第5話



 扉の開く音がして、足音が聞こえて来た。


 蹲っていた徐庶じょしょは、ハッと顔を上げる。


 通路の先を見ていると、現われたのは陸議りくぎだった。

 徐庶が来るかもしれないと予想していたのは彼ではなかったので、少し驚いた。

 何より、陸議は軍服姿に着替えて帯剣もしていた。


「陸議君」


 やって来た兵が牢の鍵を開けてくれた。

 陸議が持って来た徐庶の上着と長剣を手渡す。


司馬懿しばい殿の許可を頂いて来ました。

 時間がありません。徐庶殿。

 賈詡かく将軍より早く黄巌こうがん殿を見つけ、魏の砦に戻るよう説得してください。

 貴方にしか出来ないことです」


 司馬懿の許可が出たという部分だけ、分かった。


「君が……君が彼に頼んでくれたのか?」


 急いで上着を着て帯剣をしながら、徐庶は混乱のうちに尋ねる。

 賈詡と郭嘉かくかよりも、司馬懿は更に黄巌の処遇には無関心に見えたから、何故自分に追撃許可など彼が出したのか分からなかった。

 

 自分を信頼していたり、期待しているからではないのだけは分かる。


 陸議は答えなかった。


「急いで下さい徐庶殿。

 一秒の遅れで、誰かが死ぬかもしれない!」


 確かにそうだと狼狽えていた徐庶は正気に戻された。

 駆け出して外に出ると、馬はすでに用意されていた。


「君はまだ馬に乗るのは無理だ」


 二頭用意された意味を察して徐庶は言ったが、

 陸議は反論する前に右手一本で鮮やかに騎乗してしまった。


「私が同道することで司馬懿しばい殿が許可を出されたのです。

 私は双剣を使うので両利きです。片腕でも大概のことは出来る。

 私の心配はいらない!

 今は黄巌こうがん殿を救うことだけ考えて下さい!」


 陸議は徐庶を待たずに走り出した。

 徐庶が慌てて騎乗し、追って来る。


「賈詡将軍は北の林を重点的に探していますが、黄巌殿は軍馬を持ち出していることが分かりました」


 並び掛けて来る徐庶に陸議が言った。


「なら祁山きざんの方に行ったんだ。山岳地帯なら必ず黄巌は逃げ切れる」


 陸議は頷いた。

 二人は迷わず、雪の平原を真っ直ぐに西へと駆けて行く。

 途中から徐庶が先行したが、陸議は言った通り、片腕一本でも器用に馬を御して付いて来た。徐庶は本気で馬を駆らしていたが、全く遅れてない。


 あるとき見遣ると、不安げで、泣き出しそうに見えたり。

 司馬懿の後ろに影のように控えて、そこから出て来ないように見える時もある。

 

 ……だがその琥珀の瞳は、時折眩しく輝く。


 自分など到底敵わないような、強い輝きでだ。



(一体どれが本当の君なんだ)



 徐庶は、司馬懿が望んだことではないが、恐らく陸議が彼を説得したのだろうと思った。

 だが何を理由に説得したのかは分からない。司馬懿の様子からは、それが出来るとも思えなかったのに。


 黄巌を連れ戻せと陸議は言っていた。



「陸議君、俺は……、風雅ふうがは、魏には関わってはいけないと思ってる。

 彼はこのまま自由になるべきだ」



 徐庶が思い切って陸議を振り返り、そう言ったが、

 陸議は徐庶を見ず、ただ地平線の先だけを見つめて、返して来た。



「貴方がそう思われるのなら。望むようになさるのが一番だと思います」



 徐庶は息を飲む。


 意志の強い、初めて見るような気高い横顔を見せ、陸議が言った。

 徐庶がそう言うことも、承知の上で司馬懿しばいを説得しに行ったのか。


 驚いた。


 確かに陸議は徐庶の話を聞いてくれたし、黄巌こうがんにも好意的に接してくれていたけれど。

 何か行動を起こす時、彼はそこまで全てを覚悟して、何があっても責任を引き受けるつもりで行う。


 

「……君には本当に、敵わないよ」



 徐庶が少しだけ苦笑するようにそう呟いたのが分かった。

 自分でも何故、司馬懿にあんなことを話しに行ったのか、実のところ陸議はよく分からない。


 司馬懿に願うことは、危険なことだ。

 司馬懿は陸議が弱さを見せればそこにつけ込んで、そういう形で意のままに動かそうとする。


 こうやって、一つずつ四肢を縛られ、

 いつか司馬懿が一番望み、

 陸議が一番望まないことを、

 逃れられない想いでさせられることになる。


 願うたびに。



(――だけど悔いは無い)



 こんな形で黄巌を死なせれば、ようやく歩き出そうとした徐庶は全ての希望を失うことになる。ただとにかくそれは嫌だと、無性に何故か思ったのだ。




(何が起きても受け入れる)




 陸議は舞い始めた雪の中を駆けながら心に決めた。




(この先に自分の身に何が起きても、悔いたりしない)






【終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花天月地【第91話 願うということ】 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ