第4話


 扉が鳴った。



「入れ」



 届いたばかりの許都きょとからの報告書に目を通していた司馬懿しばいは、間を置いてから扉を開き、入って来た方に視線をやり、ふと、目を瞬かせた。


 陸議りくぎがそこに立っていた。


 司馬懿が目を留めたのは、しばらく療養しなければならない身体だったので、部屋で平服姿をしていた陸議が軍服に身を包み、まるで許都を発った時のままの、帯剣した姿で現れたからだった。


「どうした。陸議」


 少し面白そうに司馬懿は尋ねたが、陸議は司馬懿の元に歩いて来ると、動かせない片腕だけはそのまま、拱手きょうしゅの姿勢を取った。


「司馬懿殿にお願いがあって参りました」


 司馬懿は竹簡を机に置き、腕を悠然と組む。


「お前が願うなど、珍しいな」


黄風雅こうふうがのことはお聞きになったと思いますが」


「聞いた。馬岱ばたいのことも報告は受けたが、蜀入りした馬超ばちょうと涼州騎馬隊が、馬岱のために今更剣を引くとは思えん。よってあいつの利用価値は私は低いと見ている。

 重要な案件ではないゆえ、処置は賈詡かく郭嘉かくかに任せた。

 黄巌のことならあの二人に話すがいい」


 陸議は額面通りに返され数秒押し黙ったが、顔を上げた。

 瞳を真っ直ぐに向けられ、ふと司馬懿は僅かな違和感に感じた。

 心を決めたような凜とした表情で、戦装束の姿で――たった一人でも自分の前に立ちこちらを見つめて来る。


 こういう陸伯言りくはくげんの表情を見るのはひどく久しぶりのような気がした。


「貴方にお話ししていなかったことがあります」


 陸議は言った。


「以前、貴方は私にお尋ねになりました。

 長安ちょうあん宮で催された祝宴で、私が荀彧じゅんいく殿や夏侯従兄弟かこうきょうだいではなく何故、末席の徐元直じょげんちょくに興味を持ったのかと」


 それは陸議が何を言って来るのか色々想像していた、どれとも違う話題だったので司馬懿は興味を引かれた。


「お前は何となくだと答えていたが」


 陸議は頷いた。


「自分でも説明出来ぬことゆえ、そう答えました。

 ですが本当は違います。

 私はあの場で徐元直を見た時、彼が何者かは全く知りませんでしたが……何かを感じたのです」


「何かとはなんだ」


 実際には陸議はあの時、徐庶を見てはいない。その場にいることも知らなかった。

 しかし白昼夢のように見た幻の中で龐統ほうとうが座っていたその場所に、後に調べると座っていたのが徐庶だということが分かった。

 今でも、何故そんな夢を見たのかは分からないし説明も付かない。

 

 ただ陸議は廬江ろこう戦の夢を見たあの日から、物の見方が劇的に変わった部分があった。


 死んだ龐士元ほうしげんが――彼の魂がまだどこか近くに留まって――死んだ後も、何かを自分に囁いてくれているような気がしているのだ。


 それは多分永遠に許されることではなく、きっと限りある時間の中で、そういうことが起こっているのだろうと思う。


 龐統が死ぬ前「陸康りくこうはお前を見守っている」というような言葉を口走ったことがあるのだ。

 何故龐統が遠い昔に死んだ、会ったことも無い陸康の名を出してそんなことを言ったのか分からなかったが、龐統が言いたかったことはそれ自体のことではなく、


【そういうことがあるのだ】と、


 それを伝えたかったのではなかったかと陸議は思っている。

 声なき声に耳を傾ければ、見えてくるものがあるということを。


 龐統が座っていた場所に、徐庶がいた。


 それは何か、龐統の残した導きなのだ。


 夢のようなことで、司馬懿には到底理解出来ないことだろう。

 話したところで呆れられるような次元のことだ。


 だから実際は見てはなかったが、陸議は徐庶を見たと話した。

 ここからは自分の言葉と想いで、司馬仲達しばちゅうたつを納得させなければならない。


「分かりません。何かは分からない。

 ただ多くの者が何か大きな使命や役目を持ち、覇気に満ちたあの場所で、きっと末席に座る者まで意味を持っている者だろうと、私はそういう風に見たのです。

 徐庶殿からは覇気というものは感じなかった。でも……」


 ……最近時折、徐庶が自分を見返してくれるようになった。


 龐統ほうとうも思えば、多くは語らなかったが、蜀へと去ってから不思議なことに陸議を真っ直ぐに見つめ返してくれるようになっていた。



「こちらを見返した目を見た時、何かを感じたのです」



「言葉を一つも交わさずともか?」


「はい。言葉どころか目を合わせたのもその一瞬だけで、あの人はずっとあとは俯いたままで心はそこにありませんでしたが」


 司馬懿は陸議の些細な表情も見落とさないように、ジッと見て来ている。


夏侯従兄弟かこうきょうだいや、張郃ちょうこう将軍、許褚きょちょ将軍、荀彧じゅんいく殿や、荀攸じゅんゆう殿もこの目で見ました。

 噂に違わぬ、一目見ただけでも優れた方々だと分かる、あの人達には確かにそういう人としての輝きがある」


「だがお前は輝きのないものに意識を引かれた」


「恐らく荀彧殿達の輝きは、誰しもが見て分かるもの。

 星にもそういうものがあります。

 誰の目にも明らかに、鮮やかに輝く星が。

 それは私が敢えて見つける必要などないもの。

 だからいくら彼らが輝いていても、私の興味を引かなかった。

 彼らはすでに魏において見出された星です。

 名すら付いて誰もが尊ぶ。

 

 貴方も軍師なら分かるはず。

 私たちはいつも、名付けられる前の、まだ誰も見知らない輝きを秘めた、自分だけの星を探している。


 まだ才能を秘めた者を。

 貴方が私などに興味を持つのも――同じ理由なのでは」


 司馬懿しばいは息を飲んだ。

 陸議は魏に連れて来た時、全てを失って、自分自身すら信じることが出来なくなっていた。

 自分などに価値は無い、とそういうことを容易く口にした。

 しかし呉にいる時はそうではなかったのだ。


 未熟は自覚していても『呉の陸伯言りくはくげん』には、そんな自分が例えどうあっても、敵と対峙した時には呉の為に全ての力を以て敵を殲滅し、退け、国を守るという強い意志と覚悟があった。

 自分はそうすべき人間なのだと、そういう自信は常に満ちていた。


 初めて魏に来て陸議が、かつて見せたように刃を自分の喉元に、切っ先を向けて来ているのが分かり、司馬懿は微かに喜びのようなものを感じた。


「私がお前に興味を持つのは、敵として対峙した結果に裏打ちされたものだ。

 徐庶はそこまで惜しく思う才能を見せたことはない。よってお前と同じではない」


 陸議は一歩、前に出た。


「司馬懿殿。お願いします。牢に入れた徐元直じょげんちょくを出し、直ちに黄巌こうがんを追撃させて下さい。

 あの人なら賈詡かく将軍より早く必ず黄巌に接触し、魏に留まるよう説得出来ます。

 例え【馬岱ばたい】の利用価値が低くとも――そうすれば必ず、徐元直は自分と友の窮地を救ってくれた貴方に恩を感じるはず。

 今や母親の命でもあの人は魏に繋ぎ止められない。しかし恩義ならばそう出来る。

 私も共に行き、黄巌を救ったこの後は必ず貴方に忠義を誓うよう説得して来ます。

 このまま黄巌を失えば、徐元直は二度と魏の為に働かないでしょう」


「奴が魏の為に働くならば、曹操に呼ばれた時にとっくにそうなっているはずだ」


「お願いします。

 私はこのまま、あの人が世捨て人のようになるのは惜しいと思ってる。

 ここで貴方があの人の運命を救ってくれるなら……」


 司馬懿の紫闇しあんの瞳と、視線が交じり合う。



 強い心で、キッと強くそれを見据え、陸議はもう一度口を開いた。



「必ず徐元直は強い輝きを放つはず!

 貴方を決して失望はさせない!」



 単なる直感に頼るような甘い男ではなかった。

 幼い頃から周囲の人間に運命を動かされて来た為、陸伯言りくはくげんは現実の力を何よりも重んじる。


 陸議がそれほど徐庶を買っているとは、思っていなかった。


 初めて陸議が見せた意外な一面と、

 こいつがここまで言うのなら、何かあるのではないかという自分の中の直感。


 生きるか死ぬかの瀬戸際に、頼まれてもないのに自ら飛び込んだ【馬岱ばたい】など、司馬懿はどうでも良くなった。


 ただひたすら魏に連れて来た時に失われていた陸伯言の鋭い才気が、一瞬戻って来たように思えて、眠るそれが目覚める時をずっと待ち望んで来た司馬懿はその欲求に抗うことが出来なかった。



「……いいだろう。

 では、徐庶を牢から出して馬岱を追わせろ。

 お前の望むとおりにしてみるがいい。


 ――――陸遜りくそん



「はっ!」



 陸議は拱手きょうしゅをし、動かない左手の代わりに、右手を自分の左肩に打ち付けるようにして、一礼してから部屋を飛び出して行った。




 自分だけの星を探している。




 司馬懿はしばし、そう口にした時の陸議の強い瞳に想いを馳せた。



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