Sect.8:記憶と香り

 目の前に横たわる四角い土の跡は彼らが命がけで追い求めた真実の最後の核心が肉を抉り取られたように抜き去られた、虚ろな空洞だった。

 真夏の雨上がりのように湿り気を帯びた土は希望が奪われたことによる冷酷で重い虚無感をそのまま反映しているようだった。

「誰か...先に…でも予定日はまだ先のはずなのに…」

 鈴が絞り出すように呟いた声は冷たい空気に吸い込まれ、絶望の音になって消えた。

聡志の顔からはいつもの完璧な仮面がガラスのように粉々に砕け散っていた。

 彼の瞳は暗い井戸の底のように光を失い無防備な絶望を晒している。弟・悠真との誰にも触れさせたくなかった過去の核心が彼の目の前で永遠に失われた。

 聡志は両の拳を固く握りしめ、掘り起こされた土の断面を自身の人生の亀裂を焼き付けるように見つめた。

 しかし、鈴は動かなかった。彼女は地面にひざまずき、掘り起こされた土の山におそるおそる指先を伸ばした。土の冷たさが指先から手のひらへと鈍い痛みを伴って伝わる。

「瀬尾さん!これ!」

 その冷たい塊にはまだ真実の微かな熱が残っているかもしれない。

 彼女の鋭い視線が埋設穴の縁土の底深くにかすかな色彩の断片を捉えた。

 土の重みに押し潰され、ほとんど土と同化していた古い布の切れ端だ。

 鈴は息を詰めてその布を拾い上げた。土埃を払い、太陽の光にかざすとそれは何の変哲もない褪せた花柄の模様が織り込まれた布だった。

 それはただ冷たく湿った土と長い沈黙の匂いしか持っていなかった。だが彼女がそれを握りしめ、何十年もの時が刻まれた布のざらついた質感を脳裏に焼き付けようとしたその瞬間 -。

 彼女の意識の奥深くの固く閉ざされた扉が音を立てて弾け飛んだ。

 甘く懐かしい花の香りが激しい光の奔流のように意識に炸裂した。

 それは鼻から吸い込んだ香りではない。嗅覚を通り越し、記憶と結びついた。現実的な感覚の津波だった。

 一瞬にして彼女の脳裏に日当たりの良い縁側の光景が高解像度の映像のように蘇る。幼い鈴がその布と同じ花柄のワンピースを着ている。

 それは祖母が着ていた服と同じ物が欲しいと駄々をこねた結果、祖母が夜なべして鈴の身丈に合わせて丁寧に繕い直してくれた大切な一着だった。

 同時にその時、祖母が口ずさんでいたメロディーが記憶と結びつき、初めて完成した音として鈴の心の中で涙腺を刺激し、愛おしい旋律となって響き渡った。

 鈴は全身を震わせながら、その布を聡志に差し出した。布は土と埃にまみれ、現実には一切の匂いを放たない。

 聡志は一瞬、布を受け取るまいと顔を背けた。その“何も匂わない”布が彼にとって最も触れたくない弟・悠真との記憶を強引に呼び起こすことを知っていたからだ。しかし、この布が鈴の最も個人的な過去とも繋がっていることを直感し、彼は意を決した。

 そして、差し出された鈴の手からその”無臭の真実”をゆっくりと受け取った。

 彼が布を握りしめ、その冷たい質感を指先に感じた瞬間、彼の硬く閉ざされていた瞳が一気に爆発するように揺らいだ。

 彼にもまた、同じ記憶の幻影が鮮明に蘇る。それは弟の悠真がこの公園の片隅で泣きそうな顔で破ってしまったワンピースの切れ端を土の中に押し込めている姿だった。弟は「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さな声で呟いていた。


「…この布は弟の悠真が...誰にも言えなかった罪滅ぼしのためにカプセルに入れたがっていたものだ」

 聡志の喉から絞り出された声は、二十年近い 時を経ても変わらない、愛しい弟の声だった。

 布とその幻の香りに込められたメッセージは真実が盗まれたという落胆を打ち消し、二人の魂を肉体を超えた深い場所で結びつけた。

 鈴にとってメロディーはこれまで“理想の自分を演じるための夢想”に過ぎなかった。

 しかし今、そのメロディーが布切れと聡志の記憶という“現実”と完全に合致した。

 彼女のトラウマを解放するメロディーの完成と聡志の過去の核心が一本の運命の糸で編み上げられた非現実的でありながら真実の神聖で痛ましい瞬間だった。

 冷たい土の匂いだけが再び現実を包み込んだ。二人は静かに布切れを広げ、その褪せた花柄を二人の人生の設計図のように見つめた。

「...この布は、私が父との軋轢が原因で一時、祖母の家で過ごした時の証でした」

 鈴は土に手を置きながら絞り出すように語り始めた。

 彼女の唇からこぼれる言葉は冷たい石の床に落ちる雫のように重く響いた。

「その時、私はこの公園で...聡志さんと悠真さんに会っているんです。覚えていますか?音楽を聴くのが大好きな、明るい男の子たち...」

 聡志は自らの人生の全ての辻褄が音を立てて合致したのを感じた。

 「そして、あのメロディー...」鈴は震える声を絞り出した。

「あの曲は祖母が私たち三人がまた安心して遊べるようにって、未来への約束として作ってくれた曲なんです」

 「...そうか」

 聡志の声は嗚咽すれすれだった。

「悠真は兄である私の代わりにこのメロディーを君に、そして私たちに届けるためにこの布を埋めたんだ...。過去の断絶を繕おうとして」

 楽譜の謎はここで完全に解けた。それは光から聡志と幼い日の友人、鈴へ贈られた愛と再会を願う歌だった。しかしそのメッセージは誰かに奪われたまま。


 二人は喫茶店に戻り温かい珈琲の濃密な苦味で身体に染み付いた土の冷たさを拭い去った。

 聡志は老画家から受け取った公園の写真の裏を荒々しくひっくり返した。

「この写真...よく見ると薄くイニシャルようなものが」

 写真の隅に鉛筆で小さく書かれたアルファベットのイニシャルがあった。それは老画家の名前ではない。

“I.M.”

「溝口さんの祖母さんのイニシャル...」

 鈴は息を飲んだ。逆に聡志の声は固い岩のように重かった。

「祖母は若い頃、音楽の先生をしていたと聞いています。この“I.M.”その時、使っていたもの…?でも父方の祖母なので“M”は溝口と読んだとして“I”は一体…」

 恐らく、老画家は聡志の家族と鈴の祖母の両方と繋がりを持ち、三人の幼少期の真実の全てを知っていたのだろう。彼は全てを隠しながら二人が真実の場所(公園)へ辿り着くよう誘導したのだ。

 謎はついに一人の人物に収束した。

 二人は老画家のアトリエの住所を調べ、夜の帳が降りた街を一つの影のように突き進んだ。

 アトリエの大きな木製の扉は重く分厚い秘密を抱えているようだった。

 扉の隙間からはわずかにオレンジ色の光が漏れていた。その光はまるで鈴たちを誘う餌のように見えた。

 聡志の指先が冷たい扉のノブに触れる寸前、鈴はそっと彼の震える手の上に自分の温かい手を重ねた。

「大丈夫。私たちが真実を掴む」

 聡志は一人の人間として過去と対峙する決意を固め、真実を知るための扉を開ける。その先に私たちの運命の答えがあると信じて。


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