招福振るい

霧島猫

招福振るい

 昼下がりの学食は、食い散らかされた皿の喧騒と、消化を促すかのような学生たちの弛緩した空気に満ちていた。高村徹郎は、窓際の席で麦茶をすすりながら、午後の講義までの短い安息を貪っていた。読書に耽るわけでもなく、スマホをいじるでもなく、ただぼんやりと天井の蛍光灯を見つめる。この「何もしない時間」こそが、彼の密かな贅沢だった。


しかし、その静寂は、突如として破られた。


「聞いてくれよ、高村!」


脳内で警報が鳴り響く。このセリフで始まる時、十中八九は目の前の人物――岡田はるか先輩が、またしてもくだらない、それでいて壮大な何かを思いついた時だ。彼女は嵐のように高村のテーブルに歩み寄ると、空いていた椅子をガラガラと引きずり、音を立てて座った。


岡田はるか先輩は、高村と同じ文学部の二年生で、一つ上の先輩にあたる。見た目は小柄で愛らしい。サラサラの黒髪は陽光を受けて天使の輪のように輝き、大きな瞳は好奇心に満ちている。しかし、その内面は、まるで嵐の後の竜巻のような人物だった。一度「これだ!」と思いついたら、周りの迷惑も顧みず突っ走る。そして、その巻き添えになるのは、大抵、気が弱く、押しに弱い高村徹郎なのであった。


「どうしたんですか、先輩。また何か宇宙の真理でも発見したんですか?」高村は疲労感を滲ませながら麦茶を一口すすった。


「宇宙の真理も同然だよ!」先輩はキラキラとした目で身を乗り出した。「貧乏ゆすりって、健康にいいんだぞ!」


高村は麦茶を吹き出しそうになったのを寸前でこらえ、冷静を装って言った。「はいはい、そうですね。」


「おい、高村! そのやる気のない返事は何だ! せめてもう少し驚けよ!」先輩は頬を膨らませた。


「いや、以前テレビでチラッと見ましたから。血行促進に良いとか何とか。足のむくみにも効果があるって」


「そう! その通り!」先輩はガッツポーズをした。「さすがは高村、意外と情報通だな! でもな、それだけじゃないんだぞ! エコノミークラス症候群の予防にもなるし、座りっぱなしによる健康リスクの軽減にも効果があるって、最近の研究でどんどん明らかになってるんだ!」


 高村は適当な相槌を打ちながら、聞き流す準備を整えた。先輩が熱弁を振るう時は、生半可な返事をするとさらにヒートアップする。かといって完全に無視すると拗ねて面倒くさい。絶妙な相槌スキルが、彼には求められるのだ。


「でもさ、なんでこんなに素晴らしい行為が『貧乏ゆすり』なんて、あんなネガティブな名前なんだろうな? 日本だけじゃないんだぞ! 英語圏じゃ『ナーバス・ハビット(神経質な癖)』って言われたり、『ジグリング・レッグス(脚を揺らす)』って言われたりするけど、これだって基本的には落ち着きがないとか、イライラしてるとか、あんまり良い印象じゃないんだ。韓国じゃ『タリルル・トルダ』って言って、『福が逃げる』って言われるんだぞ! 信じられるか?!」


先輩は興奮のあまり身を乗り出し、危うくテーブルの上の高村の麦茶をひっくり返しそうになった。高村は素早くグラスを遠ざけながら、「それはまた、随分と厳しい言われようですね」と、気の無い返事をした。


「だろ?! こんなにも身体に良い、素晴らしい行為なのに、言葉のせいでみんな隠れてこそこそやってるんだ! もったいない! 健康を害するくらいなら、堂々とやればいいんだ!」


先輩は子供のようにプンスカと怒っていた。しかし、その真っ直ぐな怒りの中に、高村は少しだけ共感できるものを感じていた。確かに、せっかく良い効果があるのに、イメージだけで敬遠されるのはもったいないことだ。


「そもそも、このネガティブな表現が悪いんだ! 言葉を変えれば、イメージだって変わるはずなんだよ!」


先輩は立ち上がり、学食の天井を指差して叫んだ。周囲の学生がちらりとこちらを見るが、岡田先輩の奇行は今に始まったことではないため、すぐに興味を失い、それぞれの食事に戻っていった。


「じゃあ、先輩はどんな名前にすれば良いと思うんですか? もしや、そのことでこんなに騒いでるんですか?」高村はため息混じりに尋ねた。これが、先輩の最終目的であることは、彼にはお見通しだった。


先輩は、ここぞとばかりに高村を睨みつけた。その瞳には、自信と、確信が宿っていた。


「当然だろう! 私が寝る間も惜しんで考え抜いた、最高の名前だ!」先輩は高らかに宣言した。「良いか、高村! 『貧乏ゆすり』の『貧乏』を、福を招く『招福』に変える! そして『ゆすり』は、言葉の響きが悪いから、『振るい』にする! 『ゆすりたかり』の『ゆすり』ではなく、『振る舞い』の『振るい』だ! これでどうだ! 『招福振るい』!」


「招福振るい…」高村は思わず口に出して呟いた。


「どうだ?! 響きもいいだろ?! 福を招き、健康を促進する! この上ない最高の名前じゃないか!」先輩は得意げに胸を張った。


高村はしばらく沈黙した。確かに、「貧乏ゆすり」と比べれば、雲泥の差だ。「招福振るい」…どこか縁起が良く、前向きな響きがある。


「…悪くないと思います」高村は素直に感想を述べた。


「だろ?! よし! そうと決まれば、みんなに教えてやろう!」


先輩は、まるで新しい発見をした科学者のように、満面の笑みを浮かべると、再び嵐のように学食を駆け抜けていった。「みんなー! 招福振るいしようぜー!」と、意味不明な言葉を叫びながら。


高村は、ガランとしたテーブルの上の麦茶のグラスを見つめ、深いため息をついた。


(ああいうところさえ無ければ、可愛いし、良い人なんだけどなあ…)


彼の中で、招福振るいという言葉は、確かにポジティブな響きを持っていた。しかし、その言葉を提唱した人物のインパクトがあまりにも強烈すぎて、素直に受け入れられるまでには、まだ時間がかかりそうだった。


それでも、高村の足元では、誰にも気づかれることなく、小さく、リズミカルな動きが始まっていた。それは、血行を良くし、むくみを解消する、無意識の「招福振るい」だったのかもしれない。

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招福振るい 霧島猫 @nakata_san

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