まだ見ぬ色を、君と

奏鳴

音に咲く色

放課後の音楽室は、決まってあたたかな夕陽に包まれていた。

西日が磨かれたピアノの黒い表面に映り込み、淡い橙の揺らぎをつくる。いつもの景色――のはずだった。


水城恭也は、その扉を開ける前から、かすかに響いてくる旋律に足を止めた。

澄んだピアノの音。

それは、どこか遠くへ連れて行かれるような響きだった。


――その瞬間だった。

音に、色がついて見えた。


低音は深い群青。

高音は鮮やかな朱色。

ひとつの旋律のなかで、色彩が混ざり合い、まるで絵の具がキャンバスに広がっていくように、恭也の視界を埋め尽くしていく。


「……なに、これ……」

自分でも知らぬ間に声が漏れる。

色が音に寄り添っている? いや、違う。

音そのものが、色に変わって目の前に現れているのだ。


扉を少しだけ開いた隙間から、音楽室を覗く。

そこにいたのは、一人の少女だった。


黒髪を肩まで下ろし、真剣な眼差しで鍵盤に向かう横顔。

指先は軽やかに鍵盤を滑り、響きは柔らかくも力強い。


彼女の名は、奏羽。

恭也のクラスメイトであり、放課後によく音楽室でピアノを弾いている少女。

特別に親しいわけでもない。

けれど、彼女の奏でる音色は、なぜか恭也の心を強く惹きつけた。


――いや、惹きつけられたのは今日からだ。

初めて音が「色」として見えた、その瞬間から。


恭也は呆然と立ち尽くしながら、胸の奥が震えているのを感じていた。

これは単なる偶然なのか。

それとも、自分に訪れた不可思議な現象なのか。


ただひとつ確かなのは――

彼女の奏でる音が、これまでにないほど鮮烈に「美しい」と思えてしまったことだった。


「……あれ?」

最後の一音を響かせてから、奏羽はふと顔を上げた。

視線は扉の隙間へ向かう。


恭也は慌てて後ずさったが、もう遅かった。

「……水城くん?」


名前を呼ばれる。

胸の鼓動が一気に早まる。どう言えばいいのかわからないまま、恭也は観念して音楽室に足を踏み入れた。


「ごめん、盗み聞きするつもりじゃなかった。ただ……」

言葉が喉で絡まり、視線は自然と彼女の指先へと向かう。


その瞬間、まだ微かに響いていた余韻が、淡い群青の揺らぎを描いた。


「君の弾くピアノ……色が見えたんだ」


「……色?」

奏羽は首をかしげる。


自分でも信じがたい告白だったが、もう止められなかった。

「低い音は群青で、高い音は朱色に見えた。まるで絵の具が広がるみたいに……すごく、きれいだった」


自分の口から出た言葉に、恭也は赤面する。

普通なら「おかしい」と笑われるに決まっている。


しかし――


「……色が、見えるんだ」

奏羽は小さく繰り返し、瞳をわずかに見開いた。

そして、ふっと微笑んだ。


「なんだか、素敵だね」


その一言が、恭也の胸を震わせた。

否定されると思っていたのに、驚きより先に「美しい」と受け止められた。


「私の音が、そんなふうに見えたなら……うれしい」

そう言って奏羽は、鍵盤の上に置いた手をそっと重ねるように視線を落とした。

夕陽に照らされた横顔は、朱色の旋律そのもののように輝いて見えた。


◇ ◇ ◇


あの日の放課後から、俺と奏羽は少しずつ距離を縮めていった。

彼女は俺が見える「音の色」に興味を持ち、ことあるごとに尋ねてくる。


「この音は、どんな色に見えるの?」


最初に試したのは、窓ガラスを叩く雨の音だった。

しとしとと降る水の粒が、地面に跳ね返るたび、俺の視界には薄い水色の糸が無数に伸びていく。

まるで世界全体に織物がかけられていくみたいに。


「きれい……糸みたいに広がってるんだね」

「うん。静かな雨だと淡い水色。嵐みたいに強い雨だと、濃い群青になるんだ」

「ふふ、なんだか絵の具のパレットみたい」


奏羽は目を輝かせながら、俺の言葉を頭の中に描いているようだった。


別の日、教室のざわめきを聞かせてみた。

机の軋む音、椅子の引きずる音、友人たちの話し声。

それらはすべて灰色の靄になって、空間を濁らせる。


けれど、不意に誰かの笑い声が弾けると、その灰色の中に鮮やかな橙色が花火のように散るのだ。


「え、灰色なのに……笑い声はオレンジ?」

「ああ。不思議だけど……嬉しそうな声は、必ずあの色になるんだ」


彼女は机に肘をついて俺の顔を覗き込み、小さく笑った。

「ねえ、それってきっと……恭也が“嬉しい気持ち”を見てるからなんだと思うよ」


そう言われると、胸の奥が少し温かくなる。

俺の見ているこの世界は、奇妙で異質なものじゃなくて、心の延長線にあるものなのかもしれない――そんな気がした。


◇ ◇ ◇


ある日の帰り道、小鳥のさえずりを聞いた。

枝の上で囀る小さな命の音が、俺の視界に明るい黄色を散らす。

まるで初夏の陽光が弾け飛ぶようで、目を細めたくなるほど鮮烈だった。


「黄色かぁ……うん、それ、すごく似合ってる」

奏羽は頷きながら、自分の胸にそっと手を置いた。


そして、唐突に問いかけてきた。

「じゃあ……私の声は、何色に見える?」


不意を突かれて言葉を探す。

奏羽の声――それは、初めて会話したときからずっと、俺にとって特別な色を放っていた。


「……桜の花びらみたいな、淡い桃色だ」


言葉にした途端、彼女の頬がほんのり赤く染まった。

そして、少しだけ恥ずかしそうに視線を伏せる。


「……そんなふうに言われると、照れるね」


俺も同じくらい、顔が熱くなっていた。

けれど、その瞬間に確信した。俺がこの色を知るのは、彼女と出会ったからだと。


◇ ◇ ◇


夏のある日、二人で花火大会に出かけた。

夜空に咲く大輪の花。轟音とともに弾ける火花が、俺の視界に無数の色を散らした。


赤は深い紅蓮となり、青は澄み渡る蒼に。

金色の光が幾重にも降り注ぎ、夜の闇を染め上げる。


「すごい……」

奏羽は思わず息を呑む。


「……こんなにたくさんの色、今まで見たことない」

俺も同じだった。音と光が溶け合い、世界が燃え立つように鮮やかだった。


その横顔を見ながら、俺は心の底から思った。

――この人と一緒に、もっと色を見てみたい。


◇ ◇ ◇


ピアノの音が群青に広がったあの日から、世界は色づき始めた。

そして今、奏羽の存在そのものが、俺の視界を鮮やかにしている。


きっと、この先も。

彼女と一緒なら、まだ見ぬ色に出会えるはずだ。


雨の青も、風の緑も、星の白も――奏羽と並んで確かめていきたい。


「奏羽」

「なに?」

「……まだ、君と一緒に見ていない色がたくさんある。だから、これからも――」


「うん」

彼女は微笑み、柔らかく言葉を返した。

「私も、もっとたくさんの音を奏でて、君に見せたい」


俺はそっと目を閉じ、胸の奥に広がる温かさを噛み締めた。

これから見る世界が、どんな色で満ちているのかを楽しみにしながら。

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