』として覚えられてしまったのかもしれませんね」


 その後、警察によって周辺の捜索が行われ、伯母はほどなく見つかった。

 熊によって丈の高い藪の中に引きずり込まれていたのだ。死因は外傷性失血死で、不幸中の幸いというか遺体が荒らされた跡はなかったらしい。

 すぐに大規模な山狩りが行われ、伯母を襲った熊は警察と有志の手で射殺された。


 ※※※


「死んだ熊の爪についた肉片は、鑑定で伯母のものという結果が出ています。伯母が熊に襲われて死んだのは間違いないですよ」

「ええ、それはそうでしょう。私も※野さんが被害に遭われた状況を調査しましたから、鑑定結果を疑っているわけではありません」

「では、何が気にかかっているのですか」


 私は不審に思い、卓の上に置かれた名刺に視線を走らせる。

 男はフリーのジャーナリストを名乗っていた。

 近年の獣害、とくに熊による被害……熊害ゆうがいについて調査を行っていると言う。

 男は茶をひと口飲んだ。

 十月も半ばになると言うのに、今年はまだ暑い。


「少し考えたんです。何故、熊が※野さんの住むこの家にやって来たのか」

「それは」


 私は困惑して言った。


「山に食糧がなくて、ではないでしょうか。最近は気候が昔とは違いますから植物の発育もおかしくなったり、人が山に入るようになって熊の生活する場所に知らずに入り込んでしまっている。そういう話をよく聞きますが」


 男は首を振る。


「それは逆です。少なくとも※野さんについては」

「逆?」

「※野さんが住んでいた集落からはどんどん人がいなくなっている。※野さんが最後の一人だったんですから。むしろ熊の活動範囲から、人は減っていた。そうして※野さんは、これまでは熊の被害に遭われたことはなかった」

「しかし、役場の方も今年は熊の目撃情報が多いと言っていましたよ」


 私の言葉に、男はあっさりした口調で言った。


「去年が成り年でしたからね。今年は大凶作なんです」


 男は少し経ってから、怪訝そうな顔つきで私を見た。


「ご存じなんですか?」

「何がです?」

「何が凶作か」


 私は首を振る。


「話が飛びすぎて、何のお話をされているのかよくわからなくて……」


 私の指摘に、男は表情を崩した。照れ臭そうに自分の後頭部を軽く叩く。


「これはどうも……。済みません。つい、知っている人を相手にしているつもりで話してしまいました」


 謝罪するように軽く頭を下げてから、男は言った。


「ブナ科の堅果。つまりはドングリです。今年はドングリが大凶作なんです」

「ドングリ……」

「ドングリは栄養素が豊富です。冬眠を控えた動物にとっては、貴重な栄養源になる。特に本州では、ドングリの実の量によって、熊の行動が変わると言われるほどです」

「環境の変化で、ドングリの生育環境が変わっている、ということですか?」


 男は首を振る。


「ドングリは元々、二、三年周期で豊作と不作を繰り返します。樹木内に栄養素を貯えるために、豊作の次の年は不作になると言われている。ただ本当の原因は、はっきりはわかっていない。わかっているのは、豊作……成年の次の年の後は、不作になる確率が圧倒的に高い、ということだけです」


 私は我知らず、身を震わせた。


「今年は不作の年だった、ということですか?」

「ドングリの発育状況は獣害全般における重要な因子です。調べればすぐにわかります。今年は山の食糧が不足しやすい。それはあらかじめ予想がつく、ということです」

「伯母が予想がついたのに、対策を怠った。そう言いたいのですか?」


 声が強張るのが自分でもわかった。

 男は私の問いには答えず、自然な仕草で窓の外へ目をやった。


「畑の裏側は藪が凄いですね」


 唐突な言葉だった。

 私はつい釣り込まれて、頷いた。


「ずっと刈らなければ、と思っていたのですが。やるとなったら大仕事なので、延び延びになってしまっています」


 畑のすぐ奥の藪は、私の腰くらいまで伸びてしまっている。

 業者にでも頼まなければ、とても刈り取ることは出来ない。

 伯母もたびたび愚痴をこぼしていた。


「少し分け行って見させてもらったのですが、藪の向こうには川が流れているんですね」

「ええ。ここから少し上流に行ったところに、水源があるんです。昔はそこまで水を汲みにいったらしいです。伯母が言っていました」

「ああ、なるほど。水源がね」


 男は少し黙ってから、何でもないことのように付け加えた。


「熊は、河川周囲の群生した藪に身を隠して移動する習性があります。この家まで、川沿いの藪が道になったんでしょうね」


 私は、声を大きくした。


「一体、何ですか? さっきから。熊に襲われたのは伯母にも落ち度があったからだ。そう言いたいのですか」


 事故が遭ってから、その手の話はいくつも目にした。

 食べ物の管理を怠ったのではとか、不用意に森に入ったのでは、など何とか襲われた理由を探そうとするものだ。


「熊のことだけを考えて生活しているわけじゃない。生活をしながら注意するのには、限度があります。それがわからず襲われた原因を伯母の行動に見出だす記事を書かれるつもりなら、お話するのはお断りさせていただきます。帰ってください」


 私はそうはっきりと言い、名刺を突き返そうと卓の上に手を置いた。

 男は慌てた様子もなく首を振る。


「いいえ、違います。私が言いたいのはまったく反対のことです。※野さんが熊に襲われたのは、※野さんではなく、別の人間の行動に原因があったのではないか。そう考えています」

「別の人間……」


 私の呟きを疑問と介したのか、男は軽く頷いた。


「はい、その人によって熊と※野さんは行動を誘導された。二人……いえ、一匹と一人が自分の意思だと思っていた行動は、別の人間によって『そう行動するように』誘導されたものではないか。そう思っているんです」

「はっ……」


 私は思わず笑った。


「馬鹿げている。伯母はまだしも……熊の行動をコントロールするなんて……馬鹿馬鹿しい。不可能だ。相手は動物じゃないですか。しかも野生の」

「そうでしょうか」


 男は私の言葉の荒々しさなど気にする風もなく、淡々とした様子で話を続ける。


「先程のドングリの生態もそうですが、野生の生物は目的を最小限の労力で達成するために、生態の動きが最適化されている。人間よりもよほど合理的です。熊の生態や周辺の環境を把握すれば、※野さんと熊を鉢合わせさせることはそこまで難しいことではないのではないでしょうか」


 私は今度こそ、声に明確な怒りを込めた。


「ふざけないでください。そんな、そんな……伯母は亡くなっているんですよ」

「亡くなっているからこそ、ですよ。何が起こったか知らなければならない」


 男はキッパリとそう言って、言葉を続ける。


「先ほども言った通り、今年はドングリが凶作になることは予想がつく。熊は丈の高い藪の中に身を隠しながら、河川があればそれを伝って移動する。一度、食べ物を容易に手に入れられる場所を発見したら、その場所に執着して何度も訪れる。そういった条件を整えて、熊を※野さんの家の畑に誘導する。一方で※野さんについては、元栓を締めるなどして水道の出を悪くする。相談された人物が『すぐに業者を手配するが、それまでの間は何とか代替手段でしのいでくれ』と言えば、※野さんは以前日常で使っていた、水源で水を確保する可能性が高い。もしかしたら、相談された人物が思い出したフリをして自分から話を出したのかもしれない。今年は九月も暑かったし、一日使う水を確保するとなると、行くのは早朝でしょうね」


 男はそこで茶をひと口飲んだ。


「熊もおおむね、早朝か夕暮れに移動します」


 私は男を凝視した。

 口の中がカラカラに乾いていた。


「誰かが……熊を凶器にして伯母を殺した。そう言っているんですか? そんな馬鹿げた話が……そんな風にうまくいくはずがない。本当に伯母を殺したいなら、そんな方法を取るわけがないでしょう」

「この計画の利点は正にそこにあります。こういう言い方はなんですが……『死んでくれたらラッキー』というところにね。これで※野さんが亡くなれば、能動的に殺人をしなくていい。捕まるかもしれない、という最大のリスクを回避できる。ミステリーでは『プロバビリティの犯罪』や『期待性の堆積』と言われる、比較的有名な考え方です」


 男は私を見ながら、何でもないことのように言った。


「※野さんは、亡くなられたご主人からかなりまとまった財産を受け継いでいて、最近は唯一の近親者である貴方がそれを管理していたと伺いました。その財産は、※野さんが亡くなった時もまだ残っていたのでしょうか」


 男は私を観察しながら、穏やかな口調で言った。


「もう一度聞きます。伯母上を殺したのは……それは、本当に熊なのですか?」


 私は何も答えられなかった。

 ただジッと、目の前の男の顔を見ていた。


                                 (終)

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