Sect.7:封印とタイムカプセル
数日後、鈴と聡志が降り立ったのは都心から電車を乗り継いだ古びた地域の駅だった。
駅を出た瞬間、都会の喧騒とは隔絶された湿った土と古い木の葉の匂いが二人の鼻腔を満たした。
聡志は相変わらず無表情で完璧なマスターの仮面を被ってはいたがその瞳の奥には長年封印してきた過去の場所へと向かう鉛のように重い焦燥が見て取れた。
老画家のヒントを元に二人は都内を巡り、老画家から渡された写真の背景にあるわずかなディテールを辿りながらついに目的地にたどり着いた。
「...ここだ」
聡志が老画家の写真に写る石造りの階段とその先に広がる苔むした広場を指さし、静かに呟いた。
彼の声はまるで何十年も前の記憶が彼の口を通して語っているかのように深みと湿度を帯びていた。
「この公園...」
鈴もまた、その風景を見た瞬間、心臓が冷たく締め付けられるのを感じた。
その冷たさは単なる懐かしさではない。
その古びた石段、錆びたブランコ、そして広場を取り囲む大木から発せられる湿った土の匂い。
全てが彼女の幼い頃の記憶の奥底に朧げな幻影として確実に存在していた。
そしてその幻影はまるで誰かの“許されない悲しみ”と、それが裏返った“激しい憎悪”の念がこの場所に焼き付いているかのような非合理的な感情のノイズを伴っていた。
彼女の論理的な頭脳はすぐにそれを“錯覚だ”と否定したが夢想家としての勘はこのタイムカプセルを奪った人間が単なる泥棒ではないことを鋭く告げていた。
広場の端に公園の管理棟があった。その壁には褪せた文字で書かれた古びた案内板が貼られていた。
そのタイトルに、二人は同時に目を留める。
“未来へ届ける、子どもたちの夢。タイムカプセル埋設地”
しかし、その案内板の下の芝生には明らかに最近掘り起こされたような土の跡が残されていた。
カプセルは既にそこにはなかった。
「誰か...先に…でも予定日はまだ先のはずなのに…」
鈴の声は震えていた。二人の顔に新たな謎と真実が奪われたことへの激しい焦燥が同時に広がった。
― なぜ、我々はここにいるのか?
鈴の頭の中で昨日、喫茶店で起きた出来事が濃密なコーヒーの香りとともに、鮮やかに再生され始めた。
先日、鈴が去った後「時の雫」の店内は濃密なコーヒーの香りが支配するはずなのに、まるで透明な氷の塊に閉じ込められたかのような重い静寂に包まれた。
聡志はカウンターの上をぼんやりと見つめる。そこには鋭利な刃物で抉られた痕を無残に晒した古い写真が彼の人生の決定的な亀裂を象徴するように置かれていた。
「…聡志くん」
窓際の席から老画家が静かに声をかけた。その声は深海の底から響くように静かで聡志はまるで魔法が解けたかのようにはっと我に返り顔を上げた。
老画家はスケッチブックを丁寧に閉じ、席を立ち上がった。
「失礼なことを尋ねますが、お嬢さん…彼女は、あの写真が何故、無残な姿をしてるのか尋ねたかったのでしょうか?」
硬く閉じた唇をわずかに震わせるだけで聡志は答えなかった。
老画家は聡志の動揺を責めることなく、静かにポケットからもう一枚の、やや色褪せた写真を取り出した。
それは公園の石段の前で幼い聡志と弟の悠真が笑っている、ごく普通の家族写真のようだった。
「これは私が肖像画の参考にした時、君のご両親から預かったものです。あの切り取られた写真が君にとって苦痛な場所を写しているわけではない。しかし、この写真に写っている場所は君の過去の核心に通じている」
老画家は写真の場所ではなく、写真の写る人間たちの場所を静かに告げた。
「あの公園にはね、二十年近く前、子どもたちの夢を繋ぐということで、タイムカプセルを埋めた場所でもあったはずですよ」
老画家の言葉に、聡志の顔色がさらに失せた。彼の目つきが激しい衝撃と混乱で揺れ動く。
老画家は聡志の肩越しに誰もいない店内の奥、そして店の外へと視線を送った。
「そして、そのタイムカプセルの開封時期はたしか今年だったはず。あるいはもう誰かが掘り起こし始めているかもしれない。君と悠真くんが…そして、たしかお孫さんと来ていたご家族も参加していたと、記憶しているのですがね」
老画家が告げた“今年の開封”“もう誰かが掘り起こしているかもしれない”という言葉は静謐な喫茶店内に時限爆弾が起動したかのような強烈なプレッシャーを与えた。
聡志の全身から血の気が失せ、彼はカウンターに置かれた写真に力任せに指を突き立てた。
彼の顔は、弟・悠真が埋めたかもしれない最後の真実が今まさに彼の手の届かない誰かに奪われようとしているという純粋な恐怖で歪んだ。
老画家はそれ以上は何も言わず、その写真だけをそっとカウンターに置き深い会釈を残して店を出て行った。
その背中が扉の向こうに消えた後も聡志の脳裏には“タイムカプセル”“今年の開封”という言葉が古時計の振り子のようにしつこく響き続けた。
彼は一人残された店内で切り取られた写真(トラウマ)と公園の写真(ヒント)、そして頭の中で響く“タイムカプセル”という言葉を交互に見つめた。
弟・悠真の存在が楽譜、写真、そしてこの過去の場所へと今すぐ、動かなければならない。彼は決意を固めた。
彼は意を決し、カウンターの奥から布巾を取り出し、写真とカウンターの壁を丁寧に拭き清めた。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、鈴に連絡を取った。二週間という時間がかかってしまったが彼の指先は文字を打つたびに微かに熱を帯びていた。
鈴は頭の中の回想を終え、目の前の光景に焦点を戻した。
二人の顔に新たな謎と真実が奪われたことへの激しい焦燥が同時に広がった。
聡志はその四角い土の跡をまるで自分の人生の土台が崩れたかのように見つめていた。
カプセルには弟の悠真が最後に兄に宛てたメッセージが秘密のまま埋められていたかもしれない。それを何者かが掘り起こした。
「掘り起こしたのが誰か、それを探す」
聡志の低い声は命令のように響いた。彼は初めてマスターの仮面を脱ぎ捨て、真実を追う決意を固め、一人の人間として鈴と向き合っていた。
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