消えた隣人
河村 恵
4階の灯り
日曜の夕方だった。
コンビニの袋を手に、俺は帰るところだった。
商店街を抜けたところの空が、茜色に金を混ぜたような色を広げている。
昔、この夕焼けを誰かと一緒に見たような気がするが、思い出せない。
電車が発車する音が聞こえ、駅の階段からおりてくる人々。目の前のカップルがノロノロと歩く。横を見ると、見覚えのある男がいた。
たしか大学で一緒だったやつだ。
大学ではチャラかったが、髪を黒くして、濃いグレーのシャツをきて、いっぱしの大人になって歩いていた。
何の接点があったのか覚えていないが、飲み会で陽気に絡んでくる人懐っこいやつだった。
俺は彼から目を逸らした。
「よっ」と声をかけてきたのは、あの頃と同じ笑顔だった。
イヤホンを外しながら、彼の顔を見た。
「ああ、えっと、平岡?」
「おう、吉川久だよな。ひさしぶりだな。この辺住んでるの?」
コンビニの袋を一瞥したのがわかった。
「今、何やってんの?」
左手には銀色の指輪がはまっていた。
「通信系。新卒からずっとそこ。平岡は?」
「役所の住民課」
平岡がまじめに働いているのがつまらなかった。
近況報告が終わると、沈黙が続いた。
「じゃ、俺こっちだから」
やっと一人になれると思ったが、平岡も「俺もこっちだ、奇遇だな」とニヒルな笑顔をうっすらと浮かべた。
「そういやあ、うちの向かいのグレーのマンションで、妙な噂聞いたんだけど」
「それってうちかな」
「じゃあ知ってるだろ?住民が行方不明になってるって」
「ああ、うちの隣の人なんだよ、気味が悪いよな」
平岡の目が見開かれ、瞳孔がみるみる開いていく。
「知ってるんだ、その噂」
平岡の額には汗の粒が見えた。
「おい、どうしたんだよ。…あれ?あそこにいるのは」
正面から歩いてくる女性は隣人だった。
「見つかったのか、よかった。あの人なんだよ、行方不明になっていたのは。ちょっと挨拶してくる」
「よせよ、いいか、よく聞け。マル秘情報だが、お前だから教える。失踪しているのは4階に住む一人暮らしの男性で、30歳。左顎に特徴的なほくろがある。笑うと片方だけエクボができて、隣人はずっと空き部屋なのに隣には女性が住んでいると思い込んでいる。名前は吉川」
「それって、俺のことかよ」
平岡がゆっくりと頷いた。
「俺は失踪なんかしていない。ここにいる。いるよな?お前にはあそこにいる女が見えないのか?」
平岡の顔がみるみる青白くなり、額の汗がほおを伝っておちていく。
「まさか、まさか」と小さく呟きながら、小刻みに震えていた。そして、平岡を見て首を横に振った。
「だれも…いないよ。お前いったいどうしたんだよ。警察一緒に行ってやるよ」
平岡が俺の肩をつかもうとしてすり抜けた。平岡はそのまま凍りついた。
「吉川、お前まさか」
俺も平岡の腕を触ろうしたが触れない。
その瞬間全てが繋がった。人に声をかけても振り返ってもらえない。そして、記憶も曖昧なことが多いことに今更ながら気づいた。
平岡の動きがおかしい。キョロキョロと周囲を見回し始めた。
「おい、吉川、どこいった?吉川?」
「平岡、ここだ」答えても平岡は何度も俺の名前を呼ぶ。俺の声が聞こえないようだった。
平岡はパントマイムのように手で空を触ろうとした。
「勝手にいなくなるなよ、そうか、俺がゆりかちゃんとっちまったのを今でも恨んでるのかよ。だから俺の前に出てきたのかよ。ゆりかは三年前に事故で死んだんだよ。お前も一緒にいたじゃないか。お前も…」
平岡は笑い始めた。苦しそうに腹に手をやり、うずくまって笑い続けた。
そう、俺の隣人はゆりかだった。
しばらくの沈黙のあと、彼はゆっくりと背を向けた。
夕焼けに向かって歩き出した。
俺はしばらく立ち尽くしたまま、遠くに自分の住むマンションを見た。
四階の窓に灯りがともっているのが見える。
誰かが、帰りを待っているように思えた。
消えた隣人 河村 恵 @megumi-kawamura
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