第3話


 そっと慎重に扉を開いた途端、徐庶じょしょが振り返ったので陸議りくぎはドキとした。


 深夜の深い時間だったので、とっくに寝ていると思っていたのだ。


 一瞬、顔は強張ったが、暖炉の火の前に胡座を掻いて座っていた徐庶は特に何をするでも無くぼんやりしていたようで、振り返ってそこに陸議を見つけると目を細めて笑ってくれた。


「やあ」


 強く緊張していた陸議は徐庶のその優しげな笑みを見て、途端に安堵し全身の力が抜けた。

 扉を閉めてそちらに歩いて行く。

 司馬孚しばふは深く寝入っているようだ。


 起こさないように、囁くような小さな声で話す。


「おかえり」

「すみません、こんな変な時間に戻って来たりして……」

「いいんだ。仕事はもう終わったの?」

 陸議は大きく頷いた。

「はい」

「大変だね。でも確かに司馬懿しばい殿は一度仕事が溜まったら、寝るのも疎かにして片付けそうだ」

 徐庶は微笑わらっている。

 彼のその顔を見る限り、四日間仕事で籠もっていたという話を疑ってはいないようだった。

 それは分かったので気取られないように、密かに陸議は安心した。



 ――と。



「あっ!」


 突然、徐庶の手が指先に触れたのが分かって、大袈裟なほど陸議は驚いてしまった。

 その途端、左腕に激痛が走る。


「うっ!」


「ごめん。驚かせてしまった」

「い……、いえ……平気です……。すみません、こちらこそぼんやりしていて、」

「衣に血が……」


 陸議は自分の腕を見た。

 確かに淡い色の衣に、血が滲み出していた。

 肘の辺りだ。


「平気です。少し出血してしまって……今、包帯は巻き直してもらってから来たので」


 徐庶が立ち上がる。

「でもそんなに血が滲んだら眠りにくそうだ。包帯を変えてあげるよ。それくらいなら俺も出来るから」

「あ……」

 断ろうとしたが、徐庶は棚にある包帯を取りに行ってしまった。


「徐庶殿……伯言はくげん様が戻られたのですか?」


 今ので司馬孚しばふも目を覚ましてしまったらしい。

叔達しゅくたつ殿、起こしてしまってすみません」

「大変だったら手伝いに行こうと思ったのですが、兄上がいいと仰ってたので」

「はい。もう仕事は終わりましたので、大丈夫です」

 寝台で少し起き上がった司馬孚は陸議が笑みを向けてそう言うと、安心したようだった。

「良かった。怪我の具合は……」

「平気です。少し血が出てしまって……でも大丈夫です。ここに来るまで全く気付いていなかったくらいですから。包帯を変えたら、私もすぐ休みます。宿題は捗っていますか」


「徐庶殿が大陸各地の色々な話を聞かせて下さるので、今回の宿題だけでは無く、色々なことが思い浮かんでたくさん書き留めました」


「そうですか」

 司馬孚もいつも通りだったので、陸議は安心した。

「明日はゆっくり出来ますから、その話を聞かせて下さい」

「はい」

「今日はもう休んで」

「はい。おやすみなさい」

 司馬孚しばふは素直に毛布に潜り込んだ。


 徐庶がやって来る。

「そこに座って」

「すみません」

「いいんだ。どうせ起きてたし」

 陸議は暖炉の前に腰を下ろした。

 衣から片腕だけ出して包帯を取ろうとすると、徐庶が手を貸してくれる。

「少し出血がある」

「……はい……」


「司馬懿殿は君が動けるなら容赦なく仕事を任せても、重傷を負ってるのは知ってる。

 傷が開くようなことがあれば、言えば手当はさせてくれると思うよ。君は優秀な副官だからね。ただ口に出さないと気付かないことは彼だってあるかも」


 暖炉の前で向き合って、徐庶が咎めるようなものではなく、まるで子供を宥めるような優しい声でそう言ったので陸議は小さく頷いた。


「はい。私も……そう思います」


 助けを求めるのが本当に苦手なんだなと、徐庶は少し気落ちした様子で俯いた陸議を見て思った。

 しばらく会話が途切れたので、血が出ている場所を布で押さえ、包帯を慎重に巻き直してくれる徐庶の手つきを見ながら、陸議は会話を探した。


「あの……徐庶さんも郭嘉かくか殿と江陵こうりょうに行くと聞きました」


「ああ」

 聞いたんだねと徐庶は頷く。


「俺も聞いた時驚いたよ。でも一応、郭嘉殿が決めたらしい。まあ俺を涼州に置いても長安ちょうあんに置いても役に立たないと見てのことだと思うけど」

「そんなことは」

 思わず大きく首を振ると徐庶が視線を上げたので一瞬しっかりと視線が交わってしまい、陸議は何となく俯いた。


「……無いと思います。今回は護衛がいません。私と郭嘉殿だけになりますから、大陸各地を旅されたことがある徐庶殿がおられれば、心強いと思われてのことだと思います」


「はは……」

 徐庶が穏やかな声で笑った。本気にしていないようだ。

「全くそうは思わないけど。でも、ありがとう」

 暖炉の火に照らされて、徐庶の顔がよく見えた。


 自分の手を見る。

 司馬懿との激しく執拗な閨から戻って今、思うのは。

 左腕が無事で本当に良かったということだけだ。

 動かせるようになった指先まで、また動かなくなったらどうしようかと思った。


 司馬懿は細心なのに、本当に今回はまるで陸議の傷を忘れたかのようだった。

 少し様子が変だったと思う。

 だが何が変だったのかはよく分からない。

 徐庶が側にいるので、司馬懿と過ごした数日間のことを思い出すのも気が引けて、陸議は考えないことにした。 


「怪我を早く治さないと」

 陸議が呟く。


「郭嘉殿は戴冠後、司馬懿殿と共に曹丕そうひ殿下の参謀ともなられる方です。

 何かあったら大変なことになる。早く怪我を治さないと護衛の仕事が出来ません」


「そうなんだよね……君の騎馬術や戦う力は相当なものだから、勿論護衛として申し分ないと俺も思うんだけど、今はこうやって深手を負ってる。

 今回はそんな無理に同道させなくともいいんじゃないかと思うんだけど。

 だけど、そんなこと言ったらそもそも郭嘉殿自身も同じだからな……」


「それはやはり……春になれば戦線に動きがあると思って、この時期に何としても江陵こうりょうを見ておきたいと思われてのことでしょうか?」

 徐庶が頷く。

「そうだと思う」

「……。」

「だけどそれなら君は春まで養生させた方がいいと思うんだが……」


「私は、その……同行に選んで頂いて光栄です。江陵は司馬懿殿も注視する戦線なので、代わりにこの目でしかと見てみたいと以前から思っていましたし、郭嘉殿は……役に立たないと思われれば連れて行ったりしないと思いますから、少しでも……見込んで頂いたことは……。……嬉しいので、抜かりなく護衛の任を果たしたいと考えています……。その、私は双剣を使うので、片腕でも戦えますので」


 余程置いて行かれるのが嫌なのか、何やら一生懸命むにゃむにゃ言い始めた陸議に、徐庶は笑ってしまった。


 郭奉孝かくほうこうはあの曹操そうそうの腹心だ。神童と呼ばれ幼い頃から戦場に入り浸って来た。

 若いが、魏軍最高の軍師と言って過言ではない。

 気安く副官になれるような相手ではないので、それは彼から任命されたのなら、陸議のような若く才気に満ちた青年は何がなんでも付いて行きたいのだろう。


「分かった。まあ君は、どこにいたって仕事は一生懸命にやるから、涼州にいたって司馬懿殿の副官として控えていたって、ゆっくり休養なんて取れない人だと思うからね。

 その点、郭嘉殿は人をよく見るし、君の状態もよく分かってる。

 無理はさせないだろう」


「いえ、多少無理をしてでも郭嘉殿は必ず長安に戻っていただかねばなりません」


 はっきりと、今度は言葉が返った。

 陸伯言りくはくげんの琥珀の瞳が暖炉の火に照らされて、輝いてこちらを見ている。

 必死な表情だ。

 郭嘉というあの青年の「価値」を陸議は正しく、理解している。


「うん、分かった」


 徐庶は必死にそう言った陸議を落ち着かせるように、彼の頭に手をやった。

 陸議は驚いた顔をして、徐庶の方を見る。

 彼は笑っていた。

「君はそんなに優秀なのに、頭を撫でられることに全然慣れてないんだなぁ」

 驚かせるつもりは無かったんだけど。

「いえ……あの……そういうわけでは」

 顔が赤くなってるのが自分でも分かったが、暖炉の火が誤魔化してくれるだろう。

 そう、自分に言い聞かせる。


 まあ確かに司馬仲達しばちゅうたつは言葉で激励しても、若い副官の頭を撫でてやるような男ではないかもしれない。

 陸議は一体いつから司馬懿と共にいるのだろうかと、あまり他人に興味を持たない徐庶だったが、なんとなくそのことを考えていた。


 自分が思っているよりずっと前からなのだろうか?。


「出来たよ」


 包帯を結んで留めてやる。

 丁寧に巻いて貰って、綺麗に整った。


「ありがとうございます」

「いや、いいんだ」


 徐庶は道具を側の箱に戻すと、その箱を脇にどけて、床に敷いていた毛布の上にごろんと寝そべった。

 彼はよく、暖炉の前でうたた寝をしている。

 風邪を引きますよと何度も司馬孚しばふや陸議が言っているのに、そこが気に入っているらしく、あともう少しなどと言いながらずっといるのだ。


「徐庶さん、風邪を引きますよ」


「火があるから平気だよ。それに江陵に向かったら当分野宿になる。

 野宿はこれに火も付けられないこともある。

 こんなことで寒いなんて言ってられないよ。

 まあこっちよりは少しは気温は高いと言っても冬だからね」


 陸議は言われて、瞳を瞬かせた。


「……確かにそれは、仰る通りですね」


 旅では無論、寝台などないのだ。


「私も慣れなければ」


 陸議が生真面目にそう言ったので、なにかなと徐庶が見ていたら「失礼します」と陸議が徐庶の隣に同じように寝そべって来たので、声を出して徐庶が笑った。


「君はいかにも良家の子って感じだけど、そういう所が変わってるね」


 そんなこと自分は出来ないなどと、決して言わない。


「司馬懿殿が君を重用する理由がよく分かるよ」


 優しい声で、徐庶が言った。

 何故か陸議は胸が締め付けられるような想いになった。


「……徐庶さんはよく暖炉の前にいらっしゃいますが、火を眺めるのがお好きなんですか?」


 しばらく押し黙っていた陸議がふとそんなことを言った。

 何を聞かれたのか少し考えるようにしてから、徐庶が答える。


「特に意識してなかったけど……でもなんだかずっと見ていられるかな」


 好きだと徐庶は言わなかったが、ずっと見ていられるということは、こうして火を眺めながらぼんやりするのが嫌いではないのだろうと思う。



「……小さい頃、養父が冬になるとよくこうして暖炉の前で碁を打っていました。

 養父は忙しい人だったので食後、執務室や寝室に戻らずそんな風にしているのは珍しくて。温まりたいフリをして、養父の側で、碁を眺めているのが好きでした。

 幼かったので、注意していても最終的に眠ってしまうことがあって。

 ……でも翌朝目を覚ますといつのまにかちゃんと寝台に戻って寝てるんです。

 養父が連れて行ってくれてたんだと分かってた。

 迷惑をかけてはいけないと思っていましたが、私は少し……嬉しくて」



 徐庶は陸議の話をじっと聞いていた。

 彼が子供の頃の話をするのは初めてのような気がした。

 彼の過去は謎めいているが、ただ一つ、養父への強い敬慕の想いだけは伝わって来る。


「……徐庶さんは、剣はかなり使われるのですか?」


「……ん?」


「あ……いえ……。司馬懿殿が、郭嘉殿は護衛で私と徐庶殿を連れて行くとのことなので、かなり剣を使われるのかと……」


 ああ、と徐庶は笑った。


「いや。俺は賈詡かく殿から江陵に向かうように命令を受けた時、剣の腕は郭嘉殿の方が上だと思うが、死力を尽くして護衛をしろって言われたよ」


「そうなのですか……」


 陸議は、まだ徐庶の剣技を見たことがないことに気付いたのだ。

 なんだかんだと忙しくそういう機会も無かった。


「剣は一時期必死に学んだけど、最近は随分怠けてしまっているからなぁ……」


 剣には人柄が出る。

 そんな風に暢気に言った徐庶に、陸議はくすくすと笑ってしまった。

 実は字にも人柄が出るので、剣と書は少し似ていることがある。

 徐庶の字はとても整って綺麗だと思った。

 この人のことだから、きっと剣も基本に忠実で整ってそうだ。


 徐庶は許しが出るなら長安に戻って職を辞して、魏を去りたいと望んでいた。

 新たなる任務を与えられたことは辛いのではないだろうか……。


 彼からはさほど涼州遠征に来た時のような悲愴感は今は見えないが、内に秘める性格の人なので本当の所は分からない。



『徐庶はお前に報いる為に天水てんすい砦に戻った』



 司馬懿はそう言っていた。

 陸議はそうは思わない。

 そうするほどの恩も縁も徐庶との間には無かったから、そんなことがあるはずないのだ。

 徐庶自身も逃げるようにではなく、使命を果たして魏から去りたいと思ったから残ったと言っていた。


 ……真相は彼にしか分からないが、悔いては欲しくないと思う。


 江陵での任務を無事に終えて、そのことで除隊が許され、魏を離れられるようになればいいなと陸議は祈った。

 そうすれば、【水鏡荘すいきょうそう】に戻っても、望む時に洛陽らくように戻り、街を見たり母親を訪ねたりも出来るのだ。


 自由に生きれるようになる。

 今度こそ、この人にはそうなってほしいと願った。


 火の揺らめきを見ていた徐庶は、ふと隣を見た。

 つい今まで話していたのに、自分の隣に寝そべった青年は目を閉じていた。

 一瞬目を離しただけなので、その寝つきの良さに徐庶は思わず笑いそうになったが、起こしてはいけないと思って堪える。 


 陸議の眠る表情は、本当に無防備な少年のようだ。


 しかしこの涼州遠征で、司馬懿は自分の副官として伴いながらも陸伯言を自分の側に縛り付けるようなことはなく、色々な人の側に置いて補佐をさせていたように思う。

 数日も部屋に籠もって自分を補佐させるのは初めてのことだ。

 恐らく江陵に陸議が行くので、その前に色々与えておく指示もあったのだろうと思う。

 この数日間はきっと生真面目な彼は、真剣な表情で必死に務めたのだろう。


 疲れているんだろうなと思った徐庶は起こすのは気が引けて、側にあった毛布をそっと陸議の身体に掛けてやった。


 やはり余程疲れて集中が途切れたのだろう、陸伯言は起きなかった。

 深く目を閉じて眠りについたようだ。


 しばしの休息か。




 例え剣の力が劣っても、命を掛けて郭嘉と陸議を守れと賈詡は言った。



「…………必ず守るよ」



 炎が揺らめく。


 その火に自分の手の平をかざした。

 

 何人もの命を、この手で奪って来た。

 自分が過去にやって来たことは『護衛業』と呼ぶには綺麗すぎて、もっと暗がりに踏み込んだものだ。

 場合によっては雇い主を守る結果になったとしても、徐庶は誰かを守ってくれという依頼はさほど積極的に受けたことが無い。


 彼は守るより、奪ってくれという依頼を好んで受けていた。

 自分にはその方が合ってると思い込んでいたからだ。

 しかしその生業を嫌い封じ込めるようになってからは、誰かのために剣を振ること自体を忌み嫌い、遠ざけるようになったのである。


 もう一度陸議の方を見ると、やはり深く寝入っている。


 目を伏せるその寝顔は幼く見えるほどだった。

 だが、それが彼の全てでは無い。


 馬岱を追って出る時に見せた、強い意志と凜とした覚悟は――若いが今後、国の重い使命に関わって行く運命にあることをはっきりと予感させるものだった。


 彼は守ってやらなければならない人だ。



 ――必ず。



 火に、赤く照らされた手の平を、徐庶は想いと共にゆっくりと握りしめた。




【終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花天月地【第98話 月蝕】 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ