「親友に会ってくるね」とメッセージを残して妻が消えました

七乃はふと

「親友に会ってくるね」とメッセージを残して妻が消えました

「これ、落としましたか?」

「優しいんですね」

 待ち合わせしていたカゲミはすぐに見つかった。昼過ぎのファストフードは閑散としていて、二階には私達とサラリーマン。そして親友のカゲミの四人だけ。

「お待たせ……カゲミ?」

呼びかけると、日差しに照らされた背中が陸に上がった魚のように跳ね上がる。

「ごめんなさい。驚かしちゃったかな」

「少しぼーとしてただけ。ヨウコ、立ったまま辛いでしょ。ほら座りなよ」

 トレーをカゲミに預ける。

「お気遣いありがとう

 カゲミの向かいの席に腰を下ろす。

「ごめん。病院帰りで疲れてるのに呼び出したりして」

 無意識にお腹に手を添えていたことに気づく。これを見て気を使わせちゃったみたい。

 カゲミが何かに気づいたように天井を見上げた。

「場所を変えよう。寒いだろ」

「そんなことないよ。ちょうどいい涼しさだから」

 昼を過ぎても気温は三十度後半。炎天下を歩いて来たから過剰なまでに騒々しいエアコンの冷風が心地よかった。

「カゲミこそ具合悪いんじゃないの。汗かいてるし、前会った時より痩せたように見える」

 天井の冷気が直撃しているのに、日焼けした彼女の肌に汗の粒がいくつも浮かんでいる。

「後ろの日差しのせいだと思うな。ちょっと失礼」

 汗拭きシートで肌を拭きながらカゲミは続ける。

「急に呼んじゃってごめん。旦那さんに悪いことしたかな」

「わたしは嬉しかったわ。だって連絡してくれたの何年振りだっけ、結婚式以来だから四年振りくらい」

「それで合ってる」

「今日は何の用、大事な話があるって」

「赤ちゃん何ヶ月」

「この子がわたしに宿って六ヶ月。ねぇ聞いて、さっき病院に行って性別がわかったの。男の子よ、早くカイトさんが喜ぶ顔が見たいな。妊娠が分かってすぐの頃、一緒に名前を考えようって舞い上がっちゃって」

「結婚してからも幸せそうで良かった」

「ええ。たまに喧嘩もするけどとても優しいのよ。対戦ゲームすると絶対勝たせてくれるの。本人は頑なに認めないけどね」

「どうやって勝たせてくれるって分かったんだ」

「わたしのコントローラーを盗み見てるの。指の位置から次の行動を予測してるみたい」

「旦那さん凄いな。それはもう才能なんじゃないか」

「だといいんだけれど。今のところ対戦以外で役立った事ないのよね」

 頬のこけたカゲミと一緒にひとしきり笑った後、買ったコーヒーで喉を潤す。彼女の紙コップには中身が漏れだしたように水たまりができていた。

「で、カゲミの話って」

「ねえ覚えてる。あたし達の出会い!」

 テーブルを叩き壊しかねない勢いだった。

「ええ。忘れるわけないじゃない。あの衝撃的な事件」

 わたしがロングパンツに隠された膝に視線を送るとカゲミはテーブルの下に足を隠す。


 高校生の頃、わたしは同級生が話していたゲームに夢中だった。両親の機嫌を損ねるので家で遊べなかったことで、わたしの欲求は春の終わり頃には爆発寸前まで昂まっていた。

 その欲望に負けて向かったのが、駅裏にあるゲームセンター。レバーをガチャガチャ動かしたり、全身がスッポリと入ってしまうほどの大きな筐体にわたしは目を奪われていた。

 不意に肩を掴まれる。相手は同い年くらいの男子学生で面識のない他校の生徒だった。

 しつこく言い寄ってきて、顔にかかる息はアルコールランプの臭いがした。

 穏便に済ませようとしても離れてくれず、周りも顔を伏せたまま。

 シワができるほど肩を掴まれ、堪えていた涙と悲鳴がこぼれ落ちそうになったその時……。

「ちょっと待ったぁぁぁ……ああっ!」

 ドガシャンと同じ制服の女性が降ってきた。床に置いてあった椅子を派手に蹴散らかして。

 日焼けした肌に後頭部で金髪を纏めた女性が顔を上げますが、何か言いかけたところで歯を食いしばってうずくまってしまった。

 声をかけようと踏み出したローファーがピチャリと音を立てる。見ると蹲る彼女を中心に池が広がっていた。赤い赤い池がゲーセンの薄暗い照明でキラキラ輝いていた。

 いつの間にか酒臭い男の人達は逃げ出し、周りの人達が血だらけの彼女の姿を見たまま呆然となって動かないので、わたしは傷口を両手で抑えながら救急車を呼んだ。通話を終わらせると、流れる血で両手だけでなくスマホの液晶まで真っ赤。少しでも勢いを止めたくて、血まみれになったブレザーを脱いで傷口に押し当てて止血する。

 彼女の眉間に谷底のようなシワが刻まれている事に気づく。

「こんな事になってごめんなさい。もう少しで救急車が来ます。もう少しの辛抱です」

「……どうだった」

「何の事ですか」

「あたしの、飛龍撃墜脚は?」

 最初なにを言っているのか分からなかったけれど、筐体の一つから「飛龍撃墜脚」と聞こえて理解しました。

「すごく、かっこよかったです」

「だろ……やった」

 ボロボロ泣きながら無理やり作られた笑顔に釣られて、わたしも笑ってしまいました。


「運ばれている間もわたし達ずっと笑ってたよね。救急隊員の人に注意されたの」

「うん。そこから優しいヨウコと仲良くなって登下校もずっと一緒だった」

「そうね。カゲミは優しいから満員電車でいつも後ろに立ってくれていたよね」

「守るのは当たり前だろ。ヨウコはあたしの唯一の親友なんだから」

 楽しい思い出を話しているのに、カゲミの汗が止まらない。ノースリーブで剥き出しの肩に汗の珠が無数に浮かんでいる。わたしが気遣う前にカゲミは頤を拭う。

「ちょっとトイレ」

 カゲミがドアを閉めるのを見届けたわたしは、全席空席の店内で残ったコーヒーに口をつけながら待っていると、お腹の赤ちゃんが動いた。

「ごめんね。ママのお友達が困ってるの。解決するまで一緒にいたいから、もう少しだけ待っててね」

 我が子をお腹越しに撫でているとカゲミが戻ってきた。相変わらず顔色が冴えない。

「薬いる?」

「ありがと。でも身体の不調じゃないんだ」

 汗は引いているのに、顔色が悪く見えるのは窓からの日差しを背中から浴びているからだろうか。カゲミは椅子に座ると組んだ両手で顔を隠す。雲に隠れたのか店内が薄暗くなった時、カゲミは口を開いた。

「聞いて欲しいことがあるの」

「やっと今日の本題?」

 カゲミは毒素を吐き出すように、長く大きく息を吐いた。

「学生時代からある秘密を抱えてる」

 そう言って財布からカードを取り出す。

「免許証。知らなかった車好きなんて――」

 テーブルに置かれた免許証はわたしが高校生の時に有効期限が切れており、顔写真はこびり付いた赤黒い液体で汚れている。どう見てもカゲミ本人の物とは思えない。だって。

肩抜正男カタヌキマサオ

「知り合いにいる?」

 わたしは首を振った。

「良かった。まだ迷惑かけてなくて」

「この人は誰、カゲミの親戚なの。だとしてもこんな汚れた免許証持つ意味が――」

「教えてあげる。今まで二人で抱えていた秘密を」

 わたしは拒否するという考えが浮かばず、操られるように頷くことしかできない。瞬間カゲミの声だけが聞こえるようになった。

「高校の登下校で使ってた駅覚えてる。そう卒業まで使ってたあそこ。ある日の登校中、あたしは階段の踊り場でしゃがみ込んでいる人影を見つけたんだ。そのスーツの男は薄くなった後頭部をこちらに向けていた。毛根のなくなった地肌に汗をかきながら忙しなく両手を動かしていたんだ。周りの人は完全無視。まるで生きた障害物を避けるかのように一定の距離をとっていく。ヨウコも気づかなかったでしょ。いいの、その事で責める気はない。あたしも無視しようと思ったんだけどさ、まだ電車が来るまで余裕があった。だから、もう少し様子を見ていると近くに赤く彩られた白い布を見つけた。そこでピンと来たんだ。あれを探してるんだって、乗客の無慈悲な足に踏み潰される前に拾い上げた。正体は子供向けのヒーローがプリントされたハンカチ。スーツの男に差し出すとさ、そいつは腹をすかした赤ちゃんみたいな顔をして受け取って口を何度か開けてから走り去ったんだ。電車が来たから追いかけることもせず、学校にいる間に忘れてしまった。でも、向こうは忘れてなかった。次の日からだよ。拾った駅の踊り場にいたんだ。何かを探すように首を左右に降ってカメレオンみたいに眼鏡の奥の眼球を動かして。あたしは目線を下げてやり過ごしたよ。でも何日かして目が合った。その日からずっと視線で追いかけてくるんだ。直立不動のままだけど、顎を何度も動かして見せるんだ。ガタガタの歯並びをさ。時間を変える気はなかったよ。ヨウコと少しでも長く一緒にいたいから。その場で顎を開閉しているだけなら耐えられた。けどあの日あたしは肩を叩かれたんだ。振り向くと案の定スーツの中年男で、息がかかるくらいの距離で歯列を見せてきた。休む事を忘れたみたいに動かすんだ。噛みつかれそうな距離まで近づいてきて唾が顔に飛び付いた瞬間、あたしは大声を上げてた。離れてほしくて男を押した。それでも歯を見せてくるから何度も何度も両手を使って。あいつはコマみたいにクルクル回りながら、こっちに顔を向けて開閉を止めようともしない。渾身の力で背中を突き飛ばしたよ。そしたらさ、顔から下り階段に真っ逆さま。顔面が階段の角に直撃して血と一緒に歯が辺りに散らばっていたんだ。その姿勢のまま引っ張られるように階段を滑り落ちて一番下で止まった男は、うつ伏せのまま顔から流れ出す血の中に浮かんでいたんだ。直後、ヨウコに呼ばれて弾けるようにその場から逃げ出した。信じられないって顔してるけれど本当なんだ。ヨウコも周りの乗客も男とあたしの事が見えてないみたいに無反応だったけれど冗談抜きであたしは男を殺したんだ」

 カゲミは自分のスマホに表示させた新聞記事を見せてきた。日付はわたし達が高校生の時に発行されたもの。無言で呼んでと促されて内容を確認する。

「確かにカタヌキマサオという男性は死亡している。でも変よ。自宅で心臓発作と書いてあるわ」

 新聞によると、異臭がすると隣人の通報によって発見されたらしく、死後一週間以上経っていた。カタヌキマサオという人の両親は故人で交友関係がなく、勤め先の同僚や上司は、いてもいなくても変わらないと、敢えて無断欠勤を放置していたと記事には書かれている。

「この人は誰にも気づかれず、周りからも不当な扱いを受けていた。とても酷い話だね。でもカゲミが気に止むことはないの。だって自宅で心臓発作ということは病気か事故だったのよ」

「優しいんですね」

「あいつは、殺したあたしのところに現れるようになった」

「カゲミ。その人は亡くなっているの」

「例の駅からあたしを見つけた途端ものすごい速さで近づいて来たから瞼を閉じた。開けるといなくなてホッとした。のに、歩き出した途端、同じ感覚で足音が聞こえるんだ。いるんだよ、顔が削れたあの男が、ヨウコと登下校中もヨウコと授業中もヨウコがあたしの家で遊んでいる時も、食べてるとトイレに行くとシャワーを浴びているとベッドに寝転がるとずっとずっとくっついているんだ。ふふっ。でも耐えた。一緒にいられなくなるのヤダから耐えた。でも、一緒の大学行けないと知って卒業式の日を迎えてヨウコの結婚式に呼ばれて、心折れそうになった。でも迷惑かけたくないから一人で耐えた。縋りたくなくて連絡もしなかった。あたしえらい?」

「偉いよ」

 汗をかいているのに冷たいカゲミの両手を包み込む。

「わたしは無力だけど協力することはできる。解決の手段を一緒に探そう」

「優しいんですね」

カゲミの氷のような手が握り返してくる。

「あたし、ヨウコに伝えたい事があるの」

「何でも言って、親友でしょ」

 カゲミの手の力が強まる。

「ヨウコが好き」

「わたしも同じ気持ち」

「違う。愛してるの」

「それって」

「手を繋いで、キスして、狭いベッドで毛布にくるまって一つになりたいって、あのゲーセンで初めて見た時からずっと想ってた。でもヨウコは愛する人を見つけて手の届かない所へ言ってしまった」

 ギュッとカゲミの指が掌に食い込む。

「お願い。旦那さんの事は愛していて構わない。お腹の子と三人で幸せに暮らして構わない。だからあたしを一人にしないで、愛情の一欠片をあたしにください。お願い」

 カゲミの頬を伝う涙が手の甲に落ちる。その熱さからカゲミの真摯な気持ちが痛いほど伝わってきた。

「あげるよ」

「えっ?」

「愛情、一欠片どころかいっぱい。カイトさんとも相談して四人で幸せになれる道を探そう」

「ありがとうございます」

 カゲミは嗚咽を止める事ができず、感謝の言葉も涙と鼻水まみれ。拭くものを取り出そうとすると、日焼けした両手にガッチリ捕まえられてしまう。

「わたしは逃げないよ。ほら涙を拭いて」

「五人」

「なに?」

「これでやっと五人で幸せになれる」

「わたし達とカゲミ入れて四人でしょ。何を数え間違えて――」

 カゲミの背後にスーツを着た男が立っていた。その人は髪の薄くなった後頭部をこちらに見せている。

「ヨウコ、あたし相談したの。どうしたら幸せになっていいですかって。でも教えてくれなかった。ある日提案したんだ優しい親友なら絶対受け入れてくれるってさ。そしたらね、顔のない男が初めて反応したんだ。こんな風に」

 カゲミは満面の笑顔で首を何度も何度も動かす。こちらを向いた男も同じように頭を振っている。

 どちらも大輪のひまわりのような笑顔で幸せそう。


 *あとがき*

 妻のメモは以上です。最後まで呼んでいただきありがとうございました。僕は今タクシーの中でコレを書いています。落ち着いてからでも良かったのですが、少しでも早く知らせたかったので。

 妻から連絡が来たんです! 産婦人科で入院しているみたいで妻の友人達も一緒にいるそうなんです。それを知って僕は安堵したんですが、ちょっとモヤモヤしています。

 生まれてくる息子の名前を勝手に決めてしまったんです。どんな名前だと思いますか?

 正しいに男と書いて正男マサオって名付けちゃったんですよ。

 この名前、皆さんはどう思いますか?


  

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「親友に会ってくるね」とメッセージを残して妻が消えました 七乃はふと @hahuto

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