晩方横丁

@Sokawa

第1話

「さあさァ! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃいィ! さァて、お立ち会い。御用とお急ぎでない方はゆっくり聞いておいで、見ておいでェ!」

 限界まで肺に息を、腹に力を入れる。俺は赤いメガホンめがけて最大限に声を響かせた。気分は太鼓だ。皮から一音を響かせるのがプロ。ズンと重い言葉に抑揚とリズムに乗せて、人を引き込む。

「さて、ここにおはする皆々様! 手前取り出したるはこの肴で御座います。ピリッとくる辛さがウチの苦いうまい酒によォく合うことで。手前、早くて安くてうまいが売りの商売であります。カミさんが噴火することも御座いません」

 俺は演者ぶって身振り手振りを大きく見せた。口角を上げて、耳触りの良い口上を言い上げる。

 しかし、努力も虚しく、渾身の力で鳴らした音は行き交う群衆の中に消えた。多数のよどんだ瞳は俺に目もくれず通り過ぎていった。

 ちょうど帰宅ラッシュの時間帯。くたびれたスーツ群のなかに、俺の声で足を止める好事家はいなかった。

 チッ、と心の中で舌打ちする。だからこの時間は嫌いなんだ。

 居酒屋が立ち並ぶ繁華街。

 酒を求める空気は脂っぽい濃度を上げ、ポツポツと灯るだけだった店のライトが四方八方でうるさく個性を主張し始める。馬鹿のひとつ覚えのように押し寄せる人の群れは狭い道路に容赦なく入り込んだ。おかげで窒息寸前だ。

 それでいてスーツどもはつくり笑顔で固めた野郎は置いて、ゴテゴテに着飾った女の店に雁首揃えて行く。

 俺は人より高身だから周りの視界によく入るが、大体の奴は俺よりも、ちっちゃく可愛い綺麗な看板娘に目を奪われた。

 これで収入がいくら減ったことか。完全ノルマ制のバイトを選んだ自分を恨む。時給はよかった。職種も、まあ不満はなかった。ただ、俺に回されたのが呼び込みだったのが計算違いだった。

 『君、背高いねえ。何かスポーツやってたの』なんて言葉に正直に答えるな。もし過去に戻れるなら、面接は嘘吐いてなんぼの世界だと、過去の自分に右ストレートを打ち込む。

 半年前から始めたこの仕事で、女は誘蛾灯になりうるのを知った。人とはずいぶん単純なものだ。別に女、男を否定したいわけじゃないが、悪態も吐きたくなる。

 しかしだ。あと二時間も立てば、皆ほろ酔い。酒が入ってさぞかし興がのっているだろう。そういう奴ほど扱いやすい。男も女もどうでもいい。その場のノリと勢いが全てになる。徐々に堕ちていくそいつらを完璧な仮面の下であざけ笑うのは悪くない。

「おい、おじさん。僕に缶詰をよこせ」

 場に似合わない幼い声がした。気になりはするが、金の方が重要だ。バイトに集中するべしと判断し、メガホンを構える。

「おい! 聞いてんのかよ! なあおいってば! ……おっさん!」

「今誰をおっさんつったか」

 反射的に声が出てしまった。

「なんだよ聞こえてんじゃん。一回で返事しろよな。おっさ……痛い痛い痛い!」

 俺は腰ほどの身長もない位置にある丸い頭をぐりぐり押さえつけた。悲鳴を上げているが知ったことではない。

「おっさ……おじさ……痛ぁ! 痛いって! 分かったよ、お兄さん!」

 涙声になり始めたのでさすがに手を離した。子どもは押さえつけていた部分を両手で覆う。痛みが和らぐのを待っているようだった。

「ひでぇよ、ほんとに……僕も悪かったけどさぁ。子ども相手にすることかよ」

 足元にしゃがみ込んだ子どもはぶつくさ愚痴を吐く。小声だったので聞こえないと思ったんだろう。あいにく、俺は耳がよかった。

「どこを取ってもお前が悪い。あと俺はまだ二十代だ」

「うっわなんで聞こえんだよ……こわぁ。だって二十代はおっさんだろ。成人してるヤツはみんなおじさんって言うんじゃないのか」

「それ言ったら世の中の大人は全員おじさんになるだろ。おじさんは少なくとも三十超えてからだ。二十代の俺のことは『お兄さん』と呼べ。あと、間違っても女の人におばさんとは言うなよ。俺より酷い目に遭うぞ」

「はぁい」と子どもは生返事をした。分かってないな、こいつ。おば、と言いかけた時の視線の冷たさ。花のような女からは痛々しい棘を刺される。

 子どもは顔を上げて、俺と目を合わせた。幼い顔立ちは、俺が今日初めてまともに見た顔だった。そして、こいつやっぱ子どもだ、と確信する。まぶたのたるみとか肌の荒れとかが浮き出る中年より、よっぽど清潔だった。丸みのある輪郭とふっくらした頬。視線は子どもらしく無遠慮だ。

 最近の子どもの成長は早いとどこかで耳にした。俺はひとりっ子で親戚に年下もいなかったので真偽は確かではない。しかし、いくら成長が早かろうと明らかにこの子どもは小学生だった。

「なあお前。缶詰がどうとか言ってたよな。お前みたいな若い、いや、それよか子どもつった方がいいか。で、なんで子どもがここに来た」

 俺は横にしゃがみ込んで尋ねた。どこかの店の連れかと思ったが、それは違うと頭を振る。なんというか、雰囲気が違う。こいつには日陰の奴が纏う、妙な妖しさも甘ったるさもない。陽が当たる道を歩く人間の匂いがした。

 奴は道路で砂いじりをしている。夜から逃れるように輝く暖色の光が子どもの背中に被っていた。

「そりゃもちろん。缶詰がほしいからに決まってんだ」

 子どもは尻ポケットを漁ると「おら、どうだ」とピカピカに磨かれた五百円硬貨を取り出した。

「きれいだろ。これで缶詰買ってくんだ。食わせてやりたいヤツがいるからな、他より一等うまいがいい。ってことでお兄さんよろしく頼むぜ!」

 本当に自信たっぷり笑うので、どう返答するか迷った。よろしくと言ったって、俺は缶詰の販売員じゃない。というか保存食なんだから良し悪しはないだろ。俺は「あー……」と濁った声を絞り出して続けた。

「期待されてるとこ悪いが、俺は缶詰売ってるわけじゃないし、それほど詳しくもない。他を当たってくれ」

「はあ!? ウソ言うんじゃねえよ。お前いつもこの辺で売り捌いてるだろ。狸ジジイの口車に乗せられて買いすぎちまって、売れねえと大変だって近所じゃもっぱらの噂だ。それに口上だって聞こえた!」

 真っ赤になって子どもは俺に噛みつく。だが全く身に覚えがない。

「ずいぶん可哀想な奴だな。だけど俺じゃない。俺は半年前からここの居酒屋で働き始めたんだよ」

 親指を立てて後ろの看板を指した。パキッとした色で目立つことだけを考えた広告だ。

「でも口上が!」

「それは俺が店に客を呼び込むための口上だ。缶詰を売るためじゃない。だいたい缶詰なんか、今どきどこでも買えるだろ」

「そんな……」

 子どもは眉を下げて、唇を歪めた。この世の終わりだというようだ。缶詰ごときで大げさな。

 だが、小さな背中を丸めてうつむいているのを見るとなんとなく罪悪感が生まれる。さすがに大人げなかったか。

「まあそんな気に病むなよ。また機会は」

 あるだろ。そう慰める前にこいつは走り出した。

「っおい!」

 手を取ろうとしたが、かすめて取り損ねた。そしてそのまま雑踏のなかに入る。

 波に引き寄せられるように静かにあいつは消えた。

 ポツリ残された俺はどうしようか迷った。

 もともと一方的に話しかけられただけで、俺は何の思い入れもない。それに結局あいつの勘違いだった。俺が動く理由はない。 

 ざわざわと街は揺れ動く。酒が足りないだの、あの人とどうなっただの、大人たちの狂騒が支配を始める。ポツポツ発生する喧嘩もどんちゃん騒ぎもご愛嬌。長く勤めれば勤めるだけ、その感覚は身になじむとは先輩の言葉だ。

 冷血だと思われるだろうが、俺も仕事がある。俺は立ち上がり砂を払うと、もう一度メガホンを構えた。ひとつの生物のようにうごめく人波を目指して、深く息を吸う。

 一言を発そうとした時、あいつのことが頭をよぎった。初め、俺はあいつを見下ろしていた。後頭部しか見えなかった。その後は隣で横顔を。そして最後、俺はあいつを捕まえるために顔を上げた。

 その顔は、あいつは、どんな表情をしていた。

 チッと強く舌打ちを打った。俺はジャケットを脱いで地面を蹴り、うごめく波へ入っていった。

 大人の間をスルスル抜けられるあいつと違って、俺はドシドシぶつかる。すみませんすみません、と何度も謝りながら人よりずっと低い身長を探す。

「おいお前! そこのチビ! 止まれ!」

 自分でも思っていた以上に低い声が出た。振り向いたあいつはギョッと目を丸くさせて、さらに逃げようと走る。

 俺は人をかき分けて足を進める。今だけはこの身長が憎い。低身長をいじった高校の同級生には今度謝罪しよう。

「あークッソ!」

 なんとかあいつの後頭部は見えるようになった。よしこのまま、と俺は腕を伸ばす。すばしっこいこいつは、俺の腕をひょいひょい避けていく。

 なので、少し騙し討ちすることにした。さっきは恨んだ身長だが、その分俺は周囲の様子を見渡しやすい。つまり、大体の人の流れが分かる。チビのあいつには絶対にできないことだ。

 見たところ、俺とあいつの進行方向と逆の流れができてるのは左側だ。俺はあいつに向けた攻めを右側に集中させ、自分自身も徐々に右斜め後ろにくるよう調節する。

 するとこいつはまんまと引っかかる。段々と左側へ寄り始めた。俺は内心ほくそ笑んだ。

 逃げ道を失ったあいつにもう選択肢はない。

 身動きの取れなくなったあいつの細い腕を、俺はがっちりと掴んだ。

 なんだか、ひと仕事やり遂げたような達成感があった。気を抜かず首根っこを掴んで、裏路地に連れて行く。逃げられないように注意が必要だ。

「悪巧みの年季が違うな、チビ」 

「うるせえよ! クソっ離せ! このナス野郎!」

 眉間にしわを寄せて、俺をにらみつける。薄暗いなかで大通りの光を反射した目は、より一層目立つ。こいつ意外と目は鋭いんだな、と他人事のように思った。キャンキャン吠える犬はその裏に虚勢が透けて見えるので怖くも何ともない。だが、ナスってなんだ。

「ああもう! お前なんで来たんだよ!」

「そりゃあ」

 そりゃあ、なんだろう。答えようとして言葉に詰まった。俺は子どもが好きな部類じゃない。むしろ嫌いだ。今回のことだって、俺の常識じゃ放っておくのが当然だ。

 今日の俺は変だ。得体の知れない何かに出会った。腹の底の内側をやさしく撫でられているような居心地の悪さ。背骨がぞわぞわする感覚に似ているかもしれない。それとも鳥肌になれない曖昧な震えが体にまわっていくような感じだろうか。

「なんだよ、黙るんじゃねえよ!」

「……まあ理由なんてそんな重要なことじゃない。おら行くぞ」

 見た目のわりに重量のあるこいつを引っ張って、路地を通り、裏通りのほうへ歩く。人気も少なく、月明かりさえ届かない。提灯のように飾られた赤い光が、真っ暗の道の案内人だ。大通りが祭り一番の盛り上がり真っ最中なら、この裏通りは花火の後の静けさのなかか。

「おい、どこに連れてこうってんだ!」

「俺の職場に決まってんだろう」

 こいつを連れ戻すために、無断で抜け出した。店の奴にばれてないといいが、それは難しいだろう。腕時計をみると、短針がすでにひとまわりしていた。

 しかも仕事に戻ろうにも、ジャケットは人混みをかき分けた時クシャクシャになった。これじゃ人前には出られない。たしか、ロッカーにもう一セットあったか。

 俺は無意識にぼやいていたのか、さっきまで暴れていたこいつは嘘みたいに静かになった。こいつなりに悪くは思ってるらしい。その代わり、腕をつねられるようになったが。

 その姿は、水を被って毛並みがぺたりと張り付いた獣のようで、よく笑えた。


§ § §


「なあ! にいちゃんに聞いたんだけど、ドリアン好きって本当なのか!?」

 俺がロッカールームで着替えていると、騒がしく扉を開けられた。こいつの声は人へ響く。わざわざ張り上げなくても聞こえるんだから、もうちょっと音量を制限しろ。

「ああ、そうだ。ったく、あの坊ちゃんはまた余計なことを」

 ネクタイを締めて振り向く。汚れた服から小綺麗な格好になったこいつは俺をじろじろ観察するので、俺は早々に自分の選択を後悔し始めていた。

「だってドリアンってあれだろ。南国のフルーツで、臭いが尋常とは思えないっていう。売ってるの見たことあっけど、そこだけ異様に人が避けてたぞ。ほぼ生ゴミだろ、あれ」とこいつは俺を珍妙なものとして見る。

 この視線は嫌いだ。俺は珍味は好きだが、自分が道化になるのはゴメンだった。俺はただ好きなものが好きなだけだ。

 この話題になると、お前はあからさまに機嫌が悪くなると人に言われた。ドリアンが好きだと言うと、人は驚き、変わってると口々に言う。そのことをうっとうしく思っていたのは確かだが、顔に出ているとは考えなかった。

 その日から俺は好きなものを言うことをやめた。だが、それ以前に伝えた奴はいるわけで、俺が嫌がるのを分かって人に言う奴もなかにはいた。

「そうですよね。本当に、なかなか珍しい、おもしろいお方だと思いませんか」

 あいつの後ろに立った小柄な男。俺と同じジャケットを着て、幼さが残った仏頂面はなぜか子どもによくウケる。

「そうかぁ? たしかに近所の悪餓鬼には懐かれそうな感じはするけど」

 お前も悪餓鬼じゃないのかと言いたくなった。あいつは首をかしげて、微妙な表情だ。

「はい。それが先輩ですから。あっ、こんな話はどうです? この前、駐車場の自販機で」

「本人の前でよく好き勝手言えるな、お前ら」

 俺は腕を組み、ぐっと怒りを呑み込んで収めた。

「先輩の素晴らしさを伝えようとしたまでですよ。もちろん僕が知っている範囲で、ですが」

「いらない世話焼くなよ」

 近くまで寄って、軽く肘でこづく。痛いです、と無表情に抗議の声があがる。一ミリたりとも表情が動かないんだから、面白くない。本当に可愛くない後輩だ。

 こういう態度で、それでいて女子どもに好かれる物腰の柔らかさがあるのが、お坊ちゃんみたいだと言われる要因だろう。

「それで、こいつの世話は大丈夫だったか」

「もちろん。着ていた服はとりあえず裏手のコインランドリーでまわしているので、あと一時間ほど経てばちょうどいいくらいだと思いますよ」

 遡ること三十分。俺はあいつを連れて、自分のバイト先に戻った。幸いなことにオーナーは出張中でいなかったようで、俺がバイトをバックれたことは露見していなかった。

 その後店の従業員に気づかれないように早退連絡を済ませた。冷静に考えて仕事にこいつを連れて行くのは難しい。そして、必要なものを取るためにロッカールームへ入った。その時だった。思わぬ誤算があったのは。

『先輩、僕が今日A地点担当するので先輩はC地点で……先輩って子どもいましたっけ』

 この後輩が、普通にいた。このロッカールームは俺を含めた客引き担当の奴が主に使う。開店してかなり時間が経っていたから、すでに無人かと思い、気を抜いていた。

 久しぶりに冷や汗をかいた。だが見つかったものは仕方ない。うまい言い訳も思いつかなかった。なら、引き込んでしまえと俺は悪魔的な発想をした。

 改めて考えると、俺の行いはグレーゾーンだ。見知らぬ子どもを連れて帰った。誘拐である。言ってしまえば、こいつがもし俺のことを全面的に悪としたなら、警察沙汰になる可能性があった。

 俺は警察の厄介にはなりたくない。そんなのはテレビで流れるドキュメンタリのなかだけで十分だ。

 俺は口八丁に後輩を言いくるめ、後輩にこいつの支度を任せた。そしてその間に俺は俺の準備をしていた。

 それにしても、子どもにワイシャツとネクタイ、あとサスペンダーはやりすぎたと思う。

 人工の電気がパチパチと光り、一瞬暗くなった。

「分かった。ちょっと、いやかなり癪だが、ありがとな」

「感謝の言葉だけだったら、素直に受け取れるんですけどね」

「へえ?」

 そっぽを向いたこの後輩はその実照れてる。最近分かったが、無反応である表情筋より耳のほうがものを言う。今もほんのり赤く染まっていた。

「にいちゃん、大丈夫?」

 様子のおかしい後輩に、よく懐いている子どもの心配の声。俺からのからかいまじりの視線に耐えられなくなった後輩は軽く咳払いする。

「まあ何はともあれ、今日はオーナーがいない日で助かりました。あの人がいたら僕もここまで自由に動けなかったでしょうし」

「そのオーナー? って何なんだ?」

 無邪気な子どもの問いに、後輩はしゃがみ込んだ。人差し指を立てて、教師のように後輩は答える。

「そうですね。君はサッカーや野球をしたことがありますか?」

「うん、あるぞ! 学校でもやったし、僕は地域のクラブにも入ってるんだ」あいつは胸を張って答えた。

「それはいいですね。では君がクラブで実際にプレイについて教わるのは、監督ですよね。この監督はいわゆる店長という役割です。そしてオーナーというのは君が所属しているクラブ自体を持っている人のことです」

「んん? どういうことだ?」

「君がスポーツをやるためには、道具を買ったり色々お金がかかってしまいます。それと同じように、クラブを運営するのにはお金がかかるんです。このお金を払ってくれるのがオーナーなんですよ」

「へえ、なんか難しいな」

「大きくなったらいずれ、もっとよく分かるようになりますよ」と言って後輩はあいつの頭を撫でた。教師と生徒とは思ったが、年の離れた兄弟のようにも見えてくる。

 目をつぶって撫でられていたあいつは満足すると、もう一度後輩に訊ねた。

「なあなあ、そのオーナーってどんなやつなんだ? かっこいいのか? それともかわいいのか?」

 質問を聞いて、俺と後輩は顔を見合わせた。

「あれはかっこいいんでしょうか……」

 唇を指でつまんだ後輩は、いかにも悩んでいる。

「さあ……俺も分かんねえよ。あの人性別もどっちつかずっていうか、性別オーナーだろう?」

 対する俺もセットした髪じゃなかったら、ぐしゃぐしゃになるまで頭を掻いただろう。

 俺が勤める居酒屋は洋と和をたして割ったような、従来の日本的な雰囲気はあまりない。老舗とまではいかないが、代々長くやってるらしいこの店は現オーナーの趣味が多分に出ている。

「まあ多分かっこいいだろ、うん。変人なのは確かだろうけどな」

「それはそうですね。金髪に染めてピンクの虎柄パーカー着て来ても、あの人立ち振る舞いは完璧ですし」

 後輩も同意を示したし、それでいいだろう。あいつはよく分からなかったらしく、頭にはてなマークが浮かんでいる。あの人は実際に会ってみないと、人柄が分からない。

 言うなら、あの人はガラパゴス諸島の生物だ。普段見ることのない、未知の生命。そんなところだ。

「それでだが、頼んでたものはあったか?」

「ランドリーのついでに、買ってきましたよ」

「助かる」

 差し出されたコンビニ袋を受け取る。頼んでいたものがものだから、重さは覚悟していたが想像以上に重い。持ち手が指に食いこむ。どうせ開けるのに立っているのも面倒なので、俺は床へ座った。フローキングの床は硬く、意外とひんやりしている。

「何だ? それ」

 あいつは興味津々に駆け寄ってきた。

「お前が欲しがってたもんだよ」

「本当か!?」

 嬉しそうにあいつは袋を覗きこみ、俺が袋を開けるのを待つ。誕生日プレゼントを開ける瞬間みたいに目を輝かせているこいつを見ると、なぜか俺も浮ついた気分になった。

「先輩、早く見せてあげていいんじゃないですか?」

「……ああ、そうだな」

 後輩の呼びかけに促される。俺は手が止まっていた。なんか、こう、うまく言い表せないが、あいつを追いかけた理由を考えた時と同じく、虫の居所が悪い。

 しかし、こいつをいつまでも待たせるわけにはいかない。俺は袋を開けて、ひとつずつ取り出した。

 あいつのキラキラとまんまるにしていた眼はひとつ取り出すごとに落胆に変わる。

 中身はなくなり、風船を掴んだように袋はぷわぷわ浮かぶ。

「これじゃねえ」

 あいつは手をだらりと伸ばし、あぐらをかいて俺の隣に座った。しかめっ面をして、足をバタつかせる。いかにもな機嫌の転落具合だった。

「お前、何が違うって言うんだ?」

 俺は赤ん坊のようにグズりそうなこいつを刺激しないように話しかけた。

「全部違う! 缶の形も色も入ってるものも違う! 僕はこの店の近くで売ってる缶詰が欲しいんだよ!」

 こいつはダンっと床を叩く。振動が床を伝わり、俺も僅かに揺れる。暗雲立ち込むようにロッカールームの空気は重く澱んでいく。

「ちょっと待ってください。君が欲しい缶詰はこの近くで売っているものなんですか」

 あいつの放つピリピリした空気に臆せず、後輩は言葉を発する。

「ああ、そうだよ」と苛ついた様子であいつは答える。

「おかしいですね。先輩は僕とシフトが被らない日があります。僕は週三、先輩は週五。僕と先輩が被るのは週一回だけなので僕たちのどちらかは絶対にここにいるはずなんです。ですが、僕はその販売を見たことがない。先輩もそうですよね」

 俺はうなずく。俺は半年前、後輩はその一ヶ月後に入ってきた。五ヶ月もの間、一度も販売員は見たことがない。

「それに、販売をしている方は必ず口上をあげると聞きました。しかし、このご時世にそれをする変わり者はウチの客引きくらいです、特にこの街では。スーツ姿以外の口上師がいれば、必ず噂になって耳に入るでしょうし」

「にいちゃんは僕のことホラ吹きだって言うのかよ!」

「違います。これは推測ですが、場所を間違えた可能性はありませんか? 夜の道は迷いやすい。」 

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